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29 忍び歩き - un rancard ordinaire -
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柔らかな春の太陽が夜空を迎えるためにオレンジ色の光を帯びはじめた頃、オルフィニナはルキウスと共にルドヴァンの大通りにいた。
「目立つからエデンは無し。庶民の平服をバルタザルに用意させるから、それを着る」
というルキウスの宣言通り、金の刺繍や宝石のビーズで草花の模様が装飾された仰々しいドレスは脱ぎ、胸元の紐を編み上げて一人で着脱できる白い麻の簡素なドレスを着て、その上から丈の短いオリーブ色の上衣に袖を通した。
いつも着るドレスよりも五センチほどスカートの丈が短いから、足元が涼しく、機動性が比較的高い。アドラー家の養女として過ごしていた時代を思い出す装いだ。
ルキウスの服装も、市井の青年と変わらない。ゆったりした麻のシャツの上にコーヒー色の細かい縦縞模様のベストを羽織り、黒い細身のズボンを簡素な革のブーツに仕舞い込んでいる。しかし、いくら市民の服装に身を包んでも、ルキウスはルキウスだ。
「あなた、目立つな」
オルフィニナは大勢の人々が行き来する大通りを歩きながら苦笑した。
市民の中に巧く溶け込んでいるとは、とても言えない。背が高く、精悍で姿勢が良く、おまけに恐ろしく端正な顔立ちだ。往来の人々の視線がルキウスに集中している。それも、オルフィニナの見るところ、女性だけでなく、男性の視線も混じっているようだ。敬服に値する。
「そうかもしれないが、君も見られてる」
ルキウスは面白くなさそうに言ってオルフィニナの肩を自分の方へ抱き寄せた。
「歩きにくい」
オルフィニナは文句をつけて身をよじったが、ルキウスの腕はがっちりと肩に密着して離れない。
「君が誰のか、じろじろ見てくる奴らに分かるようにしておかないといけない」
「忍び歩きなのだから別に婚約者同士に見せかける必要はないだろう」
「へぇ、そう?」
ルキウスが唇を吊り上げた。不満げな顔だ。
「じゃあ、どういう関係にする?」
「姉と弟」
オルフィニナが邪魔くさそうにルキウスの腕をどけて言うと、ルキウスは鼻で笑った。
「ダメだ。似てなさ過ぎる」
「まあ、そうだな。じゃあ従姉弟はどうだ。従姉弟なら似ていなくても問題ない」
「…やっぱりだめだ」
ルキウスは少しだけ考えて、すぐに首を振った。
「それじゃ君にキスできない」
「はっ」
オルフィニナは鼻で笑った。
「何をふざけたことを言っ――」
最後まで言い終わる前に肩を再び抱き寄せられ、唇を塞がれた。オルフィニナは舌が潜り込んでくる前にルキウスを押しのけて琥珀色の目をぎょろりとさせ、ぷりぷりと憤慨した。
「どうかしてる。こんな往来で」
「気にするな」
「あなたは目立つと言ってるだろう」
だからわざわざここでしている。とは言わなかった。
ルキウスはオルフィニナの細い肩に腕を乗せてニヤリと笑って見せ、周囲に凍り付くほど鋭い視線を巡らせた。先ほどからじろじろオルフィニナを下品な目で見ていた男たちが足速にその場を去ったことに、彼女は気付いていない。
「往来でキスくらい、普通の恋人同士はする」
「それはつまり、普通の恋人ということにするのか?」
オルフィニナは呆れたように笑った。姉弟よりもかけ離れている気がする。
「そうだ。付き合いたての。これからお互いのことを知っていく甘い時期だ」
「あなたはそういう付き合い方をしたことがあるのか」
「気になる?」
上機嫌な声色だ。
「あれば参考になると思ったが、…まあ、ないだろうな」
オルフィニナは肩を竦めて白々と言った。全く想像がつかない。
「失礼だな」
ルキウスは眉を寄せて不機嫌な顔を作り、オルフィニナの頬を引き寄せて再び唇を重ねた。
オルフィニナは怒りの唸り声を上げて抗議したが、唇が離れた瞬間、ルキウスが誘惑するように目を細め、舌で唇を濡らしたのを見て、不覚にも心臓がぞわぞわした。
「口に気をつけろ。俺は君に触れることに躊躇しない」
はぁ。と、オルフィニナは呆れて小さく溜め息を吐いた。どくどく速い脈を打つ心臓は、無視した。
「その調子じゃ、血縁者を装うのは無理だな」
「わかってくれて嬉しいよ」
「だが、次に人前で不埒な真似をしたら蹴り飛ばすから、覚えておいて」
「わかった」
ルキウスは両手を挙げ、屈託ない笑みを浮かべた。
ルキウスはオルフィニナの手を引いてルドヴァン一の大通りを進んだ。
数時間前に王太子一行を歓待するために民衆が蒔いた色とりどりの花びらがまだ路上に散らばっている。歓迎の挨拶を終えた民衆は、まだ興奮を落ち着かせられないらしい。大勢の人々が大通りに残って小料理屋や酒場の外の椅子に座り、あるいは立ったまま酒を飲み、仲間と騒がしく楽しんでいた。
その他にも、王太子来訪のお祭り騒ぎに乗じて、大通りに露店を出す者も多くいた。コルネール家がきちんと取り締まっているらしく、道の上に線が引かれて、個々に出店できる業者と場所が決められ、不正な出店で道を塞がれないように工夫されているようだった。
露店はナッツや果物を売ったり、ワインの量り売りをしたり、舶来品の布を売ったりと、様々だ。中には子供向けの射的や小さなボウリングなど、子供から大人までゲームを楽しめるような店も見受けられる。
オルフィニナは街の様子を興味深く観察していたが、中でも最も面白かったのは、ルキウスが射的の露店で小さな的に苦戦する八歳くらいの少年に真剣に弓の指南をしていたことだった。的の狙い方や弦の引き絞り方を、腕を押さえてやりながら丁寧に教えてやった結果、少年は景品の狩猟用ナイフを手に入れた。少年の友人たちが五、六人ほど集まってきてルキウスを取り囲み、自分にも教えて欲しいとせがみ始めたので、ルキウスは機嫌良くそれに応えてやっていた。
「良い指導だった。あなたに子供に懐かれる才能があるとは驚いた」
オルフィニナが言うと、ルキウスは眉を吊り上げ、冗談めかして言った。
「少しは俺への信頼が高まったかな」
「そうだな。多少は」
オルフィニナはくすくす笑って、ルキウスが紳士らしく曲げた腕に手を添えた。
その後もオルフィニナが何かに目を留めると、ルキウスは逐一立ち止まって彼女の視線の先の店に入った。
決まって、実用的な品を取り扱う店だ。馬具や、筆記用具、額縁などを複数の店でしげしげと眺め、舶来品の凝った意匠のものがあると、いちいち店の者にこれはどこの品かとか、どういう意味があるのかとか訊ねて相手を困らせた。
「君は好奇心を抑えておけない質だよな。店の人間だからって何でも知ってるわけじゃないだろうに」
ルキウスは、ステンドグラスの装飾が美しい文具店の扉を出たオルフィニナに向かって、ちょっと呆れたように笑いながら言った。
「でも、ほら」
オルフィニナは得意げに買ったばかりの細長い木箱を見せた。中には繊細な彫りの美しいガラスのペンが二本入っている。
「舶来品のペンが‘信頼’を示すものだと教えてくれた。今のわたしにぴったりだ」
「でもどの国のものか教えてくれなかっただろ。どの国で‘信頼’を指すのかわからなければ意味がない」
「細かいことはいいさ」
オルフィニナは軽快に言って木箱を上衣の内側のポケットにしまい、向かいの路地に視線を向けた。
「あっちも見たい」
「本気か?」
ルキウスは怪訝そうな顔で言った。オルフィニナが指したのは、大通りの賑やかな雰囲気とは打って変わって、暗い色の石畳が続く狭い路地だ。
「別に、あなたが一緒に来る必要はない」
「いや、行く」
ルキウスは再びオルフィニナの手を取った。
「今は‘付き合いたての恋人’だ。離れるわけにいかない」
なんだかこういうのは慣れない。オルフィニナは触れ合う手のひらがムズムズして落ち着かなかったが、今はそれよりも好奇心が勝った。
オルフィニナが興味を示したのは、路地の奥から聞こえてくる微かな音だった。軽やかな金属音が、音曲のように心地よく響いている。
大人二人が並んで歩くのもやっとというほどに狭い路地は、周囲の建物の窓に飾られた可愛らしい花々で彩られている。奥に進むにつれて大きくなる金属を叩くような軽やかな音が、そこに迷い込んだものを日常的な空気から切り離すようだ。
路地の突き当たりに、建て付けの悪そうな四角い扉があった。開いている。中は、工房だった。
この狭い路地の一番奥にあるとは信じられないほどに広々とした空間に、大きな木の机が整然と並び、ハンマーややっとこ、ハサミなどの工具が壁にかけられ、あるいは机の上の工具箱に収まっている。
木の匂いが心地よく漂うこの工房の隅に、音の主がいた。傷だらけの机には、何か鉄の台のようなものや眼窩に嵌め込んで使う拡大鏡などが置かれている。奥の台に向かって小さな槌を持ち、高く柔らかい金属音をリズムよく刻む職人は、そっと工房の中へ入ってきた二人の男女には気付いていない。
オルフィニナは窓際の小さなガラス細工の木に引っ掛けられた金の指輪に目を留めた。
小さな花冠のような形にも見える。が、普通の花冠と違うのは、一つの輪に枝、葉、花、実が彫られ、それらが変化しながら螺旋を描くように連なっていることだった。小さな果実のなる枝の部分には、よく見ると小鳥が彫られている。人の手で造られたものとは思えないほど、微細かつ巧緻で、美しい彫金だ。
「これは、‘生死’かな」
オルフィニナはまじまじとその指環を眺めた。見れば見るほど美しい。
「‘四季’じゃないか」
ルキウスが指環に夢中なオルフィニナの横顔を眺めて言った。
「ああ。‘永遠’とも取れる。おもしろい」
「どの解釈も正しいよ。俺にとっては、それは‘繰り返される変化と再生’だ」
よく通る声に二人が振り返ると、先程まで奥の作業机に向かっていた工房の職人がこちらへ足を向けていた。図体が大きく、髪は短く、彫金職人というよりも軍人という方がしっくりくる見た目だ。オルフィニナよりも少し年上くらいに見えるが、工房の主人と言うには若い。
「邪魔をしている」
ルキウスが朗らかに言った。
「これは君が作ったのか」
「いや、父の遺作だ。俺の目標でもある」
オルフィニナは首を振って感嘆した。
「素晴らしい品だ。主題もいい。‘繰り返される変化と再生’、気に入った。国もこうあるべきだな」
職人はもともと丸い目をもっと丸くしてオルフィニナを見、照れたように大きな口を吊り上げた。
「なあ、あんた、珍しい喋り方をするね」
「ああ…」
しまった、と思った。アミラ訛りがあるとバレては、自分たちが誰か分かってしまう。
が、アミラ語を聞いたことがないこの男がオルフィニナの話す言葉にアミラ訛りがあるなどと判別できるわけもない。
「軍人みたいな喋り方だ。こんなに美人なのに」
微かに滲んだ男の下心に気付いたルキウスが口を挟むより前に、安堵したオルフィニナが快活な笑い声を上げた。
「あなたは商売上手だ」
男も声を上げて笑った。
「確かに俺は商売上手かもしれないが、別にあんたにこれを売り付けようってつもりはない。売り物じゃないんでね」
「そうなのか?それは残念だ」
オルフィニナは冗談めかしてそう言ったが、内心では本当に残念がっていた。実のところ、いくらで譲ってくれるかと交渉しようとしていたのだ。
「これは親父の最高傑作に追いつくために置いてるんだ。戒めってやつだな。自分なりの解釈を加えて、もう一つ作ってる最中でね」
「それはいい志だ。健闘を祈る」
ぶはっ、と職人が吹き出した。
「兄さん、あんた――」
と、ケラケラ笑いながら職人がルキウスに言った。
「風変わりな別嬪さんを連れてるもんだ。頑張って口説くんだな」
――頑張って口説く?
ルキウスは工房の外に出た後も、その言葉を頭の中で反芻した。
「恋人同士に見えていないってことか」
考え事が勝手に口から出た。意図せず、オルフィニナに訊ねたような調子になった。
オルフィニナが首を傾げたのを見て、これはしまったと思った。ただでさえ年上のオルフィニナに子供っぽいと思われるのは、本意ではない。
オルフィニナが快活に笑った。
「友人くらいには見えてるんじゃないか。わたしは友人と呼べる者は少ないからよくわからないが、あなたとこうして街を散策するのは楽しい。意外にも」
「最後のは余計だろ」
ルキウスは苦々しげに言った。が、心情はそうでもない。政治的な思惑も職務も関係なく彼女と過ごす時間が自分にとっても楽しいものであるということは、嬉しい発見だ。
こうして隣を歩くオルフィニナは、為政者でも教育者でも、王の子でも暗殺者の娘でもなく、気立てがよく人好きのするただの女だ。――ものすごい美女だと言うことを除けば。
ルキウスがオルフィニナの視線の先にあった露店の焼き菓子を買ってやると、オルフィニナは躊躇なく大通りを歩きながら焼き菓子を頬張り、「うまい」と目をきらきらさせた。
「あなたは食べないのか」
オルフィニナが指で唇を拭いながら言った。ルキウスが買った焼き菓子は一つだ。
「街を歩きながら菓子を食べる習慣がない」
「お上品なことだ」
オルフィニナは弟妹を諭すような調子で言った。これには、ルキウスはムッとした。多少なりとも報いなければ面目が立たない。
「じゃあ――」
と、女性であれば誰もがうっとりするような流し目でオルフィニナを誘惑することにした。
「君のをもらう」
ルキウスはオルフィニナの手を掴んでガブリと焼き菓子に食らいつき、その甘さに少し顔をしかめてから、オルフィニナに笑いかけた。
「そうだな。なかなかいい」
オルフィニナは目をパチクリさせてルキウスの顔を見た。
「行儀が悪いぞ」
「なんだよ。歩きながら食べるのは行儀悪くないのか」
ルキウスはくつくつと笑ってオルフィニナの肩に腕を回した。
「人のを横取りするのは道徳的じゃない」
「いいだろ。恋人なんだから分け合うのが自然だ」
ルキウスは何か言いかけたオルフィニナの頬にキスをして黙らせ、ニヤリと笑った。
オルフィニナは無表情を取り繕っているが、頬が赤いのは隠せていない。
「やっぱり姉弟のふりをするほうがいい」
オルフィニナが渋面を作って言うと、ルキウスは今度は唇にキスをした。唇が離れる瞬間にペロリと下唇を舐められ、オルフィニナは思わず小さく呻いた。
「言ったろ。キスできないからそれはダメだ。――おっと」
ルキウスは風のように襲ってきたオルフィニナの蹴りを素速く避け、ギロリと睨めつけてくるオルフィニナの顔を満足げに眺めた。
「目立つからエデンは無し。庶民の平服をバルタザルに用意させるから、それを着る」
というルキウスの宣言通り、金の刺繍や宝石のビーズで草花の模様が装飾された仰々しいドレスは脱ぎ、胸元の紐を編み上げて一人で着脱できる白い麻の簡素なドレスを着て、その上から丈の短いオリーブ色の上衣に袖を通した。
いつも着るドレスよりも五センチほどスカートの丈が短いから、足元が涼しく、機動性が比較的高い。アドラー家の養女として過ごしていた時代を思い出す装いだ。
ルキウスの服装も、市井の青年と変わらない。ゆったりした麻のシャツの上にコーヒー色の細かい縦縞模様のベストを羽織り、黒い細身のズボンを簡素な革のブーツに仕舞い込んでいる。しかし、いくら市民の服装に身を包んでも、ルキウスはルキウスだ。
「あなた、目立つな」
オルフィニナは大勢の人々が行き来する大通りを歩きながら苦笑した。
市民の中に巧く溶け込んでいるとは、とても言えない。背が高く、精悍で姿勢が良く、おまけに恐ろしく端正な顔立ちだ。往来の人々の視線がルキウスに集中している。それも、オルフィニナの見るところ、女性だけでなく、男性の視線も混じっているようだ。敬服に値する。
「そうかもしれないが、君も見られてる」
ルキウスは面白くなさそうに言ってオルフィニナの肩を自分の方へ抱き寄せた。
「歩きにくい」
オルフィニナは文句をつけて身をよじったが、ルキウスの腕はがっちりと肩に密着して離れない。
「君が誰のか、じろじろ見てくる奴らに分かるようにしておかないといけない」
「忍び歩きなのだから別に婚約者同士に見せかける必要はないだろう」
「へぇ、そう?」
ルキウスが唇を吊り上げた。不満げな顔だ。
「じゃあ、どういう関係にする?」
「姉と弟」
オルフィニナが邪魔くさそうにルキウスの腕をどけて言うと、ルキウスは鼻で笑った。
「ダメだ。似てなさ過ぎる」
「まあ、そうだな。じゃあ従姉弟はどうだ。従姉弟なら似ていなくても問題ない」
「…やっぱりだめだ」
ルキウスは少しだけ考えて、すぐに首を振った。
「それじゃ君にキスできない」
「はっ」
オルフィニナは鼻で笑った。
「何をふざけたことを言っ――」
最後まで言い終わる前に肩を再び抱き寄せられ、唇を塞がれた。オルフィニナは舌が潜り込んでくる前にルキウスを押しのけて琥珀色の目をぎょろりとさせ、ぷりぷりと憤慨した。
「どうかしてる。こんな往来で」
「気にするな」
「あなたは目立つと言ってるだろう」
だからわざわざここでしている。とは言わなかった。
ルキウスはオルフィニナの細い肩に腕を乗せてニヤリと笑って見せ、周囲に凍り付くほど鋭い視線を巡らせた。先ほどからじろじろオルフィニナを下品な目で見ていた男たちが足速にその場を去ったことに、彼女は気付いていない。
「往来でキスくらい、普通の恋人同士はする」
「それはつまり、普通の恋人ということにするのか?」
オルフィニナは呆れたように笑った。姉弟よりもかけ離れている気がする。
「そうだ。付き合いたての。これからお互いのことを知っていく甘い時期だ」
「あなたはそういう付き合い方をしたことがあるのか」
「気になる?」
上機嫌な声色だ。
「あれば参考になると思ったが、…まあ、ないだろうな」
オルフィニナは肩を竦めて白々と言った。全く想像がつかない。
「失礼だな」
ルキウスは眉を寄せて不機嫌な顔を作り、オルフィニナの頬を引き寄せて再び唇を重ねた。
オルフィニナは怒りの唸り声を上げて抗議したが、唇が離れた瞬間、ルキウスが誘惑するように目を細め、舌で唇を濡らしたのを見て、不覚にも心臓がぞわぞわした。
「口に気をつけろ。俺は君に触れることに躊躇しない」
はぁ。と、オルフィニナは呆れて小さく溜め息を吐いた。どくどく速い脈を打つ心臓は、無視した。
「その調子じゃ、血縁者を装うのは無理だな」
「わかってくれて嬉しいよ」
「だが、次に人前で不埒な真似をしたら蹴り飛ばすから、覚えておいて」
「わかった」
ルキウスは両手を挙げ、屈託ない笑みを浮かべた。
ルキウスはオルフィニナの手を引いてルドヴァン一の大通りを進んだ。
数時間前に王太子一行を歓待するために民衆が蒔いた色とりどりの花びらがまだ路上に散らばっている。歓迎の挨拶を終えた民衆は、まだ興奮を落ち着かせられないらしい。大勢の人々が大通りに残って小料理屋や酒場の外の椅子に座り、あるいは立ったまま酒を飲み、仲間と騒がしく楽しんでいた。
その他にも、王太子来訪のお祭り騒ぎに乗じて、大通りに露店を出す者も多くいた。コルネール家がきちんと取り締まっているらしく、道の上に線が引かれて、個々に出店できる業者と場所が決められ、不正な出店で道を塞がれないように工夫されているようだった。
露店はナッツや果物を売ったり、ワインの量り売りをしたり、舶来品の布を売ったりと、様々だ。中には子供向けの射的や小さなボウリングなど、子供から大人までゲームを楽しめるような店も見受けられる。
オルフィニナは街の様子を興味深く観察していたが、中でも最も面白かったのは、ルキウスが射的の露店で小さな的に苦戦する八歳くらいの少年に真剣に弓の指南をしていたことだった。的の狙い方や弦の引き絞り方を、腕を押さえてやりながら丁寧に教えてやった結果、少年は景品の狩猟用ナイフを手に入れた。少年の友人たちが五、六人ほど集まってきてルキウスを取り囲み、自分にも教えて欲しいとせがみ始めたので、ルキウスは機嫌良くそれに応えてやっていた。
「良い指導だった。あなたに子供に懐かれる才能があるとは驚いた」
オルフィニナが言うと、ルキウスは眉を吊り上げ、冗談めかして言った。
「少しは俺への信頼が高まったかな」
「そうだな。多少は」
オルフィニナはくすくす笑って、ルキウスが紳士らしく曲げた腕に手を添えた。
その後もオルフィニナが何かに目を留めると、ルキウスは逐一立ち止まって彼女の視線の先の店に入った。
決まって、実用的な品を取り扱う店だ。馬具や、筆記用具、額縁などを複数の店でしげしげと眺め、舶来品の凝った意匠のものがあると、いちいち店の者にこれはどこの品かとか、どういう意味があるのかとか訊ねて相手を困らせた。
「君は好奇心を抑えておけない質だよな。店の人間だからって何でも知ってるわけじゃないだろうに」
ルキウスは、ステンドグラスの装飾が美しい文具店の扉を出たオルフィニナに向かって、ちょっと呆れたように笑いながら言った。
「でも、ほら」
オルフィニナは得意げに買ったばかりの細長い木箱を見せた。中には繊細な彫りの美しいガラスのペンが二本入っている。
「舶来品のペンが‘信頼’を示すものだと教えてくれた。今のわたしにぴったりだ」
「でもどの国のものか教えてくれなかっただろ。どの国で‘信頼’を指すのかわからなければ意味がない」
「細かいことはいいさ」
オルフィニナは軽快に言って木箱を上衣の内側のポケットにしまい、向かいの路地に視線を向けた。
「あっちも見たい」
「本気か?」
ルキウスは怪訝そうな顔で言った。オルフィニナが指したのは、大通りの賑やかな雰囲気とは打って変わって、暗い色の石畳が続く狭い路地だ。
「別に、あなたが一緒に来る必要はない」
「いや、行く」
ルキウスは再びオルフィニナの手を取った。
「今は‘付き合いたての恋人’だ。離れるわけにいかない」
なんだかこういうのは慣れない。オルフィニナは触れ合う手のひらがムズムズして落ち着かなかったが、今はそれよりも好奇心が勝った。
オルフィニナが興味を示したのは、路地の奥から聞こえてくる微かな音だった。軽やかな金属音が、音曲のように心地よく響いている。
大人二人が並んで歩くのもやっとというほどに狭い路地は、周囲の建物の窓に飾られた可愛らしい花々で彩られている。奥に進むにつれて大きくなる金属を叩くような軽やかな音が、そこに迷い込んだものを日常的な空気から切り離すようだ。
路地の突き当たりに、建て付けの悪そうな四角い扉があった。開いている。中は、工房だった。
この狭い路地の一番奥にあるとは信じられないほどに広々とした空間に、大きな木の机が整然と並び、ハンマーややっとこ、ハサミなどの工具が壁にかけられ、あるいは机の上の工具箱に収まっている。
木の匂いが心地よく漂うこの工房の隅に、音の主がいた。傷だらけの机には、何か鉄の台のようなものや眼窩に嵌め込んで使う拡大鏡などが置かれている。奥の台に向かって小さな槌を持ち、高く柔らかい金属音をリズムよく刻む職人は、そっと工房の中へ入ってきた二人の男女には気付いていない。
オルフィニナは窓際の小さなガラス細工の木に引っ掛けられた金の指輪に目を留めた。
小さな花冠のような形にも見える。が、普通の花冠と違うのは、一つの輪に枝、葉、花、実が彫られ、それらが変化しながら螺旋を描くように連なっていることだった。小さな果実のなる枝の部分には、よく見ると小鳥が彫られている。人の手で造られたものとは思えないほど、微細かつ巧緻で、美しい彫金だ。
「これは、‘生死’かな」
オルフィニナはまじまじとその指環を眺めた。見れば見るほど美しい。
「‘四季’じゃないか」
ルキウスが指環に夢中なオルフィニナの横顔を眺めて言った。
「ああ。‘永遠’とも取れる。おもしろい」
「どの解釈も正しいよ。俺にとっては、それは‘繰り返される変化と再生’だ」
よく通る声に二人が振り返ると、先程まで奥の作業机に向かっていた工房の職人がこちらへ足を向けていた。図体が大きく、髪は短く、彫金職人というよりも軍人という方がしっくりくる見た目だ。オルフィニナよりも少し年上くらいに見えるが、工房の主人と言うには若い。
「邪魔をしている」
ルキウスが朗らかに言った。
「これは君が作ったのか」
「いや、父の遺作だ。俺の目標でもある」
オルフィニナは首を振って感嘆した。
「素晴らしい品だ。主題もいい。‘繰り返される変化と再生’、気に入った。国もこうあるべきだな」
職人はもともと丸い目をもっと丸くしてオルフィニナを見、照れたように大きな口を吊り上げた。
「なあ、あんた、珍しい喋り方をするね」
「ああ…」
しまった、と思った。アミラ訛りがあるとバレては、自分たちが誰か分かってしまう。
が、アミラ語を聞いたことがないこの男がオルフィニナの話す言葉にアミラ訛りがあるなどと判別できるわけもない。
「軍人みたいな喋り方だ。こんなに美人なのに」
微かに滲んだ男の下心に気付いたルキウスが口を挟むより前に、安堵したオルフィニナが快活な笑い声を上げた。
「あなたは商売上手だ」
男も声を上げて笑った。
「確かに俺は商売上手かもしれないが、別にあんたにこれを売り付けようってつもりはない。売り物じゃないんでね」
「そうなのか?それは残念だ」
オルフィニナは冗談めかしてそう言ったが、内心では本当に残念がっていた。実のところ、いくらで譲ってくれるかと交渉しようとしていたのだ。
「これは親父の最高傑作に追いつくために置いてるんだ。戒めってやつだな。自分なりの解釈を加えて、もう一つ作ってる最中でね」
「それはいい志だ。健闘を祈る」
ぶはっ、と職人が吹き出した。
「兄さん、あんた――」
と、ケラケラ笑いながら職人がルキウスに言った。
「風変わりな別嬪さんを連れてるもんだ。頑張って口説くんだな」
――頑張って口説く?
ルキウスは工房の外に出た後も、その言葉を頭の中で反芻した。
「恋人同士に見えていないってことか」
考え事が勝手に口から出た。意図せず、オルフィニナに訊ねたような調子になった。
オルフィニナが首を傾げたのを見て、これはしまったと思った。ただでさえ年上のオルフィニナに子供っぽいと思われるのは、本意ではない。
オルフィニナが快活に笑った。
「友人くらいには見えてるんじゃないか。わたしは友人と呼べる者は少ないからよくわからないが、あなたとこうして街を散策するのは楽しい。意外にも」
「最後のは余計だろ」
ルキウスは苦々しげに言った。が、心情はそうでもない。政治的な思惑も職務も関係なく彼女と過ごす時間が自分にとっても楽しいものであるということは、嬉しい発見だ。
こうして隣を歩くオルフィニナは、為政者でも教育者でも、王の子でも暗殺者の娘でもなく、気立てがよく人好きのするただの女だ。――ものすごい美女だと言うことを除けば。
ルキウスがオルフィニナの視線の先にあった露店の焼き菓子を買ってやると、オルフィニナは躊躇なく大通りを歩きながら焼き菓子を頬張り、「うまい」と目をきらきらさせた。
「あなたは食べないのか」
オルフィニナが指で唇を拭いながら言った。ルキウスが買った焼き菓子は一つだ。
「街を歩きながら菓子を食べる習慣がない」
「お上品なことだ」
オルフィニナは弟妹を諭すような調子で言った。これには、ルキウスはムッとした。多少なりとも報いなければ面目が立たない。
「じゃあ――」
と、女性であれば誰もがうっとりするような流し目でオルフィニナを誘惑することにした。
「君のをもらう」
ルキウスはオルフィニナの手を掴んでガブリと焼き菓子に食らいつき、その甘さに少し顔をしかめてから、オルフィニナに笑いかけた。
「そうだな。なかなかいい」
オルフィニナは目をパチクリさせてルキウスの顔を見た。
「行儀が悪いぞ」
「なんだよ。歩きながら食べるのは行儀悪くないのか」
ルキウスはくつくつと笑ってオルフィニナの肩に腕を回した。
「人のを横取りするのは道徳的じゃない」
「いいだろ。恋人なんだから分け合うのが自然だ」
ルキウスは何か言いかけたオルフィニナの頬にキスをして黙らせ、ニヤリと笑った。
オルフィニナは無表情を取り繕っているが、頬が赤いのは隠せていない。
「やっぱり姉弟のふりをするほうがいい」
オルフィニナが渋面を作って言うと、ルキウスは今度は唇にキスをした。唇が離れる瞬間にペロリと下唇を舐められ、オルフィニナは思わず小さく呻いた。
「言ったろ。キスできないからそれはダメだ。――おっと」
ルキウスは風のように襲ってきたオルフィニナの蹴りを素速く避け、ギロリと睨めつけてくるオルフィニナの顔を満足げに眺めた。
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「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
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※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
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