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33 策謀 - le plan -
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昼を過ぎて、しとしとと細い雨が地面を湿らせ始めた頃、ルキウスはアルヴィーゼの執務室を訪れた。
「昨夜の晩餐をすっぽかした謝罪なら受け入れます、殿下」
アルヴィーゼは手に取った書類から顔も上げずに言った。
「何も言ってないだろ。でも悪かった」
「おおかた女公と逢瀬ごっこでもしていたんだろう。ルドヴァンを堪能していただけて光栄の限りです」
「そんな冷たい言い方するなよ」
ルキウスは困ったように眉尻を下げ、無遠慮に執務室の奥までやってきて窓際のソファに腰掛けた。
「女公の尻を追いかけるのはもうやめたのか」
「ニナにはイオネがべったりくっついてるんだ。研究の邪魔とか言って追い出された」
「ふ。あいつらしい」
アルヴィーゼは失笑した。
この国で王太子を部屋から追い出せる女は、あの豪気な女公を除けばイオネくらいのものだろう。
「昨夜はお前に取られたから女公からアミラ語を教わる暇が無かったとぼやいていたな」
「やっぱりニナに興味津々だった」
ルキウスは苦笑した。何となくそんな気がしたから昨夜オルフィニナを連れ出したということもある。そうでなければ多分、研究熱心なイオネに一晩中オルフィニナを独り占めされたに違いない。
「彼女とは良い友人になれそうだとさ。あのイオネが、珍しいことだ」
アルヴィーゼは書類に視線を落としたまま、優しく目に弧を描かせた。冷徹な仕事人間のアルヴィーゼにこんな顔をさせるのは、この世でイオネ一人だけだ。
「君たちが羨ましいよ」
アルヴィーゼは眉間に皺を寄せてルキウスを見た。聞き間違いかと思ったのだ。ルキウスは、まっすぐな目でアルヴィーゼを見た。
「ルイ、君の協力がいる」
アルヴィーゼの視線が途端に鋭いものになる。
「くだらん権力闘争に首を突っ込む気はないと言っただろう。イオネを政争に巻き込みたくない」
「君たちの不利益にはならないと約束する。君はただ、俺とニナの婚姻を正当なものだと認めてくれればいい。コルネールの後押しがあれば諸侯の多くは納得する」
「俺は司祭じゃない」
「知ってる。だが君は西方の王だ」
「やめろ。喧嘩を売ってるのか」
アルヴィーゼは鋭く言った。‘西方の王’など、冗談ではない。そんなことを王太子が公に言えば、どんな面倒事がコルネールに降りかかるか分かったものではない。そしてもっと悪いことに、ルキウスはそれを理解した上で言っている。
「わかってるはずだ。コルネールの権力は実質それに相当する」
ルキウスは白々と言った。
「俺の影響力を笠に着て女公との結婚を後押しさせようとしているのか。お前らしくないな。何故それほど必死になる」
「君がイオネを手に入れたのと同じ理由だ」
アルヴィーゼは溜め息をついて書類を机の上に放り出した。
要は、体裁や自尊心などよりも、オルフィニナを手に入れることの方がよほど重大だと言いたいのだろう。
「…まだ戦が片付いていない状態で敵国の女公と婚姻を結ぶ利点は何だ」
「女公と結婚するんじゃない」
ルキウスは言った。
「彼女は女王だ」
アルヴィーゼの顔が凍り付いた。この男がこれほど驚愕を露わにするのは珍しい。
「…どういうことだ」
ルキウスは立ち上がり、ベストのポケットから指輪を取り出してアルヴィーゼの目の前に置いた。狼の指輪だ。アルヴィーゼは視線を指輪に落とし、黙して見た。
「彼女が死んだ父親から引き継いだ。指輪はその証しだ。国王しか持つことは許されない」
コルネール家の情報網は凄まじい。予てよりアルヴィーゼの耳にも、オルフィニナの父エギノルフ王が既に死んでいるのではないかという不確かな情報は入っている。が、これほど由々しき事態とは想定していなかった。
ルキウスが事の仔細を話して聞かせると、アルヴィーゼは突如声を上げて笑い出した。もはや、笑うしかない。
「お前は、そんな大博打を俺に打たせようというのか」
「勝算はある」
ルキウスは指輪を手に取り、窓の外に見える灰色の空を琥珀に透かした。琥珀の中に、雨雲が見える。
「女公がアミラで支持を得られなければ頓挫するぞ。敵の王子に身売りしたなどと言われて非難される。国民は背を向けるだろう」
「そんなことはさせないさ。身売りじゃなくて、俺が彼女にベタ惚れだって信じさせればいい。アミラの女王がエマンシュナの王太子の心を奪い、国を守る約束をさせたという風に見せるんだ。王太子の俺よりも女王の方が立場が上だ。アミラの国民は敗戦の屈辱から誇りを回復できる。彼らにとっても悪い話じゃない」
「正気か」
既に、アルヴィーゼの顔に笑みはない。
「またそれか。聞き飽きた」
ルキウスが苦笑して言った。
「彼女はもともと国民や臣下から信頼されてる。庶子というだけで軽視するのは、無能な重臣だけだ。勝算はある」
「で、お前はその功績を足掛かりに国王の嫡子としての立場を守るということか」
アルヴィーゼの言葉には、新鮮な驚きがある。ルキウスが今まで次期国王という立場に執着しているようには見えなかったからだ。どちらかというと、生まれたときから漫然とそれを受け入れ、雨が降ったり、風が吹いたりする事象と同じように捉えているものと思っていた。
ルキウスはどこか物憂げに口を開いた。
「ルイ、君はヴァレルの叔父貴がこの国を治める器だと思うか」
アルヴィーゼは椅子に背を預け、長い指を顎に当てた。意識的に避けてきた話題だ。これを口にしたら、これまで政治に興味を持たなかったコルネールがその野心を表したと取られる可能性がある。
が、アルヴィーゼにも好みというものがある。何年か前の宴で、ヴァレル・アストルが下品な目つきでイオネの腰に触れようとしたことを、アルヴィーゼは忘れていない。
「あの男の器などに興味は無い。ただ、俺はあいつが嫌いだ」
「じゃあ、俺は?」
アルヴィーゼは自分と同じ緑色をした再従弟の目を見た。ルースへ行って、ルキウスは変わった。
(いや、女公に会ってからか…)
人生を変える出会いを、この年若い再従弟も果たしたのだろう。それは疑う余地もない。
「幾分かましだ」
アルヴィーゼが冷ややかに言った。ルキウスは面白そうにニヤリとした。
「ニナもさ。卑怯な叔父が王位を手に入れるくらいなら、自分の方がましだって思ってる。アミラの国民もニナに王冠を被ってほしいと思うはずだ」
「しかし、ニナはともかく、お前のこれまでの行動を考えるとエマンシュナでは評判を上げるのは難しいぞ。放蕩者の王太子像を払拭するのは簡単じゃない」
ぴく、とルキウスの眉が動いた。放蕩者と言われたのが気に障ったのかと思いきや、反応したのは別のことだ。
「…馴れ馴れしく呼ぶなよ」
「は?」
アルヴィーゼは眉間に皺を寄せて、突然反抗的な態度を取り始めたルキウスを見た。
「ニナって呼ぶな」
「お前が言うからうつった」
アルヴィーゼは冷淡な調子で言った。相手が王太子であろうが、気まぐれに機嫌を悪くされたのではこちらとしても不愉快だ。
「じゃあうつらないようにオルフィニナと呼べ」
「お前こそ俺の妻を馴れ馴れしくイオネと呼んでいるだろう」
「それはイオネが俺にそう呼んでいいって許可したからだ。ニナはルイに許可してない」
次に扉の外から聞こえてきた言葉が、この二人の口論に終止符を打った。
「別に、あなたにも許可した覚えはないが…」
当のオルフィニナだ。家令のドミニクが開いた扉の外で、怪訝そうな顔をして立っている。その隣では、ゆったりとしたドレスに身を包んだイオネが声を出さないように口元を押さえてふるふる忍び笑いをしていた。よほど可笑しかったのだろう。こういう彼女の姿は珍しい。
「ニナと夕飯の相談をしに来たのだけど、あまりに子供じみた喧嘩をしているから可笑しくてしばらく見ていたの」
言い終わるとイオネはたまらず吹き出した。
「ふふ。もう、おかしい」
隣のオルフィニナは呆れ顔でルキウスを見た。ルキウスは「何だよ」と口の形だけでオルフィニナに言い、目をぎょろりとさせた。
アルヴィーゼは執務机の椅子から立ち上がって妻の元へ歩み寄り、腰に手を添えて愛おしそうにキスをした。
「今日は少し冷えるだろう。身体の具合は?」
「久しぶりに笑いすぎてお腹が張ったけど元気よ。ルキウス殿下が来るといつも賑やかで楽しいわ」
「まったく…」
アルヴィーゼが気遣わしげにイオネの腹に触れ、優しく撫でた。
「ルキウスは、公爵とはいつもこんな感じなのか」
オルフィニナが唇をひくりと吊り上げてイオネに訊ねた。
「いつもルキウス殿下がアルヴィーゼに小言を言われているけど、口論は珍しいわね。あなたを気安く呼ばれたのが余程気に入らなかったんだわ」
イオネがくすくす笑った。オルフィニナが苦々しげに「そうか」と頷くと、ルキウスは面白くなさそうに顔をしかめてイオネに反論した。
「言っておくけど、ルイだって他の男が君をイオネって呼ぶとあからさまにいやな顔をするぞ」
アルヴィーゼは咳払いしてルキウスに厳しい視線を送った後、扉の外に控える家令のドミニクにも冷たい視線を投げた。勝手に貴婦人たちをこの場に通したことに腹を立てているのだ。
ドミニクは肩を竦め、茶色い目をぎょろりとさせて主人に抗議した。コルネール家では、奥方に限ってはいつでもアルヴィーゼの元に通してよいことになっている。
「それで、夕飯の相談というのは?」
アルヴィーゼがイオネに訊ねた。
「昨日ニナが城下で貝料理を食べてとても気に入ったのですって。だから、今日は主菜を肉料理から海のものに変えようかと思って。料理長が港から良いスズキが手に入ったと言っていたわ。ちょうどルドヴァンのシードルにも合うし、どうかしら」
ふ。とアルヴィーゼが優しく笑った。
「お前の一存で決めればよいことをわざわざ言いに来たのか」
「ルキウス殿下の意向を聞かないことには決められないわ。大切なお客さまだもの」
イオネは腰に絡んでくる夫の手をピチリと叩きながら言った。
「俺はいいよ。ニナが望むものに異論は無い」
ルキウスもオルフィニナの腰を抱いて髪にキスをした。オルフィニナが顎を上げて投げてくる視線にどんな感情が混ざっているかは、今は深く考えないことにした。
「王太子殿下、とっても上機嫌でしたね」
と声を弾ませたのは、スリーズだ。この日も侍女と近習に別室が用意され、主人たちと同じ料理を口にする栄誉を与えられている。昨夜と違うのは、この場にクインも同席している点だ。
「オルフィニナ様と一日ゆっくり過ごせたのが楽しかったんでしょうね。ここのところは喧嘩もなく上手くやってるようですから」
バルタザルはそう言ってスズキの煮込み料理をうっとりと飲み込みながら、ちらりとクインの様子を窺った。クインはいつものように黒っぽい服装に身を包み、黙々と料理を口に運んでいる。
所作だけ見れば、良家の紳士だ。
「アドラー閣下は視察がてらオルデンのお友達とゆっくり過ごせました?」
スリーズは無邪気なものだ。クインがオルデンの現状を視察しに行ったという話を頭から信じている。
バルタザルは隣のクインに目配せした。余計なことは彼女の耳に入れるなということだ。が、クインは無視した。
「オルデンには長居していない。俺の任務は、諜報部隊を動かすことだ」
クインは無表情で淡々と言った。慌てたのはバルタザルだ。
「ちょっと、アドラーさん!彼女には――」
「あんたはニナに仕えるんだろう」
クインはバルタザルに視線をくれてやることもなく、スリーズが見開いた青い目を射るように見た。
「もう仕えています」
スリーズもフォークを皿に置き、射るようにクインのハシバミ色の目を見た。気分を害したのだ。
「それなら何が起きているか知っておけ。でないと身を守れない」
「ルキウス殿下の承諾も無しに勝手なことは――」
「教えてください」
今度はスリーズがバルタザルの言葉を遮った。バルタザルはもはや天を仰ぐことしかできない。
「女公殿下のお役に立つと決めましたから、覚悟はできています」
「まず、あんたと俺が仕えてるのは女公じゃない」
「え、でも…」
スリーズは困惑した。が、この次の言葉でもっと困惑を深めた。
「女王陛下だ」
この時、最も驚いた顔をしていたのは、バルタザルだった。
「俺たちが仕えているのは正統なアミラ女王、オルフィニナ・ドレクセンだ。エマンシュナ王にもその肩書きで謁見する。そのつもりでいろ」
静まりかえった室内に、クインの静かな声が響いた。
「昨夜の晩餐をすっぽかした謝罪なら受け入れます、殿下」
アルヴィーゼは手に取った書類から顔も上げずに言った。
「何も言ってないだろ。でも悪かった」
「おおかた女公と逢瀬ごっこでもしていたんだろう。ルドヴァンを堪能していただけて光栄の限りです」
「そんな冷たい言い方するなよ」
ルキウスは困ったように眉尻を下げ、無遠慮に執務室の奥までやってきて窓際のソファに腰掛けた。
「女公の尻を追いかけるのはもうやめたのか」
「ニナにはイオネがべったりくっついてるんだ。研究の邪魔とか言って追い出された」
「ふ。あいつらしい」
アルヴィーゼは失笑した。
この国で王太子を部屋から追い出せる女は、あの豪気な女公を除けばイオネくらいのものだろう。
「昨夜はお前に取られたから女公からアミラ語を教わる暇が無かったとぼやいていたな」
「やっぱりニナに興味津々だった」
ルキウスは苦笑した。何となくそんな気がしたから昨夜オルフィニナを連れ出したということもある。そうでなければ多分、研究熱心なイオネに一晩中オルフィニナを独り占めされたに違いない。
「彼女とは良い友人になれそうだとさ。あのイオネが、珍しいことだ」
アルヴィーゼは書類に視線を落としたまま、優しく目に弧を描かせた。冷徹な仕事人間のアルヴィーゼにこんな顔をさせるのは、この世でイオネ一人だけだ。
「君たちが羨ましいよ」
アルヴィーゼは眉間に皺を寄せてルキウスを見た。聞き間違いかと思ったのだ。ルキウスは、まっすぐな目でアルヴィーゼを見た。
「ルイ、君の協力がいる」
アルヴィーゼの視線が途端に鋭いものになる。
「くだらん権力闘争に首を突っ込む気はないと言っただろう。イオネを政争に巻き込みたくない」
「君たちの不利益にはならないと約束する。君はただ、俺とニナの婚姻を正当なものだと認めてくれればいい。コルネールの後押しがあれば諸侯の多くは納得する」
「俺は司祭じゃない」
「知ってる。だが君は西方の王だ」
「やめろ。喧嘩を売ってるのか」
アルヴィーゼは鋭く言った。‘西方の王’など、冗談ではない。そんなことを王太子が公に言えば、どんな面倒事がコルネールに降りかかるか分かったものではない。そしてもっと悪いことに、ルキウスはそれを理解した上で言っている。
「わかってるはずだ。コルネールの権力は実質それに相当する」
ルキウスは白々と言った。
「俺の影響力を笠に着て女公との結婚を後押しさせようとしているのか。お前らしくないな。何故それほど必死になる」
「君がイオネを手に入れたのと同じ理由だ」
アルヴィーゼは溜め息をついて書類を机の上に放り出した。
要は、体裁や自尊心などよりも、オルフィニナを手に入れることの方がよほど重大だと言いたいのだろう。
「…まだ戦が片付いていない状態で敵国の女公と婚姻を結ぶ利点は何だ」
「女公と結婚するんじゃない」
ルキウスは言った。
「彼女は女王だ」
アルヴィーゼの顔が凍り付いた。この男がこれほど驚愕を露わにするのは珍しい。
「…どういうことだ」
ルキウスは立ち上がり、ベストのポケットから指輪を取り出してアルヴィーゼの目の前に置いた。狼の指輪だ。アルヴィーゼは視線を指輪に落とし、黙して見た。
「彼女が死んだ父親から引き継いだ。指輪はその証しだ。国王しか持つことは許されない」
コルネール家の情報網は凄まじい。予てよりアルヴィーゼの耳にも、オルフィニナの父エギノルフ王が既に死んでいるのではないかという不確かな情報は入っている。が、これほど由々しき事態とは想定していなかった。
ルキウスが事の仔細を話して聞かせると、アルヴィーゼは突如声を上げて笑い出した。もはや、笑うしかない。
「お前は、そんな大博打を俺に打たせようというのか」
「勝算はある」
ルキウスは指輪を手に取り、窓の外に見える灰色の空を琥珀に透かした。琥珀の中に、雨雲が見える。
「女公がアミラで支持を得られなければ頓挫するぞ。敵の王子に身売りしたなどと言われて非難される。国民は背を向けるだろう」
「そんなことはさせないさ。身売りじゃなくて、俺が彼女にベタ惚れだって信じさせればいい。アミラの女王がエマンシュナの王太子の心を奪い、国を守る約束をさせたという風に見せるんだ。王太子の俺よりも女王の方が立場が上だ。アミラの国民は敗戦の屈辱から誇りを回復できる。彼らにとっても悪い話じゃない」
「正気か」
既に、アルヴィーゼの顔に笑みはない。
「またそれか。聞き飽きた」
ルキウスが苦笑して言った。
「彼女はもともと国民や臣下から信頼されてる。庶子というだけで軽視するのは、無能な重臣だけだ。勝算はある」
「で、お前はその功績を足掛かりに国王の嫡子としての立場を守るということか」
アルヴィーゼの言葉には、新鮮な驚きがある。ルキウスが今まで次期国王という立場に執着しているようには見えなかったからだ。どちらかというと、生まれたときから漫然とそれを受け入れ、雨が降ったり、風が吹いたりする事象と同じように捉えているものと思っていた。
ルキウスはどこか物憂げに口を開いた。
「ルイ、君はヴァレルの叔父貴がこの国を治める器だと思うか」
アルヴィーゼは椅子に背を預け、長い指を顎に当てた。意識的に避けてきた話題だ。これを口にしたら、これまで政治に興味を持たなかったコルネールがその野心を表したと取られる可能性がある。
が、アルヴィーゼにも好みというものがある。何年か前の宴で、ヴァレル・アストルが下品な目つきでイオネの腰に触れようとしたことを、アルヴィーゼは忘れていない。
「あの男の器などに興味は無い。ただ、俺はあいつが嫌いだ」
「じゃあ、俺は?」
アルヴィーゼは自分と同じ緑色をした再従弟の目を見た。ルースへ行って、ルキウスは変わった。
(いや、女公に会ってからか…)
人生を変える出会いを、この年若い再従弟も果たしたのだろう。それは疑う余地もない。
「幾分かましだ」
アルヴィーゼが冷ややかに言った。ルキウスは面白そうにニヤリとした。
「ニナもさ。卑怯な叔父が王位を手に入れるくらいなら、自分の方がましだって思ってる。アミラの国民もニナに王冠を被ってほしいと思うはずだ」
「しかし、ニナはともかく、お前のこれまでの行動を考えるとエマンシュナでは評判を上げるのは難しいぞ。放蕩者の王太子像を払拭するのは簡単じゃない」
ぴく、とルキウスの眉が動いた。放蕩者と言われたのが気に障ったのかと思いきや、反応したのは別のことだ。
「…馴れ馴れしく呼ぶなよ」
「は?」
アルヴィーゼは眉間に皺を寄せて、突然反抗的な態度を取り始めたルキウスを見た。
「ニナって呼ぶな」
「お前が言うからうつった」
アルヴィーゼは冷淡な調子で言った。相手が王太子であろうが、気まぐれに機嫌を悪くされたのではこちらとしても不愉快だ。
「じゃあうつらないようにオルフィニナと呼べ」
「お前こそ俺の妻を馴れ馴れしくイオネと呼んでいるだろう」
「それはイオネが俺にそう呼んでいいって許可したからだ。ニナはルイに許可してない」
次に扉の外から聞こえてきた言葉が、この二人の口論に終止符を打った。
「別に、あなたにも許可した覚えはないが…」
当のオルフィニナだ。家令のドミニクが開いた扉の外で、怪訝そうな顔をして立っている。その隣では、ゆったりとしたドレスに身を包んだイオネが声を出さないように口元を押さえてふるふる忍び笑いをしていた。よほど可笑しかったのだろう。こういう彼女の姿は珍しい。
「ニナと夕飯の相談をしに来たのだけど、あまりに子供じみた喧嘩をしているから可笑しくてしばらく見ていたの」
言い終わるとイオネはたまらず吹き出した。
「ふふ。もう、おかしい」
隣のオルフィニナは呆れ顔でルキウスを見た。ルキウスは「何だよ」と口の形だけでオルフィニナに言い、目をぎょろりとさせた。
アルヴィーゼは執務机の椅子から立ち上がって妻の元へ歩み寄り、腰に手を添えて愛おしそうにキスをした。
「今日は少し冷えるだろう。身体の具合は?」
「久しぶりに笑いすぎてお腹が張ったけど元気よ。ルキウス殿下が来るといつも賑やかで楽しいわ」
「まったく…」
アルヴィーゼが気遣わしげにイオネの腹に触れ、優しく撫でた。
「ルキウスは、公爵とはいつもこんな感じなのか」
オルフィニナが唇をひくりと吊り上げてイオネに訊ねた。
「いつもルキウス殿下がアルヴィーゼに小言を言われているけど、口論は珍しいわね。あなたを気安く呼ばれたのが余程気に入らなかったんだわ」
イオネがくすくす笑った。オルフィニナが苦々しげに「そうか」と頷くと、ルキウスは面白くなさそうに顔をしかめてイオネに反論した。
「言っておくけど、ルイだって他の男が君をイオネって呼ぶとあからさまにいやな顔をするぞ」
アルヴィーゼは咳払いしてルキウスに厳しい視線を送った後、扉の外に控える家令のドミニクにも冷たい視線を投げた。勝手に貴婦人たちをこの場に通したことに腹を立てているのだ。
ドミニクは肩を竦め、茶色い目をぎょろりとさせて主人に抗議した。コルネール家では、奥方に限ってはいつでもアルヴィーゼの元に通してよいことになっている。
「それで、夕飯の相談というのは?」
アルヴィーゼがイオネに訊ねた。
「昨日ニナが城下で貝料理を食べてとても気に入ったのですって。だから、今日は主菜を肉料理から海のものに変えようかと思って。料理長が港から良いスズキが手に入ったと言っていたわ。ちょうどルドヴァンのシードルにも合うし、どうかしら」
ふ。とアルヴィーゼが優しく笑った。
「お前の一存で決めればよいことをわざわざ言いに来たのか」
「ルキウス殿下の意向を聞かないことには決められないわ。大切なお客さまだもの」
イオネは腰に絡んでくる夫の手をピチリと叩きながら言った。
「俺はいいよ。ニナが望むものに異論は無い」
ルキウスもオルフィニナの腰を抱いて髪にキスをした。オルフィニナが顎を上げて投げてくる視線にどんな感情が混ざっているかは、今は深く考えないことにした。
「王太子殿下、とっても上機嫌でしたね」
と声を弾ませたのは、スリーズだ。この日も侍女と近習に別室が用意され、主人たちと同じ料理を口にする栄誉を与えられている。昨夜と違うのは、この場にクインも同席している点だ。
「オルフィニナ様と一日ゆっくり過ごせたのが楽しかったんでしょうね。ここのところは喧嘩もなく上手くやってるようですから」
バルタザルはそう言ってスズキの煮込み料理をうっとりと飲み込みながら、ちらりとクインの様子を窺った。クインはいつものように黒っぽい服装に身を包み、黙々と料理を口に運んでいる。
所作だけ見れば、良家の紳士だ。
「アドラー閣下は視察がてらオルデンのお友達とゆっくり過ごせました?」
スリーズは無邪気なものだ。クインがオルデンの現状を視察しに行ったという話を頭から信じている。
バルタザルは隣のクインに目配せした。余計なことは彼女の耳に入れるなということだ。が、クインは無視した。
「オルデンには長居していない。俺の任務は、諜報部隊を動かすことだ」
クインは無表情で淡々と言った。慌てたのはバルタザルだ。
「ちょっと、アドラーさん!彼女には――」
「あんたはニナに仕えるんだろう」
クインはバルタザルに視線をくれてやることもなく、スリーズが見開いた青い目を射るように見た。
「もう仕えています」
スリーズもフォークを皿に置き、射るようにクインのハシバミ色の目を見た。気分を害したのだ。
「それなら何が起きているか知っておけ。でないと身を守れない」
「ルキウス殿下の承諾も無しに勝手なことは――」
「教えてください」
今度はスリーズがバルタザルの言葉を遮った。バルタザルはもはや天を仰ぐことしかできない。
「女公殿下のお役に立つと決めましたから、覚悟はできています」
「まず、あんたと俺が仕えてるのは女公じゃない」
「え、でも…」
スリーズは困惑した。が、この次の言葉でもっと困惑を深めた。
「女王陛下だ」
この時、最も驚いた顔をしていたのは、バルタザルだった。
「俺たちが仕えているのは正統なアミラ女王、オルフィニナ・ドレクセンだ。エマンシュナ王にもその肩書きで謁見する。そのつもりでいろ」
静まりかえった室内に、クインの静かな声が響いた。
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歪な情で結ばれたふたりの運命は――
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