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本編 (2024 11/13、改稿しました)

8.ワルイコト

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「いってらっしゃい」
「行ってきます」

 司を見送り、朝食の片付けをしてアイスコーヒーを用意した千代子も自分の部屋で仕事に取り掛かる。二人だけの暮らしはとても静かではあったが千代子と司にとっては今、かけがえのない時間となっていた。

 季節は夏の盛りを迎えていた。
 以前よりも時間を増やした在宅仕事を終えて部屋の掃除をし、少し遅い昼食を終えてから出掛ける支度をした千代子は午後四時過ぎ、日傘を差してマンションの外へと出る。
 今日は金曜日。土日は司とゆっくりする予定なので少し多めに作り置きをしておこうかな、と考えながらまだ眩しいなあ、と目を細めて夏の夕方に差し掛かっていく道を歩いていた。
 司からは遠慮をせずにタクシーを使って移動を、と口酸っぱく言われていたがこのまま涼しい場所に居続けたらちょっとの事でバテてしまう、と健康の為には少しの道のりくらい、と保冷剤をしっかり入れた保冷バッグを肩に提げてスーパーまでの道のりを歩く。
 くるぶし丈の軽やかなベージュのスカートにトップスはサマーコットンの白い半袖、同じく白い日傘を差した千代子は見かけた人の誰しもがその高層マンションから出て来た“若奥さん”だと認識するような装いだった。

 今日、司は遅くなると言っていた。
 何か大きな集まりがあるらしく、帰宅時間も分からない為に千代子一人だけで夕飯は済ませておいて構わない、と言われていた。会社経営者と言う立場、そう言った社交の場にも出向く事が多い。そんな事態にももうすっかり慣れていた千代子ではあったが今朝、司が……普段は着ないブラックフォーマルを持ち出していた事には気づいていなかった。

 ホテルなどの会場で集まりがある際、別途着替えのスーツを持って行っていた。今日もビジネスバッグの他に手に提げていたスーツ用のガーメントバッグにはビジネスアタイア程度のスーツが入っていると思って千代子は送り出していた。
 クリーニングから戻って来た物を掛けない限り、司のスーツ用クローゼットを千代子も頻繁に触らないので何が持ち出されているかなど分からない。

 流石に暑いな、といつもの慣れた道を歩く。
 お酒も軽く飲んで来るだろうから司の夜食は何かさっぱりした物……食べても食べなくても良いように蒸し鶏のマリネと、と考え事をしながら日傘を深く差して歩いていた千代子は車道を走る一台のワゴン車が減速し、スライドドアが開いた事に気が付けなかった。

 それはほんの数秒の出来事だった。
中から出て来た複数人の作業服を着た者達がまるで壁のように、周囲から隠すように千代子をとり囲み、車内にいた者からも強い力で腕が掴まれ、引き摺り込まれてしまう。

「っ……!!」

 言葉を発する事が出来ないままの白昼の出来事。
 手から離れてしまった日傘も回収され、痕跡一つ残さずに千代子の姿は再開発地域ゆえの車通りの無さのせいで誰にも目撃されることなく――忽然とその場から消えてしまった。


 四時を回っても千代子からの『本日のおやつ』の報告が無いな、とは思いつつ買い物でもしているのだろうかと司は気乗りしない着替えを執務室で始めていた。

「このクソ暑い時期に誰が好き好んで黒服になるンすか。ヤクザですか?」

 ソファーでぐだぐだと管を巻いている松戸も、司にネクタイを渡す芝山も皆一様に上質なブラックフォーマルに身を包んでいた。

「松、今日の出席者の中に」
「やっぱりいらっしゃるみたいですよ。と~っても珍しく」
「そう警戒するな。親父も来ると言っていた……だから、多分」

 司は自分が連合の本部若頭代行に任命される事を悟る。
 そして適当な期間を経て正式に若頭、五代目会長へと担がれる。

 既に当代の会長の中津川や穏健派の直参組長たち、義父の進の手も加えられているであろう上手く書き上げられている“筋書き”は誰にも覆せる事は出来ない。今までも彼らはそうやってきた。
 一言たりとも、有無を言わせない。
 もう、始めから何もかも話が作り上げられてからの幹部総会。

 千代子には表側、会社関係の会合だと伝えて朝、自宅から出て来た。本当は裏側の方の幹部総会への出席だったが……千代子には要らぬ心配をかけたくない。
 総会は都心では無く郊外にある連合本部、司たちのいるオフィスからは車で途中、高速を使っても四十分は掛かる場所で行われる。待機時間等も含めればもう出なくてはならない時間となっていた。


 それから暫く、何か考え事でもしているのか珍しく口数の少ない松戸の運転する黒塗りは首都高を抜け、連合本部の門前に到着しようとしていた。
 司はもとから口数が少なかったが助手席にいた芝山も手元の端末で軽く仕事をしているようで……そんな中、もう五分もあれば着きそうな頃合いで松戸が口を開いた。

「そもそも俺って今の組での役職なんなんスかね。本家の丁稚上がりでなんかそこんとこうやむやでここまで来ちゃったけど……社長?」
「まあ、社長である事に間違いはねえな」
「俺、車置いてきたらちゃんと中に入れるかな……あんまヤクザに知り合いいない」
「珍しく黙っていると思えばそんな事を考えていたのか」
「いやいや芝山さん、結構重要ッスよ?兄貴の舎弟やらせてもらってるのに控え室まで入れないとか」

 セキュリティや配車の関係でただのドライバーは会館の上階奥、幹部用の控え室までは入ることが許されない。そこまで入れる者は大体皆が顔見知りで顔パス状態ではあるが……若い松戸は今川本家に属する、司の付き人だと伝えても引き留められかねない。
 うーんと悩みながら車を会館ロータリーの指定位置に停めた松戸を「その時はその時だな」と軽く笑っていなしながら先に降りた芝山。すぐに後部座席のドア前に回ると「若頭カシラ、お足もとお気を付け下さい」と丁寧な所作でーーそれこそ何かを考えていたのかずっと黙ってしまっていた司を極道の作法で降車させる。
 じゃー俺、車置いてきますーと係員に駐車場を案内されながら松戸は一旦、その場から車ごと離脱した。

 既に到着している他の組の構成員たちが司に礼をする。
 屈んだ体に軽く曲げて開いた両膝。その膝頭それぞれに手を付き「御苦労様です」と次々に頭を下げるが今は前だけを見つめている司は男達の中を黙って抜ける。
 館内に入れば事実上の若頭である司の到着を出迎える本家今川組の構成員が「親父が控え室でお待ちです」と既に到着しているらしい司の義父、本家今川組組長の存在を教えた。

 お久し振りです、と構成員に出迎えられて通される司と扉の前で一礼をしてその姿を見送る芝山。
 役付きではない単身の松戸がどこかでつっかえていないか心配しつつ、緊張の堅い面持ちを隠せないでいる司の事も心の中で心配しながら扉が閉まるのをただ、頭を下げて見送ることしか出来ない。
 人の目が無ければ気軽に「大丈夫ですよ」と声を掛けていたが場所が場所。

 本家の組長付きのみならず他の組の者たちがいる手前、いつものように「若」と略称で呼ぶことも控えていた。

 舐められてはいけないのだ。
 自分たちは司を守らなくてはならない存在。

 見送る芝山を背に一人、義父が待っていると言う部屋に入った司は深々と立礼をする。

「おお、司。遠かっただろ」
「お久しぶりです、親父」
「まあ座れ。早速だが話は芝から聞いているぞ?」
「聞き出した、の間違いでは……と言うか、どこまで聞き出したんですか」

 失礼します、と対面のソファーに座る司の目の前には義理の父親の進。
 本家今川組組長、関東広域連合会の本部若頭がゆったりと座っていたがやはり肺の悪さから呼吸を補助する機器を傍らに置き、鼻の下には専用のチューブが付けられている。

「俺も昔、お前がまたガキだった時に何回か見たことがあったな。まだ小さい御嬢さんで……目ん玉をひん剥いていたような」
「覚えてらしたんですか」
「ああ、俺の事をバケモノかなんかだと思ってたんじゃねえか?当時の俺は芝よりも体がデカかったもんなあ」

 目ん玉、と司は千代子の感情表現の癖を思い出す。
 それにしてもこの“親父”はそんな昔の事、よく覚えているものだ、と。

「あの子は“良い目”をしていたな」

 今でも変わらねえか?と司をたしなめるように笑う皺の深さ。司は千代子についてどこまで進が調べているのか想像したくなかったが彼らにはそれをやってのける能力も権力もある。
 以前、それを少しだけ司も行使したように。
 義理とは言え、親子でよく似ている。

「司、兄弟……中津川会長からはもう話は行っていると思うが」
「はい……」
「お前はアイツをどうしようと考えている?穏健派の数の方が多いと言えど、武闘派連中だって衰えちゃいねえ。俺ですらこの程度までにしか減らすことは出来なかった。それに今、そいつらを束ねてんのは」
「従兄さん、ですね」
「ああ、お前の方が下だったな」

 ふーっと息を吐く義父もまた、頭を悩ませているように目を細める。

「お前みたいに会社を上手い事回せるヤツじゃねえ。真っ黒の金貸しと闇カジノの抱き合わせ、未成年者を使った派遣風俗、各種詐欺……幾らでも御上おかみに持って行って貰える材料はあるんだが」
「親父や会長がそうされない理由は」
「お前、自分の父親が組の連中ごとシマまで取られてるって知らねえのか」

 俯きがちになっていた司の顔が驚いたように反応し、上がる。

「長いこと連絡取ってねえ事は分かっていたが、本当にお前」
「それは、つまり……」
「お前の父親、修は俺たちにとっての人質だよ」

 そう言った義父は話が長くなった事で少し息苦しそうに軽く咳き込んでしまった。
 司はすぐにソファーから立ち、背中をさする。今でも体格の良い芝山よりも更に大きかった筈の義父の背をさすれば手のひらに背骨が当たる。

「親父……」

 苦しそうに咳き込む声に本家今川の構成員が入室の伺いを立てたので司は「水を、できれば白湯を頼む」と普段から身の回りの世話をしている組長付きの構成員を招き入れるとその場を任せ、退室をする。
 それを少し見た芝山も「親っさん、体が」と声を落とすばかり。

「芝山、松戸はどうした」
「多分……どっかで立ち入りを断られている可能性が。ただのドライバーだと思われてるんだと思いますが松の顔が分かる本家付きの者に呼びに行かせましょう。先ほどソイツを見かけたので」
「ああ、頼む」

 自分はどうすべきか。
 新たに発覚した事実――実の父親のシマが奪われたとは一体。
 これ以上総会を前に義父に話をさせるのは無理だと判断し、義父に付いている者か、兄弟分である四代目会長の中津川なら事の次第を把握しているだろうから後で内密に聞き出せば、と司は少し外の空気を吸おうかと芝山が向かった方面へと廊下を歩き出す。

 略式の立礼ではあったが司が通る度に挨拶がまるで波のように起こった。

 司は深く息を吐く。
 外はもう薄暗くなってきている。千代子は今頃、夕飯の支度をしているのだろうか。彼女の事だから今夜は夜食を用意してくれているに違いない。
 もう、今日の楽しみはそれくらいしかない。
 早く帰って、千代子の「お帰りなさい」に間に合えば。

「ああ……こちらにいましたか、御長男」

 厳かな場にふさわしくない野太く声量のある声に司が振り向く。

「薫……従兄さん」
「本家今川の若頭がお一人でどうされました?変わり映えのしないいつもの二人の姿が見えませんが」

 司の目元が鋭くなる。
 千代子の前では下がる眉もきつく、眉間に皺が寄りそうな程の顔をし、先程の義父との話にも出ていた男に隠しきれない嫌悪の表情を滲ませる。
 司が「薫従兄さん」と呼んだのは“今川三兄弟の次男坊”の息子。司よりも六つ年上の本来ならば格下であった司よりも連合若頭、そして五代目会長の座に一番近かった男――今川薫は一人でいる司の姿を不躾なまでに舐めるように見ていた。

 普段から芝山と松戸だけの付き人しか付けない司と違い、薫の回りには屋内だと言うのに軽く十名程が付いている。司が抱く嫌悪はそこにもあった。いつまでも変わらない極道の世界の因習、悪習そのものは時代の先を見据えている司の目にはどうしても相容れない振る舞いとして映っていたから。

「伯父さんの墓参りにも行かず……申し訳ありません」
「いいんだよ、いい。死んじまったモンは仕方ねえんだよ。なあ、お前も会社経営のお偉いさんとして毎日忙しいだろう。実の父親を見捨ててよォ。親父さんも可哀想になあ……実の息子は兄貴に奪われ、その息子とくれば素知らぬ顔をして“カタギのオンナ”と幸せに暮らしてやがる」

 司が息を飲む。
 今、この男は何と言った。

「それにどうやら今、そのオンナの“行方が分からなくなっている”とか」

 今川の血は闘争の血。
 元から流れているその血が司の線の細い神経に火を点ける。
 予備動作無しに、司の瞬間的に頂点に達した怒りが暴力として振るわれる、その寸前。

「若!!」

 背後から司の肩を強く掴んだ芝山が声を荒らげた。

「いけません、こんな安い挑発……ここは連合本部、あなたは次期」

 芝山の手には今にも目の前の男に殴りかかろうとした司のあまりにも危険な怒気が伝わる。だがここで暴力沙汰を起こしては順調に進められていた先人たちの筋書き、そして司の細やかながらも強い望みが破れてしまう。
 なりません、と芝山の渾身の力による痛みが司を正気に戻してもなお、薫は畳み掛けるように司に言葉を続ける。

「ほら、お前もやっぱりオレと同じだ。その凶暴性をひた隠しにしてんのかスかした顔しやがって……あーあ、この際どんなオンナでもいい。俺と朝まで遊んでくれねえかなあ。地味な女でもひん剥いたら案外イイ体でもしてんのか?それともお前すら手放す事ができねえくらいにナカの具合が……」

 下卑た挑発。それと相反する純粋な怒りに支配される空間。
 司の怒りを抑えていた芝山すらも薫の挑発に冷静さを欠きそうになる。自分の主人たる司が大切にしている小倉千代子と言う優しい女性に対し、なんと言う侮辱。

「兄貴~そろそろ幹部会始まるそうッスよ~」

 もうこんな廊下で二人とも『分家さん』と何やってるンすか、と松戸の声が司と芝山の背に掛けられる。それと同時に薫たちにも他の構成員から声が掛かった。

「松、今すぐに若の端末をお預かりして御嬢……千代子さんがどこにいるかを追え。必要だったら車はそのまま使って良い」
「あー……っと?」
「千代子さんが拐われたかもしれない。確認するまでは分からないが俺は若と……若、ここは一先ず松に任せておけ、ば」

 司の瞳には、一縷の光も無かった。
 四人で昼食を共にした時の一人の男として、千代子に接していた時のあの嬉しそうな瞳に宿っていた光が、暗い闇に飲み込まれている。

 それは怒りを越えた静寂。
 司の持つ真髄、研ぎあげられた刃のような冷えた、恐ろしさすらある……ひと睨みで屈服させられてしまうような鋭い絶対的支配者の瞳がそこにあった。

 彼の持つ血の前に、言葉など必要なかった。

 ・・・

 議場の円卓に座している本家今川組の組長の後ろに立ち、控えている司の異様な雰囲気に他の直系組長や随伴している若頭達が互いに耳打ちをしている。
 普段は好青年、実業家としての印象が強い司が一切の表情を無くし、まるで人形のように立っている。そして彼の実父はこの場に訪れていなかった。

 これから先の人事、司が義父の持つ本部若頭の地位の代行となる事――次期連合五代目は司なのだと暗に言い渡す四代目会長の言葉に司は承諾し、頭を下げはしたが当然のように納得の行かない武闘派の者達が騒ぎ出す。
 それすら……ゆっくりと顔を上げた司の耳には届いていないようだった。
 何ものにも、反応していない。

 幾つかの通達を出した後に解散、と議場から退室して行く会長の中津川に再び頭を下げている司に「なあ」と進が話し掛ける。

「司、お前は強い人間だ」

 幹部会が始まる前、咳き込んでしまったせいで酷くざらついた義父の声。廊下で内容は分からずとも一悶着あった事は瞬く間に噂にはなっていた。どうにか止めてくれた芝山のおかげもあり、手を出さなかった司は「私の父が……薫従兄さんのガワにある、と言うのは本当ですか」と進に問う。

「なあ司、廊下で何があった。薫の挑発なんざお前は」
「私のパートナーが、薫従兄さんに拐われたようです」
「お前ッ、何ですぐに言わなかったんだ!!こんな場所に出てる場合じゃ……兄弟や組長連中には俺から説明すりゃどうとでも」
「親父……私は、殺意と言う物を今まで数回、感じてきました。やはり末の者だとしても今川の血。父も、そうであったんですか」

 静かに問う司の淡々とした抑揚のない声。

「ああ、お前の親父も……自分の暴力に沸く血を忌み嫌っていたよ。だがよ、それは」
「そうですか……」

 それだけでも知れて、良かったです。

 覇気のない司の声。
 ゆっくりと立ち上がろうとする義父の背を支える事はしたがそれ以上、言葉は無い。
 司から実父の修がどのような人間だったのか、過去にも問われた事があったがその時はどうしてだろうか、進ははぐらかしてしまった。それは司が本当の息子のように可愛く、手放せなかったからか……それとも、その血を弟のように呪い続ける道を歩ませたくなかったからか。
 随分と弱ってしまった自分の背を支える司の手を借りて義父は席から立つ。

「親っさん、若」
「おお芝。どうだ、御嬢さんが薫に拐われたと」
「その件なんですが」

 革靴の底が絨毯の上だと言うのに音が立つ程に早足でやって来た芝山の声は酷く焦りはしていたが怒気を含めていた時とは些か様子が違っていた。
 低く、ひそめるように芝山は司とその義父だけに聞こえるよう口元を手で覆い隠し、耳打ちをする。

「芝、間違いねえんだろうな」
「今川薫の命令で拐われたのは事実だったようですが身柄は……ここに」

 今、千代子はこの場所にいる。
 持たせてあるセキュリティタグもちょうどこの建物の真上を指しており、確認し始めてから動いてもいない。持ち物のバッグだけそこにあるのか、それともちゃんと本人がその場に居るのか定かでは無かったが――総会が始まってすぐ、会議場には入れない身分の松戸と芝山は会長付きの本部構成員に半ば強引に別室に通され、事のあらましを聞かされていた。

「木を隠すなら森……と言うんでしょうか。やはり若」

 芝山は言う。
 あなたの御父上も噂にたがわぬ強い方だ、と。
 未だに眉を寄せた渋い表情ではあったがとにかく千代子は無事であり、今はこの建物内で“一番安全な場所”に匿われているらしいと告げる芝山の言葉を最後まで聞かず……司は会議場から飛び出して行ってしまった。

 こんな場所で一番安全な場所など、一つしかない。

 会長室の扉が開かれる。
 部屋の中央、真っ黒な革張りのソファーに座っている若い女性に四代目会長である中津川は「もう少ししたら来るだろうからゆっくりしているといい」と部下に淹れ直させた茶と茶菓子を勧めながら言葉を掛ける。
 こんな暴力団組織の本部にはまるで不釣り合いな“ちょっとそこまで買い物に”の夏の装いの女性――千代子は「はい」と小さく返事をして目の前に座っているまた別の男を見る。その人物はどこか、司の面影を感じる細身の男性。

 千代子の子供の頃の記憶の中ではまだ、若かった人。

「修、大義だったな」
「いえ……これでも、あの子の父親ですから」

 そう言いながら席から立ち、総会を終えて入室して来た中津川に頭を下げる……今川三兄弟の中でも最弱と言われている三次団体の組長である司の実の父親、今川修はそのまま帰り支度を始めてしまう。

「息子には会わないのか」
「ええ、私は兄やあなた方とは違って己の血を呪い続けた臆病者。あの子の……司の持つ才を制御出来る器じゃない。これからも、しかるべき場所で学ばせるべきです」
「お前なあ、せっかくなんだから顔くらい」

 中津川の言葉に緩く首を横に振るとジャケットを手に掛けて持ち、会長室から立ち去ろうとする司の実父は「千代子さん」と呼び掛ける。

「司がご迷惑をお掛けして……それも学生の頃からだったそうですね。私はそれすら知らず……」

 ありがとう。
 礼を言うその声に千代子の瞳が丸くなる。
 いつも聞いている司と似た声音、同じ抑揚が向けられている。

「そして今回は本当に申し訳なかった。我々の跡目騒動などに巻き込んで、人拐いのような真似までしてしまってどんなに怖かった事か。こうする事しか今の私には出来なくてね」

 深く頭を下げて謝罪する司の実父に「大丈夫ですから、そんな、顔を上げて下さい」と千代子もソファーから立ってどうしたら良いのか、と狼狽えてしまう。
 確かに、夕飯の買い物に出ただけだった筈が急にワゴン車の中に引き摺り込まれ、司が自分に持たせてくれたセキュリティタグの意味を、恐怖を、身を以て経験してしまった。

 どうしたら良いんだろう、とまだ目を丸くさせている千代子を見据える司の実父はその瞳を見つめる。

「良い目をお持ちだ」

 あなたなら、司を。

 そう言いかけた時だった。
 会長室の扉が静止する者の声を押し退けて破られる。

「千代子!!」

 目の前に四代目会長と実父がいるにもかかわらず、目もくれずに千代子の側に早足で寄り、その身を抱き締める。
 無事で良かった、と心の底から絞り出すような司の声に身動きの取れない千代子のスカートの裾が揺れる。そして「お父様の前ですよ」と腕の中の千代子が発する場に遠慮した恥ずかしそうな声に気付いた司は体を離してくれたが千代子はソファーにへたり込んでしまう。千代子の未だ知らない司の驚くような力強さによって心臓がばくばくとしてしまい、目は見開いて丸いままだった。

 千代子の体に傷一つ付いていない事を確認した司は帰り支度が済んで……自分に会わずに立ち去ろうとしていたらしい実父の方を見る。

「父さん……」
「今、人が手薄になっている薫の事務所に家宅捜査ガサが入っている。私がそう仕向けた」

 話し方が、司とよく似ている。

「まあこんな稼業を手広くやっていれば御上とも連絡はある程度取ってるモンだからなあ。俺が司の若頭代行昇格をダシに総会を開けば薫は必ず出て来る。もうヤクザの時代じゃねえんだよ。ああほら、御上のお出ましだ」

 一網打尽だよ、と大きなガラス窓の向こうに見える数多の赤色灯を背に呑気な事を言っている中津川は対峙している親子の方を見て言葉を続ける。

「今日はワルイコトをしたヤツだけ預かって貰うからお前たちは裏口から帰んな。御上にもカタギの御嬢さんを送る事になっていると話は通してある」
「しかし会長、父のみならずあなたにも使用者としての罪が」
「俺たちの世代はパクられるのなんざ一度や二度じゃねえんだ。今更どうでも……これは最後の“新しい世代”のお前たちに向けたケジメってやつだよ。ああ、今回は薫の情報のリークで修はトントン、御咎め無しでナシつけてやったから」
「な……」
「今、外に出ずにこの建物内に俺の部下によって引き留め、残されている連中は穏健派であり……司、お前がやらかそうとしている通り“連合解散”も視野に入れている連中だ。俺がきっちり仕分けといてやったんだ、感謝しろよ?」

 料亭でサシで話をした際にこの四代目会長の言っていた“隠居生活”の本当の意味。
 片手では足りない今川薫の罪の責任を負う為に収監され、同じように罪を償うと言う事だったと知る司は「会長、いつからそれを考えて」と言葉にしたが中津川はふ、と笑っただけでまた騒がしくなっている会長室の扉の向こうに視線を移す。

「ちょっと、親っさん無理は」
「組長どっからそんな体力」
「おお兄弟!!やってくれたじゃねえか!!」

 もう車椅子に乗り換えましょう、と背後であたふたとしている芝山と松戸。そのまま本家今川組の構成員すらも振り払い、派手に扉を開けて入室して来る司の義父。その姿はまるで先ほどの司のようだった。

「さて、何の事だ?」
「お前は昔からそうなんだ、最後の最後で一番うめえ所を全部持って行きやがって」

 どうやら事の成り行きを知った義父の進は肩で息をしながらも中津川に詰め寄ろうとして血の繋がった弟、修に引き留められる。

「進兄さん、落ち着いて」
「お前もなあ、自分の息子を俺に預けっぱなしにしておいてよォ。司の性格を考えてみろよ、コイツからお前に連絡すると思うか?俺に対する不義理だと思って実家と連絡取るのを遠慮して……」

 どいつもこいつも!!と進は眉間に深く皺を寄せていたがソファーにへたりこむように座ったまま“ホンモノの極道者”の覇気に圧倒され、目を丸くさせて固まってしまっている千代子を見ると「ああ君が司のフィアンセの“ちよちゃん”か。大きくなったな!!」と言ってしまう。
 ぎょっとしたのは司の方で、吹き出しそうになっている松戸が騒然としている現場にくるりと背を向ける。

「親父、その呼び方を一体どこで」
「今さっき松が」
「松戸お前……」
「ついぽろっと」

 外の状況と頃合いを見ていた中津川が「話がまとまらなくなる前にお前たちは帰れ」とソファーに座ったまま、目を見開いて困ってしまっている千代子をここから出してやるのが先だ、と退室を促す。
 芝山も千代子の荷物……日傘と買い物バッグを持ってやり、エスコートは司に任せて松戸に裏口への配車を頼む。

「……それなんですけどウチの車、なんか最初からここ通れるの?みたいな凄い変な場所に通されて……そのまま一人だけ裏口から入れてもらったから俺、マジで迷子になっちゃって。ここの建物、迷路ッスよ」

 だから車を置きに行ってもすぐに戻って来られなかった、と松戸は言う。

 全ては最初から、それは一体いつから計画されていた事なのだろうか。
 司たちは真相を知ることなく、一先ず散々な目に遭ってしまった千代子を連れて連合本部の敷地から出る事となり――事の詳細とこれからについては後に全てを託されている会長付きの構成員を交えて場を設ける、と言う事で決着がついた。

 帰りの車中。
 司の隣で連れ去られた時の様子を話す千代子がいた。

「急に腕を掴まれたからその時は本当に怖くて、叫ぶことも出来なくて……そうしたら司さんによく似た……お父様が同乗されていたんです。本当は私、別の場所に連れて行かれる筈だったみたいなんですが同乗されていた方々は全員、直前にお父様の部下の方に“すり替えられていた”ようで」

 引き摺り込まれたものの、おぼろげではあったが千代子も姿を知っていた人が何度も謝罪をし、この本部に来るまでの道中も、連れて来られてからもお茶を出して貰い、司が来るのをじっと待っていた、と言う。

「薫従兄さんは父さんを懐に引き入れたつもりが策に嵌められ、内側から腹を刺された形に……それにしても実の息子のパートナーだと分かっていながら連れ去るなんてどうかしている。もっと別の穏便な方法をなぜ父さんは思いつかなかったんだ」

 やりすぎだ、と司は自らのブラックスーツのジャケットを薄着の千代子の膝に掛けながら今日、表側の会合ではなく裏側の重要な総会であった事を黙ったまま朝、家を出た事を詫びる。
 うんうん、と頷いて聞いてくれる千代子はやはり相当疲れていたのか暫くすれば司の隣で眠り出してしまった。
 夕飯の買い物に出た筈が拐われてヤクザの総本山に連れ込まれたのだから当たり前ではあったのだが……本当に怪我もなく無事でいてくれた事に司も張りつめていた緊張の糸を緩めるように首元のネクタイを引き下げ、ワイシャツのボタンを一つ、外す。

 静かになっちゃったな、とハンドルを握っていた松戸はルームミラー越しに司の方に頭を傾けて眠っている千代子を見る。そして司も相当疲労が溜まっていたのか、やはり同じように千代子の方に頭を緩く傾けて瞼を閉じている。

 追い越し車線から本線に移りながらギアを一速落とす松戸に芝山が顔を向ける。
 後ろ、と軽く囁いた松戸の声にそっと後部座席の二人を確認した芝山もふ、と笑って……今は静かに寝かせておいてやろうと松戸とは会話をせずに大変な目に遭ってしまった若い二人を見守る事に徹する。
 黒塗りの車は静かに、夜の東京を抜けて行く。

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