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忘れていたこと
四十五、
しおりを挟む夢を見ていた。
その日は、例年よりも十日早い梅雨入りが観測され、夕方から冷たい雨が降っていた。母から「ちゃんと傘持って行くのよー!」と、新しく買ってくれた水色の傘を持たされたが、下校時間にはまだポツリポツリとした小雨で使う必要は無く、そのまま帰宅した。
母は近所のスーパーで働いていた。三年前にホールスタッフとして働いていたラーメン屋が経営不振で潰れてしまい、パートとして入社したが明るい性格でお客さんから受けがよく、一年前に正社員雇用となった。小学生の俺がいるのであまり残業をさせないことを条件として提示していたので、通常であれば十九時には帰ってくるはずだった。宿題と炊飯の準備をした俺は、本を読みながら母の帰宅を待っていた。
「お母さん、遅いな」
時間は既に十九時を超え、二十時前だった。遅くなる時はいつも家に電話がかかってくる。だけど今日はかかってこず不思議に思いながら味噌汁だけでも作っておこうと立ち上がった。その時、漸く電話が鳴り母だと信じて疑わずに受話器を手に取った。
「もしもし、お母さん?忙しかったの?お味噌汁だけ作っておこう……」
「宮本さんのお宅ですか?」
電話の向こうから知らない男の人の声がした。困惑したが、相手が母では無かったのだと恥ずかしくなる。
「そうですが……誰ですか?」
「警察です。君は宮本美知子さんのお子さんですか?」
「美知子は母ですが、なにかしたんですか?」
警察は悪い人を捕まえる仕事をする人だと認識していた為、母が何かしたのではないかと思った。学生時代は何度も補導されてたらしいが、今は息子から見たら真面目な母親だったので信じられない思いだった。
だが、警察から言われたのはもっと信じられないことだった。
「落ち着いて聞いてください。あなたのお母さんが事故で亡くなりました。」
「……は?」
理解できず、それ以上返事をすることができなかった。だけど、脳が痺れるような感覚と冷水をかけられたような不快感が全身を駆け巡った。手が震えて、自分が立っているのどうかも分からない。
「どこかに頼れるような大人はいるかな?お父さんは……」
受話器から聞こえてきた声が不意に途切れた。あれ?切れたのかな?と電話を見たが、自分の掌から滑り落ちていただけで、耳を澄ますとまだ微かに警察の声が聞こえた。
(うそだ……。)
何かの間違いだと、今し方聞いた言葉を否定した。
(それかよく見るドッキリで……そうだ、昨日お母さんとテレビで見ていたし、驚かせようと面白おかしく企んだんだ。そうに違いない、スーパーに電話してみよう。そこまでしたら流石に種明かしするだろうし、ああでも、まだ電話は繋がってる……いや、警察なんて嘘なんだし切ってもいいはず……)
電話を切って、スーパーにかけようと手を動かした。いや、動かしたつもりだった。自分の身体とは思えないくらい固まっていて、重くて、苦しい。
(……お母さんは、こんなこと面白おかしくする人じゃない。)
嘘だと信じたくて、違うと思い込もうとしたが、母の笑顔がその考えの邪魔をした。俺が悲しくなるような嘘なんて、お母さんが吐くはずがない。
いきなりのことで、感情が追いつかない。悲しいとも辛いとも思えなかった。ただ胸の痛みと苦しさが、現実を突きつけてくるようだった。
場面が変わった。ああ、これは納棺の時だ。
美恵子さんと仁さん、まだ幼い大翔、祖父母がいる。何が何だかわからないまま、納棺師の言葉通りに動き母の手を拭こうとそっと触れた。そして、頭を殴られたような衝撃を受けた。
(つめ……たい……。)
つい数日前まで、撫でてくれた手。温かくて、ぐしゃくじゃと少し乱暴に撫でてくれた優しい手。これがあの母と同じ手だと思えなかった。手の形をした氷なのではないかとさえ思った。
(もう、いない……。)
今更、急にそう実感した。母の遺体を初めて見た時も、泣いている美恵子さんに抱きしめられた時も、何層にもなるフィルターを通した遠い向こうの出来事にしか思えなかった。それが、初めて母の手に触れてこれが「死」なのだということを理解した。
(……いやだ。)
これからの時間にお母さんがいない。そう思うだけで気が狂いになる。誕生日も、クリスマスも、お正月も、ずっとお母さんがいない。もう、お母さんの作る色んな形のホットケーキを食べることができない。
いやだ、こわい。なんで、なんで……。
「うわああああ……!!」
「清飛…!」
「やだっ、やだぁ……!」
隣にいた美恵子さんにぎゅっと抱きしめられる。お母さんと似てる、だけどお母さんじゃない。
つらい、もうこんな悲しい思いはしたくない。
「ぴゃっ!ぴゃー!!」
「清飛!清飛!大丈夫だよ!」
はっと目を開けると、険しい顔をしたケリーに顔を覗きこまれていた。頬には柔らかい感触と、左手をギュッと握られている感覚がある。頬に視線を向けるとテテが心配そうな、泣きそうな表情で俺を見ていた。
(今日はテテを泣かせてばかりだ。)
「……ごめん、魘されてた?」
起き上がって、テテを撫でながらケリーに聞くと「うん……」と左手を強く握っていた手が少し緩んだ。ため息を吐いて、体の力を抜く。
「よくあったんだ。最近はあまり無かったんだけど……」
「そっか……辛そうだったから、心配した。お茶飲む?」
「ああ、の……」
飲む、と言おうとして晩ごはんのあとの会話を思い出した。あんな話をしておいて頼るのは虫が良すぎると、言葉を飲み込み唇を噛む。
「いや、大丈夫。驚かせてごめん。もう寝る」
「え、うん……」
ケリーに背を向けて、ベッドに横になった。余計な心配をさせてしまったが、最期の母の夢を見て忘れていたことを思い出し、決心がついた。
急な突然のお別れよりも辛いものはないのだということ。予めわかってるお別れの方が幾分かマシだ。ケリーとテテと離れるのは辛いが、猶予がある。一週間後のその日まで、できるだけ穏やかに過ごしていこう。
望みというには切ない、諦めのような気持ち。胸に燻る悲しさはあるが、これ以上心を乱すことがないように瞼を閉じた。
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