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2.安息がほしい
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人は流れに抗っても落ちるときはどこまでも落ちていける生き物だ。
事故から二週間がたつ。もう肘の傷口はかさぶたとなり、自然と剥がれ落ちた。賢治と出会った日は春人にとっての厄日だった。そのせいか、春人の中では彼に対して抱いたネガティブな思いが未だに残っている。あの時に感じた妬みが頭の中にへばりついて剥がれない。
その夜も仕事を終え、家で夕飯を食べていたら、知らない番号から電話が掛かってきた。
『元気してた?』
高校卒業と共に縁を切ったはずの母親から連絡だった。どこからかけているのだろう。
「母さん、連絡してこないって約束したよね」
『久しぶりなのに、随分な態度じゃない』
今年四十五歳にもなるのに、母親はいつだって自分本位に喋る。
「呂律が怪しいよ、またお酒を飲んでるの?」
『うるさいわね、あんたよりもお酒とは付き合いが長いの、そう直ぐにやめられるもんじゃないの』
「どこにいるんだよ」
『新しい男の家から、その男ね、もうおじいちゃんなんだけど、私に優しいのよ』
「その人に迷惑を掛けないでね」
そうだ、この人は誰かに依存していないと駄目な人だった。だから春人は逃げた。春人が相手をする必要もない。そう自分に言い聞かしても、母親の姿を思い浮かべるだけで、どうしても涙がこみ上げてくる。
小さい頃から家族に良い思い出はなかった。春人が小学生の頃に、両親は離婚した。春人は父親に顔が似ていたのに、ころころと男を変えてはその日暮らしを続ける母親に引き取られた。母親の恋人は揃いも揃って酒浸りの最低男で、春人は暴力を振られたこともある。母親は酒のトラブルで仕事を度々クビになり、学費や給食費が滞ったこともある。母親は美しい容姿だけが取り柄の人で、大人としては頼りなかった。親と言うよりかは女だった。母親は男にかまけてばかりで、いつも春人を二の次にした。学校の何かしらの提出を忘れることも多く、母親を他のクラスメイトの親と比べては恥ずかしく思っていた。
春人が高校二年に上がると同時に、母親に新しい男ができた。満野さんは母親が選んだにしては珍しく温和な中年男性だった。酒を飲まず、ギャンブルもしない。ただ「大学に行きなさい」と春人に支援を申し出てくれるような大人だった。満野さんと三人で暮らし始めると徐々に家がきれいになり、母親の笑顔が毎日続いた。
しかし、やはり満野さんはろくでなしの男だった。ふすま一枚隔てた部屋で母親の寝息が聞こえる。皆が寝静まった夜に、満野さんが春人の布団に潜り込んできた。
春人が抵抗したら、
「君は同年代の男の子よりも細身でね、大人しい顔立ちをしている。私は春人くんが好きだ、君のお母さんよりも大好きだ、ずっと目を付けていた」
援助する代わりに春人の体を要求してきた。
自分が我慢するだけで母親が喜ぶなら、普通の暮らしをできるなら、と春人は全身の力を抜いた。気を良くした満野さんが寝間着の下に手を入れてくる。翌日から、夜になると満野さんが布団に入ってくる。肌に触れて、性器をいじってくる。
ある夜、春人は目を閉じ、唇を噛んで耐え忍んでいた。早く終われ早く終わってくれ。と、呪文を唱えていたら、隣の部屋から金切り声が聞こえた。
「あんた、よくも、よくも、この子に手を出したわねっ、この鬼畜が」
母親はその細い体を使い、満野さんを足蹴りにする。この時になってようやく母親が役に立ってくれた、と春人は泣き出した。その夜に満野さんは警察に捕まった。
それ以来、母親は男を家に呼ばなくなった。それでも一切男との付き合いを絶ったわけでもないようで、外で会っては酒の匂いをさせて帰ってくるようになった。
さすがに生活費の全てを酒か男に注ぐような母親と付き合いきれなくなり、春人は高校卒業のタイミングで母親と縁を切った。
強い意志を持って家を飛び出したのに、今さら何の用だ。
「……用件はなに」
『そうよ、お金よ、春人、どうしよう、おじいちゃんがくれるって言うからお金を貰っただけなのに、親族が返せってうるさくて』
言葉が見つからなかった。なんだ借金の返済を肩代わりしてくれないかと言う催促だった。借金までしていたとは、と背筋が寒くなる。
母親は他の男でもなく、自分に頼み込んできた。つまり後がないと見た。
「いくら?」
意識して冷たく返事した。贅沢な暮らしはしていないから、それなりに貯金はある。それも母親の提示した金額を聞いたら、桁の多さに笑うしかなかった。
「いつまで返さないと駄目なの」
通話を切りたかったのに、思考を逆らうように口が勝手に動いた。支払期限があとひと月もないと聞き、春人は母親の駄目な所を思い出さざるを得なかった。
「なんとかする」
通話を切っても打開策を見出せない。早く何とかしよう、そうでないと自分の人生が壊される。
洗濯機から乾燥を終えた音がしたので取りに行くと、ワイシャツの胸ポケットに紙くずが丸まっていた。幸い他の洗濯物に被害はなかった。そう安堵する。
「二百万か、そんなお金ないよ」
紙くずを広げた。
「鹿野賢治……」
しわくちゃになったフルネームを指でなぞった。聞いたことのない企業名だった。
「賢治くん? まさかな」
七年前、春人はバイト先のスーパーで、商品を盗んだ青年の相手をして疲れていた。その親御さんには「うちの子はそんなことしません」と怒鳴られ、万引きを終始見ていたアルバイトの春人は参考人として残業することになった。結局、監視カメラに犯行映像が映っていたことから、親御さんが渋々納得して返金で事無きを得た。
だが、春人の気持ちは晴れなかった。盗みを働いた青年と顔見知りだったからだ。
大学生くらいの彼を知ったのは、春人がスーパーでバイトを始めたばかりの一年前だった。いつも彼は高そうな服装で夕方の四時に入店する。彼は必ずパン売り場でメロンパンを、自動販売機で冷たいコーヒーを買い、パン売り場に隣接した飲食コーナーで夜の八時までいた。混雑時以外は店側も放任していた。彼は机を汚さないし、携帯電話から音を漏らさない。それに挨拶もしっかりできるようで、バイトの一人に過ぎない春人にも「こんにちは」から「ありがとうございます」を言ってくる。このご時世だ、店側は彼の名を聞かなかったし向こうも名乗らなかった。
そんな彼に、春人はほのかに好意を寄せていた。バイトの時間になると、今日も彼がいるかなと胸を躍らせた。彼と目が合うと頬が熱くなった。ノートを開いて、遠くを見つめる彼の横顔が好きだった。
それで今回の騒動だったから、頭を悩ませるなという方が無理な話だ。なにか見過ごしていたかな、と春人は自分を責めもした。彼が盗んだのは赤いパッケージのチョコレートだった。「どうして盗んだんですか」と春人が聞いたら、青年は「さあ、君と話したかったから」と春人を見て頼りなさげな声で言う。その時になって彼が大学生で、名が鹿田賢治だと知る。名前を知れたのがなんでこのタイミングなんだよ。かっこいい名前だなと思ったのに、賢治はその日以来、姿を見せなくなった。そこで春人の初恋も終わったというわけだ。
春人は懐かしくなり、賢治のことを覚えていると、浅い呼吸をした。
「会社の社長さんなんだ、すごいな」
昔のよしみで仕事をくれないかな。ふらつく足で居間に戻り、春人は思いだし泣きをしないようにして携帯電話を掴んだ。
社会からはみ出さないよう、母親みたいに人に迷惑を掛けないよう、自分は自分の面倒を見てきた。それも限界だった。だから、この際、手段を選んでいる場合ではなかった。
事故から二週間がたつ。もう肘の傷口はかさぶたとなり、自然と剥がれ落ちた。賢治と出会った日は春人にとっての厄日だった。そのせいか、春人の中では彼に対して抱いたネガティブな思いが未だに残っている。あの時に感じた妬みが頭の中にへばりついて剥がれない。
その夜も仕事を終え、家で夕飯を食べていたら、知らない番号から電話が掛かってきた。
『元気してた?』
高校卒業と共に縁を切ったはずの母親から連絡だった。どこからかけているのだろう。
「母さん、連絡してこないって約束したよね」
『久しぶりなのに、随分な態度じゃない』
今年四十五歳にもなるのに、母親はいつだって自分本位に喋る。
「呂律が怪しいよ、またお酒を飲んでるの?」
『うるさいわね、あんたよりもお酒とは付き合いが長いの、そう直ぐにやめられるもんじゃないの』
「どこにいるんだよ」
『新しい男の家から、その男ね、もうおじいちゃんなんだけど、私に優しいのよ』
「その人に迷惑を掛けないでね」
そうだ、この人は誰かに依存していないと駄目な人だった。だから春人は逃げた。春人が相手をする必要もない。そう自分に言い聞かしても、母親の姿を思い浮かべるだけで、どうしても涙がこみ上げてくる。
小さい頃から家族に良い思い出はなかった。春人が小学生の頃に、両親は離婚した。春人は父親に顔が似ていたのに、ころころと男を変えてはその日暮らしを続ける母親に引き取られた。母親の恋人は揃いも揃って酒浸りの最低男で、春人は暴力を振られたこともある。母親は酒のトラブルで仕事を度々クビになり、学費や給食費が滞ったこともある。母親は美しい容姿だけが取り柄の人で、大人としては頼りなかった。親と言うよりかは女だった。母親は男にかまけてばかりで、いつも春人を二の次にした。学校の何かしらの提出を忘れることも多く、母親を他のクラスメイトの親と比べては恥ずかしく思っていた。
春人が高校二年に上がると同時に、母親に新しい男ができた。満野さんは母親が選んだにしては珍しく温和な中年男性だった。酒を飲まず、ギャンブルもしない。ただ「大学に行きなさい」と春人に支援を申し出てくれるような大人だった。満野さんと三人で暮らし始めると徐々に家がきれいになり、母親の笑顔が毎日続いた。
しかし、やはり満野さんはろくでなしの男だった。ふすま一枚隔てた部屋で母親の寝息が聞こえる。皆が寝静まった夜に、満野さんが春人の布団に潜り込んできた。
春人が抵抗したら、
「君は同年代の男の子よりも細身でね、大人しい顔立ちをしている。私は春人くんが好きだ、君のお母さんよりも大好きだ、ずっと目を付けていた」
援助する代わりに春人の体を要求してきた。
自分が我慢するだけで母親が喜ぶなら、普通の暮らしをできるなら、と春人は全身の力を抜いた。気を良くした満野さんが寝間着の下に手を入れてくる。翌日から、夜になると満野さんが布団に入ってくる。肌に触れて、性器をいじってくる。
ある夜、春人は目を閉じ、唇を噛んで耐え忍んでいた。早く終われ早く終わってくれ。と、呪文を唱えていたら、隣の部屋から金切り声が聞こえた。
「あんた、よくも、よくも、この子に手を出したわねっ、この鬼畜が」
母親はその細い体を使い、満野さんを足蹴りにする。この時になってようやく母親が役に立ってくれた、と春人は泣き出した。その夜に満野さんは警察に捕まった。
それ以来、母親は男を家に呼ばなくなった。それでも一切男との付き合いを絶ったわけでもないようで、外で会っては酒の匂いをさせて帰ってくるようになった。
さすがに生活費の全てを酒か男に注ぐような母親と付き合いきれなくなり、春人は高校卒業のタイミングで母親と縁を切った。
強い意志を持って家を飛び出したのに、今さら何の用だ。
「……用件はなに」
『そうよ、お金よ、春人、どうしよう、おじいちゃんがくれるって言うからお金を貰っただけなのに、親族が返せってうるさくて』
言葉が見つからなかった。なんだ借金の返済を肩代わりしてくれないかと言う催促だった。借金までしていたとは、と背筋が寒くなる。
母親は他の男でもなく、自分に頼み込んできた。つまり後がないと見た。
「いくら?」
意識して冷たく返事した。贅沢な暮らしはしていないから、それなりに貯金はある。それも母親の提示した金額を聞いたら、桁の多さに笑うしかなかった。
「いつまで返さないと駄目なの」
通話を切りたかったのに、思考を逆らうように口が勝手に動いた。支払期限があとひと月もないと聞き、春人は母親の駄目な所を思い出さざるを得なかった。
「なんとかする」
通話を切っても打開策を見出せない。早く何とかしよう、そうでないと自分の人生が壊される。
洗濯機から乾燥を終えた音がしたので取りに行くと、ワイシャツの胸ポケットに紙くずが丸まっていた。幸い他の洗濯物に被害はなかった。そう安堵する。
「二百万か、そんなお金ないよ」
紙くずを広げた。
「鹿野賢治……」
しわくちゃになったフルネームを指でなぞった。聞いたことのない企業名だった。
「賢治くん? まさかな」
七年前、春人はバイト先のスーパーで、商品を盗んだ青年の相手をして疲れていた。その親御さんには「うちの子はそんなことしません」と怒鳴られ、万引きを終始見ていたアルバイトの春人は参考人として残業することになった。結局、監視カメラに犯行映像が映っていたことから、親御さんが渋々納得して返金で事無きを得た。
だが、春人の気持ちは晴れなかった。盗みを働いた青年と顔見知りだったからだ。
大学生くらいの彼を知ったのは、春人がスーパーでバイトを始めたばかりの一年前だった。いつも彼は高そうな服装で夕方の四時に入店する。彼は必ずパン売り場でメロンパンを、自動販売機で冷たいコーヒーを買い、パン売り場に隣接した飲食コーナーで夜の八時までいた。混雑時以外は店側も放任していた。彼は机を汚さないし、携帯電話から音を漏らさない。それに挨拶もしっかりできるようで、バイトの一人に過ぎない春人にも「こんにちは」から「ありがとうございます」を言ってくる。このご時世だ、店側は彼の名を聞かなかったし向こうも名乗らなかった。
そんな彼に、春人はほのかに好意を寄せていた。バイトの時間になると、今日も彼がいるかなと胸を躍らせた。彼と目が合うと頬が熱くなった。ノートを開いて、遠くを見つめる彼の横顔が好きだった。
それで今回の騒動だったから、頭を悩ませるなという方が無理な話だ。なにか見過ごしていたかな、と春人は自分を責めもした。彼が盗んだのは赤いパッケージのチョコレートだった。「どうして盗んだんですか」と春人が聞いたら、青年は「さあ、君と話したかったから」と春人を見て頼りなさげな声で言う。その時になって彼が大学生で、名が鹿田賢治だと知る。名前を知れたのがなんでこのタイミングなんだよ。かっこいい名前だなと思ったのに、賢治はその日以来、姿を見せなくなった。そこで春人の初恋も終わったというわけだ。
春人は懐かしくなり、賢治のことを覚えていると、浅い呼吸をした。
「会社の社長さんなんだ、すごいな」
昔のよしみで仕事をくれないかな。ふらつく足で居間に戻り、春人は思いだし泣きをしないようにして携帯電話を掴んだ。
社会からはみ出さないよう、母親みたいに人に迷惑を掛けないよう、自分は自分の面倒を見てきた。それも限界だった。だから、この際、手段を選んでいる場合ではなかった。
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