ゆるしいろの喧騒

琴梅

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ゆるしいろの喧騒(8)

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「三人目は藤宮ととりさん。二年生。うーん、この人については仄聞したことと又聞きしたことだけしか知らないからなんともいえないんだけれど、素行はそこそこ悪かったみたいだよ?」
「ああ、その子なら僕も知ってる。前に連絡先を交換した事があるよ」
「はあ?」「あら」と二人の声が重なった。
 何かおかしなことを言っただろうかと首を傾げる。部活動に勤しんでいなくとも、仲のいい後輩の一人や二人、取り沙汰す事でもないと思うのだけれど。
 もしかしたら、件の藤宮ととりという二年生の人と、僕の知る藤宮ととりという二年一組の女子は別の人なのかもしれない。女らしい名前ということでもないので、男性かもしれないと、認識を確かめるように、記憶にある〝藤宮ととりさん〟の特徴をあげつらう。
「一組の子じゃないのかい? 小さくて可愛らしい子だよね? 見た目は天使みたいなのに喧嘩が強いとか先輩殴り飛ばしたとか、そういう噂が流れてる子――で、合ってる?」
そう言って、僕は立てた指を揺らした。
 反応を示さないたるるを立てた三本の指でつつく。
 違うなら違うでそう言えばいいのに――〝いつものように〟無遠慮に指摘しても怒らないっての。
 怪訝そうな顔をされる謂れはない――と思う。けれどもしかし、目の前のたるるは信じ難いものを見るような目で僕を睨めつけている。顎を引いて眉を大袈裟に潜めて口をあんぐりと開けているさまはひどく間抜けだ。ギャグマンガみたい――だなんて思ってない。思ってないったらないのだ。
 余計なことを言ってしまったなら謝ろう、と、僕は手を下げた。話が進まないと、かよ子さんを楽しませることが出来ない――そうなると、お茶会を終わらせることが出来ない――つまり、いつまで経っても僕達は帰れないのだ。
 堰き止めてしまった話の流れを元に戻す為に、僕は「ははは、そんな事はどうだっていい事だったね、いやー、すまんすまん」とおどけてみせた。その継ぎ穂をいち早く察知したのは、流石と言うべきか、眼光紙背ならぬ眼光〝言〟背に定評のあるかよ子さんである。
「その問題は後でたっぷりと時間をとって話し合うものだわね。今は男女のもつれよりも楽しい楽しい行方不明者の話でしょう?」
 ――楽しくはねえよ。
 と思ったけれど、ここでまた流れを止めたところで僕にとって何のメリットにもならない。僕は黙ってやり過ごそうと腹を据えて、たるるが諦めて軌道修正するのを待った。
 それを汲み取れないほど、彼女は馬鹿ではない。ある程度の聡明さを備えているたるるは、僕とかよ子さんをじっとりと舐るように見回して、
「いいわ。別に」
とすっかり冷めた桜湯を煽った。
 たるるの小さな話を取り纏めるとこうである。
 藤宮ととりさんは、僕の思い浮かべる〝二年一組、藤宮ととり〟で相違ない。天使さながらの可愛らしい見た目に反し、口も素行も悪く、誰それと喧嘩しただのという噂が耐えない女生徒である。けれど、なかなかどうして人格者であるらしい藤宮ととりさんは、自分にも他人にも厳しい――義理人情という任侠映画のような言動に感銘を受けた者達から、ひどく慕われていたようだった。
「だからね、急に姿を消すなんておかしい! ってすぐに騒ぎになったのよ」
 なるほど、それは確かに何の相談もなしにふらりと居なくなるようには思えない。舎弟がいたかどうかは想像の域を超えないけれど、一匹狼というわけでも無さそうだ。
 ふうん? と先述通り〝口を挟まず〟相槌をうっていたかよ子さんが暇そうに帯紐を弄りながら疑問を呈する。
「その人の消え方は?」
どうやらかよ子さんにとって、消えた人間が〝どんな性格であるか〟〝どんな地位名声があるか〟という点は、甚だ気に留めることではないらしい。間延びした声色が何よりもそれを表現していた。
「えっと、消え方までは分からないけれど······文字通り〝消息を絶った〟瞬間なら――学校から帰宅した直後よ。始終を見てたというか聞いていたというか、当時、藤宮ととりさんと電話をしていた友達と出迎え〝られなかった〟藤宮さんのお母さん、双方の話を纏めて辻褄を合わせるとこうよ」
 たるるはそう言って立てた指を駒に見立てて「これが藤宮さんで、これが藤宮さんのお母さんでこれがお友達で……ってあれ、どっちがどっち?」「右手が藤宮さんと電話よ」「そうだった」
 ――······。
 電話じゃなくて友達って言ってあげて。
「でね――この藤宮さんと電話してた子曰く、藤宮さんが自宅の玄関を開けて〝ただいま〟って声を張り上げたところまでは確実に〝そこにいた〟って。せめて電話離してから叫んでよって諌めたのにごめんの一つも、いいじゃんかだとかいう言葉も無いのを不審に思って呼びかけたんだけど、いくら呼びかけても一向に返事がないものだから、その子も「おーい、無視ですかあ?」って語気を強めたところで、電話の向こうから藤宮さんのお母さんが藤宮さんを呼ぶ声がした――って感じかな」
 母親側も然り。
 玄関から聞こえてきた大きく張り上げられた声に、キッチンから「おかえり」とこれまた大きく返した――が、そこから待てども待てども靴を脱いでリビングにやってくることも、階段を上る音もなかったという。どうかしたのかと玄関まで出迎えたが、そこに娘――藤宮ととりさんの姿はなく、ローファーの代わりにぽつんとスマートフォンが落ちていたらしい。そのスピーカーから、友人の不満げな「おーい、無視ですかあ?」という声が電話独特のくぐもったノイズに混じって発せられていた――
 ――と。
 とどのつまり、藤宮ととりさんがそこにいたことを確証づける声が聞こえてから、ほんの僅かな間 (二人の証言加味するとおよそ三分といったところか)に、襲われた音もなく、言い争う声もなく、急用を思い出したわけでもなく、〝忽然〟と〝消えた〟という訳か。
 そんなことが、あるのだろうか。
 今までのたるるの話で、いささか疑問に思っていた〝消えた〟という表現も、なるほど、肯ける。
 襲われた――ではなく。
 攫われた――ではなく。
 逃げた――でもなく。
 そこから――消えた。
 誰かや何かの介入無しに、消える。
 意味や意思や思想が汲み取れないそれは、さぞや不可思議に映ることだろう。何も知らない又聞きの僕ですら〝そんなことあんのかよ〟と思ったのだから、困惑したてほやほやの当事者から直接支離滅裂な説明をされたたるるの〝そんなことあんのかよ〟加減は途轍もないはずだ。
 ――実のところ、〝話を纏めるとね〟なんて言ってる私が一番よく分かっていないんだけれどね。
 たるるはそう言って〝登場人物〟に見立てていた指を下ろした。結局のところ、さして説明の役に立たなかったなと膝に置かれた指を目で追う。そもそも最初の時点で「あれ?どっちがどっち?」などとこぼしていたのだ、役に立つ立たない以前の問題である。
 ここにいる全員が――たるるを含めて――そう思ったのだろう。指を立てることも、身振り手振りを大きくすることもなく、たるるは「今のところは、次で最後よ」と言った。
 ――今のところ。
 それを一番重く受け止めているたるるが、一番明るく努めている。それがいたくもどかしい。
「最後――四人目は松山千鶴さん。三組······三組といえばリオくんのクラスの委員長よね」
「ねえ?」唐突に名前を呼ばれて、僕ははっと顔を上げた。まっすぐに切りそろえた赤みの強い毛先が頬にかかる。それを耳にかけながら、僕は今しがた名前のあがったクラスメイトとの記憶に目を向けた。
 松山千鶴。
 たしかに僕のクラスメイトである。責任感が強く、我も強い。行動力のある仕切り屋気質の女子だ。特別親しいわけでは無かったけれど、何かと世話を焼きたがる気性の持ち主だったと記憶している。
 これといってあげつらうエピソードは思い出せない。けれどもしかし、僕は低身長 (これは認めていない)、色白、華奢――そして何よりもこの顔つきを含めて、中性的な容姿として認識されている。その結果、僕は女生徒からまるで同性のように軽快に話しかけて貰えることがなかなかどうして多く、そういうところを上げるならば、松山千鶴さんという〝女生徒〟と話すことは多かったと思う。
 とはいえ、あれこれを記憶を想起したところで、やはり特別な思い出は見つからなかった。
 たるるは〝私よりも説明役として適任でしょう?〟と言いたげに次の言葉を待っている。ほんの僅かに細められた丸い目が何よりも雄弁にそれを語っていた。まるでたすきを渡すかのようだ。僕が話のたすきを受け取るまで何も言わないつもりだろう。ほれほれ、と。首を傾げて見上げてくるだけ、それだけ。
 見つめ合う時間――十秒。
 僕は頭をがしがしと掻きながら「そうだよ同じクラスさ」とぶっきらぼうに答えた。
 たるるの目力に気圧されたのではない。
 反対側から刺さる笑顔に屈したのだ。
 ――早くしろよ。
 目が何よりも雄弁に語っているとは、僕も適当な表現を当て嵌めたものだと思う。
「僕のクラスメイト――クラスメイトであり、クラス委員長でもある子だよ。お嬢様気質というか気位が高いというか、結構はっきりとものを言う子って感じかな。それが所謂〝リーダーシップ〟ってやつなのかもしれないけれど······僕としては、皆が言うほどキツい印象はなかったよ。個人的に話す時は別にそんなキツい物言いもなかったし、まあ噂って誇張されがちだし、みんな本気でそんなことを思ったりしてなかったんじゃないかな······。だから、松山さんが居なくなった時はみんな騒いで大変だったよ。プチパニックってやつ ? 何だかんだいって慕われてたし――噂ももう随分回ってきていたから、〝居なくなった〟じゃなくて〝消えた〟って話で持ち切りで。お嬢様気質で気位が高いってことは、それだけ〝余計なことでは争わない〟ってことでもあるから、いざこざに巻き込まれたって可能性はあんまり浮上しなかったかな」
「それは――それはその、リオくんの前ではしおらしかっただけで、あの子は概ね噂通りの子よ······?」
「えっ」
「私よりも個人について詳しいと思って話を振ったのに、私のほうよっぽど松山さんを知っているじゃない! リオくんはもっと女ってものの断面を知るべきだわ」
そんなの分かるわけねえだろ、とは言えなかった。確かに僕はいささか目の前の〝その人 〟というもの以外のその人に関心がない――詮索しようとは思わないきらいがある。
 人間とは多面体のサイコロのようなものだ。それが意識的であれ、無意識的であれ、他人と関わる時、必ずその面を使い分けている。最低でも、学校、家、自分だけの空間の三面が存在するはずだ。それは当たり前のことであり、かくいう僕だって――猪突猛進すぎるたるるだって〝そう〟なのだから、否定も嫌悪もない。
 先輩に敬語を使う、友達には使わない――それと同じことなのだ。
 だからこそ、その〝僕に向けていない面〟に興味がない。害がなければ気にもならない。外に蜂が飛んでいたら気になるけれど、蟻はさして気にならない。
 己が持論のはずなのだけれど、うーん――よく分からなくなってきた。伝わったならいいのだけれど。
 言葉や例えなんて、伝わればいいのだ。
 たるるが指摘したいのは、おそらくはそんな淡白な僕の一面だろう。
 けれど、と僕は口をまごつかせた。さして仲良くもない人に対して、明確かつ適切な表現をしろという方が難しい。ましてや――相手がどう思っているかはさてもとして、僕の認識としては、異性である。なかなかに踏み込んだ情報を得るのは至難だろう。
 僕は口をむっとすぼめながら「だってさあ」とぶちくされた。
「そんなこと言われたって、僕はたるるみたいに何も勘繰らずに人付き合いができるほどできた人間じゃあない。とはいえ、かよ子さんみたいに脳内キャパシティが多いわけでもないし、情報の取捨選択をしないとままならないんだよ」
「あら、私? うふふ、私はそんなにあれこれ思い合わせているように見えるのかしら」
「少なくとも僕よりはですけれど、そう見えます」
「あらそう? 褒め言葉として頂戴しておくわね、うふふ」
かよ子さんは「とはいえまあ――実のところ、そんなことはないのだけれど、黙っておきましょうか」と目を伏せて微笑んだ。長い睫毛の奥の瞳が木漏れ日が注いだようにキラキラと蛍光灯の光を反射している。仕草というには細やかすぎる面差しですら、汲み取れない真意を含んでいるように見えて、なるほどこれがろうたけた人間の所作か――と改めて感心した。
 事実がどうであれ、表情ひとつ目線ひとつ取っても深甚に見えるというのは、それだけで出色ものである。
 ろうたけたかよ子さんの〝それら〟とは、比べるのも甚だしいくらいに素直な色を浮かべたたるるが〝面倒臭い性格してんな〟とでも言いたげに片頬を歪めた。じっとりとした光のない目に睨めつけられる。僕がそれに応戦せんと目を合わせると、たるるは鼻を鳴らして顔を逸らしてしまった。
 僕は食べさしのお茶菓子の残りを丸ごと口に放り込んだ。作法も風情もへったくれもありゃしない食べ方に、かよ子さんの笑みがぐわっと深まったのを僕は見逃さなかったけれど、悪いのは僕じゃない。と、素知らぬ顔を決め込む。
 松山千鶴というクラスメイトとの関係など、クラスメイトと呼称するものそれ以上でも以下でもないのだ。
 委員長と、クラスメイト。
 肩書きを付加価値として加味したとて、その程度である。別段〝よく知らない〟と説明が不明瞭であったり、噂と僕の見解に齟齬が発生いても不自然でも不可解でもない――はずだ。
 たるるは顔を背けたまま、口を開く。この角度からでも、不満げに突き出された唇はぷっくりと主張していて、雰囲気に似つかわしくないそれはなかなかどうして面白い。
「本当に本気で甚だ疑問だわ。何でこんなクソにぶちん野郎がモテてんの? 意味分かんないんですけどー。どこがいいのよ、みんな知らないんだわ、リオくんがどれだけ理屈臭くてだらしないか、知らないのよ。チビだし、新八だし、チビだし」
「チビじゃない。僕が小さくてたるるが大きいんだよ」
「チビじゃねえか」
 ――あれ? 本当だ。
 ――じゃあここはひとつ、今の台詞は撤回ってことで。
 馬鹿丸出しね。かよ子さんが言う。言葉の先端が刺々しく鋭利なのは、先程のはしたない食べ方のせいだろうか。
 それとも、ただただ底抜けに馬鹿らしい僕とたるるの押し問答のせいだろうか。
  表面上は穏やかすぎるほど穏やかなかよ子さんは、まだ何か言い足りない様子のたるるを〝ぱんぱんぱん〟と三拍子で黙殺した。
 ――まあ、それでも。
 次の言葉を素直に待つ。
「リオくんは可愛らしいところが魅力的なのよね。男らしいということは何も全てが美徳という訳では無いもの。雄々しいという概念はそれだけで威圧的で自分勝手で関白なものでしょう? 付き合ってられないわよね。時代錯誤も甚だしいじゃないのよ、昔の女は従順で素直で慎ましかったとか昨今は我儘で我慢を知らないだとかいうけれど、しゃらくせえって話だわ。亭主元気に留守がいいっていうじゃない。そんなこというなら出ていけって言いたくない?」
「え、ちょ、ちょ――どうしたんですか? 落ち着いてください? ······か、過去に何かあったんですか?」
「――え? いやだわ、何にもないわよう。うふふ――うふふふ」
 こ、こわい······。
 〝うふふ〟がめっちゃ怖い。
 ちなみに僕も例外なく丸っきり男なのだけれど、不幸中の幸い――なのか、最初の一文で〝昔ながらの男〟からは除外されていると思うし、僕に向けた言葉ではないのだろうけれ(そうであって欲しいという、僕の切実な願望である)。
 うーん、かよ子さんの男性遍歴に一体何があったというのか――
「いや、もう辞めておきましょう。そこを詮索したら脱線通り越して飛行機もびっくりのぶっ飛びさで元に戻ってこられなくなるわ。話の続きをしましょう。私としてもめっちゃ気になるけど! 気になりすぎて自分の――いや、ここは他人? それともやっぱり私、になるのかな? の話を放棄しそうだからこの辺で軌道修正しないと読者の皆さんがなんのこっちゃ分からなくなるわ」
「うん、そ、そうだね······。うん――読者?」
「あら? もういいの?」
かよ子さんがきょとんと袖の先で口元を隠した。細められただけの目元に見つめられて、僕達も鏡写しのように同じ顔色を写す。
「リオくんへの風当たりは凪いだのかしら」
たるるが明朗快活に親指を突き出した。
「扇風機でいうところの微風には収まったわ!」
 ――止めたわけじゃないんかい。
 と、間髪入れず返したたるるを諌めんとして、僕は口を閉じた。この小一時間で諦観と引き際を見極める能力が格段に跳ね上がった気がする。
 僕の的確かつ華麗なるツッコミは心の中で静かに咀嚼して、続きを待つ。
 またツッコミ (新八)というレッテルをチビでサンドウィッチして口に捩じ込まれるかもしれないし――さすがに、それは咀嚼しきれないし。
 ――いや、新八が嫌いな訳では無いけれども。
 ――かっこいいじゃないか新八。ビバ!
 誰に向けた訳でもない弁明を、ツッコミと同じように嚥下する。また見極め技能がレベルアップしたかもしれない。
 てれれれってってってー。
 そんな音が脳内で再生された。
 僕の我慢を汲み取った訳では無いであろう、ぼやっとしたたるるが「話が脱線しちゃったから、そろそろ戻ろっか」と〝自己判断〟で声色と顔色を変えた。
 この間――おおよそ五分間の出来事である。
「松山さんが居なくなったのは教室の前――というか廊下、になるのかな。ちょっと松山さんの場合は特殊でね。目撃者という目撃者がいないのよ」
「それは最初の二人もそうじゃないの?」
「えーっと、そうじゃなくて」
 ――一番奇々怪々な消え方をしたの。
 便宜上、今のところ最も説明し難いのだと、たるるは言う。
「報告してきたのは松山さんの友達よ。時間は昼休み――一時過ぎだったかな、お昼ご飯も食べ終わって、松山さんが御手洗に行ってくるねって教室を出た途端に消えたんだって。言いたいことは分かるわ。それなら目撃者いるじゃんって思うでしょ? そこが特殊というかなんというか······。友達は教室の戸扉を開けて〝廊下に一歩踏み出したところ〟までは目で追っていた――けれど、一方で当時廊下にいた生徒たちは誰一人として〝教室から出てくるところを見ていない〟っていうのよ。さらにさらに細かく聞き取りしたところによると、〝その時間に教室の戸扉は開かなかった〟っていうのよ? さすがに頭を抱えたわ······」
「とどのつまり――引き戸が閉まる瞬間に消えたってこと? うーん、ざっくりしすぎでは?」
「そんなこと言ったら今までの行方不明者全員ざっくりしてるっつうの!」
「たしかに」
たるるが「リオくんは知っているだろうけれど」と続けた。
「うちの学校って教室の戸に嵌め殺しの窓が付いてるじゃない? いくら背が低くても頭が見えるくらいには大きいやつ。戸扉が閉まった時、あれから松山さん見えなかったっていうのよ。委員長よ? 気が強い委員長よ? 急に一発ギャグを披露するキャラじゃないじゃん。だから急いで駆け寄って戸を引いたんだけど、例に漏れず誰もいなかったらしいわ。――で、そのまま、大慌てで生徒会室に駆け込んできたってわけ」
 ――今のところは、これで全てよ。
 ――と。
 たるるは言葉尻を結んだ。
 奇想天外こそ充分だが、起承転結なんてありゃしない、ドラマというにも、映画というにもままならない話だったと思う。
 いくら、読解するのは読み手の役目だ――というかよ子さんの言葉に甘えたとしても、はみ出るくらいの支離滅裂加減である。
 返答のない一番の聞き手――かよ子さんの顔色を伺いながら、たるるは湯呑みを両手で持ち上げて一気に中身をあおった。桜湯は元来、少しづつ嗜むものなのだ、塩味の強いそれを一気に飲み干すとなると、
「うえっ······嫌いになりそう······」
まあ――そうなるよね。
 身じろぎをしたくなるような静寂が畳を撫でる。時間が重なるごとに比例して重くなっていく部屋の雰囲気に、思わず黒文字を置く。
 話を聞き出しておいてだんまりとはらしくない。
 そう訝しげに向かいのかよ子さんさんの面差しを覗き込もうとした時だった。
 ――ふう。
 かよ子さんはどこか神妙そうにお茶を置いてひとつ、息をついた。伏せられた長い睫毛からガラス玉のような瞳がつやつやと揺れている。その瞳孔の奥で何を勘案しているのか、僕のような稚拙な若輩者が汲み取ろうだなんてこの上なく烏滸がましいことかもしれないけれど。けれども僕はその微笑みの、仕草の、沈黙の――その奥に包まれた意味か気になって仕方がなかった。
 どうせ分かりゃしないのに、と皮肉めいて、僕も湯呑みの中を空にする。
「······けっこうな、おてまえで」
「······立ててないわよ」
 ――ことり。
 湯呑みを置く、くぐもった音が木目に滲んだ。
 お互いの呼吸すら大きく聞こえそうなほど静かな室内は居心地が悪い。目線の置き場を決めあぐねて、痺れかけた足のつま先をよじる。
 その刹那、いつもふんわりと笑みを浮かべている口元からその笑みが――
 ――消えた。
 ため息と、瞬きをひとつ。
 かよ子さんの〝いつもの〟雰囲気を溶かしていく。長い睫毛に縁取られたその目が雰囲気に染まって僕達を射抜いた。
「話してくれてありがとう、臨場感たっぷりで楽しかったわ」
かよ子さんは続ける。
「それを踏まえて、感想の方をお伝えしたいところなのだけれど、ちょっとだけお時間をいただけないかしら? 酷いことを言うようで申し訳ないけれど、その話の内容はもう、生徒が――学校如きがどうこうできる事案ではないわ」
「············」
「けれどもね――二人とも」
強かな声だった。雰囲気にのしかかられて下がっていた首をもたげる。
「おかしな道に迷いこんだことが運命ならば――私の元に辿り着いたことが必然ならば、理由がどうであれ、経緯がどうであれ、犯人が誰であれ――これも奇しき縁」
彼女はそこで一度、言葉を区切った。笑みのないその面差しはとても珍しく、かよ子さんもこんな表情をするのだと、調子っぱずれなことが脳裏を掠めた。
 ――うふふ。
「どうかしら。私に下駄を預けみない?」
 ――可愛い可愛いお二人が困っているのだもの、世話を焼かせて頂戴な。
 くしゃり。さっきまで形を潜めていた顔色が、嘘のように華やぐ。
 この人はいつもそうだ。まるで自分が好きで首を突っ込むのだから気にするなと、僕達にへりくだる隙を与えてくれない。なんて恣意的な様を気取った物言いだろうか。
 いや、もしかしたら本当に暇つぶしがてら渦中に飛び込もうとしているだけなのかもしれないけれども。
 僕はころりと変わった室内の空気にたじろぎつつも、眉根を下げて、かよ子さんの華やいだ顔色をぎこちなく写す。
 ――それはそれは、心強いですね。
 うふふ、ははは、と声を上げた僕達に、ぱちぱちと目を瞬かせていたたるるが阿呆面を下げて首を傾げた。
「私たちスニーカーできたんだけれど」
「たるる······」


第一章 起 [完]
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