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第3章 希望の一手、最下級兵ゴブタの発見
申請書と副官と、ちょっとした賭け
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石造りの廊下を抜け、リリシアの執務室に辿り着いたのは、朝の始業時間より少し前だった。
薄曇りの空が高窓から差し込む中、山本は扉を軽くノックする。
「入れ」
冷たい声が扉の向こうから返ってくる。
山本は扉を押し開け、手にした筒状の申請書を持って一歩踏み込んだ。
部屋は質素だが整っていた。壁際には文献がびっしりと詰まった書架、中央の机には整然と並べられた報告書の山。
その奥で、リリシアは椅子に背筋を伸ばして座り、書類に視線を落としていた。
彼女の目が一度だけ山本に向けられたが、その表情には相変わらず感情の起伏はない。
「何の用だ。報告書か、また視察の許可でも求めに来たか」
山本は机の前まで歩み寄ると、申請書をすっと机上に置いた。
「転属の申請です。ある兵士を、遊撃斥候部隊へ仮配属させたい」
その一言に、リリシアの手が止まった。
細く長い指がペンを離し、視線が申請書へと移動する。
羊皮紙を一枚めくり、数行読んだだけで彼女の眉がわずかに動いた。
「……ゴブタ?」
読み上げた名に、僅かな疑念と呆れが混ざった声が滲む。
「その兵は、下級の中でも下の下だ。補給班の雑用係。事故報告の常連で、指導歴も短い。転属対象として名が挙がること自体が珍しい」
「ええ、だからこそです」
山本は一歩引かず、静かに言った。
「今まで見過ごされてきた“資質”がある。戦場で命を落とす前に、正しい配置に就かせたい。それが叶うなら、試す価値はあります」
「資質? それは君の目に見えたという“光”の話か」
「ええ、それもありますが、それだけじゃありません。目に見える行動のパターン、反応の速さ、状況の読み取り。全て観察した上で判断しています。単なる感情論ではありません」
リリシアは書類をもう一度読み直し、黙り込んだ。
彼女にとって、規定に沿わない特例は好ましくない。魔王軍の制度は古く、柔軟性を欠く場面も多い。
それを承知の上での提案であることを、山本はよく理解していた。
「この配置換えが認められるとしても、仮配属は一ヶ月が限度。試用期間だ。成果が出なければ、君の推薦そのものが“誤判断”と見なされる」
「構いません。そのつもりで書いています」
「山本孝一。君にはすでに魔王直々の猶予が一ヶ月与えられている。その中で成果を上げる必要があるのに、最も評価の低い兵士に時間を費やすのは、合理的ではない」
「合理的かどうかを決めるのは、結果が出た後でいい」
その言葉に、リリシアの目がわずかに鋭くなる。
「……その兵士に賭けるのか。今の時点では、他の誰も評価していない存在に」
「“他の誰も”が見落としているからこそ、価値があるんです。
もしこの配置が当たれば、他の兵士たちにも希望が芽生えます。“あのゴブタが配属されたなら、自分にもチャンスがあるかもしれない”と」
「民心操作か?」
「違います。“信頼の補強”です。組織にとって、人材を正しく見ようとする姿勢は最も基礎的な信用です。
誰かが見てくれていると感じることで、士気も安定する。これは戦術でも戦略でもなく、“組織運営”の基本です」
リリシアは息を吐くように、椅子にもたれた。
窓の外からは、訓練場の掛け声が遠くに聞こえてくる。
「申請は……受理する。だが条件をつける。一ヶ月以内に、遊撃隊の戦果、損耗率、通信精度。三つの指標で成果が出なければ、君の推薦は撤回される」
「了解しました」
「場合によっては、推薦そのものの資格も再検討されることになる。責任は重い」
山本はわずかに口元を引き締め、頷いた。
「望むところです」
言葉には揺るぎがなかった。
彼にはわかっていた。今の自分に与えられた命は、すでに一ヶ月という期限付きのものでしかない。
魔王ヴァルグラドの言葉は明確だった。「成果がなければ処刑」
それが、冗談や比喩ではないことも、日々のやりとりから十分に感じている。
「どうせ、与えられた時間は限られている。ならば、その中で自分にしかできない一手を打つべきです。
ゴブタのような存在が活躍すれば、それはこの軍の中に“変化の余地”があると証明することになる。
たとえ小さなことでも、前例になる。それを作る価値は、きっと大きい」
「……」
リリシアは返答をしなかった。
だが彼女の手は、すでに申請書の下部に受理印を押していた。
魔族文字で刻まれた軍印が、鮮やかに赤い色で滲む。
それはまさに、山本にとっての“初めての公式な一手”が認められた証だった。
彼は丁寧に頭を下げ、書類を回収して立ち上がった。
「ありがとうございます。報告は随時、あなたに提出します」
「当然だ。私が判断する」
「ええ、それが筋でしょう」
山本が静かに部屋を後にすると、リリシアはしばらく書類を睨み続けていた。
誰もが見捨てた“最下級兵”に、ひとりの人間が賭けた。
合理性は薄い。だが、そこに揺るぎない“判断の意志”がある。
そしてその意志は――たとえ敵国の者であっても――どこか懐かしい感覚を呼び起こすのだった。
薄曇りの空が高窓から差し込む中、山本は扉を軽くノックする。
「入れ」
冷たい声が扉の向こうから返ってくる。
山本は扉を押し開け、手にした筒状の申請書を持って一歩踏み込んだ。
部屋は質素だが整っていた。壁際には文献がびっしりと詰まった書架、中央の机には整然と並べられた報告書の山。
その奥で、リリシアは椅子に背筋を伸ばして座り、書類に視線を落としていた。
彼女の目が一度だけ山本に向けられたが、その表情には相変わらず感情の起伏はない。
「何の用だ。報告書か、また視察の許可でも求めに来たか」
山本は机の前まで歩み寄ると、申請書をすっと机上に置いた。
「転属の申請です。ある兵士を、遊撃斥候部隊へ仮配属させたい」
その一言に、リリシアの手が止まった。
細く長い指がペンを離し、視線が申請書へと移動する。
羊皮紙を一枚めくり、数行読んだだけで彼女の眉がわずかに動いた。
「……ゴブタ?」
読み上げた名に、僅かな疑念と呆れが混ざった声が滲む。
「その兵は、下級の中でも下の下だ。補給班の雑用係。事故報告の常連で、指導歴も短い。転属対象として名が挙がること自体が珍しい」
「ええ、だからこそです」
山本は一歩引かず、静かに言った。
「今まで見過ごされてきた“資質”がある。戦場で命を落とす前に、正しい配置に就かせたい。それが叶うなら、試す価値はあります」
「資質? それは君の目に見えたという“光”の話か」
「ええ、それもありますが、それだけじゃありません。目に見える行動のパターン、反応の速さ、状況の読み取り。全て観察した上で判断しています。単なる感情論ではありません」
リリシアは書類をもう一度読み直し、黙り込んだ。
彼女にとって、規定に沿わない特例は好ましくない。魔王軍の制度は古く、柔軟性を欠く場面も多い。
それを承知の上での提案であることを、山本はよく理解していた。
「この配置換えが認められるとしても、仮配属は一ヶ月が限度。試用期間だ。成果が出なければ、君の推薦そのものが“誤判断”と見なされる」
「構いません。そのつもりで書いています」
「山本孝一。君にはすでに魔王直々の猶予が一ヶ月与えられている。その中で成果を上げる必要があるのに、最も評価の低い兵士に時間を費やすのは、合理的ではない」
「合理的かどうかを決めるのは、結果が出た後でいい」
その言葉に、リリシアの目がわずかに鋭くなる。
「……その兵士に賭けるのか。今の時点では、他の誰も評価していない存在に」
「“他の誰も”が見落としているからこそ、価値があるんです。
もしこの配置が当たれば、他の兵士たちにも希望が芽生えます。“あのゴブタが配属されたなら、自分にもチャンスがあるかもしれない”と」
「民心操作か?」
「違います。“信頼の補強”です。組織にとって、人材を正しく見ようとする姿勢は最も基礎的な信用です。
誰かが見てくれていると感じることで、士気も安定する。これは戦術でも戦略でもなく、“組織運営”の基本です」
リリシアは息を吐くように、椅子にもたれた。
窓の外からは、訓練場の掛け声が遠くに聞こえてくる。
「申請は……受理する。だが条件をつける。一ヶ月以内に、遊撃隊の戦果、損耗率、通信精度。三つの指標で成果が出なければ、君の推薦は撤回される」
「了解しました」
「場合によっては、推薦そのものの資格も再検討されることになる。責任は重い」
山本はわずかに口元を引き締め、頷いた。
「望むところです」
言葉には揺るぎがなかった。
彼にはわかっていた。今の自分に与えられた命は、すでに一ヶ月という期限付きのものでしかない。
魔王ヴァルグラドの言葉は明確だった。「成果がなければ処刑」
それが、冗談や比喩ではないことも、日々のやりとりから十分に感じている。
「どうせ、与えられた時間は限られている。ならば、その中で自分にしかできない一手を打つべきです。
ゴブタのような存在が活躍すれば、それはこの軍の中に“変化の余地”があると証明することになる。
たとえ小さなことでも、前例になる。それを作る価値は、きっと大きい」
「……」
リリシアは返答をしなかった。
だが彼女の手は、すでに申請書の下部に受理印を押していた。
魔族文字で刻まれた軍印が、鮮やかに赤い色で滲む。
それはまさに、山本にとっての“初めての公式な一手”が認められた証だった。
彼は丁寧に頭を下げ、書類を回収して立ち上がった。
「ありがとうございます。報告は随時、あなたに提出します」
「当然だ。私が判断する」
「ええ、それが筋でしょう」
山本が静かに部屋を後にすると、リリシアはしばらく書類を睨み続けていた。
誰もが見捨てた“最下級兵”に、ひとりの人間が賭けた。
合理性は薄い。だが、そこに揺るぎない“判断の意志”がある。
そしてその意志は――たとえ敵国の者であっても――どこか懐かしい感覚を呼び起こすのだった。
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