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35 西からの届けもの - une visiteuse -
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オルフィニナがイオネとすっかり晴れた庭に出て、公子たちがエデンと追いかけっこをするのを眺めながらアミラ語の発音や言語体系について話しているときだった。
「イオネさま」
と困った様子で家令のドミニクがやって来た。
「どうしたの?」
「実は、見知らぬ女性が訪ねて来ているのですが、どうやらマルス語が話せない様子で、門番が意思疎通できず対応に困っておりまして…」
アルヴィーゼの不在中は、領主夫人であるイオネの補佐を行うのも家令であるドミニクの役目だ。そのドミニクがわざわざ夫人の手を煩わせようというのだから、相当に困っているのだろう。
「あら。じゃあ、わたしが行くわ」
イオネは気軽に言った。この国に訪れる外国人の言語は、大抵のものは理解できる。
「ありがとうございます。害はなさそうですが、念のためわたしの後ろにいらしてください」
「わたしも行こう」
オルフィニナが立ち上がってイオネの前に出た。
「奥方を危険から守るなら家令どのよりも役に立つぞ」
「ふふ。頼もしいわ」
この時、樹上から目の前へ飛び降りてきた男がいる。
「クイン。寝てたのか?」
イチジクの葉を髪から振り落とす騎士に向かって、オルフィニナがおかしそうに訊ねた。
どうもクインはこの城の庭木が気に入ったらしい。栄養状態と枝のしなり具合がちょうど良いなどと言ってよく木の上に登っている。周囲を警戒する目的もあっての行動だと言うが、この厳重な警備が布かれた広大な敷地にあっては、樹上からの物見はそれほど警備の役に立たない。どちらかというと、木の上で昼寝をするのが密かな趣味であるこの男がそれを口実に使っているだけだ。
それを知っているオルフィニナは可笑しくて堪らないが、クインはそれも承知の上で白々と「ただの警戒行動だ」などと嘯いた。
「奥方が行く必要はない。ニナと俺の身内だ」
これを聞いて驚いたのは、オルフィニナだ。琥珀色の目をらんと輝かせて、まるで童女のように犬歯を見せ、破顔した。
「ドミニク、馬を借りる」
敷地が広いから、門まで歩くのは時間がかかる。一刻も早く門へ行きたいのだ。オルフィニナは敷地内を警備する騎馬兵の馬をふんだくり、ドレスの裾を翻して素速く跨がった。
並足なら十分の距離を三分で駆け、門の手前で馬を降り、困り顔の門番の向かいにいる女性へ向かって脱兎のように飛び出した。
「エミ!」
オルフィニナが弾丸のように向かった先は、鳶色の髪の小柄な貴婦人だ。地味ながら上等な生地のドレスを着、その上に巡礼者のような黒い外套を纏っている。
「エミ、会いたかった!」
オルフィニナは八年ぶりに会った姉の華奢な身体を力の限り抱きしめた。
エミリア・イェリネク男爵夫人は、自分より背の高い妹の背に腕を回してきつく抱きしめ返すと、小さく顎を震わせた。
「ニナ…」
「どうして来たんだ。一人で来たのか。ヴェンデルと子供たちは元気か。危ない目に遭わなかったか。会えない間はどうしてた。ああ、本当に、どうしてここにいるんだ」
べり。と、まるで十歳に戻ってしまったような妹を引き剥がし、エミリアは「うるさい」と一喝した。
「会えない間どうしてたか聞きたいのはこっち!全部説明しなさい、ニナ!」
エミリアがアミラ語で捲し立てた。背後からひょっこり現れたクインにも、ギッと鋭い目つきで叱りつけた。
「クイン!あんたもよ!あんたがついていながら――」
突然、ぼろりと大きなハシバミ色の目から大粒の涙がこぼれた。
「わ、わた、わたしの妹が、敵国に…」
「エミ、それは違う。ちゃんと説明するから、とりあえず落ち着いて」
「落ち着いてられるわけないでしょ!知らない間に王都が陥落して、妹が捕虜になったっていうのに!あんたをこんな目にあわせた奴らなんか、わたしが殺してやるんだから!王太子もいるんでしょ?呼んできなさい!ここに、今すぐ!」
烈火のような女だ。ひどい取り乱しぶりだったが、この場へ女主人のイオネがドミニクの曳く馬に乗って現れると、コロッと態度を変えて完璧な淑女らしく振る舞った。
(二面性は相変わらずだ)
オルフィニナはおかしくなった。エミリアはどこにいても、ヴェンデル・イェリネク男爵の夫人となった今も、二歳の妹の手を引いてギエリにやってきた少女の頃と変わらない。姉は驚くほど気丈で、他人にはまるで完璧な人間のように振る舞うのが上手い。他人に隙を見せることを極端に嫌うのだ。こういう立ち回りの巧さが、国王の庶子の姉というだけで王家とは何の繋がりもない平民育ちの彼女を、権謀術数渦巻く貴族社会の中で生き延びさせてきた。
オルフィニナとエミリアには、積もる話もあるだろうというイオネの計らいで一階の客間が用意された。
クインは、遊びを終えて主人の元に戻ってきたエデンと共に客間の扉の前で番をしている。「女同士の話だから出ていろ」とエミリアに追い出されたのだ。
有能なコルネールの使用人たちが用意したほかほかの紅茶を前に、姉妹は互いに顔を見合わせて少女のようにくすくす笑った。
「…落ち着いた。少しだけ」
エミリアがカップを置いて言うと、オルフィニナはにっこりと目を細めた。
「公爵夫人に礼を言わなければね」
エミリアは肩をすくめた。
「マルス語で言うべき?」
「エミだってアドラー家で一緒にマルス語を習ったじゃないか」
「ご覧の通り、身に付かなかったわよ。才能がないの、知ってるでしょ」
オルフィニナはくすくす笑った。確かに、エミリアは語学の勉強が何よりも嫌いだった。
「公爵夫人ならアミラ語で言っても通じるよ。ここ二日ほどしか教えていないのにもう簡単な日常会話ができるほどになってる。それで、エミ――」
エミリアは紅茶に口をつけて妹の琥珀色の目を見た。この顔は、記憶にある母の目とも自分の目とも違う。唇の形は自分とそっくりなのに、異質な血を受け継いだ、遠い存在のように感じさせる。
「その顔、好きじゃないわ。わたしのかわいい妹じゃない」
「話を逸らさないで、エミ。わたしがかわいくないのは承知してる」
ふう、とエミリアは溜め息をついた。
「わたしが来た理由なんて、分かりきってるでしょ。あんたがクインを使ってオルデンから鳩を飛ばさせたんじゃないの」
確かに、そうだ。二週間前、ルースからオルデンへ発つクインに、オルフィニナはもう一つの任務を与えた。必要なものを取り寄せる手段として、姉が嫁いで暮らすワルデル・ソリア共和国北部の小さな領地へ手紙を送らせたのだ。
「確かに命じたがエミ自身が来るとは思わなかった。土地が小さくたって領主夫人だぞ。小さい子供たちもいるのに」
責めるような口調だ。
「あんたに言われたくないわよ。家のことはヴェンデルと使用人たちがうまくやってる。わたしは夫を信用してるの。それより、ほら。両方持ってきてあるわ」
エミリアは足元の革のトランクを持ち上げ、オルフィニナに渡した。
オルフィニナはトランクを受け取り、テーブルの上で開けた。
中には幅二十センチほどのシンプルな木枠の額縁に入った絵と、トランクの隙間を埋めるようにいくつかの麻袋が入っている。
絵は、何の変哲も無い風景画だ。見た目にも明らかに素人の手によるものだが、寄せては返す波が港に迫る中、水平線の向こうに落ちる夕陽と、港から遠ざかっていく船の影が、細かく描かれている。オルフィニナの生まれた港町を想像して描かれたものだ。
「懐かしいな。でも今見るとちょっと下手だ」
オルフィニナは複雑そうに笑み、額を手に取った。
「そうね。それにしても、自分が昔描いて送りつけてきた絵を今になって返して欲しいって、一体どういうこと?」
「あるべき場所に帰るときが来たのさ。それから、これも――」
オルフィニナは麻袋を手に取って持ち上げ、エミリアに見せた。
「――ありがとう。手に入れるのに苦労したんじゃないか」
「当たり前よ。でもワルデル・ソリアでは原材料が自生してるから他の地域より入手は簡単。それを知っててわたしに頼んだんでしょ」
「恩に着る」
「こら、待ちなさい」
エミリアはピシャリと言いながら、オルフィニナがたった今閉じて自分の足元に置こうとしたトランクを、横からヒョイと取り上げた。
「説明が先。どうして避妊薬なんて欲しいと言い出したのよ」
絵のことも釈然としないが、エミリアにとってはそれよりもこちらの方が大問題だ。
心配性な姉に避妊薬の調達を頼まなければならなかったことには、理由がある。
オルフィニナは、シルフィオンという植物から作られる薬が他の真偽も定かでない避妊薬と違い、確かな効果があるということを論文や学者の話から知っていた。しかし、極めて稀少で高価な薬だから、そう簡単には手に入らない。原料となるシルフィオンが限られた地域にしか自生しないためだ。エミリアの暮らすワルデル・ソリア共和国のイェリネク地方沿岸部は、そのごく稀な地域の一例なのである。
こんなふうに詰問されるのが予想できたから気が進まなかったが、エミリアに頼む以外の選択肢はなかった。何しろ、マルス大陸のアミラ以東の地域ではほとんど流通していない。それほど稀少なものなのだ。
「あんた、不本意な性行為を強要されてるんじゃないでしょうね。そんなことになってるなら本当にわたしがクソ王太子を殺すわよ」
妹の尋問を行うエミリアの目は、まるで猛禽だ。エミリアもイェリネク男爵家に嫁ぐまではアドラー家の養子として体術の訓練を受けてきた。オルフィニナほどではなくても、人間の急所を突く心得はある。その上、この女は本当に実行に移しかねない。
「それこそ、わたしのかわいい姉の顔じゃないぞ、エミ」
オルフィニナは苦笑し、重い口を開いた。この姉には、昔から隠し事などできた試しがない。
エミリアの来訪をまだ知らないルキウスは、この時アルヴィーゼと共にルドヴァンの外れにある王侯貴族御用達の高級レストランの一室で密議を開いている。
ルドヴァンに近い地域から十人ほどの領主たちが集まり、王弟ヴァレル・アストルとアミラ王国政府――厳密にはフレデガル・ドレクセンとの陰謀について話し合った。
みな有力貴族だ。財力や中央への影響力も大きい。
そして、最も重要なことは、彼らが血気盛んな若手の貴族であり、王室への忠義に篤いということだ。
彼らのうちのほとんどの家が、百年近く前に領内の内紛や飢饉などの危機に直面した時、当時のテオドリック王とルミエッタ王妃の助力により乗り越えられたことにより、王家へ恩義を感じている。
その気になったアルヴィーゼは無敵だ。半分の者が王太子ルキウスとアミラの女王との婚姻に難色を示したものの、アルヴィーゼが手のひらで転がすように説き伏せ、ルキウスが親愛の情を込めて演説し、彼らの協力を署名付きで取り付けた。
「会いたい」
と、彼らは言った。オルフィニナにである。
同じ船に乗ろうというのだから、当然の要求だ。
「早晩夜会の招待状を送る。いいよな、ルドヴァン公爵」
ルキウスは王族らしく鷹揚に言った。無論、こうなることは予見していた。それゆえにルドヴァンでの滞在に日数を割いているのだ。
アルヴィーゼが型通りの返答で承諾し、この場は散会した。
帰路、馬上のアルヴィーゼは、隣で馬を歩ませるルキウスにこんなことを言った。
「女公にガラスのペンを贈られたと言っていたな」
先ほどの演説の最中にルキウスが口にしたことだ。如何に自分とオルフィニナが信頼し合っているかについて、舶来品のガラスペンを贈られたことを例のひとつに挙げていた。
「あれはエル・ミエルドの風習だ。揃いのペンを贈るのは、信頼の証しじゃない」
「じゃあ、何だよ」
ルキウスは首を傾げた。
「愛の告白だ」
アルヴィーゼもかつてイオネから贈られたことがある。彼女からの初めての贈り物だ。今でも執務机の目につく場所にガラスケースに入れて飾り、そのくせ滅多に使わないほど大切にしている。
「そうか。でもニナは信頼の証しだと思ってる」
素っ気なく言いながら、なんだかひどく上機嫌な声色だ。
「女公が本来の意味を知ったとき、取り上げられないといいな」
アルヴィーゼが揶揄うように言うと、ルキウスは少年のようにむくれた。
「なんでそういうこと言うかな」
ふ。とアルヴィーゼは唇の端を吊り上げた。
「もう諸侯の前でペンの話はするな。間抜けに見える」
「君、不敬だぞ」
ルキウスはさすがに苦々しくなった。如何に親友であり、兄とも思っている再従兄だからと言って、これほど悪し様に言われては王太子としての面目が立たない。が、アルヴィーゼの返答は白々としたものだ。
「今更俺に礼節など求めるな。コルネールが使われてやると言っているだけありがたいと思え」
「勿論、感謝してる。君の友情に。あと、コルネールの情報網にも」
「…巧く使え。今度こそ俺を失望させるな」
アルヴィーゼは眉間に深々と皺を寄せた。かつては王太子の鑑のような少年だったルキウスが、二人目の王妃であった母親とその後見人を相次いで亡くしてから宮廷で身を持ち崩していく姿は見ていられたものではなかった。ルキウスがあのままの男であれば、わざわざ手を貸してやることもなかっただろう。
そして、本人もそれを理解している。
「させないさ」
ルキウスは緑色の瞳に強い光を映した。
「イオネさま」
と困った様子で家令のドミニクがやって来た。
「どうしたの?」
「実は、見知らぬ女性が訪ねて来ているのですが、どうやらマルス語が話せない様子で、門番が意思疎通できず対応に困っておりまして…」
アルヴィーゼの不在中は、領主夫人であるイオネの補佐を行うのも家令であるドミニクの役目だ。そのドミニクがわざわざ夫人の手を煩わせようというのだから、相当に困っているのだろう。
「あら。じゃあ、わたしが行くわ」
イオネは気軽に言った。この国に訪れる外国人の言語は、大抵のものは理解できる。
「ありがとうございます。害はなさそうですが、念のためわたしの後ろにいらしてください」
「わたしも行こう」
オルフィニナが立ち上がってイオネの前に出た。
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「ふふ。頼もしいわ」
この時、樹上から目の前へ飛び降りてきた男がいる。
「クイン。寝てたのか?」
イチジクの葉を髪から振り落とす騎士に向かって、オルフィニナがおかしそうに訊ねた。
どうもクインはこの城の庭木が気に入ったらしい。栄養状態と枝のしなり具合がちょうど良いなどと言ってよく木の上に登っている。周囲を警戒する目的もあっての行動だと言うが、この厳重な警備が布かれた広大な敷地にあっては、樹上からの物見はそれほど警備の役に立たない。どちらかというと、木の上で昼寝をするのが密かな趣味であるこの男がそれを口実に使っているだけだ。
それを知っているオルフィニナは可笑しくて堪らないが、クインはそれも承知の上で白々と「ただの警戒行動だ」などと嘯いた。
「奥方が行く必要はない。ニナと俺の身内だ」
これを聞いて驚いたのは、オルフィニナだ。琥珀色の目をらんと輝かせて、まるで童女のように犬歯を見せ、破顔した。
「ドミニク、馬を借りる」
敷地が広いから、門まで歩くのは時間がかかる。一刻も早く門へ行きたいのだ。オルフィニナは敷地内を警備する騎馬兵の馬をふんだくり、ドレスの裾を翻して素速く跨がった。
並足なら十分の距離を三分で駆け、門の手前で馬を降り、困り顔の門番の向かいにいる女性へ向かって脱兎のように飛び出した。
「エミ!」
オルフィニナが弾丸のように向かった先は、鳶色の髪の小柄な貴婦人だ。地味ながら上等な生地のドレスを着、その上に巡礼者のような黒い外套を纏っている。
「エミ、会いたかった!」
オルフィニナは八年ぶりに会った姉の華奢な身体を力の限り抱きしめた。
エミリア・イェリネク男爵夫人は、自分より背の高い妹の背に腕を回してきつく抱きしめ返すと、小さく顎を震わせた。
「ニナ…」
「どうして来たんだ。一人で来たのか。ヴェンデルと子供たちは元気か。危ない目に遭わなかったか。会えない間はどうしてた。ああ、本当に、どうしてここにいるんだ」
べり。と、まるで十歳に戻ってしまったような妹を引き剥がし、エミリアは「うるさい」と一喝した。
「会えない間どうしてたか聞きたいのはこっち!全部説明しなさい、ニナ!」
エミリアがアミラ語で捲し立てた。背後からひょっこり現れたクインにも、ギッと鋭い目つきで叱りつけた。
「クイン!あんたもよ!あんたがついていながら――」
突然、ぼろりと大きなハシバミ色の目から大粒の涙がこぼれた。
「わ、わた、わたしの妹が、敵国に…」
「エミ、それは違う。ちゃんと説明するから、とりあえず落ち着いて」
「落ち着いてられるわけないでしょ!知らない間に王都が陥落して、妹が捕虜になったっていうのに!あんたをこんな目にあわせた奴らなんか、わたしが殺してやるんだから!王太子もいるんでしょ?呼んできなさい!ここに、今すぐ!」
烈火のような女だ。ひどい取り乱しぶりだったが、この場へ女主人のイオネがドミニクの曳く馬に乗って現れると、コロッと態度を変えて完璧な淑女らしく振る舞った。
(二面性は相変わらずだ)
オルフィニナはおかしくなった。エミリアはどこにいても、ヴェンデル・イェリネク男爵の夫人となった今も、二歳の妹の手を引いてギエリにやってきた少女の頃と変わらない。姉は驚くほど気丈で、他人にはまるで完璧な人間のように振る舞うのが上手い。他人に隙を見せることを極端に嫌うのだ。こういう立ち回りの巧さが、国王の庶子の姉というだけで王家とは何の繋がりもない平民育ちの彼女を、権謀術数渦巻く貴族社会の中で生き延びさせてきた。
オルフィニナとエミリアには、積もる話もあるだろうというイオネの計らいで一階の客間が用意された。
クインは、遊びを終えて主人の元に戻ってきたエデンと共に客間の扉の前で番をしている。「女同士の話だから出ていろ」とエミリアに追い出されたのだ。
有能なコルネールの使用人たちが用意したほかほかの紅茶を前に、姉妹は互いに顔を見合わせて少女のようにくすくす笑った。
「…落ち着いた。少しだけ」
エミリアがカップを置いて言うと、オルフィニナはにっこりと目を細めた。
「公爵夫人に礼を言わなければね」
エミリアは肩をすくめた。
「マルス語で言うべき?」
「エミだってアドラー家で一緒にマルス語を習ったじゃないか」
「ご覧の通り、身に付かなかったわよ。才能がないの、知ってるでしょ」
オルフィニナはくすくす笑った。確かに、エミリアは語学の勉強が何よりも嫌いだった。
「公爵夫人ならアミラ語で言っても通じるよ。ここ二日ほどしか教えていないのにもう簡単な日常会話ができるほどになってる。それで、エミ――」
エミリアは紅茶に口をつけて妹の琥珀色の目を見た。この顔は、記憶にある母の目とも自分の目とも違う。唇の形は自分とそっくりなのに、異質な血を受け継いだ、遠い存在のように感じさせる。
「その顔、好きじゃないわ。わたしのかわいい妹じゃない」
「話を逸らさないで、エミ。わたしがかわいくないのは承知してる」
ふう、とエミリアは溜め息をついた。
「わたしが来た理由なんて、分かりきってるでしょ。あんたがクインを使ってオルデンから鳩を飛ばさせたんじゃないの」
確かに、そうだ。二週間前、ルースからオルデンへ発つクインに、オルフィニナはもう一つの任務を与えた。必要なものを取り寄せる手段として、姉が嫁いで暮らすワルデル・ソリア共和国北部の小さな領地へ手紙を送らせたのだ。
「確かに命じたがエミ自身が来るとは思わなかった。土地が小さくたって領主夫人だぞ。小さい子供たちもいるのに」
責めるような口調だ。
「あんたに言われたくないわよ。家のことはヴェンデルと使用人たちがうまくやってる。わたしは夫を信用してるの。それより、ほら。両方持ってきてあるわ」
エミリアは足元の革のトランクを持ち上げ、オルフィニナに渡した。
オルフィニナはトランクを受け取り、テーブルの上で開けた。
中には幅二十センチほどのシンプルな木枠の額縁に入った絵と、トランクの隙間を埋めるようにいくつかの麻袋が入っている。
絵は、何の変哲も無い風景画だ。見た目にも明らかに素人の手によるものだが、寄せては返す波が港に迫る中、水平線の向こうに落ちる夕陽と、港から遠ざかっていく船の影が、細かく描かれている。オルフィニナの生まれた港町を想像して描かれたものだ。
「懐かしいな。でも今見るとちょっと下手だ」
オルフィニナは複雑そうに笑み、額を手に取った。
「そうね。それにしても、自分が昔描いて送りつけてきた絵を今になって返して欲しいって、一体どういうこと?」
「あるべき場所に帰るときが来たのさ。それから、これも――」
オルフィニナは麻袋を手に取って持ち上げ、エミリアに見せた。
「――ありがとう。手に入れるのに苦労したんじゃないか」
「当たり前よ。でもワルデル・ソリアでは原材料が自生してるから他の地域より入手は簡単。それを知っててわたしに頼んだんでしょ」
「恩に着る」
「こら、待ちなさい」
エミリアはピシャリと言いながら、オルフィニナがたった今閉じて自分の足元に置こうとしたトランクを、横からヒョイと取り上げた。
「説明が先。どうして避妊薬なんて欲しいと言い出したのよ」
絵のことも釈然としないが、エミリアにとってはそれよりもこちらの方が大問題だ。
心配性な姉に避妊薬の調達を頼まなければならなかったことには、理由がある。
オルフィニナは、シルフィオンという植物から作られる薬が他の真偽も定かでない避妊薬と違い、確かな効果があるということを論文や学者の話から知っていた。しかし、極めて稀少で高価な薬だから、そう簡単には手に入らない。原料となるシルフィオンが限られた地域にしか自生しないためだ。エミリアの暮らすワルデル・ソリア共和国のイェリネク地方沿岸部は、そのごく稀な地域の一例なのである。
こんなふうに詰問されるのが予想できたから気が進まなかったが、エミリアに頼む以外の選択肢はなかった。何しろ、マルス大陸のアミラ以東の地域ではほとんど流通していない。それほど稀少なものなのだ。
「あんた、不本意な性行為を強要されてるんじゃないでしょうね。そんなことになってるなら本当にわたしがクソ王太子を殺すわよ」
妹の尋問を行うエミリアの目は、まるで猛禽だ。エミリアもイェリネク男爵家に嫁ぐまではアドラー家の養子として体術の訓練を受けてきた。オルフィニナほどではなくても、人間の急所を突く心得はある。その上、この女は本当に実行に移しかねない。
「それこそ、わたしのかわいい姉の顔じゃないぞ、エミ」
オルフィニナは苦笑し、重い口を開いた。この姉には、昔から隠し事などできた試しがない。
エミリアの来訪をまだ知らないルキウスは、この時アルヴィーゼと共にルドヴァンの外れにある王侯貴族御用達の高級レストランの一室で密議を開いている。
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みな有力貴族だ。財力や中央への影響力も大きい。
そして、最も重要なことは、彼らが血気盛んな若手の貴族であり、王室への忠義に篤いということだ。
彼らのうちのほとんどの家が、百年近く前に領内の内紛や飢饉などの危機に直面した時、当時のテオドリック王とルミエッタ王妃の助力により乗り越えられたことにより、王家へ恩義を感じている。
その気になったアルヴィーゼは無敵だ。半分の者が王太子ルキウスとアミラの女王との婚姻に難色を示したものの、アルヴィーゼが手のひらで転がすように説き伏せ、ルキウスが親愛の情を込めて演説し、彼らの協力を署名付きで取り付けた。
「会いたい」
と、彼らは言った。オルフィニナにである。
同じ船に乗ろうというのだから、当然の要求だ。
「早晩夜会の招待状を送る。いいよな、ルドヴァン公爵」
ルキウスは王族らしく鷹揚に言った。無論、こうなることは予見していた。それゆえにルドヴァンでの滞在に日数を割いているのだ。
アルヴィーゼが型通りの返答で承諾し、この場は散会した。
帰路、馬上のアルヴィーゼは、隣で馬を歩ませるルキウスにこんなことを言った。
「女公にガラスのペンを贈られたと言っていたな」
先ほどの演説の最中にルキウスが口にしたことだ。如何に自分とオルフィニナが信頼し合っているかについて、舶来品のガラスペンを贈られたことを例のひとつに挙げていた。
「あれはエル・ミエルドの風習だ。揃いのペンを贈るのは、信頼の証しじゃない」
「じゃあ、何だよ」
ルキウスは首を傾げた。
「愛の告白だ」
アルヴィーゼもかつてイオネから贈られたことがある。彼女からの初めての贈り物だ。今でも執務机の目につく場所にガラスケースに入れて飾り、そのくせ滅多に使わないほど大切にしている。
「そうか。でもニナは信頼の証しだと思ってる」
素っ気なく言いながら、なんだかひどく上機嫌な声色だ。
「女公が本来の意味を知ったとき、取り上げられないといいな」
アルヴィーゼが揶揄うように言うと、ルキウスは少年のようにむくれた。
「なんでそういうこと言うかな」
ふ。とアルヴィーゼは唇の端を吊り上げた。
「もう諸侯の前でペンの話はするな。間抜けに見える」
「君、不敬だぞ」
ルキウスはさすがに苦々しくなった。如何に親友であり、兄とも思っている再従兄だからと言って、これほど悪し様に言われては王太子としての面目が立たない。が、アルヴィーゼの返答は白々としたものだ。
「今更俺に礼節など求めるな。コルネールが使われてやると言っているだけありがたいと思え」
「勿論、感謝してる。君の友情に。あと、コルネールの情報網にも」
「…巧く使え。今度こそ俺を失望させるな」
アルヴィーゼは眉間に深々と皺を寄せた。かつては王太子の鑑のような少年だったルキウスが、二人目の王妃であった母親とその後見人を相次いで亡くしてから宮廷で身を持ち崩していく姿は見ていられたものではなかった。ルキウスがあのままの男であれば、わざわざ手を貸してやることもなかっただろう。
そして、本人もそれを理解している。
「させないさ」
ルキウスは緑色の瞳に強い光を映した。
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