陽気な吸血鬼との日々

波根 潤

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忘れていたこと

四十四、

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 歯を磨いて戻ると、俺に背を向けてケリーがテテに何かを言っていた。傷ついたテテを励ましているのだろうか。声はかけず、少し離れた場所に座るとケリーは俺に気付き、振り返った。その表情は少し困ったような笑顔で、冷たい表情では無かったことに身勝手ながら安心した。

「さっきの話さ」
「うん」
「俺とテテがいるの、どうしても嫌って思う日は無かった?」
「……少し嫌だったくらいだよ。どうしても嫌だったらすぐに出て行かせてる。俺はそんなにお人好しじゃないし。さっきも言ったけど家事してくれるのは助かってたし」

そう言うと、ケリーはホッとしたような笑顔になった。

「そっか。少しでもいて良かったって思ってくれたなら良かった。でも、迷惑かけてごめんね」
「いや、俺も今更こんなこと言ったし」
「家事、助かってたんなら良かった。住まわせてもらったんだし、残りの日もそれくらいはさせて。あと一週間、お世話になります」

正座して、ケリーは頭を下げた。日本人のような仕草をすると、普段なら笑っていたかもしれない。だけど、他人行儀なその行動に悲しくなってしまって笑うことなどできなかった。
 心に隙間があいて、冷たい風が吹きぬけたような感覚がした。その時初めて、俺はケリーがここに残ると言ってくれるのを期待していたのだと気づいた。こっちの世界での生活も楽しんでいるようだったから、もしかしてと。だが、元いた世界に帰ろうとしていた吸血鬼に、気が滅入るようなことを言ったのだからそんな都合のいいことが起こるはずなどなかった。もし万が一、こっちの世界に残るようなことがあっても住むところは探せばまだあるはずで、このアパートに固執する理由もない。
 これ以上ケリーと話しているといつかぼろが出そうだった。だから、頭を下げるケリーに上手く話すことができず「うん」と一言返すだけで精一杯だった。

 

 テテは俺とケリーが話し始めた時から、部屋の隅で小さく丸まっていた。いつもは後ろを向いていても、俺が視線を向けるとすぐに気づいて可愛い鳴き声とともに近寄ってきてくれるのだが、もうその行動はされなかった。もしかしたら呼んだら来てくれるかもしれないが、何も声をかけず目を逸らした。
 寝る間際、約束していた通り血を吸われる為にベッドに座った。表情も声のトーンもいつも通りで手袋をした手で頬に触れられ優しく笑いかけられる。あまりにも普段通り過ぎて先程の会話など無かったのだろうかと甘い考えが頭をよぎるが、これまでと若干離れた位置に座っていることと、テテの様子が視界に映らないことでそんな考えは軽く払拭された。

(悲しいとか、身勝手すぎる。)

「首からで大丈夫?」
「うん」
「わかった。吸うね」

 いつものようにゆっくりと、首元にケリーの顔が近づいてきた。もうすっかり慣れているので訪れる痛みに心の準備をする。

「ぁ……え?」

だが、予想と違う感触に身体がびくりと震えた。それは血を吸われたあとにされる、傷口を塞ぐ為の行為で先にされるのは初めてだった。

(なんで、舐めたんだ?)

そのように思ったのも束の間、すぐにいつもの痛みがきた。痛いのに、これまでと同じ行為にホッとする。
 傷口を塞ぐ為とはいえ、首を舐められるのは苦手だった。くすぐったいし、身体が震えてしまって恥ずかしい。ケリーも俺が苦手に思っているのを薄ら気付いているようだったのだが。

(もしかして、酷いこと言った腹いせとか?)

そう思い至り、腑に落ちた。表情も声も変わらないが、態度は少しよそよそしくなり距離も遠くなった。変わらないように努めているが、ケリーにも怒りとはいかずとも嫌な感情が沸いただろう。その腹いせに俺が苦手とする行為をしてきたんだと思うと、悲しいが納得してしまった。それでケリーの気が少しでも晴れるなら甘んじて受けようとも思った。
 しかし、普段と違う行為は最初に舐められた行為だけだった。その後は背中に手をまわされ、優しくポンポンと叩かれる。抱きしめるような構図になることも変わらないし、背中にまわした方と逆の手は後頭部に添えられ慈しむように撫でられた。その行動に、視界がぼやけた。

(優しくしなくていいのに。)

いっそ力任せに、身動きもとれないように身体を押さえつけられて深く噛みつかれ痛みに呻いても仕方ないと思った。イライラをぶつけられても我慢できたし、身勝手な話、俺も後腐れなくケリーと離れることができると思ったからだ。
 ただ、ケリーはどこまでも優しい。それを俺はこの三週間程で実感したはずだった。いくら自分が嫌な思いをしても、人を怖がらせたくない優しい吸血鬼が痛めつける行為なんてする訳なかった。
 その優しさが辛いと、心が苦しくなるのが自分にとっての罰なのだと思った。
 涙を溢さないように唇をぐっと噛んだ。その後すぐに、傷口を舐められてまた身体が震え、終わったと力が抜ける。

「ごめん!痛かった?」
「え?」
「身体が強張ったと思って」

心配そうに見つめられ疑問が浮かぶが、唇を噛んだ時に身体が強張ったと勘違いされたのに気づいた。

「いや、いつもと同じ……」
「じゃあやっぱりしんどかったのかな?無理させちゃったね。もう寝ようか」

違う、無理はしてないと頭の中には否定の言葉が浮かんだ。毎度のことながら頭がぼーっとするのでそれを言うことはできずに「うん……」と小さく頷いた。
 ベッドに寝かされ、布団をかけられいつもならぼんやりとケリーを見るが今日は視線を壁に向けた。気を抜くと泣きそうになってしまうのは継続していて堪えるのに必死だった。

「おやすみ、清飛」
「……おやすみなさい」

意識が底に吸い込まれていく。明日からの残りの日々がどうなってしまうだろうかと少し不安になりながら、沈んだ気持ちのまま眠りについた。
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