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最終編『蛍火明滅、〈探し人〉のゆく先』
第十話「惑わしの水路」⑷
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いかにもな異名に、由良は仮面の下で眉をしかめた。
「……その呼び名、初耳なんですけど」
「あら。てっきり、子供達から聞いているとばかり思っておりましたわ」
船頭はバツが悪そうに、「オホホ」と声を漏らした。
「惑わしの水路は、本来の〈未練溜まり〉の性質に近い場所。迷い込んだ〈心の落とし物〉や〈探し人〉を消滅させる手助けをします」
「手助け?」
「〈探し人〉がこの場に留まりたくなるような幻を見せるのです。つまりは、〈心の落とし物〉の幻を」
「……」
由良は電話ボックスに残してきた〈探し人〉のことを思い出していた。
彼は恋人の痕跡を探すため、〈探し人〉になった。そして、見つけた……「恋人の声」という〈心の落とし物〉を。だがそれは、惑わしの水路が用意した、偽りの〈心の落とし物〉だった。
「惑わしの水路は、五感全てに幻を与えてきます。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚……いずれかひとつでも幻に惑わされれば、その場から離れられなくなる。仮面と耳栓は幻避けというわけです」
「そんな大事なものなら、もっと強くオススメしてくださいよ。〈探し人〉でもないのに、危うく連れて行かれるところだったじゃないですか」
「だって、いくら申し上げてもつけてくださるお客様のほうが少ないんですもの。『つけてもつけなくても暗いのは同じだ』って。子供達ですら、仮面と耳栓をオモチャとして扱っているのですよ?」
「……すみません。同じこと思ってました」
「ほらぁ」
船頭は仮面を持ち上げ、口元を露わにする。「今さらどうにかなるものでもありませんが、」と手を添え、幻に向かって息を吹きかけた。
吐息と共に、大量の桜の花びらが吹きつけられる。若かりし祖母も、懐虫電燈も、懐虫電燈のコーヒーの香りも、並んでいた他の店も、何もかも桜吹雪が覆い尽くし、消え失せた。
由良は仮面をしていたので見えなかったが、仮面の隙間からほんのかすかに桜の香りがした。
「桜の香りが……いったい、何が起こっているんです?」
「お気になさらず。今のうちに水路を抜けてしまいましょう」
船頭は歩道へ目をやる。
〈探し人〉達は夢から覚めたように、ぼうっと天井を見上げる。しかし桜吹雪の勢いが収まると、再び楽しそうに笑いながら、何もない闇の中をさまよった。
変わらない光景に、船頭は肩をすくめた。
「……やはり、正気に戻りませんか」
「だから、何が起こっているんです?」
「何でもありません。私達も先を急ぎましょう。お暇でしたら、歌でも歌って差しあげましょうか?」
「歌?」
「昔、これとは別の船にお乗せしたお客様から教わった歌です」
船頭はオールを漕ぎながら、静かに歌い出した。水路に入って三度目の「蛍の集会所」だ。由良にとっては、聞き覚えがあり過ぎるメロディーだった。
ただし、今回は歌詞がある。蛍の群れが川辺に集まり、光の点滅で囁き合う様子を、美しく、ときに物寂しく表現している。船頭の艶のある声とも合っていた。
曲が終わると、由良は自然と拍手していた。ちょうど目的地に着いたようで、ボートが止まった。
「素晴らしい歌声でした。その曲、歌詞があったんですね」
「ありがとうございます。歌詞も、例のお客様から教わりました。この曲を歌うと、当時のことを思い出します」
もう仮面は取っていいと言われたので、外した。
目の前に、水路の入口にあったのと同じ柵が下りている。外は夜のままだったが、しばらく水路にいたせいで明るく見えた。
「お手を」
船頭が先に歩道へ降り、由良へ手を差し出す。彼女もすでに仮面を外していた。見覚えのある妖艶な美女で、片耳に桜の花びらを模ったイヤリングをつけていた。
由良は手を取ろうとして、船頭の顔に目を見張った。
「桜世、さん? どうして未練街に?」
彼女は桜花妖もとい、桜世だった。
由良は未練街へ来る直前に、桜世と会っている。ほんの数時間前のことで、まさか未練街で再会するとは思ってもいなかった。
「オフシーズンですので。桜が咲いていない時期は人々から忘れられ、未練街へ送られてしまうのです。まさか、貴方様とここでお会いするとは思っておりませんでしたわ」
「平気なんですか? そのまま消えたりとか……」
桜世はころころ笑った。
「ご心配なく。春になれば、私の意思に関係なく戻されます。その間ヒマなので、こうして惑わしの水路の案内人を務めているのですよ」
「ちなみに、歌を教わったお客様って、どなたですか?」
由良は答えを予想しつつ、たずねた。
案の定、桜世はこう答えた。
「加古川……ではなく、添野美緑様というお客様から教わりました。春になると毎年、旦那様と私の屋形船へお乗りにいらしていたんです。残念ながら、お二人ともお亡くなりになったようですが」
「やっぱり」
加古川は由良の祖母の旧姓だ。
祖父と結婚する前からの知り合いだったということは、かなり長い付き合いになる。にもかかわらず、桜世の口から祖母の話が出たことは、今の今まで一度もなかった。
「美緑は私の祖母です。先ほど歌われた曲は、祖母のお気に入りの曲でした」
「まぁ。すっごい偶然」
「すっごい偶然……じゃ、ないですよ! どうして祖母と知り合いだって言ってくれなかったんですか! 私の名字も添野だと、とっくご存知だったでしょう?!」
「ごめんなさい。現実にいる間は、美緑様のことを忘れてしまうんです。未練街へ戻ってきたら、また思い出すのだけれど」
桜世は寂しげに、水路の奥を振り返った。
「……きっと、美緑様も人々から忘れられてしまった存在なのでしょうね。彼らや、今の私のように」
「……」
水路の水はチャプチャプと波打つ。中に残った人々の声は、出口までは届かない。
彼らはいずれ、あの場所で消滅するのだろう。何の痕跡も残さず、誰の記憶からも消え失せ、最初から存在していなかったことになるのだ。
(……私は覚えてる。あの人達の無念も、桜世さんが未練街でも誰かのために働いていることも)
由良は桜世の手を取り、ボートを降りた。
(第十一話へつづく)
「……その呼び名、初耳なんですけど」
「あら。てっきり、子供達から聞いているとばかり思っておりましたわ」
船頭はバツが悪そうに、「オホホ」と声を漏らした。
「惑わしの水路は、本来の〈未練溜まり〉の性質に近い場所。迷い込んだ〈心の落とし物〉や〈探し人〉を消滅させる手助けをします」
「手助け?」
「〈探し人〉がこの場に留まりたくなるような幻を見せるのです。つまりは、〈心の落とし物〉の幻を」
「……」
由良は電話ボックスに残してきた〈探し人〉のことを思い出していた。
彼は恋人の痕跡を探すため、〈探し人〉になった。そして、見つけた……「恋人の声」という〈心の落とし物〉を。だがそれは、惑わしの水路が用意した、偽りの〈心の落とし物〉だった。
「惑わしの水路は、五感全てに幻を与えてきます。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚……いずれかひとつでも幻に惑わされれば、その場から離れられなくなる。仮面と耳栓は幻避けというわけです」
「そんな大事なものなら、もっと強くオススメしてくださいよ。〈探し人〉でもないのに、危うく連れて行かれるところだったじゃないですか」
「だって、いくら申し上げてもつけてくださるお客様のほうが少ないんですもの。『つけてもつけなくても暗いのは同じだ』って。子供達ですら、仮面と耳栓をオモチャとして扱っているのですよ?」
「……すみません。同じこと思ってました」
「ほらぁ」
船頭は仮面を持ち上げ、口元を露わにする。「今さらどうにかなるものでもありませんが、」と手を添え、幻に向かって息を吹きかけた。
吐息と共に、大量の桜の花びらが吹きつけられる。若かりし祖母も、懐虫電燈も、懐虫電燈のコーヒーの香りも、並んでいた他の店も、何もかも桜吹雪が覆い尽くし、消え失せた。
由良は仮面をしていたので見えなかったが、仮面の隙間からほんのかすかに桜の香りがした。
「桜の香りが……いったい、何が起こっているんです?」
「お気になさらず。今のうちに水路を抜けてしまいましょう」
船頭は歩道へ目をやる。
〈探し人〉達は夢から覚めたように、ぼうっと天井を見上げる。しかし桜吹雪の勢いが収まると、再び楽しそうに笑いながら、何もない闇の中をさまよった。
変わらない光景に、船頭は肩をすくめた。
「……やはり、正気に戻りませんか」
「だから、何が起こっているんです?」
「何でもありません。私達も先を急ぎましょう。お暇でしたら、歌でも歌って差しあげましょうか?」
「歌?」
「昔、これとは別の船にお乗せしたお客様から教わった歌です」
船頭はオールを漕ぎながら、静かに歌い出した。水路に入って三度目の「蛍の集会所」だ。由良にとっては、聞き覚えがあり過ぎるメロディーだった。
ただし、今回は歌詞がある。蛍の群れが川辺に集まり、光の点滅で囁き合う様子を、美しく、ときに物寂しく表現している。船頭の艶のある声とも合っていた。
曲が終わると、由良は自然と拍手していた。ちょうど目的地に着いたようで、ボートが止まった。
「素晴らしい歌声でした。その曲、歌詞があったんですね」
「ありがとうございます。歌詞も、例のお客様から教わりました。この曲を歌うと、当時のことを思い出します」
もう仮面は取っていいと言われたので、外した。
目の前に、水路の入口にあったのと同じ柵が下りている。外は夜のままだったが、しばらく水路にいたせいで明るく見えた。
「お手を」
船頭が先に歩道へ降り、由良へ手を差し出す。彼女もすでに仮面を外していた。見覚えのある妖艶な美女で、片耳に桜の花びらを模ったイヤリングをつけていた。
由良は手を取ろうとして、船頭の顔に目を見張った。
「桜世、さん? どうして未練街に?」
彼女は桜花妖もとい、桜世だった。
由良は未練街へ来る直前に、桜世と会っている。ほんの数時間前のことで、まさか未練街で再会するとは思ってもいなかった。
「オフシーズンですので。桜が咲いていない時期は人々から忘れられ、未練街へ送られてしまうのです。まさか、貴方様とここでお会いするとは思っておりませんでしたわ」
「平気なんですか? そのまま消えたりとか……」
桜世はころころ笑った。
「ご心配なく。春になれば、私の意思に関係なく戻されます。その間ヒマなので、こうして惑わしの水路の案内人を務めているのですよ」
「ちなみに、歌を教わったお客様って、どなたですか?」
由良は答えを予想しつつ、たずねた。
案の定、桜世はこう答えた。
「加古川……ではなく、添野美緑様というお客様から教わりました。春になると毎年、旦那様と私の屋形船へお乗りにいらしていたんです。残念ながら、お二人ともお亡くなりになったようですが」
「やっぱり」
加古川は由良の祖母の旧姓だ。
祖父と結婚する前からの知り合いだったということは、かなり長い付き合いになる。にもかかわらず、桜世の口から祖母の話が出たことは、今の今まで一度もなかった。
「美緑は私の祖母です。先ほど歌われた曲は、祖母のお気に入りの曲でした」
「まぁ。すっごい偶然」
「すっごい偶然……じゃ、ないですよ! どうして祖母と知り合いだって言ってくれなかったんですか! 私の名字も添野だと、とっくご存知だったでしょう?!」
「ごめんなさい。現実にいる間は、美緑様のことを忘れてしまうんです。未練街へ戻ってきたら、また思い出すのだけれど」
桜世は寂しげに、水路の奥を振り返った。
「……きっと、美緑様も人々から忘れられてしまった存在なのでしょうね。彼らや、今の私のように」
「……」
水路の水はチャプチャプと波打つ。中に残った人々の声は、出口までは届かない。
彼らはいずれ、あの場所で消滅するのだろう。何の痕跡も残さず、誰の記憶からも消え失せ、最初から存在していなかったことになるのだ。
(……私は覚えてる。あの人達の無念も、桜世さんが未練街でも誰かのために働いていることも)
由良は桜世の手を取り、ボートを降りた。
(第十一話へつづく)
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