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第3章 現実の世界 ~カミナギ ひとつ~
第77話 異世界への征旅と別離と
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「お待たせ、できたよ。お腹空いたでしょ」
夕緋のつくったハンバーグのいい匂いが部屋中に漂う。
お皿には大きなハンバーグをメインにして、キャベツの千切り、ミニトマト、きゅうりのスライスが添えられていて、他には温かいご飯と味噌汁、常備菜の蓮根のきんぴらが食卓に並んだ。
ハンバーグは大根おろしとポン酢で食べるのが三月の好きな食べ方だ。
「あれ、夕緋の分は?」
「……」
三月の前だけにそれらの料理は用意されていて、夕緋が座った炬燵テーブルの上には何も並んでいない。
三月のグラスに麦茶をなみなみと注ぐ夕緋は黙っている。
エプロンは外していて、もうキッチンに立つ気配もなさそうだった。
夕緋は短くため息をつき、視線を落として消え入りそうな声で言った。
「……食欲が無くて、とても食事をするなんて気分になれないの。ごめんね、一人で食べさせちゃって。私のことは気にしなくていいよ」
「夕緋、大丈──」
「──三月」
何か言おうとする三月を遮り、夕緋は静かに話し始めた。
伏せた顔、両肘を抱く姿勢。
滅入った口調で口を開く夕緋は辛そうに見えた。
「食べながらでいいから聞いて。夕方、三月が女神様と契約を交わしたっていう話のことだけどね」
沈痛な面持ちでそう言うと、ふっと目線を上げて三月を見つめた。
その瞳にあるのは悲しみの色で、涙に濡れて潤んでいる。
「──三月には、女神様の試練が課せられると思う」
藪から棒に夕緋が言い出したのは、やはり夕方の話の続きだった。
夢か幻か、神々の異世界で小さな女神の日和と三月は約束をした。
天神回戦の試合を勝ち上がり、日和の神通力と神格を取り戻す。
その暁に、亡き朝陽との繋がりや秘密を明かしてもらえるという約束だ。
夕緋はそれを女神と契約を交わしたために与えられた試練だと称した。
三月が過酷な運命に立たされてしまったと嘆いている。
「いいえ、試練はもう始まってるのかな……。三月の中に刻まれた女神様の因果の糸が、すでに私の与り知らないどこかと繋がってしまっている……。もうきっと、とても危険な試練の渦中に三月はいるのね。だけど、私にはどうしてあげることもできないの……。三月がどこで何をしているのかはわからない……。私の手の届くところなら守ってあげられるのに……」
しかし、世界を隔てた先の出来事にはさすがの夕緋にも手が出せない。
三月を自分の手で守ってあげられないのを歯がゆく思う。
「本当にごめんなさい、無力な私を許して……」
肩を震わせて、夕緋は申し訳なさそうに謝罪を口にした。
三月に降り掛かった、文字通りの天災を不憫《ふびん》に思ったからだけではない。
夕緋は苦慮していた。
今はまだ無事でいるが、このままではただの人の身でしかない三月はあえなく死んでしまう。
そう思うと、無念の言葉が後から後から零れ出す。
「こんなの酷すぎる……。三月に私みたいな特別な力は無いのに……。三月も三月よ、どうしてこんな大事なことを安請け合いしてしまったの……? 後先考えないなんていう次元の話じゃないよ……」
「う、ご、ごめん……」
夕緋の責めるような口振りに思わず謝ってしまう三月。
どうしてこうも悲観的に心配をされているのか、その理由は理解できた。
慧眼の夕緋でさえ知らない三月の内に宿った力。
唐突に授けられた、未だに理解が及ばない規格外の権能。
──夕緋は雛月のこと、地平の加護のことは知らないのか。だから、普通の人間でしかない俺が試練に手も足も出せずにあっけなくやられちまうと思って、そんなにネガティブ思考に陥ってしまってるんだな。元々、地平の加護を備えていたのはパンドラの地下迷宮の世界の俺だったからなぁ。夕緋が知らないのは当たり前か。
異世界の自分たち、勇者のミヅキとシキのみづき。
地平の加護という強力無比な権能を操り、パンドラの地下迷宮に初進入して生還し、天神回戦の初戦をも突破した。
それらが女神様の試練だったというなら、もうすでに第一の試練はクリアーしたということになる。
それを成し遂げさせた地平の加護は、パンドラの地下迷宮の世界の記憶喪失とされる三月の身体からもたらされたものだ。
試練に臨むに当たり、一応の体裁は整っているとも言えるが──。
夢の中の雛月は言った。
『これでようやく長い長い夢の旅が一区切り終わるんだ。今回の不思議体験は導入部分だったと思ってもらえると後々得心がいくと思う』
雛月の言葉通りなら試練はまだまだ始まったばかりだ。
三月が複数の異世界転移から解放されるのはおそらくずっと先の話に違いない。
いつまで続くのか、どうすれば終わらせることができるのか。
地平の加護があるとはいえ、三月に危険が伴うのに変わりはなかった。
三月は出された料理に手を付けず、夕緋の悲哀を黙って聞いていた。
「女神様の試練は、人の身で臨むにはあまりにも危険で苦難に満ちた、長く険しい道のりになると思う……。定められたお勤めを果たすまで三月は解放されず、命の保証なんかきっとなくて……。もしかしたら、三月にご飯をつくってあげられるのもこれが最後になるかもしれない……。そう思うと、私、私……」
そこまでぽつぽつと言うと、夕緋は言葉を詰まらせた。
あまりに落ち込む夕緋と、皿の上の美味しそうなハンバーグを見比べて、三月は思わず苦笑する。
「何だか、まるで最後の晩餐みたいだなぁ。縁起でもないよ、ははは……」
少しおどけて明るく笑ったつもりだった。
しかし、夕緋は身じろぎ一つせず、何も言わずに黙っていた。
刹那の沈黙の後、三月はぎょっと驚いた。
「夕緋……?!」
ぽたっ、ぽたたっ、と炬燵テーブルの上に大粒の雫《しずく》が落ちていた。
座ったまま肩を小刻みに震わせ、俯いた夕緋の黒い瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出していた。
嗚咽を漏らし、むせび泣きながらうわごとみたいに心の内を吐露する。
「うっ、うぅ、どうして今更三月なの……? どうして女神様は三月をお選びになったの……? これが生贄なのだとしたら、どうして私じゃないの……? 私にはもう三月しかいないのに、ひどいよ女神様……。私から三月を取らないで……!」
気丈に涙を堪えるでもなく、子供そのものに泣きじゃくる夕緋。
そこには普段の強い夕緋の面影は無かった。
拭うことを忘れた涙が、後から後から流れて頬を濡らしている。
悲しみだけでなく、無念の悔しさが涙と共に滲み出ていた。
「せっかく三月と恋人同士になれたのに、こんなのってないよ……! どうして、いつもいつもこうなの……? 私が欲しいのは三月だけなのに、もう少しのところで必ず邪魔が入ってしまう……! 私だって三月と結ばれたい、添い遂げたいよ! もう私を一人ぼっちにしないでっ……!」
夕緋が想い、願うのはたった一つの望みだった。
すべてを失っても、一途に心を捧げた相手を手に入れたい。
佐倉三月という男性と一生を過ごしたいという強い強い願い。
いったい何が夕緋をそこまで思わせるのか。
彼女の歩んできた人生の軌跡には何があったというのだろうか。
「夕緋……」
三月は立ち上がり、夕緋の座る炬燵テーブルの側に回ると、傍らに膝を落とす。
そして、ゆっくりと後ろからその身体を抱きしめた。
小さく震えているのが直に伝わってくる。
体温は熱く感じられ、心臓の鼓動が早くなっているのがよくわかった。
痛切な慟哭を目の当たりにし、改めて夕緋もか弱い一人の女性だと思い知る。
計り知れない神通力で怪異を祓ったり、男顔負けに力持ちで三月を守ったりしていた強い夕緋の姿は今はどこにも無かった。
夕緋は、数奇な運命を背負ってしまった三月に唯一つを願う。
それだけが彼女の伝えたかった想いだった。
「三月、死なないで、生きて帰ってきて……。お願い……!」
「わかったよ、夕緋。絶対に生きて帰ってくる……。約束する!」
夕緋を抱く手に力がこもる。
三月のその手に夕緋もそっと両手を重ねた。
「本当よ、絶対に帰ってきてね……」
「うん、絶対だ……!」
夕緋の冷えた手は弱々しく震えていて、それがどうしようもなく儚く感じた。
どれくらいの間、二人はそうしていただろうか。
少なくとも、つくってくれた料理が冷めてしまう程度の時間はそうしていた。
やがて、身体を離した二人はその場に立ち上がっていた。
夕緋は視線を落としたまま言う。
「今日はもう帰る……。このままここに居て、三月が目の前でいなくなってしまうのをもし見てしまったら……。私はきっと耐えられないと思うから……。ごめん、ご飯冷えちゃったね。温め直して食べておいて」
「うん、わかった。温かい内に食べれなくてごめん」
ゆっくりと顔を上げた夕緋はもう泣き止んでいた。
三月の無事を祈り、ささやかな願いをか細い声で伝える。
「……また、私にご飯をつくりに来させてね?」
「うん、頼むよ、夕緋」
「きっとよ……」
ようやく二人に小さく笑顔が戻る。
これが今生の別れにならぬよう──。
しっかりと約束を交わし、三月と夕緋は再び会うことを誓ったのだ。
二人の今夜の逢瀬はそれまでとなった。
それから夕緋は部屋の中をぐるぐると見回り、大っぴらにそれを行っていく。
「今まではこっそりやってたんだけど、もう隠さなくていいよね。こうやって三月に悪いものが近付かないように結界を張っていたの。三月がこの部屋に住んでいて安心できるように、居心地がいいようにってね。……黙っててごめんなさい」
「いや、いいよ。多分、そのお陰で今日は助かったんだと思うし……。引き続き、夕緋にはお世話になります」
夕緋がやっているのは結界の点検だった。
アパートの部屋全体を守護しているものだそうだ。
掌にふっと息を吹き掛け、部屋の隅、窓枠、玄関枠にかざして回る。
どうやら綻びが生じた結界を修復しているようである。
このおまじないじみた所作が、あの凄まじい破邪の防御能力を生み出しているのだから、夕緋の備える力には舌を巻くばかりであった。
俗域と聖域を分かつ領域が本来の結界の意味である。
夕緋がここで行っているのは三月自身と住む場所が、災いから護られるよう施した安全地帯の確立であった。
三月がこの部屋を安心のできる空間だと認識できるのもそう。
ゴブリンの襲撃を跳ね返し、おそらく魔物の群れを退治したのもそうだ。
人知れずこの場を聖域と化した夕緋の功績である。
「それじゃあ、今日はもう帰るけど……」
玄関で靴を履き、見送りに来た三月に夕緋は向き直る。
見上げる形となった三月の両肩に、夕緋は力強く両手を掛けた。
その表情は毅然としており、もう泣き腫らした悲しみの顔ではなかった。
「いい、三月、よく聞いてしっかり覚えておいて! 魂の死は肉体の死よ! 女神様の試練を夢や幻とは決して思わず真剣に向き合って! 試練で命を落とすようなことになれば、もうこっちの世界には二度と帰って来られなくなる!」
夕緋もまた覚悟を決めていた。
自分が手助けしたり護ったりしてあげられない以上、後はもう三月自身に託すより他はなく、こうなったら腹を括るしかない。
「頑張るよ、また夕緋に会えるようにさ」
答える三月に自然に抱きついて、夕緋はその胸に顔をうずめた。
片耳を押し当て、三月の心臓の音を確かめるように抱擁して瞳を閉じる。
「──どうか三月に女神様のご加護がありますように」
「夕緋……」
三月は夕緋の祈りを一身に受ける。
胸にしがみ付く必死なその姿を本当に愛おしく思う。
「……じゃ、また明日ね」
「うん、また明日」
ばたんと音を立ててドアが閉まる瞬間、夕緋は僅かに微笑んでいた。
三月も頑張って力無い笑顔をつくって応えた。
お互い、最後は強がった笑顔になってしまった。
但し、三月と夕緋は笑ってその日を別れることができた。
本来なら当たり前に明日が来て、当たり前に二人は再会できるはずなのに。
三月と夕緋だけはその当たり前の摂理の環から外れている。
人ならざる者たちの世界、──曰く異世界へと誘われる。
「……」
しばらく三月は、夕緋の居なくなった玄関に立ち尽くしていた。
無言で部屋に戻ると、すっかり冷えてしまったハンバーグを淡々と温め直す。
ハンバーグが電子レンジの中で加熱されていくのを呆然と見つめて考えている。
夕緋のつくってくれたご飯をもくもくと頬張りながら考え続けた。
──異世界転移だか女神様の試練だか、そんなのはどっちでもいいけども、こんなことをしてていいのかなぁ……。夕緋、あんなに泣いて、可哀相だったな……。
自分を想って夕緋は涙を流してくれた。
深い愛情をもって心配してくれていた。
あんな顔と様子を見せられ、胸が痛まない訳がない。
降って湧いて、身に降りかかった不可思議に疑問を感じずにいられなかった。
──雛月に言われて乗せられて、夕緋を悲しませてまで俺はいったい何をやってるんだ? これってそんなに大事なことなのか? 日和とした約束を守って、朝陽との秘密を聞いて今更どうしようってんだろうな……?
「何だか嫌な感じだな。迷ってるんだな、俺……」
食事を終えて、後片付けも面倒でそのまま後ろ向きに寝転がる。
天井を見上げて、ふぅ、とため息をついた。
夕緋の涙に心を揺らされ、胸に感じるのは言いようのない違和感。
雛月に従い、異世界を渡る物語などやっている場合なのだろうかと自問する。
摩訶不思議な夢物語より現実の生活のほうが大事である。
長い人生を夕緋と共にして、幸せに生きることにこそ力を注ぐべきだ。
異世界転移などという絵空事に興じ、心躍らせる時期はもう過ぎ去った。
少年から大人へと階段を上がった三月が見るにはもう相応しくない夢なのだ。
「それなのにこの感覚……。きっとこれは、そろそろ来るんだろうな……」
呟く三月は仰向けになった姿勢で、胸の衣服をぎゅうっと掴む。
夕緋が帰ってしばらくが経つというのにまだ胸騒ぎは収まっていなかった。
急速に眠気が襲ってくる。
多分、今晩は再び招かれるのだろう。
女神様の試練と称された、いずれかの世界への転移がおそらく待っている。
否応もなく、三月は挑まなくてはならない。
「三日ぶりか……。どっちの世界に行くのやらわからんけど、何だか妙に久しぶりな感じがするなぁ……。夕緋、おやすみ……。気をつけて行って、くる、よ……」
欠伸をかみ殺す間も無く、無抵抗に眠さに屈していく。
頭がふわふわして、瞼が落ちるのを我慢できない。
三月は観念すると、夕緋のことを思いながら眠りへと落ちる。
次の目覚めは果たしていつになるのか。
長い長い眠りの道行きへと三月の意識は旅立った。
『接続完了。迷宮の異世界への同期開始』
夕緋のつくったハンバーグのいい匂いが部屋中に漂う。
お皿には大きなハンバーグをメインにして、キャベツの千切り、ミニトマト、きゅうりのスライスが添えられていて、他には温かいご飯と味噌汁、常備菜の蓮根のきんぴらが食卓に並んだ。
ハンバーグは大根おろしとポン酢で食べるのが三月の好きな食べ方だ。
「あれ、夕緋の分は?」
「……」
三月の前だけにそれらの料理は用意されていて、夕緋が座った炬燵テーブルの上には何も並んでいない。
三月のグラスに麦茶をなみなみと注ぐ夕緋は黙っている。
エプロンは外していて、もうキッチンに立つ気配もなさそうだった。
夕緋は短くため息をつき、視線を落として消え入りそうな声で言った。
「……食欲が無くて、とても食事をするなんて気分になれないの。ごめんね、一人で食べさせちゃって。私のことは気にしなくていいよ」
「夕緋、大丈──」
「──三月」
何か言おうとする三月を遮り、夕緋は静かに話し始めた。
伏せた顔、両肘を抱く姿勢。
滅入った口調で口を開く夕緋は辛そうに見えた。
「食べながらでいいから聞いて。夕方、三月が女神様と契約を交わしたっていう話のことだけどね」
沈痛な面持ちでそう言うと、ふっと目線を上げて三月を見つめた。
その瞳にあるのは悲しみの色で、涙に濡れて潤んでいる。
「──三月には、女神様の試練が課せられると思う」
藪から棒に夕緋が言い出したのは、やはり夕方の話の続きだった。
夢か幻か、神々の異世界で小さな女神の日和と三月は約束をした。
天神回戦の試合を勝ち上がり、日和の神通力と神格を取り戻す。
その暁に、亡き朝陽との繋がりや秘密を明かしてもらえるという約束だ。
夕緋はそれを女神と契約を交わしたために与えられた試練だと称した。
三月が過酷な運命に立たされてしまったと嘆いている。
「いいえ、試練はもう始まってるのかな……。三月の中に刻まれた女神様の因果の糸が、すでに私の与り知らないどこかと繋がってしまっている……。もうきっと、とても危険な試練の渦中に三月はいるのね。だけど、私にはどうしてあげることもできないの……。三月がどこで何をしているのかはわからない……。私の手の届くところなら守ってあげられるのに……」
しかし、世界を隔てた先の出来事にはさすがの夕緋にも手が出せない。
三月を自分の手で守ってあげられないのを歯がゆく思う。
「本当にごめんなさい、無力な私を許して……」
肩を震わせて、夕緋は申し訳なさそうに謝罪を口にした。
三月に降り掛かった、文字通りの天災を不憫《ふびん》に思ったからだけではない。
夕緋は苦慮していた。
今はまだ無事でいるが、このままではただの人の身でしかない三月はあえなく死んでしまう。
そう思うと、無念の言葉が後から後から零れ出す。
「こんなの酷すぎる……。三月に私みたいな特別な力は無いのに……。三月も三月よ、どうしてこんな大事なことを安請け合いしてしまったの……? 後先考えないなんていう次元の話じゃないよ……」
「う、ご、ごめん……」
夕緋の責めるような口振りに思わず謝ってしまう三月。
どうしてこうも悲観的に心配をされているのか、その理由は理解できた。
慧眼の夕緋でさえ知らない三月の内に宿った力。
唐突に授けられた、未だに理解が及ばない規格外の権能。
──夕緋は雛月のこと、地平の加護のことは知らないのか。だから、普通の人間でしかない俺が試練に手も足も出せずにあっけなくやられちまうと思って、そんなにネガティブ思考に陥ってしまってるんだな。元々、地平の加護を備えていたのはパンドラの地下迷宮の世界の俺だったからなぁ。夕緋が知らないのは当たり前か。
異世界の自分たち、勇者のミヅキとシキのみづき。
地平の加護という強力無比な権能を操り、パンドラの地下迷宮に初進入して生還し、天神回戦の初戦をも突破した。
それらが女神様の試練だったというなら、もうすでに第一の試練はクリアーしたということになる。
それを成し遂げさせた地平の加護は、パンドラの地下迷宮の世界の記憶喪失とされる三月の身体からもたらされたものだ。
試練に臨むに当たり、一応の体裁は整っているとも言えるが──。
夢の中の雛月は言った。
『これでようやく長い長い夢の旅が一区切り終わるんだ。今回の不思議体験は導入部分だったと思ってもらえると後々得心がいくと思う』
雛月の言葉通りなら試練はまだまだ始まったばかりだ。
三月が複数の異世界転移から解放されるのはおそらくずっと先の話に違いない。
いつまで続くのか、どうすれば終わらせることができるのか。
地平の加護があるとはいえ、三月に危険が伴うのに変わりはなかった。
三月は出された料理に手を付けず、夕緋の悲哀を黙って聞いていた。
「女神様の試練は、人の身で臨むにはあまりにも危険で苦難に満ちた、長く険しい道のりになると思う……。定められたお勤めを果たすまで三月は解放されず、命の保証なんかきっとなくて……。もしかしたら、三月にご飯をつくってあげられるのもこれが最後になるかもしれない……。そう思うと、私、私……」
そこまでぽつぽつと言うと、夕緋は言葉を詰まらせた。
あまりに落ち込む夕緋と、皿の上の美味しそうなハンバーグを見比べて、三月は思わず苦笑する。
「何だか、まるで最後の晩餐みたいだなぁ。縁起でもないよ、ははは……」
少しおどけて明るく笑ったつもりだった。
しかし、夕緋は身じろぎ一つせず、何も言わずに黙っていた。
刹那の沈黙の後、三月はぎょっと驚いた。
「夕緋……?!」
ぽたっ、ぽたたっ、と炬燵テーブルの上に大粒の雫《しずく》が落ちていた。
座ったまま肩を小刻みに震わせ、俯いた夕緋の黒い瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出していた。
嗚咽を漏らし、むせび泣きながらうわごとみたいに心の内を吐露する。
「うっ、うぅ、どうして今更三月なの……? どうして女神様は三月をお選びになったの……? これが生贄なのだとしたら、どうして私じゃないの……? 私にはもう三月しかいないのに、ひどいよ女神様……。私から三月を取らないで……!」
気丈に涙を堪えるでもなく、子供そのものに泣きじゃくる夕緋。
そこには普段の強い夕緋の面影は無かった。
拭うことを忘れた涙が、後から後から流れて頬を濡らしている。
悲しみだけでなく、無念の悔しさが涙と共に滲み出ていた。
「せっかく三月と恋人同士になれたのに、こんなのってないよ……! どうして、いつもいつもこうなの……? 私が欲しいのは三月だけなのに、もう少しのところで必ず邪魔が入ってしまう……! 私だって三月と結ばれたい、添い遂げたいよ! もう私を一人ぼっちにしないでっ……!」
夕緋が想い、願うのはたった一つの望みだった。
すべてを失っても、一途に心を捧げた相手を手に入れたい。
佐倉三月という男性と一生を過ごしたいという強い強い願い。
いったい何が夕緋をそこまで思わせるのか。
彼女の歩んできた人生の軌跡には何があったというのだろうか。
「夕緋……」
三月は立ち上がり、夕緋の座る炬燵テーブルの側に回ると、傍らに膝を落とす。
そして、ゆっくりと後ろからその身体を抱きしめた。
小さく震えているのが直に伝わってくる。
体温は熱く感じられ、心臓の鼓動が早くなっているのがよくわかった。
痛切な慟哭を目の当たりにし、改めて夕緋もか弱い一人の女性だと思い知る。
計り知れない神通力で怪異を祓ったり、男顔負けに力持ちで三月を守ったりしていた強い夕緋の姿は今はどこにも無かった。
夕緋は、数奇な運命を背負ってしまった三月に唯一つを願う。
それだけが彼女の伝えたかった想いだった。
「三月、死なないで、生きて帰ってきて……。お願い……!」
「わかったよ、夕緋。絶対に生きて帰ってくる……。約束する!」
夕緋を抱く手に力がこもる。
三月のその手に夕緋もそっと両手を重ねた。
「本当よ、絶対に帰ってきてね……」
「うん、絶対だ……!」
夕緋の冷えた手は弱々しく震えていて、それがどうしようもなく儚く感じた。
どれくらいの間、二人はそうしていただろうか。
少なくとも、つくってくれた料理が冷めてしまう程度の時間はそうしていた。
やがて、身体を離した二人はその場に立ち上がっていた。
夕緋は視線を落としたまま言う。
「今日はもう帰る……。このままここに居て、三月が目の前でいなくなってしまうのをもし見てしまったら……。私はきっと耐えられないと思うから……。ごめん、ご飯冷えちゃったね。温め直して食べておいて」
「うん、わかった。温かい内に食べれなくてごめん」
ゆっくりと顔を上げた夕緋はもう泣き止んでいた。
三月の無事を祈り、ささやかな願いをか細い声で伝える。
「……また、私にご飯をつくりに来させてね?」
「うん、頼むよ、夕緋」
「きっとよ……」
ようやく二人に小さく笑顔が戻る。
これが今生の別れにならぬよう──。
しっかりと約束を交わし、三月と夕緋は再び会うことを誓ったのだ。
二人の今夜の逢瀬はそれまでとなった。
それから夕緋は部屋の中をぐるぐると見回り、大っぴらにそれを行っていく。
「今まではこっそりやってたんだけど、もう隠さなくていいよね。こうやって三月に悪いものが近付かないように結界を張っていたの。三月がこの部屋に住んでいて安心できるように、居心地がいいようにってね。……黙っててごめんなさい」
「いや、いいよ。多分、そのお陰で今日は助かったんだと思うし……。引き続き、夕緋にはお世話になります」
夕緋がやっているのは結界の点検だった。
アパートの部屋全体を守護しているものだそうだ。
掌にふっと息を吹き掛け、部屋の隅、窓枠、玄関枠にかざして回る。
どうやら綻びが生じた結界を修復しているようである。
このおまじないじみた所作が、あの凄まじい破邪の防御能力を生み出しているのだから、夕緋の備える力には舌を巻くばかりであった。
俗域と聖域を分かつ領域が本来の結界の意味である。
夕緋がここで行っているのは三月自身と住む場所が、災いから護られるよう施した安全地帯の確立であった。
三月がこの部屋を安心のできる空間だと認識できるのもそう。
ゴブリンの襲撃を跳ね返し、おそらく魔物の群れを退治したのもそうだ。
人知れずこの場を聖域と化した夕緋の功績である。
「それじゃあ、今日はもう帰るけど……」
玄関で靴を履き、見送りに来た三月に夕緋は向き直る。
見上げる形となった三月の両肩に、夕緋は力強く両手を掛けた。
その表情は毅然としており、もう泣き腫らした悲しみの顔ではなかった。
「いい、三月、よく聞いてしっかり覚えておいて! 魂の死は肉体の死よ! 女神様の試練を夢や幻とは決して思わず真剣に向き合って! 試練で命を落とすようなことになれば、もうこっちの世界には二度と帰って来られなくなる!」
夕緋もまた覚悟を決めていた。
自分が手助けしたり護ったりしてあげられない以上、後はもう三月自身に託すより他はなく、こうなったら腹を括るしかない。
「頑張るよ、また夕緋に会えるようにさ」
答える三月に自然に抱きついて、夕緋はその胸に顔をうずめた。
片耳を押し当て、三月の心臓の音を確かめるように抱擁して瞳を閉じる。
「──どうか三月に女神様のご加護がありますように」
「夕緋……」
三月は夕緋の祈りを一身に受ける。
胸にしがみ付く必死なその姿を本当に愛おしく思う。
「……じゃ、また明日ね」
「うん、また明日」
ばたんと音を立ててドアが閉まる瞬間、夕緋は僅かに微笑んでいた。
三月も頑張って力無い笑顔をつくって応えた。
お互い、最後は強がった笑顔になってしまった。
但し、三月と夕緋は笑ってその日を別れることができた。
本来なら当たり前に明日が来て、当たり前に二人は再会できるはずなのに。
三月と夕緋だけはその当たり前の摂理の環から外れている。
人ならざる者たちの世界、──曰く異世界へと誘われる。
「……」
しばらく三月は、夕緋の居なくなった玄関に立ち尽くしていた。
無言で部屋に戻ると、すっかり冷えてしまったハンバーグを淡々と温め直す。
ハンバーグが電子レンジの中で加熱されていくのを呆然と見つめて考えている。
夕緋のつくってくれたご飯をもくもくと頬張りながら考え続けた。
──異世界転移だか女神様の試練だか、そんなのはどっちでもいいけども、こんなことをしてていいのかなぁ……。夕緋、あんなに泣いて、可哀相だったな……。
自分を想って夕緋は涙を流してくれた。
深い愛情をもって心配してくれていた。
あんな顔と様子を見せられ、胸が痛まない訳がない。
降って湧いて、身に降りかかった不可思議に疑問を感じずにいられなかった。
──雛月に言われて乗せられて、夕緋を悲しませてまで俺はいったい何をやってるんだ? これってそんなに大事なことなのか? 日和とした約束を守って、朝陽との秘密を聞いて今更どうしようってんだろうな……?
「何だか嫌な感じだな。迷ってるんだな、俺……」
食事を終えて、後片付けも面倒でそのまま後ろ向きに寝転がる。
天井を見上げて、ふぅ、とため息をついた。
夕緋の涙に心を揺らされ、胸に感じるのは言いようのない違和感。
雛月に従い、異世界を渡る物語などやっている場合なのだろうかと自問する。
摩訶不思議な夢物語より現実の生活のほうが大事である。
長い人生を夕緋と共にして、幸せに生きることにこそ力を注ぐべきだ。
異世界転移などという絵空事に興じ、心躍らせる時期はもう過ぎ去った。
少年から大人へと階段を上がった三月が見るにはもう相応しくない夢なのだ。
「それなのにこの感覚……。きっとこれは、そろそろ来るんだろうな……」
呟く三月は仰向けになった姿勢で、胸の衣服をぎゅうっと掴む。
夕緋が帰ってしばらくが経つというのにまだ胸騒ぎは収まっていなかった。
急速に眠気が襲ってくる。
多分、今晩は再び招かれるのだろう。
女神様の試練と称された、いずれかの世界への転移がおそらく待っている。
否応もなく、三月は挑まなくてはならない。
「三日ぶりか……。どっちの世界に行くのやらわからんけど、何だか妙に久しぶりな感じがするなぁ……。夕緋、おやすみ……。気をつけて行って、くる、よ……」
欠伸をかみ殺す間も無く、無抵抗に眠さに屈していく。
頭がふわふわして、瞼が落ちるのを我慢できない。
三月は観念すると、夕緋のことを思いながら眠りへと落ちる。
次の目覚めは果たしていつになるのか。
長い長い眠りの道行きへと三月の意識は旅立った。
『接続完了。迷宮の異世界への同期開始』
応援ありがとうございます!
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