ヒト

宇野片み緒

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イルカ

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一つめは静かな星の中で唯一届く彼の心を聞いていた。他の個体に紛れないので遠くても明瞭だった。湖の底から思いをくるんだ泡が浮かんできて、音に化けて耳に飛び込んでくるような感覚。ノイズはなく、まっすぐ。でもイルカがどの個体と話しているのか、相手が何と返しているのかは微塵も聞こえない。



─説教のつもりか─不意にイルカの心が、怒気を込めた波打つ音で響いた。長生きと口論ばかりしていた彼を一つめは思い出す。相手が返事をしたらしく、論説は続いた。─何様だいお前は。監視でも頼まれてんのかい──誰からってそりゃあ──確かに頼む素振りはなかった──でも僕は見極めがそう得意じゃないだろ─



湖底から全て届く。責め立てるような強い感情と、自責の念。心は多層。先代はいつも本気じゃないふうに言っていたから気づけなかった。一つめは考える。これは訴えか、それとも距離を取ったからもう聞こえないと思い込んでいるのだろうか。彼のことだからきっと後者だ。盗み聞きの罪悪感で目を伏せた。



─聞けないのを良いことに、取引してたんだろ。長生きとつのはさ──僕がまたヒトモドキになるかの賭けでもしたか?──なんで近づいた。いない間に横取りする気だったか。僕の記憶が消えるのを願ったか──ああ、分かってる、こんな考えはどうかしてる。分かってる。心なんか届くな──なあ、頼むよ─



「ねえイルカ。私まだ聞こえているの。前の前と同じで、見極めが異常に上手いみたいで」彼女は急に声を張った。続ける。「こんなに大声なら湖の底まで届くわよね。教えたわよ、これで盗み聞きじゃない。しかも今回は私、あなたの心だけが聞こえているから、他のノイズがないぶん悪いけど丸聞こえなの」



湖の底からイルカの多層な心が返った。焦りと苛立ち、彼女の正直さへの驚き。断片的な言葉が重なって届く。それから少しの静寂を挟み、最後の一言は宛てられたのか鮮明だった。「本当か」本当よ、と一つめは思う。心で答えても、届かないのだけれど。続けてイルカが、つの、と呼び掛けるのが聞こえた。



─ヒト様の世界には、殺す殺されるってのがあるらしいな─水中から凛と届く彼の心がそう続いて、一つめは嫌な予感がした。長生きとは対極で、イルカは全く慎重じゃない。つのの返事は聞こえない。何も返さなかったかもしれない。またイルカが思う。─刺してみてくれよ。今すぐ生まれ変われるかもしれない─



イッカクに化けているつのは、巨体を引きずるように泳いで泡を吐く。博打だね、と少し寂しげに思った。眠そうな目がイルカを捉える。そして迷いなく角を胴に突き立てた。赤い血は流れなかった。貯水槽に穴が空いたように、傷口からは水が溢れた。彼の姿は点描になり、細粒を溶いたように湖底で消えた。



一つめにずっと届いていたイルカの心が急に途切れた。長生きの最期と同じ気配が漂う。引き継ぐ一滴が残らなかったときの。水面に原始生物が浮かんできた。その個体は片側をつまんで伸ばしたような形。つののある動物に化けすぎたせいで、丸に戻れないらしい。「刺したの」一つめはそれを睨んで言った。



「どうして刺したの」怒気を無理に抑えて問う。心は聞こえないけれど、ひとつぽっちのとき側にいてくれた優しいつのが、悪意でするとは思えなかった。尖った水まんじゅうが地に上がって、身をよじってからヒトモドキに化けた。わざとなのか一つめをそっくりコピーした容姿で、額に銀の角が生えていた。



こんなときに真似をする神経が、一つめには理解できなかった。つのが言葉を紡ぎ始める。「同じ姿、ごめん。想像が苦手なの。ヒトモドキの自分、想像できなかったから、借りたよ。話すため。刺したのは、頼まれたからだよ。生まれ変われるって思うでしょ。二つのためになると思うでしょ。消えちゃった」



淡々とした声だった。でも泣き出しそうだ。深くうつむいている。一つめは癖で耳を澄ませた。風がわずらわしい。つのの言い分は、まるで無知ゆえに失敗した子供のようだ。嘘かしら、と考えて一つめは自分自身に驚いた。疑うなんて。心が聞こえないのはやはり不便だと思った。今は、何も想像がつかない。
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