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3.恋人契約
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五月の午後、始めて賢治の家に招かれた。郊外にある豪邸には、住み込みの使用人と運転手がいた。
「仕事が欲しい、ですか。どのくらい切羽詰まっているんですか」
客間のソファで足を組んだ賢治が、正面から春人を見据えた。この空間は白でいっぱいだった。天井、壁紙、家具に至るまで全てが白だった。主人の賢治も全身淡い色合いの服を着ているから、暗い色のスーツで来た春人だけが浮いている。
「ひと月で二百万が必要なんです」
「それまたどうして」
賢治が手を組み直した。彼の目に力が入った。多少は興味を持ってくれているのだろう。ここに来る前に彼がなんの仕事をしているのか調べていた。接客業しか経験のない春人に務まるような職種ではなかった。
「母が知り合いの方からお金を借りていまして、それの返済です、ひと月というのも支払期限です」
春人は極力彼から目をそらさないように、一人用のソファで浅く腰を下ろしていた。
「そのような込み入った話をされるということは、俺のことを思い出してくれたんですね」
「……はい」
「あの時の盗みのネタで俺を脅そうとしているんですか」
「はい?」
賢治の話が理解できず、春人は聞き返す。
庭から聞こえる芝刈り機の音がうるさくて、二人に間ができた。それを打ち破ったのは、賢治の笑い声だった。
「失礼、そうですか……ふふ、相変わらずだ」
不意に、賢治の言いたいことを理解した。
「あの、あの時の僕は話しかけづらかったんですか?」
「まあ、野田さんは仕事中でしたから、気安く話しかけられませんよね」
「だからって、どうして盗みなんて」
春人はハッと口を閉ざした。過ぎたことを今更掘り返してどうする。
芝刈り機の音が止む。白い光が賢治の頬に差す。賢治は立ち上がり、こちらに歩いてくる。春人の耳元に口を寄せ、低く甘い声でささやいた。
「こうやって話をしたかっただけです」
賢治を見たら、彼は難しい顔をさせていた。春人が息を吸って吐こうとしたら、賢治が唇を塞いできた。これが口づけだと理解すると同時に、賢治の顔が離れていく。
「仕事、あげますよ、貴方にしかできない重要な仕事です」
春人は唇に指で触れると鳥肌が立った。
「もうご存じだと思いますが、自分は誇れる資格を持っていません」
賢治が口元を隠して笑った。馬鹿にされた訳ではないと頭では分かっている。それでも、出された紅茶を口にする気は起きなかった。
「そうでしょうね、わざわざご履歴書をご用意頂きありがとうございます、必要な資格の取得をしていたらひと月では足りませんね」
「仰る通りです、自分のような者がおこがましいと承知で」
「ええ、ですから、貴方にしかできない仕事を提供するとお話ししているんです」
「はあ」
話の要点が掴めない。
「俺は寂しい男なんです、親の残した大きな家でずっと一人で暮らしているんです、俺にはもう家族がいないんです」
「そんな」
賢治のような男が不幸せだなんて、神様はなんて残酷なのだ。
「野田さんがここに住んでくれたら、楽しいでしょうね」
どう言えば良いのだろうか。言葉に窮していたら、賢治が頬に一滴の涙を流した。
「この家は何もありません、それを野田さんとの思い出で埋めたい、貴方は俺の運命の人だ」
「運命?」
「ええ、貴方を好きでした、昔の俺は野田さんのバイトのシフトを狙って通ったくらいですから」
「嘘だ、なんで僕を」
「俺に居場所をくれた」
「そんなの店の人は皆そうしていた、僕一人だけじゃ」
「貴方が率先して動いてくれたのは知っています」
「それなら僕が盗みを店に知らせたせいで、翌日から来なくなったのは」
「普通は行きづらいでしょう、っと言いたいところですが、親から禁止されてましてね、うちの親は放任主義のくせに外面だけは良かったので」
「そんな」
かつて春人は賢治を好きだった。それは純粋な思いであって、金銭で繋がるような関係ではない。
「それに、野田さんにだけ見えるように盗んだんですよ、貴方以外に捕まりたくなかったから」
この男に罪悪感という概念はないのか。
「ふざけている、それで、僕にどうしろと」
「今みたいに話をしたかったんです、俺はこう見えて気持ちを伝えるのが不器用で、本命には特に」
春人は嫌な予感がした。かつて母親の恋人だった満野さんのように、お金で自分の体を求めているのだろうか。そう考えるだけで吐き気がしてくる。
「帰ります、今日はお忙しいところお時間を作っていただきありがとうございました、失礼します」
ソファから腰を上げると、強引に押し倒された。
「金を持っている俺を利用すれば良い、金は俺と貴方を繋ぐただの道具です」
近くで視線が重なる。あまりの距離の近さに、彼への思いがごちゃ混ぜになりそうだ。
「お金の代わりに、自分を差し出せと仰りたいんですか、仕事ではなくて」
「そうですね、仕事は俺と恋愛をすること、どうでしょう、これで分かりましたか?」
恋のせいにして、彼の言いなりになれば良いのだろうか。なんで自分みたいな地味で貧相な体の男をこの豪邸に囲うのだ。賢治みたいに男前で金持ちの成功者なら、相手は選り取り見取りなはずだ。
「無理です、そんな」
春人は動揺を隠せなかった。中々首を縦に振らない春人にじれたのか、
「では、金は貸します、いつか返してください、いつでもいいです、貸す条件として俺の恋人になってください」
と、賢治は大理石の床に額を擦りつけるくらいに深く、頭を下げた。
「なんで、頭を下げるのは僕の方なのに、頭を上げてください」
ソファから下りて、賢治の肩に手を置いた。
「あの時は万引きをしてまで野田さんの気を引こうとしました、間違えていたと今は反省しています。でも、俺はまた同じ過ちを犯そうとしています、そのくらい必死なんです、もう貴方に失望されてもいい」
春人は抗えなかった。そこには平等な愛情があったから。自分を支配しない。誰かの幸せを盾にして脅してこない。ただひたむきな訴えだけがある。
賢治なら信用しても良いだろうか。いや、彼相手ならどんな暗闇に落ちてもいいとすら思えた。
「……僕でいいなら、お願いします」
「貴方しかいない」
賢治の頬に手を滑らせる。と、賢治は愛おしげに目を細めて頬ずりしてくる。
「これで契約は決まりましたね」
「これからよろしくお願いします」
「春人、と呼んでもいいですか」
「はい」
「俺を賢治と呼んでください」
言われた通りに呼ぶと、賢治がおずおずと口づけをしてくる。それを黙って受け入れた春人は、嫌な気はしなかった。どうしてこんなに愛されているのか分からない。居場所を作ってくれたのは彼の方なのに。と、春人は一つ息を吐いた。
翌日、賢治は母親の借金を肩代わりして全額返済してくれた。身寄りのない、どこまでも惨めで哀れという言葉の似合う自分を運命の相手だと言う。訳が分からない。
賢治は早々に春人の住居をこちらに移動させた。春人に仕事を辞めさせて、この家に閉じ込めた。賢治は朝に出勤して夜に帰宅する。その生活に隙がない。就寝時間も規則的で、ベッドで賢治から夜の相手を求められた春人は言いなりになった。借金返済から救い出してくれた恩を裏切りたくなくて、そこに歪な恋愛感情しかなくとも、この男に求められるなら足を舐めたし精液だって飲んだ。
賢治はただ新しい玩具を欲しがっているだけだ。と、春人は自分に納得させて、また違う地獄の生活に落ちていった。
それから半年がたつ。
外は危ない、が賢治の口癖だった。
「春人の身に何が起きるか考えるだけで不安なんだ、お願いだから俺の家にいてくれ」
と、賢治に何度も何度も言い聞かされてきた。
最初こそ春人は、
「心配性だな」
そう賢治の頼みを笑い飛ばしていた。
「仕事が欲しい、ですか。どのくらい切羽詰まっているんですか」
客間のソファで足を組んだ賢治が、正面から春人を見据えた。この空間は白でいっぱいだった。天井、壁紙、家具に至るまで全てが白だった。主人の賢治も全身淡い色合いの服を着ているから、暗い色のスーツで来た春人だけが浮いている。
「ひと月で二百万が必要なんです」
「それまたどうして」
賢治が手を組み直した。彼の目に力が入った。多少は興味を持ってくれているのだろう。ここに来る前に彼がなんの仕事をしているのか調べていた。接客業しか経験のない春人に務まるような職種ではなかった。
「母が知り合いの方からお金を借りていまして、それの返済です、ひと月というのも支払期限です」
春人は極力彼から目をそらさないように、一人用のソファで浅く腰を下ろしていた。
「そのような込み入った話をされるということは、俺のことを思い出してくれたんですね」
「……はい」
「あの時の盗みのネタで俺を脅そうとしているんですか」
「はい?」
賢治の話が理解できず、春人は聞き返す。
庭から聞こえる芝刈り機の音がうるさくて、二人に間ができた。それを打ち破ったのは、賢治の笑い声だった。
「失礼、そうですか……ふふ、相変わらずだ」
不意に、賢治の言いたいことを理解した。
「あの、あの時の僕は話しかけづらかったんですか?」
「まあ、野田さんは仕事中でしたから、気安く話しかけられませんよね」
「だからって、どうして盗みなんて」
春人はハッと口を閉ざした。過ぎたことを今更掘り返してどうする。
芝刈り機の音が止む。白い光が賢治の頬に差す。賢治は立ち上がり、こちらに歩いてくる。春人の耳元に口を寄せ、低く甘い声でささやいた。
「こうやって話をしたかっただけです」
賢治を見たら、彼は難しい顔をさせていた。春人が息を吸って吐こうとしたら、賢治が唇を塞いできた。これが口づけだと理解すると同時に、賢治の顔が離れていく。
「仕事、あげますよ、貴方にしかできない重要な仕事です」
春人は唇に指で触れると鳥肌が立った。
「もうご存じだと思いますが、自分は誇れる資格を持っていません」
賢治が口元を隠して笑った。馬鹿にされた訳ではないと頭では分かっている。それでも、出された紅茶を口にする気は起きなかった。
「そうでしょうね、わざわざご履歴書をご用意頂きありがとうございます、必要な資格の取得をしていたらひと月では足りませんね」
「仰る通りです、自分のような者がおこがましいと承知で」
「ええ、ですから、貴方にしかできない仕事を提供するとお話ししているんです」
「はあ」
話の要点が掴めない。
「俺は寂しい男なんです、親の残した大きな家でずっと一人で暮らしているんです、俺にはもう家族がいないんです」
「そんな」
賢治のような男が不幸せだなんて、神様はなんて残酷なのだ。
「野田さんがここに住んでくれたら、楽しいでしょうね」
どう言えば良いのだろうか。言葉に窮していたら、賢治が頬に一滴の涙を流した。
「この家は何もありません、それを野田さんとの思い出で埋めたい、貴方は俺の運命の人だ」
「運命?」
「ええ、貴方を好きでした、昔の俺は野田さんのバイトのシフトを狙って通ったくらいですから」
「嘘だ、なんで僕を」
「俺に居場所をくれた」
「そんなの店の人は皆そうしていた、僕一人だけじゃ」
「貴方が率先して動いてくれたのは知っています」
「それなら僕が盗みを店に知らせたせいで、翌日から来なくなったのは」
「普通は行きづらいでしょう、っと言いたいところですが、親から禁止されてましてね、うちの親は放任主義のくせに外面だけは良かったので」
「そんな」
かつて春人は賢治を好きだった。それは純粋な思いであって、金銭で繋がるような関係ではない。
「それに、野田さんにだけ見えるように盗んだんですよ、貴方以外に捕まりたくなかったから」
この男に罪悪感という概念はないのか。
「ふざけている、それで、僕にどうしろと」
「今みたいに話をしたかったんです、俺はこう見えて気持ちを伝えるのが不器用で、本命には特に」
春人は嫌な予感がした。かつて母親の恋人だった満野さんのように、お金で自分の体を求めているのだろうか。そう考えるだけで吐き気がしてくる。
「帰ります、今日はお忙しいところお時間を作っていただきありがとうございました、失礼します」
ソファから腰を上げると、強引に押し倒された。
「金を持っている俺を利用すれば良い、金は俺と貴方を繋ぐただの道具です」
近くで視線が重なる。あまりの距離の近さに、彼への思いがごちゃ混ぜになりそうだ。
「お金の代わりに、自分を差し出せと仰りたいんですか、仕事ではなくて」
「そうですね、仕事は俺と恋愛をすること、どうでしょう、これで分かりましたか?」
恋のせいにして、彼の言いなりになれば良いのだろうか。なんで自分みたいな地味で貧相な体の男をこの豪邸に囲うのだ。賢治みたいに男前で金持ちの成功者なら、相手は選り取り見取りなはずだ。
「無理です、そんな」
春人は動揺を隠せなかった。中々首を縦に振らない春人にじれたのか、
「では、金は貸します、いつか返してください、いつでもいいです、貸す条件として俺の恋人になってください」
と、賢治は大理石の床に額を擦りつけるくらいに深く、頭を下げた。
「なんで、頭を下げるのは僕の方なのに、頭を上げてください」
ソファから下りて、賢治の肩に手を置いた。
「あの時は万引きをしてまで野田さんの気を引こうとしました、間違えていたと今は反省しています。でも、俺はまた同じ過ちを犯そうとしています、そのくらい必死なんです、もう貴方に失望されてもいい」
春人は抗えなかった。そこには平等な愛情があったから。自分を支配しない。誰かの幸せを盾にして脅してこない。ただひたむきな訴えだけがある。
賢治なら信用しても良いだろうか。いや、彼相手ならどんな暗闇に落ちてもいいとすら思えた。
「……僕でいいなら、お願いします」
「貴方しかいない」
賢治の頬に手を滑らせる。と、賢治は愛おしげに目を細めて頬ずりしてくる。
「これで契約は決まりましたね」
「これからよろしくお願いします」
「春人、と呼んでもいいですか」
「はい」
「俺を賢治と呼んでください」
言われた通りに呼ぶと、賢治がおずおずと口づけをしてくる。それを黙って受け入れた春人は、嫌な気はしなかった。どうしてこんなに愛されているのか分からない。居場所を作ってくれたのは彼の方なのに。と、春人は一つ息を吐いた。
翌日、賢治は母親の借金を肩代わりして全額返済してくれた。身寄りのない、どこまでも惨めで哀れという言葉の似合う自分を運命の相手だと言う。訳が分からない。
賢治は早々に春人の住居をこちらに移動させた。春人に仕事を辞めさせて、この家に閉じ込めた。賢治は朝に出勤して夜に帰宅する。その生活に隙がない。就寝時間も規則的で、ベッドで賢治から夜の相手を求められた春人は言いなりになった。借金返済から救い出してくれた恩を裏切りたくなくて、そこに歪な恋愛感情しかなくとも、この男に求められるなら足を舐めたし精液だって飲んだ。
賢治はただ新しい玩具を欲しがっているだけだ。と、春人は自分に納得させて、また違う地獄の生活に落ちていった。
それから半年がたつ。
外は危ない、が賢治の口癖だった。
「春人の身に何が起きるか考えるだけで不安なんだ、お願いだから俺の家にいてくれ」
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