レーヌ・ルーヴと密約の王冠

若島まつ

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32 政治と恋 - le politique et l’amour -

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 寝過ごしてしまった。
 スリーズはベッドから飛び起きて慌ただしく行動を始めた。
 暇を持て余してバルタザルと一緒にカードゲームを始めたのがいけなかった。仕事を終えたコルネール家の使用人たちも加わり、つい楽しくなって夜更けまで勝負に及んでしまった。
 そもそも、この家の使用人たちが優秀すぎるのも問題なのだ。
 実家でも小貴族の令嬢として使用人たちにある程度の世話は焼かれていたが、コルネール家では女公殿下の侍女にまで実家以上に細やかな世話を焼いてくる。おまけに侍女である自分に与えられた寝室さえも今まで滞在したことのある中で最も快適だし、ベッドも適度に柔らかく、一体何を使っているのか、部屋中がものすごく良い匂いがする。
(女公殿下のお世話の参考にしなくちゃ)
 寝室中を調べ尽くしたい気分だが、それは今夜に取っておいた方がよさそうだ。
 今はとにかく、別棟のゲストハウスで眠っているはずの女公殿下に洗顔用の盥とドレスを用意しなければならない。
 スリーズは大急ぎで身支度をした後、髪もそこそこに整えて盥と布を手にゲストハウスへ向かい、二階に上がった。
「きゃあ!」
 と声を上げたのは、奥の寝室の扉の前にルキウスが立っていたからだ。シャツははだけ、髪は乱れ、なぜか庶民が着るような緩めのズボンを履いていて、どことなく淫蕩な雰囲気を漂わせている。
 スリーズは頭から噴火しそうなほど恥ずかしくなり、後ろを向いた。とても直視できない。
「おっ、お、お、おはようございます、王太子殿下!」
 裏返る声で元気よく挨拶したところで、後ろから伸びてきた腕に盥と布を取られてしまった。
「ニナはまだ寝てるから、しばらく君の世話はいらない」
「で、ですが…」
 昨日もまともに仕事もせず遊んでいたと言うのに、今朝も仕事をさせてもらえないのでは、必ず役に立つと宣言した手前、面目が立たない。
 不満そうなスリーズの様子に気付き、ルキウスは別のことを言った。
「一階の風呂を用意して、俺の着替えを持ってくるようバルタザルに伝えてくれ。それが終わったら昼までは誰も近づけるな」
「はい…」
 風呂の用意はいいが、この公爵家で果たして誰も近づけないことなど可能なのだろうか。
 少々の疑問を抱きつつ、スリーズはどことなく機嫌良さげに見える王太子の後ろ姿を見送った。

 オルフィニナが目を覚ましたのは、それから一時間ほど経った頃だ。すでに陽が高くなっている。
「おはよう、俺のニナ」
 ルキウスがベッド脇に座って、頬に触れている。
 ‘俺の’?――と聞き咎めようとしたが、声が出なかった。理由を思いつくと恥ずかしさがじわじわと湧いて、小さな咳払いで誤魔化した。
 こちらは一糸纏わぬまま身体の至る所に昨夜の痕跡を残されているというのに、ルキウスはきちんといつも通り王族に相応しい真っ白なシャツと織り目の細かく揃った淡い色のベストを着て、完璧な王太子の佇まいでそこにいる。
 オルフィニナは頬を撫でるルキウスの手を振り払わなかった。怠惰なまどろみの中で、その体温を心地よいと感じていた。
「ルキウス」
 オルフィニナはごろりとしなやかな肢体を捻ってルキウスの方を向き、ふかふかの枕に肘をついて、毛布を胸の上まで引っ張った。
 燃えるような赤い髪がカーテンの隙間から差す陽光に輝き、雪のように白い肌を、女神が纏う光の粒のように彩っている。
 まだ離したくない。
「…リュカだろ」
 ルキウスは肩を隠す赤い髪を背中へ払い、露わになった白い肩に触れた。不機嫌な声色になったかも知れない。
「いや、ルキウス。そろそろわたしの騎士が政治を連れて戻ってくる」
「どちらもまだここにはない」
 ルキウスはオルフィニナの肩にキスをして、肌を隠す毛布を剥ぎ取った。
 ジャスミンに似た彼女の肌の香りが鼻腔をくすぐり、背をぞくりと不埒な予兆が走る。
「…風呂を用意させた。一緒に入ろう」
「えっ。それはいい」
 オルフィニナは硬い表情で首を横に振ったが、毛布で再び身体を隠す間もなく抱き上げられてしまった。
「大人しくしてろ。洗うだけだから」
「それが問題なんだ」
「うるさいな」
 ルキウスはオルフィニナにキスをして口を噤ませると、機嫌良く浴室へ下りていった。

 まったく情けないことだ。
 オルフィニナは憮然とした。
 結局ルキウスの調子に乗せられて身体を隅々まで洗われてしまった。しかし、浴室に身を沈めながら髪を優しく梳かれるのは心地よかった。
 夜明けまで散々にされたというのに、また浴室で事に及ぶつもりではないかとヒヤヒヤしていたが、意外にもルキウスは服を着たまま、本当にオルフィニナの身体を洗うだけで解放した。
 この扱いは、捕虜ではなく結婚相手となった自分への、ある種の敬意と取ってよいのだろうか。擬似的な恋愛関係を構築することで、野望を成就させるための大芝居の舞台を作り上げようとしているのか。
 まさに今ドレスの背中のボタンを留めている男の指は、目的を果たした後どうなるのだろう。事と次第によっては自分に向かって弓を引く指になるのだろうか。
 ルキウスの指がうなじを隠す襟のボタンを留め終えた時、オルフィニナは後ろを振り返ってその緑色の目を見上げた。
「これをあげる」
 差し出したのは、ガラスのペンだった。昨日オルフィニナが文具店で買った二本のうちの片方だ。雪解け水のように透き通ったガラスに繊細な流線がいくつも彫り込まれ、その溝が吸い上げたインクを、ペン先に流し出すような構造になっている。
 ルキウスは驚いたように目を丸くして、ペンを手に取った。
「店主がこのペンは信頼の証だと言っていた。だからあなたにも一つ持っていて欲しい。あなたの野心を信じているから」
「…野心を?」
 ルキウスは眉を吊り上げた。
「そうだ。わたしはあなたの野心を買っている。そしてわたしに対して誠実であることを」
 この後見せたルキウスの顔は、今までオルフィニナが見たどの顔よりも美しかった。素肌で触れ合っているときよりも胸がざわつく。光彩がその瞳に散って見えるほど、ルキウスは嬉しそうに笑んでいた。
「嬉しいよ。俺の女王陛下」
 ルキウスはオルフィニナの手を取って甲に口付けをし、目を優しく細めた。
 ‘政治’が扉が叩いたのは、ちょうどこの時だ。――騎士が女王のもとに戻った。

 二週間ぶりに会うクインは、いつもと変わらず不機嫌な顔をしていた。が、輪を掛けて不機嫌そうだ。
「ガキどもにたかられた」
 というのが理由らしい。コルネール家の子供たちのことだ。
 オルフィニナは吹き出した。
「元気な子たちだっただろう。お前がそんな格好をしているから珍しいのだろうよ」
 オルデンから戻ったクインは、ベルンシュタインの全身真っ黒の隊服に身を包んでいる。膝まで覆う外套も黒く、フードを被れば顔も見えない。明らかに異装だ。
「こっちのほうが楽なんだ」
「気持ちは分かるが、昼間には逆に目立つよ。まったく」
 オルフィニナはヤレヤレと首を振った。
「それで、アドラー」
 ルキウスがオルフィニナの腰掛けるソファの後ろで彼女の肩に手を置いて、刺すように言った。二人の甘い時間を遮られたことには腹が立つ。が、仕方が無い。
「報告を聞こう」
「ギエリまで行ってきた。イゾルフ王太子とミリセント王妃は無事だ」
 クインはオルフィニナの目をまっすぐに見て言った。これがオルフィニナの一番知りたかったことだ。オルフィニナの表情が柔らかく変化したのを、クインは見た。
「会ったのか。イゾルフと王妃は息災か」
 オルフィニナが訊ねた。
「会ってはいない。王城へは近付かなかった」
 イェルクに見られたら困るから。とは言わない。オルフィニナに不確かな疑念を与えたくはない。オルフィニナがわざわざイェルクはどうしているかなどと訊ねないことも、クインにとっては都合が好い。彼女はイェルクが何らかの任務を父親から秘密裏に命じられてイゾルフの近くにいる可能性を信じている。しかし、クインは違う可能性を考えている。
「――今は二人ともギエリ城内に事実上の軟禁状態だが、ギッテを城内に送り込んだ。定期的に報告が来るようになってる」
「そうか。それなら安心だ」
 オルフィニナは眉を開いた。ビルギッテの仕事の確かさを、オルフィニナもよく知っている。
「噂の方は?」
 ルキウスが訊いた。女公オルフィニナがエマンシュナのルキウス王太子と親密な関係にあるというそれだ。ついでに、実質まつりごとを掌握している王弟のフレデガルには既に、二人が婚約した旨の書簡を送っている。
「計画通りです。オルデンで吹聴を始めた三日後には、ギエリまで届きました。アミラの国民の多くがオルフィニナ女公がルキウス王太子と結婚することになると思っています。それから――」
 クインはルキウスに対しては慇懃かつ冷淡にそう告げた後、オルフィニナに向かってニヤリと犬歯を見せた。
「フレデガルは怒り狂ってるらしい」
 ビルギッテが首尾良く女中としてギエリ城に潜り込み、早々に手に入れた情報だ。
 これを聞いて、オルフィニナもニヤリとした。
「わたしにエマンシュナの王太子軍がついているとなれば、弟にも王妃にも手を出せないだろうからな」
 王都陥落の混乱に乗じて殺してしまえばよかったと臍を噛んでいることだろう。しかし、ヴァレル・アストル率いるエマンシュナ軍を余計に悪者にしてしまっては、互いの蜜月関係が狂いかねない。そのために、彼らに手を出すことはできなかったはずだ。いずれにせよ、フレデガルが正当に戴冠することは今の状態では不可能だ。
「だが、今のところ二人を王都から落とすのは、難しい。ヴァレル・アストルの軍が駐屯して目を光らせてる」
 ルキウスは苦々しげな顔をして、鼻で笑った。
「叔父貴は指揮官としては優秀だ。部下も精鋭揃いだから、奴らがギエリを掌握している限りはまず不可能だな。だが――」
 ルキウスはオルフィニナの肩から腕へと手を滑らせ、右手に触れた。親指には狼の指輪が輝いている。
「女王の要請で軍を撤退させることはできる」
「残念だがわたしは女王としてアミラ王国に認められていない」
 オルフィニナは背後に立つルキウスを見上げた。
「その必要は無い。エマンシュナ王が君を女王とすれば、ヴァレル・アストル軍への命令は有効だ」
「そう簡単に引き揚げてくれるものかな」
 オルフィニナはルキウスの手が触れている右手の親指に視線を落とした。こんな石ころにそれほどの力があるだろうか。
「俺なら無視する」
 クインが不愉快そうにルキウスを見て言い、再び口を開いた。
「だが綻び始める」
「そうだ、アドラー。クソ叔父貴どもの関係にヒビを入れてやろう」
 ルキウスの緑色の目は、愉悦に満ちていた。
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