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第三章

35 チョウチョとミカ

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【第三章】















 雲一つない青空が視界いっぱいに広がっている。ミカは、ライハルトと共によく散歩する庭で、ぼんやり空を眺めている。
 すると、視界に一匹の蝶が舞い込んできた。ミカは白い蝶を目で追った。
 広すぎる庭にはベンチが設置されていて、ミカは一人腰掛けて、膝には本がある。最近は絵本ではなく挿絵のある本を読み始めたのだ。休憩がてら、その蝶の揺らぎを眺めていると、
「ミカさん、おはようございます」
 と声が掛かる。
 見ると、メイド服姿のロミーが歩いてくるところだった。ミカは本をベンチに置き、慌てて立ち上がる。
「おはようございます」
「今日はミカさん、お休みですよね。本を読んでいたんですか?」
「はい」
 ミカは慌てて「すみません」と頭を下げる。
 何のことだか分からなそうに首を傾げるロミーへ、また一度頭をペコっと揺する。
「お休みだからって、呑気に庭にいて……」
「あぁっ、そういう! いえ、謝る必要なんかありませんよ。わかっていますから」
「え」
「旦那様に言われているんでしょう? お日様に当たって散歩しろって。知ってます知ってます」
 ロミーは呆気なく明るい反応を見せた。
 そうなのだ。ライハルトは、ミカが休日に屋敷へこもることを好まない。好まないと言うより、許していない。
 こうして散歩するように言われているので、おとなしく外に出ているのだ。黙って室内にいてもバレてしまう。おそらく執事長辺りが報告しているのだろうと思っていたが、もしや他の使用人は皆、ライハルトの命令を知っているのかもしれない。
 考え込むミカの一方、ロミーは無邪気に告げた。
「でも、さっき何かを眺めていましたよね」
「へ?」
「虚空をぼんやり見つめていませんでした?」
「あぁ。蝶々が飛んでいるなと思って」
 先程まで白い蝶が飛んでいた方角へ目を移すが、もう飛び去ってしまっている。あたりには、春になって溢れ出た花々が広がっているだけだ。
 するとロミーが「あはははっ」と声に出して笑い始めるので、ミカはびくっと肩を震わせた。
「!?」
「あ、ごめんなさい笑っちゃって。だって蝶々を眺めてるって……平和すぎて」
「……ライハルト様にもよく笑われます」
 呟くと、ロミーはまた弾けるように笑った。ミカの頭の中では想像のライハルトが「蝶を捕まえる気か? ミカ」と揶揄っている。
 本当に、平和だと思う。こんな生活、半年前では考えられなかった。
 血が滲む雪の中で拾われてこの邸宅へやってきたのは真冬だった。今では春になっている。つい二ヶ月前には雪に覆われていた庭も、色とりどりの春が広がっていた。
 花畑に視線を向けると、少し遠くの方で蝶々が複数匹飛んでいるのが見えた。つい今し方まで近くを漂っていた一匹の蝶も、あの中にいるのかもしれない。
 仲間たちがそこにいたらしい。
「本当に旦那様と仲良しですね」
 ロミーにまた目を向ける。彼女はにっこりと微笑みを浮かべていた。
 ミカは何と返したらいいのか口を噤む。すかさずロミーが言った。
「以前までなら『そんなんじゃありません』と返していたのに今は否定しないんですね」
「そっ、いえ、あの」
「ふふ。旦那様がミカさんを気に入ってらっしゃるのは初めから分かっていましたが、最近はミカさんも懐いているようで嬉しいです」
「な、懐いてますか?」
 思わず声が大きくなってしまう。ロミーは「はい」と深く頷いた。
「懐いてますよね? 言われた通り、お散歩してますし」
「それは……そうですけど」
「毎晩のようにお出かけしてますし」
「うっ」
「旦那様と言い合いできるのなんて、ミカさんくらいですし」
「……」
「旦那様も楽しそうですし」
「……」
「ミカさん」
 黙り込んだところで、別の人物の声が背中へ届く。
 屋敷の方からこちらへやってくるのはエルマーだ。ロミーは「エルマーさん」と明るく呼んで、ミカは「こんにちは」と頭を下げた。
 一応辺りを見渡すがライハルトの姿はない。エルマー一人で真昼にやって来るなど、珍しい。一体どうしたのだろう、と疑念を心の中にこっそり浮かべるが、エルマーは長閑な雰囲気だった。
「こんにちは。二人とも、何をしているんですか?」
「ミカさんが蝶々を眺めているのを眺めていました」
「なるほど、そうですか」
 ミカの代わりにロミーが面白がって答える。エルマーもクスッと小さく笑った。何とも言えずに眉を下げるミカに対し、ロミーは「長話しすぎちゃった」と戯けたように言って、「では」と付け足す。
「私は失礼しますね」
 去っていくロミーを確認してから、エルマーがこちらへ向き直る。「今、よろしいですか?」と問われるので、ミカは「はい」と首肯した。
「蝶々を眺めていたところすみません。今日はお休みでしたのに」
「いえ、あの、それほどの用事でもないので」
「本日は蝶以外にご予定はございますか?」
「ありません」
「でしたらお時間いただけますでしょうか」
「はい」
「よかった」
 と言いながらエルマーは門の方角へ目を向けた。
 つられて見ると、庭の向こうで何台かの馬車が停まっているのが微かに確認できる。
 何だろう? 内心で首を捻るミカに対し、エルマーは「お部屋へ向かいましょう」とにっこりした。
 ここで話せることではないのだろうか。一瞬反応に遅れると、その間を拾ったエルマーがわずかに怪訝な顔をした。
「あれ。ミカさん、何も聞いていないんですか?」
「え?」
「はぁー、なるほど」
 エルマーはため息を吐いたが、すぐに笑みを作り直して言った。
「詳しいことは中でお話ししましょう。お部屋に伺ってもよろしいでしょうか」
「は、はい」
 一体何だと言うのか。ミカはひとまず、ベンチに置かれた本を抱える。
 庭を後にして屋敷に入ると、エルマーは進んでライハルトの部屋へと向かった。使用人ではないエルマーを連れて主人の主室へ勝手に入るのはどうなのかとミカは躊躇したが、エルマーが言うには「社長のお部屋でいいと言われているんです」だった。
 どういう意味? 廊下を歩いている際には理解が追いつかなかったが、部屋にやってきてから発言の意図を知る。
「うわ……」
 部屋にやってきたのは、沢山の商品を抱えた外商たちだった。
 エルマーはライハルトの部屋の一室を指示し、そこへ次々物が運ばれていく。いつも豪遊する人だと思っていたが、こんなにも買い物は派手なのか……その異様な光景を呆然と眺めていると、エルマーが「ミカさん」と声をかけてくる。
「準備が整うまでこちらにいましょう」
「え。でもお手伝いなどは」
「いいんです。だってあれはミカさんのための物ですから」
 五秒ほど間が空いた。
 ミカはそれでも脳が追いつかず、「……はい?」と返す。
 エルマーはフッと目を細めた。
「ライハルト様に一週間後のミカさんのお洋服など見繕うよう申し付けられていたんです。急ですみません」
「お、俺の? なぜ?」
 ミカはすっかり混乱して、往復する外商の人々とエルマーへ交互に顔を向ける。
「それは、一週間後のためです」
「一週間後? 何かあるんですか?」
「やっぱり聞いていないんですね」
「へ?」
「お祭りですよ」
「……」
 ミカの視線がエルマーに固定される。じっと彼を凝視して、「お祭り?」と鸚鵡返しに問うた。
 エルマーは、ミカの困惑も無理もないとばかりに落ち着いた様子で頷く。
「ええ。お祭りです」
「……何の?」
「何のと言うか……社長が先日、市長に命令したんです。祝日を設けるようにと」
 ミカは静かに息を吸って、吐いてから、自分でもなぜなのか分からないが声を潜めて訊いた。
「祝日……設けるって、新しくできたということですか?」
「はい。新しく市で制定したんです。一週間後の今日はリエッツ市の祝日で、その日はお祭りが開かれますよ」
「?」
 疑問が顔に出ていたのだろう。唇を一文字にして黙り込むミカに、エルマーはまず「座ってください」とソファへ促した。
 あまりにも脳の処理が追いつかず、指示された通り一言も発しないで腰を下ろす。エルマーはミカが座ったのを見届けると、丁寧に説明を始めた。
「一週間後の祝日に、お祭りがあるんです」
「……でも、ライハルト様が、この街にはお祭りはないと言ってました」
「ええ。だから作ったんですよ」
「?」
「お祭りを作るために、祝日を設けたんです」
 ミカはまた唇を噛み締めた。頭の中で、もう一度、ゆっくりと反芻する。
 元々あるお祭りに合わせて祝日を制定したのではない。お祭りを作るために、祝日を……。
「つ、作った?」
「そうですよ」
 エルマーは頷き、少し困ったように笑った。
「一ヶ月前に突然社長が言い始めたんです。祭りを作るぞと」
「……」
「そうして祝日の制定を市長へ掛け合って、一昨日可決されました。当然ですよね。我がリートルグループはいわば政商でもあるので、一介の市長が命令を無視できるはずがありません。新しく作ったリエッツ市の祝日にはお祭りが開かれることになりました。街の予算はリートル社が負担しているので、かなり大規模な祭りになりますよ。花火だけでなく、ミリオン国の幻影魔法団も呼んでいるんです。とても素晴らしい夜空のショーが予定されていて、お店も沢山出店されますよ。よかったですね」
 ミカは目を見開いて、「な、なぜ」と言った。
 なぜ『よかった』? どうして俺に言う? 頭を埋め尽くす疑問に、エルマーが端的に返す。
「なぜってそれは、ミカさんがご存知なのでは?」
「俺ですか?」
「ミカさんがお祭りを欲していたと社長に聞きましたが」
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