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30 酒場のダンス - la danse avec un homme ordinaire -
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陽が沈んだ頃、商店や露店は一日の仕事を終え、酒場に人があふれ出した。
「そろそろ戻らないと夕食の席に間に合わないんじゃないか」
オルフィニナがあたりを見回して言った。街のあちこちで軒先や街灯のランプが灯り始めている。
「まさか。これから楽しい時間が始まるのに」
「だが、待たせては申し訳ない」
「待つなってドミニクには言ってあるから、大丈夫だ」
ドミニクとは、コルネール家の家令のことだ。幼い時分から当主アルヴィーゼに付き従ってきたから、ルキウスとも旧知であり、彼の我儘にも慣れている。
オルフィニナはなんとなく不機嫌に眉を寄せるルドヴァン公爵の顔が思い浮かんだが、肩を竦めてルキウスの提案に乗ることにした。コルネール家の晩餐にもかなりそそられるが、賑やかなルドヴァンを夜歩きする方が、今の気分に合っている。
「じゃあ、どこに行くんだ?恋人どの」
興が乗ってそう言うと、ルキウスは今までオルフィニナが見たことのない顔をした。
「恋人どの?」
「そういうことにするんだろう。こうなったら付き合うさ」
「じゃあ、リュカと呼べよ。恋人どのはさすがに変だ」
「わかった。リュカ」
この素直さに驚いた。ルキウスは自分がどんな顔をしているかもわからないまま、オルフィニナの顔を見た。オルフィニナは小さく肩を竦めて見せた。
「軍人のようだと言われてしまったからな」
だから少しでも街に溶け込めるように、恋人のふりを徹底してやると言っているのだ。
ルキウスは自分よりも頭ひとつ分低い位置にある赤い髪をくしゃくしゃに乱してその身体を力の限り抱きしめたい衝動に駆られた。
が、やめた。今機嫌を損ねては、もっと重要なときに隙を見せてくれなくなる。本気で自分を拒絶しようとする時のオルフィニナの鉄壁ぶりを、ルキウスは既に知っている。
大通りからやや細い路地に入ると、小さな酒場が何軒も軒を連ねていた。ソーセージや骨付き肉が焼ける香ばしい匂いや、魚介を煮込む匂い、香草や異国のスパイス、とんでもなくおいしそうなスープの匂いなどが漂っている。そして喧噪の中には、複数の弦楽器の軽快な演奏が混じっていた。外のテーブル席では地元民が集まって酒盛りをし、料理や音楽と共に世間話で盛り上がっている。女性や子供も入り交じり、祭りのように賑々しい。
「あれだ、あれ。リュカ」
と、オルフィニナが前方を指差し、ルキウスの腕を引いた。琥珀色の目が街の灯りを映してキラキラ輝き、この上なく楽しそうだ。
オルフィニナが指した店の軒先には、大きな巻き貝や二枚貝の殻が飾られている。
「あのバカでかい貝は何だ」
バカでかいと言っても十五センチ前後の黒い貝だが、魚介料理にそれほど親しみのないアミラで生まれ育ったオルフィニナにとっては目新しく、珍しい。
「カラス貝だ。あの店で白ワイン蒸しを出してる。食べてみる?」
「食べてみたいがその隣の店の腸詰めとチーズも気になる。でも両方は食べきれないから、どちらか選ばないといけない」
ウウン、と顎に指を当てて真剣に悩むオルフィニナを見ていると、自然と頬が緩む。
「両方買ってこれも分け合えばいい。店主に言って外のテーブルを借りよう」
「いいのか」
オルフィニナがぱあっと顔を輝かせた。
「勿論だ」
そう言ってルキウスは慣れた様子で店に入って行き、さっさと両方の店の者に話をつけて四角いテーブルに小さなオイルランプを置き、ガタつく椅子を引いて、オルフィニナに席を勧めた。この市井にあって、優雅すぎるほどの仕草だ。まるでこの使い込まれた木のテーブルとガタつく椅子が、王城の食卓のようにさえ見える。
「なるほど恋人は便利だな」
オルフィニナが椅子に腰掛けて言った。食事を分け合うことが恋人同士でいる利点だと考えられては困るが、せっかくオルフィニナが乗り気ならばそういうことにしておくほかない。
「そうだろう。君は君に恋しているただの男が料理を注文して戻ってくるのを、街を眺めながら待っているだけでいい」
「ふ。じゃあそうさせてもらう」
オルフィニナはテーブルに頬杖をついてにこりと笑った。
ニッと微笑んでルキウスが店の中に入っていくのを眺めながら、ふと、本当にこんな風に生まれていたらどうだっただろうかと考えた。敵国に生まれず、政治も関係なく、ただの街に暮らす普通の男女だったなら、ルキウス・アストルに対する感情は何か違っていただろうか。例えば、今感じているみたいに、心が爪先立ちするような、不思議な高揚感とか、奇妙なくすぐったさが、最初からあっただろうか。
(ばかだな)
オルフィニナは自嘲した。
夜が更けて、この時間が終わることを残念に思っている自分に気付いたのだ。調子が狂う。
「失礼。美しいご婦人、あなたは一人?」
と、知らぬ男に声を掛けられて、オルフィニナは考え事から意識をルドヴァンの街に戻した。
声の主は、中産階級ながら上等なシャツと上衣、それに揃いの細身のズボンを身に纏った青年だ。鮮やかな緋色のクラバットを流行の形に結って首元を飾っている。髪もきちんと整え、髭もきれいに剃っている。身なりに気を遣っているようだ。見知らぬ女性に声を掛け慣れていそうな程度には顔立ちもよい。が、恐ろしく容姿端麗な男が身近に二人もいるオルフィニナにとっては、褒めるほどではない。
「連れがいる」
オルフィニナは礼儀正しく微笑を浮かべた。数メートル離れたテーブル席に同じくらいの年頃の青年たちが座って面白そうにこちらの様子を窺っているから、彼らと飲みに来ているのだろう。
「でも、彼は指輪を贈る関係じゃないんでしょう?それなら僕と一緒の方が楽しいかも知れない。試しにワインを一杯だけ一緒に飲むのはどうですか。好きな音楽の話でもしながら」
青年が茶目っ気たっぷりにウインクして見せたので、オルフィニナは思わず笑い出した。連れの男がいると知りながら目の前で横取りしようとは、なかなか勇気がある。
「それは面白そうだが、遠慮しておく。今は彼と恋人同士だから」
「‘今は’?じゃあその後は僕にも機会があるかな」
と、オルフィニナの手を握ろうとした青年の手首を掴んだ者がいた。言うまでもなく、ルキウスだ。
「ない。触るな」
ルキウスは不愉快この上なさそうに眉を寄せ、鋭く言った。
青年は天を仰いだ後、興醒めした様子で一歩下がると、オルフィニナに対しては礼儀正しく微笑を浮かべ、婦人に対するお辞儀をした。
「お邪魔しました、美しい人。もし気が向いたら、その時は僕と飲んで」
「ハハ。考えておく」
オルフィニナがおかしそうにヒラリと手を振って仲間の元へ戻っていく青年を見送るのを、ルキウスは全くもって面白くなさそうに眺め、向かいの椅子に座った。
「あの態度はやり過ぎだ。彼は礼儀正しかった」
オルフィニナが苦笑しながらルキウスを窘めた。
「恋人がいると分かってて女性を誘う時点で礼儀正しいとは言えない」
「果敢さは評価に値する」
「やめろ、君まで。まさか嬉しかったのか?」
「悪い気はしないさ。ああいう誘われ方は初めてだ。なかなか新鮮だった」
事実、オルデンでは高嶺の花だった女公殿下に下心を持って誘う者はいなかった。ベルンシュタインの仲間もそうだ。長の養女だったオルフィニナを崇拝こそすれ、俗な感情をあからさまに示す者はない。
「へぇ」
ルキウスの瞳にいつもの暗い影がよぎる。
「君はいつも俺が食事に誘っても面倒臭そうな顔しかしないのに、あいつはいいのか」
「あなたとわたしは、実際に色々と面倒だろう」
オルフィニナが言うと、ルキウスは瞳の中の暗い影に鈍い光を踊らせて口を開いた。
「単純だ。俺は、君と――」
ルキウスが最後まで言い終わる前に、ソーセージの店の年嵩の女給が食前酒を運んできた。緑色の透き通った瓶をテーブルに置き、小さな樽のような格好のガラスのタンブラーを二つ置いて、何やら意味ありげな視線で「ごゆっくり」と声をかけて店の奥へ立ち去った。
「だが今はただの恋人同士なんだろう。飲もう、リュカ」
オルフィニナは女給が無造作に置いていった瓶を取って麦わら色の発泡酒をルキウスのタンブラーに注ぎ、次に自分の杯を満たそうとした。が、ルキウスが向かいの席から手を伸ばし、瓶を取り上げた。
「君のは俺がやる」
オルフィニナはルキウスが手ずから自分のタンブラーに酒を満たしていくのを眺めながら、その唇が開くのを見た。
「…俺は、城へ戻っても君とこうありたいと望んでる」
「こうって、例えば、好きな音楽の話をするような?」
先ほどの青年の引用だ。オルフィニナは意識的にその真意を読み解こうとすることを避けた。
「君が望むなら音楽の話もする」
ルキウスは言った。
「長い付き合いになるんだから、その方がいい」
「城に戻ったら――」
オルフィニナは杯を掲げた。
「政治の相手に戻る。それが自然だ」
「自然。そうだな」
ルキウスも唇を片方だけ吊り上げて杯を掲げ、食前酒に口を付けた。
「君の言う通り、食事を楽しもう。今は俺たちはただの恋人同士だ」
タンブラーをテーブルに置いたオルフィニナの手を、ルキウスはしっかりと握った。
「じゃあ、ニナ。どんな音楽が好き?」
オルフィニナは笑い出した。
「そのまま実行しなくていい。でも、そうだな。テンポが速くて軽やかな曲がいい。村祭りみたいな。あなたはどうだ」
「俺はオペラかな」
「オペラなら喜劇は好きだが、正直何を言ってるか分からない時があるからどちらかと言うと苦手だ」
「じゃあ、今度連れて行くよ。俺が君のために解説する」
「それなら楽しめそうだ」
間も無くして料理が運ばれて来ると、オルフィニナは初めて食べるカラス貝料理の味に感じ入って目を閉じた。オリーブオイルと香草の風味が絶妙に絡まり合い、貝の中から海の香りが混ざったスープが口に広がる。
「うん。初めての味だ。おいしい」
「また君の‘初めて’をもらえて嬉しいよ」
ルキウスは貝のスープがちょっとしかめ面をしたオルフィニナの唇を湿らせるのを凝視しながら言った。
彼女が食事している姿は美しい。生の糧となるものに対しての敬意を示すように、何でも愛おしそうに自らの一部にしてゆくのだ。
(そそられる)
ルキウスは否応なしに脳裏に思い浮かぶ不埒な妄想を無視し、口ではオルフィニナと他愛ない会話を弾ませながら、自分も料理を口に運んだ。
皿が空になった頃、周囲のテーブルで客たちが次々に立ち上がり、次第に賑やかさを増す音楽に合わせてくるくると踊り始めた。ソーセージの店の奥に、ピアノやギター、ヴァイオリンなどの弦楽器が置かれ、それらを音楽好きな客と店員が即興で弾いている。
「ああ、そう。ちょうどこういう曲だ」
と、オルフィニナは笑った。先ほど話した好きな曲だ。
「楽しくて心が躍る」
「じゃあ、こっちだ。ニナ」
ルキウスは立ち上がると、オルフィニナに手を差し伸べた。
オルフィニナはくすくす笑って立ち、その手を取った。料理が旨くて酒が進んだから、少し酔っているかも知れない。
ルキウスがオルフィニナを誘ったのは即興の楽団が演奏する店の奥だった。ちょうど曲の終わりにピアノの目の前に立つと、ピアノを演奏していた人の良さそうな男がルキウスに席を譲った。
ルキウスがピアノの目の前に座ったのでオルフィニナは驚いたが、それ以上に興が乗った。
ルキウスはオルフィニナに笑いかけ、鍵盤を叩きはじめた。オルフィニナ好みの、楽しく軽快な舞踊曲だ。
エマンシュナではよく知られた曲らしいと分かったのは、周囲の客が手を打ち、喜びの声を上げて踊り始めたからだ。
ヴァイオリンとギターを演奏していた客の中年女性と白髭の店主もルキウスの調子に合わせて演奏を始め、店の外で周囲の店の客も踊り始めた。狭い通りがダンスホールになったようだ。
客の中で真っ先にオルフィニナをダンスに誘ったのは、先ほど外で声をかけて来た青年だった。ルキウスは軽快にピアノを演奏しながら、ものすごいしかめ面をした。
オルフィニナはさすがにその様子がおかしくて笑い声を上げ、差し出された青年の手を取ってくるくる踊った。青年への礼儀としてダンスへの誘いに応じる必要があると思ったのだ。
次のパートナーへ、更に次へとスカートで輪を描くようにくるりと回った。初めて聴く曲だったが、他の客が足踏みして音を鳴らしたり身体を捻ったりするのを真似した。なかなか楽しい。
「ちょっと君、代わって」
と、ルキウスはさっきまでピアノを演奏していた男に声をかけ、椅子から立ち上がって中腰の体勢で鍵盤を叩き、次の演奏者と曲を途切れさせることなく見事に交代を果たすと、オルフィニナの腰に手を添えて踊る客の若い男から彼女を取り返し、まんまと自分がオルフィニナのパートナーの座に納まった。
オルフィニナは頬を紅潮させて、上機嫌に踊っている。
「見事だ。いい演奏だった」
「だろ?」
ルキウスはニヤリと笑ってオルフィニナを一際大きくぐるりと回し、自分の腕の中に戻ってきたその身体をしっかりと抱き止めた。
「でも、失敗した。君を他の男と踊らせるくらいならもう俺が演奏することはない」
「勿体ないな。上手だったのに」
オルフィニナは苦笑した。
とつ、と心臓が打ったのは、曲に会わせてもう一度回ろうとしたオルフィニナの腰をルキウスが強く掴み、身体を引き寄せた瞬間のことだ。
「君に触れられない方が堪え難い」
(あ――)
と思ったときには、遅かった。
囚われた。
孔雀色の透き通った目がオルフィニナだけを映している。こんなに近くで鳴っている楽器の音も、客の笑い声も、全てが遠くなった。――目の前の男以外は。
「ニナ…」
低い声が自分を呼び、頬に指が優しく触れる。
オルフィニナは無意識のうちに、唇が触れ合うことを許した。
「そろそろ戻らないと夕食の席に間に合わないんじゃないか」
オルフィニナがあたりを見回して言った。街のあちこちで軒先や街灯のランプが灯り始めている。
「まさか。これから楽しい時間が始まるのに」
「だが、待たせては申し訳ない」
「待つなってドミニクには言ってあるから、大丈夫だ」
ドミニクとは、コルネール家の家令のことだ。幼い時分から当主アルヴィーゼに付き従ってきたから、ルキウスとも旧知であり、彼の我儘にも慣れている。
オルフィニナはなんとなく不機嫌に眉を寄せるルドヴァン公爵の顔が思い浮かんだが、肩を竦めてルキウスの提案に乗ることにした。コルネール家の晩餐にもかなりそそられるが、賑やかなルドヴァンを夜歩きする方が、今の気分に合っている。
「じゃあ、どこに行くんだ?恋人どの」
興が乗ってそう言うと、ルキウスは今までオルフィニナが見たことのない顔をした。
「恋人どの?」
「そういうことにするんだろう。こうなったら付き合うさ」
「じゃあ、リュカと呼べよ。恋人どのはさすがに変だ」
「わかった。リュカ」
この素直さに驚いた。ルキウスは自分がどんな顔をしているかもわからないまま、オルフィニナの顔を見た。オルフィニナは小さく肩を竦めて見せた。
「軍人のようだと言われてしまったからな」
だから少しでも街に溶け込めるように、恋人のふりを徹底してやると言っているのだ。
ルキウスは自分よりも頭ひとつ分低い位置にある赤い髪をくしゃくしゃに乱してその身体を力の限り抱きしめたい衝動に駆られた。
が、やめた。今機嫌を損ねては、もっと重要なときに隙を見せてくれなくなる。本気で自分を拒絶しようとする時のオルフィニナの鉄壁ぶりを、ルキウスは既に知っている。
大通りからやや細い路地に入ると、小さな酒場が何軒も軒を連ねていた。ソーセージや骨付き肉が焼ける香ばしい匂いや、魚介を煮込む匂い、香草や異国のスパイス、とんでもなくおいしそうなスープの匂いなどが漂っている。そして喧噪の中には、複数の弦楽器の軽快な演奏が混じっていた。外のテーブル席では地元民が集まって酒盛りをし、料理や音楽と共に世間話で盛り上がっている。女性や子供も入り交じり、祭りのように賑々しい。
「あれだ、あれ。リュカ」
と、オルフィニナが前方を指差し、ルキウスの腕を引いた。琥珀色の目が街の灯りを映してキラキラ輝き、この上なく楽しそうだ。
オルフィニナが指した店の軒先には、大きな巻き貝や二枚貝の殻が飾られている。
「あのバカでかい貝は何だ」
バカでかいと言っても十五センチ前後の黒い貝だが、魚介料理にそれほど親しみのないアミラで生まれ育ったオルフィニナにとっては目新しく、珍しい。
「カラス貝だ。あの店で白ワイン蒸しを出してる。食べてみる?」
「食べてみたいがその隣の店の腸詰めとチーズも気になる。でも両方は食べきれないから、どちらか選ばないといけない」
ウウン、と顎に指を当てて真剣に悩むオルフィニナを見ていると、自然と頬が緩む。
「両方買ってこれも分け合えばいい。店主に言って外のテーブルを借りよう」
「いいのか」
オルフィニナがぱあっと顔を輝かせた。
「勿論だ」
そう言ってルキウスは慣れた様子で店に入って行き、さっさと両方の店の者に話をつけて四角いテーブルに小さなオイルランプを置き、ガタつく椅子を引いて、オルフィニナに席を勧めた。この市井にあって、優雅すぎるほどの仕草だ。まるでこの使い込まれた木のテーブルとガタつく椅子が、王城の食卓のようにさえ見える。
「なるほど恋人は便利だな」
オルフィニナが椅子に腰掛けて言った。食事を分け合うことが恋人同士でいる利点だと考えられては困るが、せっかくオルフィニナが乗り気ならばそういうことにしておくほかない。
「そうだろう。君は君に恋しているただの男が料理を注文して戻ってくるのを、街を眺めながら待っているだけでいい」
「ふ。じゃあそうさせてもらう」
オルフィニナはテーブルに頬杖をついてにこりと笑った。
ニッと微笑んでルキウスが店の中に入っていくのを眺めながら、ふと、本当にこんな風に生まれていたらどうだっただろうかと考えた。敵国に生まれず、政治も関係なく、ただの街に暮らす普通の男女だったなら、ルキウス・アストルに対する感情は何か違っていただろうか。例えば、今感じているみたいに、心が爪先立ちするような、不思議な高揚感とか、奇妙なくすぐったさが、最初からあっただろうか。
(ばかだな)
オルフィニナは自嘲した。
夜が更けて、この時間が終わることを残念に思っている自分に気付いたのだ。調子が狂う。
「失礼。美しいご婦人、あなたは一人?」
と、知らぬ男に声を掛けられて、オルフィニナは考え事から意識をルドヴァンの街に戻した。
声の主は、中産階級ながら上等なシャツと上衣、それに揃いの細身のズボンを身に纏った青年だ。鮮やかな緋色のクラバットを流行の形に結って首元を飾っている。髪もきちんと整え、髭もきれいに剃っている。身なりに気を遣っているようだ。見知らぬ女性に声を掛け慣れていそうな程度には顔立ちもよい。が、恐ろしく容姿端麗な男が身近に二人もいるオルフィニナにとっては、褒めるほどではない。
「連れがいる」
オルフィニナは礼儀正しく微笑を浮かべた。数メートル離れたテーブル席に同じくらいの年頃の青年たちが座って面白そうにこちらの様子を窺っているから、彼らと飲みに来ているのだろう。
「でも、彼は指輪を贈る関係じゃないんでしょう?それなら僕と一緒の方が楽しいかも知れない。試しにワインを一杯だけ一緒に飲むのはどうですか。好きな音楽の話でもしながら」
青年が茶目っ気たっぷりにウインクして見せたので、オルフィニナは思わず笑い出した。連れの男がいると知りながら目の前で横取りしようとは、なかなか勇気がある。
「それは面白そうだが、遠慮しておく。今は彼と恋人同士だから」
「‘今は’?じゃあその後は僕にも機会があるかな」
と、オルフィニナの手を握ろうとした青年の手首を掴んだ者がいた。言うまでもなく、ルキウスだ。
「ない。触るな」
ルキウスは不愉快この上なさそうに眉を寄せ、鋭く言った。
青年は天を仰いだ後、興醒めした様子で一歩下がると、オルフィニナに対しては礼儀正しく微笑を浮かべ、婦人に対するお辞儀をした。
「お邪魔しました、美しい人。もし気が向いたら、その時は僕と飲んで」
「ハハ。考えておく」
オルフィニナがおかしそうにヒラリと手を振って仲間の元へ戻っていく青年を見送るのを、ルキウスは全くもって面白くなさそうに眺め、向かいの椅子に座った。
「あの態度はやり過ぎだ。彼は礼儀正しかった」
オルフィニナが苦笑しながらルキウスを窘めた。
「恋人がいると分かってて女性を誘う時点で礼儀正しいとは言えない」
「果敢さは評価に値する」
「やめろ、君まで。まさか嬉しかったのか?」
「悪い気はしないさ。ああいう誘われ方は初めてだ。なかなか新鮮だった」
事実、オルデンでは高嶺の花だった女公殿下に下心を持って誘う者はいなかった。ベルンシュタインの仲間もそうだ。長の養女だったオルフィニナを崇拝こそすれ、俗な感情をあからさまに示す者はない。
「へぇ」
ルキウスの瞳にいつもの暗い影がよぎる。
「君はいつも俺が食事に誘っても面倒臭そうな顔しかしないのに、あいつはいいのか」
「あなたとわたしは、実際に色々と面倒だろう」
オルフィニナが言うと、ルキウスは瞳の中の暗い影に鈍い光を踊らせて口を開いた。
「単純だ。俺は、君と――」
ルキウスが最後まで言い終わる前に、ソーセージの店の年嵩の女給が食前酒を運んできた。緑色の透き通った瓶をテーブルに置き、小さな樽のような格好のガラスのタンブラーを二つ置いて、何やら意味ありげな視線で「ごゆっくり」と声をかけて店の奥へ立ち去った。
「だが今はただの恋人同士なんだろう。飲もう、リュカ」
オルフィニナは女給が無造作に置いていった瓶を取って麦わら色の発泡酒をルキウスのタンブラーに注ぎ、次に自分の杯を満たそうとした。が、ルキウスが向かいの席から手を伸ばし、瓶を取り上げた。
「君のは俺がやる」
オルフィニナはルキウスが手ずから自分のタンブラーに酒を満たしていくのを眺めながら、その唇が開くのを見た。
「…俺は、城へ戻っても君とこうありたいと望んでる」
「こうって、例えば、好きな音楽の話をするような?」
先ほどの青年の引用だ。オルフィニナは意識的にその真意を読み解こうとすることを避けた。
「君が望むなら音楽の話もする」
ルキウスは言った。
「長い付き合いになるんだから、その方がいい」
「城に戻ったら――」
オルフィニナは杯を掲げた。
「政治の相手に戻る。それが自然だ」
「自然。そうだな」
ルキウスも唇を片方だけ吊り上げて杯を掲げ、食前酒に口を付けた。
「君の言う通り、食事を楽しもう。今は俺たちはただの恋人同士だ」
タンブラーをテーブルに置いたオルフィニナの手を、ルキウスはしっかりと握った。
「じゃあ、ニナ。どんな音楽が好き?」
オルフィニナは笑い出した。
「そのまま実行しなくていい。でも、そうだな。テンポが速くて軽やかな曲がいい。村祭りみたいな。あなたはどうだ」
「俺はオペラかな」
「オペラなら喜劇は好きだが、正直何を言ってるか分からない時があるからどちらかと言うと苦手だ」
「じゃあ、今度連れて行くよ。俺が君のために解説する」
「それなら楽しめそうだ」
間も無くして料理が運ばれて来ると、オルフィニナは初めて食べるカラス貝料理の味に感じ入って目を閉じた。オリーブオイルと香草の風味が絶妙に絡まり合い、貝の中から海の香りが混ざったスープが口に広がる。
「うん。初めての味だ。おいしい」
「また君の‘初めて’をもらえて嬉しいよ」
ルキウスは貝のスープがちょっとしかめ面をしたオルフィニナの唇を湿らせるのを凝視しながら言った。
彼女が食事している姿は美しい。生の糧となるものに対しての敬意を示すように、何でも愛おしそうに自らの一部にしてゆくのだ。
(そそられる)
ルキウスは否応なしに脳裏に思い浮かぶ不埒な妄想を無視し、口ではオルフィニナと他愛ない会話を弾ませながら、自分も料理を口に運んだ。
皿が空になった頃、周囲のテーブルで客たちが次々に立ち上がり、次第に賑やかさを増す音楽に合わせてくるくると踊り始めた。ソーセージの店の奥に、ピアノやギター、ヴァイオリンなどの弦楽器が置かれ、それらを音楽好きな客と店員が即興で弾いている。
「ああ、そう。ちょうどこういう曲だ」
と、オルフィニナは笑った。先ほど話した好きな曲だ。
「楽しくて心が躍る」
「じゃあ、こっちだ。ニナ」
ルキウスは立ち上がると、オルフィニナに手を差し伸べた。
オルフィニナはくすくす笑って立ち、その手を取った。料理が旨くて酒が進んだから、少し酔っているかも知れない。
ルキウスがオルフィニナを誘ったのは即興の楽団が演奏する店の奥だった。ちょうど曲の終わりにピアノの目の前に立つと、ピアノを演奏していた人の良さそうな男がルキウスに席を譲った。
ルキウスがピアノの目の前に座ったのでオルフィニナは驚いたが、それ以上に興が乗った。
ルキウスはオルフィニナに笑いかけ、鍵盤を叩きはじめた。オルフィニナ好みの、楽しく軽快な舞踊曲だ。
エマンシュナではよく知られた曲らしいと分かったのは、周囲の客が手を打ち、喜びの声を上げて踊り始めたからだ。
ヴァイオリンとギターを演奏していた客の中年女性と白髭の店主もルキウスの調子に合わせて演奏を始め、店の外で周囲の店の客も踊り始めた。狭い通りがダンスホールになったようだ。
客の中で真っ先にオルフィニナをダンスに誘ったのは、先ほど外で声をかけて来た青年だった。ルキウスは軽快にピアノを演奏しながら、ものすごいしかめ面をした。
オルフィニナはさすがにその様子がおかしくて笑い声を上げ、差し出された青年の手を取ってくるくる踊った。青年への礼儀としてダンスへの誘いに応じる必要があると思ったのだ。
次のパートナーへ、更に次へとスカートで輪を描くようにくるりと回った。初めて聴く曲だったが、他の客が足踏みして音を鳴らしたり身体を捻ったりするのを真似した。なかなか楽しい。
「ちょっと君、代わって」
と、ルキウスはさっきまでピアノを演奏していた男に声をかけ、椅子から立ち上がって中腰の体勢で鍵盤を叩き、次の演奏者と曲を途切れさせることなく見事に交代を果たすと、オルフィニナの腰に手を添えて踊る客の若い男から彼女を取り返し、まんまと自分がオルフィニナのパートナーの座に納まった。
オルフィニナは頬を紅潮させて、上機嫌に踊っている。
「見事だ。いい演奏だった」
「だろ?」
ルキウスはニヤリと笑ってオルフィニナを一際大きくぐるりと回し、自分の腕の中に戻ってきたその身体をしっかりと抱き止めた。
「でも、失敗した。君を他の男と踊らせるくらいならもう俺が演奏することはない」
「勿体ないな。上手だったのに」
オルフィニナは苦笑した。
とつ、と心臓が打ったのは、曲に会わせてもう一度回ろうとしたオルフィニナの腰をルキウスが強く掴み、身体を引き寄せた瞬間のことだ。
「君に触れられない方が堪え難い」
(あ――)
と思ったときには、遅かった。
囚われた。
孔雀色の透き通った目がオルフィニナだけを映している。こんなに近くで鳴っている楽器の音も、客の笑い声も、全てが遠くなった。――目の前の男以外は。
「ニナ…」
低い声が自分を呼び、頬に指が優しく触れる。
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