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第3章 現実の世界 ~カミナギ ひとつ~
第78話 雛月とハグ
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「行ってきまーす」
「三月、行ってらっしゃーい。今日もお仕事頑張ってきてねっ」
のっけから夢だとわかる状況で意識が覚醒した。
いつの間にか朝になっていて、今日もこれから仕事に出掛けるところのようだ。
三月は仕事用の作業着姿で、履き慣れたシューズに足を突っ込んだ。
後ろを振り返ると、見慣れたアパートの部屋の玄関がそこにある。
そして、そこにはエプロン姿の夕緋が笑顔で立っていた。
もう一緒に暮らしているようで、仕事に行く三月を見送りにきてくれている。
「三月の好きなハンバーグ、いっぱいつくっていい子で待ってるね。二人で夕ご飯を食べて、それでその後、一緒にお風呂入って、おんなじお布団でお互い抱っこしながら寝ようねぇ。きゃあぁっ、私ったらぁ! だから、三月ぃ……」
夕緋のキャラがやけに違っていたのがこれが夢である証拠だ。
三月に向かって両手を広げてハグをせがみ、目を閉じて唇を上向きにさせている。
どうやら行ってきますの抱擁からのキスを要求されているようだ。
新婚ほやほや、愛情あつあつの設定らしい。
夢ならまぁいいか、と夕緋の腰に手を回してゆっくりと顔を近づけていく。
将来、こんな風に幸せな日常を過ごせたらいいな、と願いつつ夕緋にキスをしようとした。
と、すんでのところで三月は気付いた。
「──ん、んんっ!?」
「おいおい、ぼくを相手に行ってきますのキスをする気かい? 三月がいいんなら、ぼくは別に構わないけど」
「あぁっ、おまっ、ひっ……!」
三月はあまりの驚きに声を引きつらせていた。
目の前の夕緋の顔が別の顔に変わっている。
格好にしてもそうだ。
濃紺のブレザーとプリーツスカート、白のハイソックスという出で立ち。
その服装は三月の通っていた高校の女学生用の制服である。
夕緋の姉であり、三月の元恋人の朝陽とうり二つ。
知らない内から頭の中に住み着いている、あいつのものであった。
「雛月ッ……!」
腕の中にいたのは未来の愛妻の姿ではない。
地平の加護の擬似人格こと、雛月の姿に入れ変わっていた。
もう一度会えるか半信半疑だったが、数日を経て再びこうして現れた。
「ご無沙汰だね、三月。また会えて嬉しいよ」
慌てふためく三月の顔を間近で眺め、雛月はふふっと笑った。
さっきまでの夕緋と同じく、雛月も三月にしっかりと抱きついた格好だ。
朝陽と同じ顔であることを最大限に活用し、わざとらしくも可愛らしく猫撫で声で言うのであった。
「ほら、見て見て。ぼくもお団子頭にしてみたよ」
急な登場で気付かなかったが、雛月の髪型が前回とは違っている。
肩まで伸びたボブカットではなく、女神の日和みたいな二つ結いのお団子ヘアーになっていた。
「エルフの長い耳と金髪ロングヘアーは無理だけど、この髪型ならぼくにもできるよ。三月の好みに合わせてみたんだ。どう、可愛いだろ?」
「うぐっ……」
ドキッと胸を高鳴らせてしまったのは不覚である。
雛月のお団子ヘアーはかなり似合っていて、可愛いと思ってしまったことに悔しさを覚える。
「ふ、ふざけるなよ、雛月っ……。くそ、なんか手が離れない!」
「あぁっ、そんなに乱暴にしないでおくれよ。女の子はもっと優しく扱わないと駄目じゃないか」
どういう訳か雛月の腰を抱いた両手が固まったみたいに動かない。
密着した身体同士は全く離れられず揉み合いになっている。
押し合いへし合いになるものだから、付いたり離れたり雛月の胸の感触が伝わってきて堪らない。
顔を真っ赤にしてのけぞって離れようとする三月を見て、雛月はくすくす笑う。
「ここは半ば三月の夢の中だからね。身体が動かないのは、夢を見てる三月の本当の身体が何かの理由で動かせない状態にあるからだよ。だから今は諦めて、ぼくを情熱的に抱っこしていてくれたまえ。ふふふっ」
「まったく、雛月……。お前はまたそうやって俺の純情をからかいやがって……」
動揺する三月を上目遣いに見上げる雛月は楽しそう。
いたずらっ気溢れる笑みを浮かべて頷いている。
「うんうん、それにしても三月、夕緋との同棲、うまくやったね。ちゃんと男らしかったよ。ぼくはしっかりここで見ていたからね」
「うっ、やっぱり見てたのか……」
「──俺たち、一緒に暮らさないか? 好きだよ、夕緋……。ってね」
完成度の高い声真似で、夕緋への告白を再現する凛々しい顔の雛月。
予想通りやるだろうと思っていたが、三月は顔を真っ赤にさせてまくしたてる。
「べっ、別に恥ずかしくなんかないからなっ! 俺も夕緋もいい大人なんだっ! 気持ちが通じ合ってるんだから、そうやってきちんと気持ちを伝えるのは礼儀ってもんだろうがっ! あと、俺の未来の奥さんを呼び捨てにするなっての!」
「あははっ、ごめんごめん。別にからかう気はないよ。それにぼくは三月の知り得た事実や、体験した出来事から人格を更新してるんだ。三月が夕緋のことを呼び捨てで呼ぶようになったら、ぼくも自然とそれに習うようになるってだけだよ。だからそんなに興奮しないでよ。他意は無いから、ね」
ぐぬぬ、と納得いかない三月に構わず、雛月は話し始めた。
急におどけた感じが消えて、鋭くなった目つきは冷たい。
同じ顔だというのに、よく知っているはずの朝陽の顔にはもう見えなかった。
「神水流夕緋への接近は三月のお陰で滞りなく完了した。これでぼくも自分の仕事である「洞察」を進められる。但し、気をつけることだ。神水流夕緋は、そう簡単に気を許していい相手じゃない。これはぼくの女の勘だけど、あの子にはまだまだ三月に話していない重大な秘密があるように思う」
「女の勘とか言ってんじゃねぇよ……。で、気をつけろってのはどういうことだよ? 夕緋はそりゃ、ちょっと変わった子だけど、俺と付き合う間柄になったんだから言ってみればもう身内だろう? 俺の進めないといけない物語ってやつには別に関係ないんじゃないのか?」
三月は雛月の言い方を怪訝に思って聞き返した。
どうして夕緋にのことにそんな言及をするのか理解できない。
と、雛月は目つきをまたきつくして言い放つ。
「関係ないだって? 大ありだよ、夕緋は他でもない朝陽の双子の妹だし、女神の日和と夜宵を祀っていた神水流の巫女だ。無関係なはずがないじゃないか。彼女は三月の物語にとって、最重要人物の一人だよ」
雛月の言葉にはさらに気を重くさせられる。
三月は心底うんざりした顔をした。
「な、なんだよ……。俺の物語ってのは、あの二つの異世界だけの話じゃないのかよ……。現実の俺の世界にまでちょっかいを出すのは勘弁してくれよな……」
パンドラの地下迷宮の世界、神々の天神回戦の世界だけではない。
三月や夕緋の住まう現実世界までもが、物語の舞台であるというのである。
雛月は相変わらず三月に抱きついたままの滑稽な格好だ。
しかし、ふざけた様子は無しで真剣そのものに続けた。
「三月、君の世界は確かに現実の物質世界だけれど、ファンタジーな概念は何も異世界だけのものじゃないよ。三月が居るこの現実世界だって、たくさんの不思議が満ち溢れているし、他の次元から悪い影響を受けて侵食されている場合だってあるんだ。現に三月はさっき、架空であるはずの怪しげな魔物たちの襲撃で危機一髪の目に遭ったばかりじゃないか」
「思い出させるなよ……。でも、確かにあれは夢でも何でもないんだよな……」
玄関のドアをこじ開け、部屋に侵入しようとした幻想世界の怪物との遭遇。
ドアの隙間から、牙を剥き出しにして恐ろしい目で睨みつけてきたゴブリンの顔を思い出して身震いする。
あれは夢でも幻でもなく、紛れも無い現実だった。
苦々しい顔の三月に、神妙の表情で頷く雛月。
おでこ同士を押し当て合う近くまで顔を寄せ、声を潜めた。
「──そして、これが最も重要な話だよ。三月だって見ただろう? 夕緋と一緒に居たあのダークエルフの女と、蜘蛛の着物の男をさ」
雛月が問い掛けるのは、現実世界に現れた明確な非現実についてであった。
夕緋のことはちょっと変わった幼馴染みで済ませても、あの二人に関してはそういう訳にはいかない。
警戒した声色で雛月は先を続ける。
「三月はあの二人のことを夕緋に質問しようとしたけれど、危険を感じて思い留まった。ぼくからの差し金とは言え、あれは本当に正解だったよ。あの二人は夕緋も言っていた通り、とてつもなく危険な存在だ。どういう関係かは不明だけど、夕緋は確かにダークエルフの女と蜘蛛の着物の男と繋がっている。あの二人の件は一旦保留としよう。不用意に詮索するべきじゃない」
「わ、わかった……!」
さらにずいっと近付いてくる雛月に圧倒され、三月は顔を逸らして頷いた。
「か、顔が近いって、雛月……。女だって自覚があるならそんなに顔をくっつけるなよ。ただでさえ、朝陽の顔だから照れくさいってのに……」
眼前に迫った雛月の顔に、どうしてもそういう意識をするのを抑えられない。
柔らかそうな唇、整った鼻立ち、鋭い目つきの綺麗な瞳。
さらに、朝陽の顔にはとても新鮮な二つ結いのお団子ヘアーの髪型。
どれをとっても魅力的で三月は気が気ではない。
「まったくもう」
やれやれといった感の雛月はため息一つ。
「大事な話をしてるのに、三月はぼくのそんなところを見てばっかりだなぁ。悪い気はしないけれど、もうちょっと時と場合を考えて欲しいところだね。とにかく、あの謎の二人に関しては相当の時間を要するだろうけど、ぼくのほうで何とか洞察を頑張ってみるから、何かわかったら三月にすぐに知らせるよ」
そうは言うものの、三月の反応に雛月も満更ではなさそうである。
地平の加護としての役割の傍ら、宿主と触れ合う別の楽しみでも覚えてしまったかのようであった。
「お、おう、わかった、わかったよ。だからちょっと離れてくれないか……」
「だめだめ、もうしばらくはこのままさ。しっかりと抱っこしててね」
遠慮無しに顔を近付けられて三月はたじたじだ。
雛月の腰に回した手は未だに離れず、女の子の身体の柔らかさが気まずかった。
平静を保とうと苦労する三月の顔を──。
雛月は何とも言えない笑顔のまま、しばらくそうして眺めていたのであった。
「──それはそうと。……なぁ、雛月」
ややあって。
落ち着きを取り戻した三月は雛月に問いかける。
現実の世界で眠りに着く前に夕緋と交わした涙のやり取り。
そのときに感じた違和感について。
「見てたんだろうから知ってると思うけど、聞いておきたいことがあるんだ」
「んん? 何のことだろうか? 言ってみてよ」
雛月も三月が何を聞きたいのかわかっている様子だった。
笑ってはいるが、抱いた悩みに応えようとする表情である。
三月はそんな雛月に、夕緋との間にわだかまる思いを吐き出した。
「俺は本当にこんなことをしていていいのか? 物語を正しく進めるための案内人が雛月の役目なら一応言っておきたいんだ。その、夕緋と話してる内にどうにも、気持ちが迷っちまってな……。俺はいったい何のために、こんなよくわからん厄介ごとを引き受ける羽目になってるんだろうな……」
「三月が夕緋と話していたことだね。うん、ちゃんと聞いていたよ」
迷う気持ちさえ雛月は共有している。
夕緋とのやり取りも見ていて、三月が何を思っているか理解しているだろう。
「言い方は悪いけど……。日和が朝陽に何らかの関係があるとしたって、もう今更の話じゃないか? だって、朝陽はもうこの世にいないんだ……」
落胆の問い掛けが口をついて出る。
こんなことをしていても意味が無いと嘆いてしまう。
「夕緋は泣き虫だった朝陽とは違って、人前で泣くような子じゃないんだ。なのに、今日は俺の前で二度もあんなに涙を流して泣いていた……」
三月の言葉は少なからずショックを受けて震えていた。
気丈な夕緋が見せた涙が原因である。
「俺がやらなきゃいけない異世界の物語には危険が付きまとうんだろ? それは夕緋に心配を掛けたり、悲しませたりしてまでやるようなことなのか? せっかく俺も夕緋も、過去に踏ん切りをつけて将来を考えられるようになってきたところなんだ。朝陽のことは気にはなるけど、確かな現実世界で夕緋との仲を大切にするほうが重要なんじゃないか? 雛月には悪いけど、今やってるこれが正しいことかどうか、俺にはよくわからない……」
三月には異世界よりも大事にすべき女性がいる。
理由も目的もわからない不思議な冒険などしている場合ではない。
忘れがたき過去に触れられるとしても、今更で仕方のないことでしかなかった。
そんな悩みを告げられた雛月は──。
「三月、行ってらっしゃーい。今日もお仕事頑張ってきてねっ」
のっけから夢だとわかる状況で意識が覚醒した。
いつの間にか朝になっていて、今日もこれから仕事に出掛けるところのようだ。
三月は仕事用の作業着姿で、履き慣れたシューズに足を突っ込んだ。
後ろを振り返ると、見慣れたアパートの部屋の玄関がそこにある。
そして、そこにはエプロン姿の夕緋が笑顔で立っていた。
もう一緒に暮らしているようで、仕事に行く三月を見送りにきてくれている。
「三月の好きなハンバーグ、いっぱいつくっていい子で待ってるね。二人で夕ご飯を食べて、それでその後、一緒にお風呂入って、おんなじお布団でお互い抱っこしながら寝ようねぇ。きゃあぁっ、私ったらぁ! だから、三月ぃ……」
夕緋のキャラがやけに違っていたのがこれが夢である証拠だ。
三月に向かって両手を広げてハグをせがみ、目を閉じて唇を上向きにさせている。
どうやら行ってきますの抱擁からのキスを要求されているようだ。
新婚ほやほや、愛情あつあつの設定らしい。
夢ならまぁいいか、と夕緋の腰に手を回してゆっくりと顔を近づけていく。
将来、こんな風に幸せな日常を過ごせたらいいな、と願いつつ夕緋にキスをしようとした。
と、すんでのところで三月は気付いた。
「──ん、んんっ!?」
「おいおい、ぼくを相手に行ってきますのキスをする気かい? 三月がいいんなら、ぼくは別に構わないけど」
「あぁっ、おまっ、ひっ……!」
三月はあまりの驚きに声を引きつらせていた。
目の前の夕緋の顔が別の顔に変わっている。
格好にしてもそうだ。
濃紺のブレザーとプリーツスカート、白のハイソックスという出で立ち。
その服装は三月の通っていた高校の女学生用の制服である。
夕緋の姉であり、三月の元恋人の朝陽とうり二つ。
知らない内から頭の中に住み着いている、あいつのものであった。
「雛月ッ……!」
腕の中にいたのは未来の愛妻の姿ではない。
地平の加護の擬似人格こと、雛月の姿に入れ変わっていた。
もう一度会えるか半信半疑だったが、数日を経て再びこうして現れた。
「ご無沙汰だね、三月。また会えて嬉しいよ」
慌てふためく三月の顔を間近で眺め、雛月はふふっと笑った。
さっきまでの夕緋と同じく、雛月も三月にしっかりと抱きついた格好だ。
朝陽と同じ顔であることを最大限に活用し、わざとらしくも可愛らしく猫撫で声で言うのであった。
「ほら、見て見て。ぼくもお団子頭にしてみたよ」
急な登場で気付かなかったが、雛月の髪型が前回とは違っている。
肩まで伸びたボブカットではなく、女神の日和みたいな二つ結いのお団子ヘアーになっていた。
「エルフの長い耳と金髪ロングヘアーは無理だけど、この髪型ならぼくにもできるよ。三月の好みに合わせてみたんだ。どう、可愛いだろ?」
「うぐっ……」
ドキッと胸を高鳴らせてしまったのは不覚である。
雛月のお団子ヘアーはかなり似合っていて、可愛いと思ってしまったことに悔しさを覚える。
「ふ、ふざけるなよ、雛月っ……。くそ、なんか手が離れない!」
「あぁっ、そんなに乱暴にしないでおくれよ。女の子はもっと優しく扱わないと駄目じゃないか」
どういう訳か雛月の腰を抱いた両手が固まったみたいに動かない。
密着した身体同士は全く離れられず揉み合いになっている。
押し合いへし合いになるものだから、付いたり離れたり雛月の胸の感触が伝わってきて堪らない。
顔を真っ赤にしてのけぞって離れようとする三月を見て、雛月はくすくす笑う。
「ここは半ば三月の夢の中だからね。身体が動かないのは、夢を見てる三月の本当の身体が何かの理由で動かせない状態にあるからだよ。だから今は諦めて、ぼくを情熱的に抱っこしていてくれたまえ。ふふふっ」
「まったく、雛月……。お前はまたそうやって俺の純情をからかいやがって……」
動揺する三月を上目遣いに見上げる雛月は楽しそう。
いたずらっ気溢れる笑みを浮かべて頷いている。
「うんうん、それにしても三月、夕緋との同棲、うまくやったね。ちゃんと男らしかったよ。ぼくはしっかりここで見ていたからね」
「うっ、やっぱり見てたのか……」
「──俺たち、一緒に暮らさないか? 好きだよ、夕緋……。ってね」
完成度の高い声真似で、夕緋への告白を再現する凛々しい顔の雛月。
予想通りやるだろうと思っていたが、三月は顔を真っ赤にさせてまくしたてる。
「べっ、別に恥ずかしくなんかないからなっ! 俺も夕緋もいい大人なんだっ! 気持ちが通じ合ってるんだから、そうやってきちんと気持ちを伝えるのは礼儀ってもんだろうがっ! あと、俺の未来の奥さんを呼び捨てにするなっての!」
「あははっ、ごめんごめん。別にからかう気はないよ。それにぼくは三月の知り得た事実や、体験した出来事から人格を更新してるんだ。三月が夕緋のことを呼び捨てで呼ぶようになったら、ぼくも自然とそれに習うようになるってだけだよ。だからそんなに興奮しないでよ。他意は無いから、ね」
ぐぬぬ、と納得いかない三月に構わず、雛月は話し始めた。
急におどけた感じが消えて、鋭くなった目つきは冷たい。
同じ顔だというのに、よく知っているはずの朝陽の顔にはもう見えなかった。
「神水流夕緋への接近は三月のお陰で滞りなく完了した。これでぼくも自分の仕事である「洞察」を進められる。但し、気をつけることだ。神水流夕緋は、そう簡単に気を許していい相手じゃない。これはぼくの女の勘だけど、あの子にはまだまだ三月に話していない重大な秘密があるように思う」
「女の勘とか言ってんじゃねぇよ……。で、気をつけろってのはどういうことだよ? 夕緋はそりゃ、ちょっと変わった子だけど、俺と付き合う間柄になったんだから言ってみればもう身内だろう? 俺の進めないといけない物語ってやつには別に関係ないんじゃないのか?」
三月は雛月の言い方を怪訝に思って聞き返した。
どうして夕緋にのことにそんな言及をするのか理解できない。
と、雛月は目つきをまたきつくして言い放つ。
「関係ないだって? 大ありだよ、夕緋は他でもない朝陽の双子の妹だし、女神の日和と夜宵を祀っていた神水流の巫女だ。無関係なはずがないじゃないか。彼女は三月の物語にとって、最重要人物の一人だよ」
雛月の言葉にはさらに気を重くさせられる。
三月は心底うんざりした顔をした。
「な、なんだよ……。俺の物語ってのは、あの二つの異世界だけの話じゃないのかよ……。現実の俺の世界にまでちょっかいを出すのは勘弁してくれよな……」
パンドラの地下迷宮の世界、神々の天神回戦の世界だけではない。
三月や夕緋の住まう現実世界までもが、物語の舞台であるというのである。
雛月は相変わらず三月に抱きついたままの滑稽な格好だ。
しかし、ふざけた様子は無しで真剣そのものに続けた。
「三月、君の世界は確かに現実の物質世界だけれど、ファンタジーな概念は何も異世界だけのものじゃないよ。三月が居るこの現実世界だって、たくさんの不思議が満ち溢れているし、他の次元から悪い影響を受けて侵食されている場合だってあるんだ。現に三月はさっき、架空であるはずの怪しげな魔物たちの襲撃で危機一髪の目に遭ったばかりじゃないか」
「思い出させるなよ……。でも、確かにあれは夢でも何でもないんだよな……」
玄関のドアをこじ開け、部屋に侵入しようとした幻想世界の怪物との遭遇。
ドアの隙間から、牙を剥き出しにして恐ろしい目で睨みつけてきたゴブリンの顔を思い出して身震いする。
あれは夢でも幻でもなく、紛れも無い現実だった。
苦々しい顔の三月に、神妙の表情で頷く雛月。
おでこ同士を押し当て合う近くまで顔を寄せ、声を潜めた。
「──そして、これが最も重要な話だよ。三月だって見ただろう? 夕緋と一緒に居たあのダークエルフの女と、蜘蛛の着物の男をさ」
雛月が問い掛けるのは、現実世界に現れた明確な非現実についてであった。
夕緋のことはちょっと変わった幼馴染みで済ませても、あの二人に関してはそういう訳にはいかない。
警戒した声色で雛月は先を続ける。
「三月はあの二人のことを夕緋に質問しようとしたけれど、危険を感じて思い留まった。ぼくからの差し金とは言え、あれは本当に正解だったよ。あの二人は夕緋も言っていた通り、とてつもなく危険な存在だ。どういう関係かは不明だけど、夕緋は確かにダークエルフの女と蜘蛛の着物の男と繋がっている。あの二人の件は一旦保留としよう。不用意に詮索するべきじゃない」
「わ、わかった……!」
さらにずいっと近付いてくる雛月に圧倒され、三月は顔を逸らして頷いた。
「か、顔が近いって、雛月……。女だって自覚があるならそんなに顔をくっつけるなよ。ただでさえ、朝陽の顔だから照れくさいってのに……」
眼前に迫った雛月の顔に、どうしてもそういう意識をするのを抑えられない。
柔らかそうな唇、整った鼻立ち、鋭い目つきの綺麗な瞳。
さらに、朝陽の顔にはとても新鮮な二つ結いのお団子ヘアーの髪型。
どれをとっても魅力的で三月は気が気ではない。
「まったくもう」
やれやれといった感の雛月はため息一つ。
「大事な話をしてるのに、三月はぼくのそんなところを見てばっかりだなぁ。悪い気はしないけれど、もうちょっと時と場合を考えて欲しいところだね。とにかく、あの謎の二人に関しては相当の時間を要するだろうけど、ぼくのほうで何とか洞察を頑張ってみるから、何かわかったら三月にすぐに知らせるよ」
そうは言うものの、三月の反応に雛月も満更ではなさそうである。
地平の加護としての役割の傍ら、宿主と触れ合う別の楽しみでも覚えてしまったかのようであった。
「お、おう、わかった、わかったよ。だからちょっと離れてくれないか……」
「だめだめ、もうしばらくはこのままさ。しっかりと抱っこしててね」
遠慮無しに顔を近付けられて三月はたじたじだ。
雛月の腰に回した手は未だに離れず、女の子の身体の柔らかさが気まずかった。
平静を保とうと苦労する三月の顔を──。
雛月は何とも言えない笑顔のまま、しばらくそうして眺めていたのであった。
「──それはそうと。……なぁ、雛月」
ややあって。
落ち着きを取り戻した三月は雛月に問いかける。
現実の世界で眠りに着く前に夕緋と交わした涙のやり取り。
そのときに感じた違和感について。
「見てたんだろうから知ってると思うけど、聞いておきたいことがあるんだ」
「んん? 何のことだろうか? 言ってみてよ」
雛月も三月が何を聞きたいのかわかっている様子だった。
笑ってはいるが、抱いた悩みに応えようとする表情である。
三月はそんな雛月に、夕緋との間にわだかまる思いを吐き出した。
「俺は本当にこんなことをしていていいのか? 物語を正しく進めるための案内人が雛月の役目なら一応言っておきたいんだ。その、夕緋と話してる内にどうにも、気持ちが迷っちまってな……。俺はいったい何のために、こんなよくわからん厄介ごとを引き受ける羽目になってるんだろうな……」
「三月が夕緋と話していたことだね。うん、ちゃんと聞いていたよ」
迷う気持ちさえ雛月は共有している。
夕緋とのやり取りも見ていて、三月が何を思っているか理解しているだろう。
「言い方は悪いけど……。日和が朝陽に何らかの関係があるとしたって、もう今更の話じゃないか? だって、朝陽はもうこの世にいないんだ……」
落胆の問い掛けが口をついて出る。
こんなことをしていても意味が無いと嘆いてしまう。
「夕緋は泣き虫だった朝陽とは違って、人前で泣くような子じゃないんだ。なのに、今日は俺の前で二度もあんなに涙を流して泣いていた……」
三月の言葉は少なからずショックを受けて震えていた。
気丈な夕緋が見せた涙が原因である。
「俺がやらなきゃいけない異世界の物語には危険が付きまとうんだろ? それは夕緋に心配を掛けたり、悲しませたりしてまでやるようなことなのか? せっかく俺も夕緋も、過去に踏ん切りをつけて将来を考えられるようになってきたところなんだ。朝陽のことは気にはなるけど、確かな現実世界で夕緋との仲を大切にするほうが重要なんじゃないか? 雛月には悪いけど、今やってるこれが正しいことかどうか、俺にはよくわからない……」
三月には異世界よりも大事にすべき女性がいる。
理由も目的もわからない不思議な冒険などしている場合ではない。
忘れがたき過去に触れられるとしても、今更で仕方のないことでしかなかった。
そんな悩みを告げられた雛月は──。
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