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本編 (2024 11/13、改稿しました)

6.カチコミ※

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  ようやく千代子も司との生活に慣れて来た。
 司が帰宅時間をあらかじめ伝えておけばそれの通りに千代子も支度をして待っていたり、遅い場合にはもう先に自らの部屋で就寝している。
 そして、もしも何かあった時の為にと千代子には丁寧に説明をして彼女のバッグの中にセキュリティタグを入れても良いか了承を取ったのは昨夜の事だった。

 今は翌日の司のオフィス、午後三時を回ったあたり。

「束縛し過ぎているとは思うんだが」
「そこまで悩んでるなら……でも、流石に今は持たせておいた方が良いッスね」
「ああ……」

 それより兄貴、今日はもう帰って彼女とゆっくりしたら?と松戸が提案する。それを聞いていた芝山も「後は俺らに任せて」と疲れている様子の司に以前にも勧めたように帰った方がいい、と言う。
 未だ見ぬ司の幼馴染である『小倉千代子』と言う女性がどのような姿かたちをしているのか、二人は知らなかった。司も紹介するつもりではあったのだがどうにもタイミングが合わない。

 先日、連合会長の中津川から急に個人的に呼び出された後からだ。
 なにやら“コト”が動き出している。

 司が動かしているお金の額は同世代の若きベンチャー企業の社長たちよりも数段上。それらは義父の進から継いだ物ではあったが司の冷静な手腕の成果も勿論、大きい。

 そんな司の二人の部下、芝山と松戸はいつも司の様子をつぶさに観察し、時にオーバーワークにならないか心配をしながらも見守っていた。今は彼を自宅で待ってくれている優しい女性がいる。それならもうさっさと帰って甘えでもして英気を養ってきて欲しいのだ。

「写真とか無いンすか?前に兄貴が俺の舎弟にやらせた盗撮じゃない方。俺の所に登録した顔、あれって“どこにも存在しない女”ですよね。まあ、なんかの拍子に流出~なんて事も無くは無い話だから」
「そう言いつつ、若は松に見せたくないだけかもしれん」
「えー!!じゃあ芝山さん見た事あるンすか?!」
「無い」

 やっぱり、と言う松戸だったが「ほら兄貴、帰る支度して」と促す。芝山も控えのドライバーを呼び出し、あっと言う間に「また明日」と二人は司を見送ってしまった。

「で、芝山さん。今川三兄弟の次男坊の息子、兄貴の従兄いとこにあたる……」

 ふつ、とスイッチが切れたように松戸の表情と声色が厳しい物に変わる。
 いつもは態度も口調も軽い松戸のその声に頷いた芝山は司のいなくなった執務室で松戸を来客用のソファーに座らせ、自らも対面に腰を下ろす。

「そう言えば芝山さんとサシで話が出来るの案外貴重ッスよね?今夜は寝かせませんよ」
「馬鹿言えお前……なあ、松」
「はい?」
「お前、さっき御嬢さんの顔を見たことが無えと言っていたが本当の所はどうなんだ」
「モチロン、知ってますよ」
「だろうな」

 はーっと溜め息を吐く芝山に「この子」と松戸は自らの端末内にある一枚の画像を芝山に見せる。

「小倉千代子さん。見ての通り、優しそうな子ですよ」
「そうだな……ってよくこの画角で撮れたな。しかもこれ、彼女がいたアパートの部屋か?」
「そうやって俺を隠密みたいにしたの芝山さんッスよ。兄貴からの依頼で“千代子さん”の自宅から荷物だけを夜中にささっと運び出した時、信頼のおけるヤツにボディーカメラ仕込んどいたんです」
「教えりゃなんでも“それ以上”の事をやってのけるとは言え……えげつねえな。さてはお前、ヤクザだな?」
「ヤクザですねえ」

 若かった松戸を叱りながらもその才能を見守っていた芝山。
 こいつはひょっとすると、と根気強く松戸の失敗と成功に付き合っていた。
 周りからは勿論、松戸を本家から外すよう言われたりもしていたがまだ十代だった松戸に「芝山さんだけッスよ、どうしようもない俺を叱っても見放さなかったの」と言われ、人とは少し違う習得方法で学習する者なのだと理解してからは本当に松戸は良い舎弟となった。

 ソファーに浅く座り直し、続けて芝山に端末の画面を見せる松戸は「で、話をその兄貴の従兄の“今川薫いまがわかおる”の最近の動向に戻すとですねえ」と話を始めた。


 二人に促され、自宅まで戻って来た司。
 昼はもうとっくに過ぎた四時近く、司から帰宅すると連絡を受けた千代子は相変わらずキッチンに立って……ホットケーキを焼いていた。司からの連絡より前からもう支度をしておやつにするつもりだったらしく、シャワーを浴びて部屋着に着替えて来た司にも食べるかどうかを聞く。
 それに早く帰って来る日は司が疲れている、と言う事。疲労回復に安易に甘い物を勧める事はしなかったが千代子が思っていたよりも司は食べたかったらしく、自ら皿とカトラリーまで用意し始めた。

「夜ご飯が近いから一枚ずつですよ」
「っふふ、子供じゃないんだから……それで、今日の夕飯のメニューは?」
「メインは豚肉の赤ワイン煮なんですけどブロック肉をこう、一本のまま入れて……司さんが買ってくれた炊飯器凄いんですよ」

 今、その炊飯器で煮込んでいる最中なんです、と心底嬉しそうにしている千代子がどうしても可愛くて笑ってしまう司は飲み物も用意しようか、と千代子と一緒にキッチンに立つ事が多くなっていた。

「ちよちゃんは何でも作れるけど、やっぱり趣味だった?」
「そうですね、作る事は……料理って、一番身近で成果がすぐにわかるもの、と言ったら良いんでしょうか。自分が手を加えた分だけ、味に出ますから」

 たとえばおでんの大根も面取りをすれば、と話をしながら席について「いただきます」をしてから丁寧にホットケーキを切り分け始める真剣な表情と所作。
 寝食とは人を作る――かつて、どうしようもなくなってしまった千代子が荒れた生活をしていた事など想像が出来ない。心の傷となる程に擦り減らされてしまった自己肯定感。それを調理と食事で少しずつ、ゆっくりと癒していたと司は聞かされている。

「そうだ。明日は大きな本屋さんに行きたいので午前中は都内を頻繁に移動していると思います。新宿あたりと……」
「うん、分かった……とは言ってもごめんね、私もちよちゃんを外に出さないとか束縛なんて本当はしたくないんだけどどうしても今、ちょっと」

 状況が悪い。
 頼りになる松戸も今は千代子にセキュリティタグを持たせたままにした方が良いと言っていた。何かあった時の為に……そんな事、起こさせはしないが、と司も焼き立てのホットケーキを切り分けて口に運ぶ。ほんのりとした甘さとバターの風味は強く張っていた気を緩めてくれるようだった。

 そのまま、ゆるやかな二人だけの夕方の時間が流れる。
 ソファーの上で司から少し過剰なスキンシップを受けていた千代子。まだ明るい内からこんな、とエプロンごと少し乱されているカットソーの胸元。
 先ほどまで司が顔を埋めるようにすりすりと――甘えているのか、そんな感じがして千代子は司の背をそっと撫でていた。やっぱり司さんは疲れてる、と体がソファーに押しつぶされ気味ではあったが千代子も次第に眠くなってきてうとうとと瞼を閉じ、ついには眠ってしまった。

 それでも三十分程度、キッチンに鎮座している例の炊飯器が煮込み料理が完成したと教えてくれる。その音に千代子は敏感に反応し、彼女の柔らかな胸元に寄り掛かり、心地よさについ眠ってしまっていた司も同時に起きて「ごめん、痛くなかった?」と体の重さの違いを心配しながら体を起こす。
 そしてよほど楽しみだったのか早速、炊飯器の中身を確認しに行ってしまった千代子のふわりと軽やかにはためくエプロンの裾が感情を物語っていた。

 彼女とのこんな穏やかな生活は当たり前じゃない。きっと随分と千代子は自分に歩み寄って、寄り添ってくれようとしている。だからこそ、しっかりと守ってあげなければならない、と司もソファーから立って千代子特製の肉料理の様子を見に行く。

 ・・・

「若、少々良いですか」

 司の持つオフィスビルの――ウラのセキュリティルーム。本来は司専属ドライバーの控え室である場所から映像のチェックをして欲しいと芝山に連絡が入る。元々、司に近しく接する人間は今川本家の古くからの舎弟、なるべく人は限られていた方が良いとドライバーには兼任で警備も頼んでいた。
 芝山から伝えられた司がパソコンのモニターを指定のカメラ映像に切り替えれば司たちが今、マークしている男の入館してきた姿がリアルタイムで鮮明に映っている。

「別に兄貴にそこまでの恨みみたいな物は無いとは思うんですけどね。俺なんか芝山さんに一日三回はド突き回されてたのに恨んでないもの」

 軽口を交えながら細目でモニターを見る松戸、それを鼻で笑う芝山、そしてやはり冷たさを纏い始める司の目が真っ直ぐに上階用エレベーターに乗り込む男を注視していた。

「芝山、この男が来ると言う連絡は」
「ありませんね」
「さーて、用があるのは兄貴の方か、それとも俺の方か。アポなしだけど今日は兄貴かな~」

 各役員の執務室が入っているフロアはスモークガラスの壁で完全に外界から仕切られており、その手前の受付には専属のコンシェルジュが常駐していた。各上級の役員たちへの取り次ぎは一度、エレベーターから出たそこで留められることになっている。
 フロア入室の為のカードキーは経営者である司の他に表向きは第一秘書である芝山や同グループ内企業の社長職である松戸のような上級の役職者や秘書にしか渡されていない。
 カードキーでの解錠、あるいはコンシェルジュが解除しない限り外側からは非常時以外、物理的に破壊しなければ突破は出来なかった。

 俺ちょっと自分の部屋に戻ってみますね、と松戸が退室していく。結果は松戸の推測の通り、司の方に男は会えるかどうか問うて来たと芝山の社用端末を介してコンシェルジュから連絡が入った。
 その男は以前、自分が持たされている高利貸し、いわゆる街金マチキンの規模を拡大して欲しいと直談判に来ていた男、三浦だった。
 興味の無かった司が軽くあしらってしまい、それからも特に“検討”もせずに後回しになっていた案件。

 しかしその三浦が松戸へ個人的に接触しようとしていた事はもう、連合本部の会長に料亭に呼び出された日に松戸からの連絡で司にも知られていた。
 司に確認を取った芝山は通すようコンシェルジュに伝え、程なくして三浦が執務室に入る。

「なあ三浦、お前どうしてそんなに街金に拘るんだ。お前なら他の事業でもやっていけるんじゃないのか?」

 浅く頭を下げている男に同年代の芝山が司の代わりに声を掛ける。

「俺は……司さんが出て行かれてから組長の落胆を知っています。そして司さんが今もご実家に連絡ひとつ入れてねえのも」
「待て。それ以上は不敬になるぞ」

 ぐ、と言葉を飲んだ男に司の表情も険しくなっている。
 この三浦は元々、司の実父である今川修が組長となっている組の構成員だった。頭が回り、街金を任せられていたのだがある時を境に修が一つ、また一つと事業を手放し、本家今川の預かりとなっていた。
 司が実家と連絡を取っていないのは芝山も知る事実ではあったがそれは司の非常にプライベートな話であって舎弟でしかない三浦が口を出すような筋合いはない。

「俺は……ただ、組長と司さんが」
「三浦、止めろ」

 少し声を強めた芝山。そこへちょうど、あまりにもタイミング良く入室してきた松戸は「どうしたンすか?」と何事も無かったかのようにきょとんとした表情で三浦の顔を覗き込む。

「松戸さん……」
「会社でっかくしたい話、でしたっけ……大変ッスよ?俺あんま頭よくないから兄貴と芝山さんいてくれないとまだ全然だし。むしろ算数出来る三浦さんとかいてくれたらスゲー助かるんだけどなァ~」

 なんか、焦ってない?と松戸が三浦の目を凝視するように問いかける。

「そ、そんな事は……」
「兄貴の持ってる事業の中では確かに街金はかなり閑職だけどさ」
「松、もう良い。構ってやるな」
「へーい。あ、でも一個だけ。三浦さん昼メシ食いました?」
「いえ、まだ……」
「じゃ、決定。俺らちょっとメシ行ってきまーす」

 そうして三浦を押し出すように退室させる松戸は来たばかりの司の執務室からまた出て行ってしまった。行ったり来たりとせわしない男だ、と司と芝山はまたパソコンのモニターを監視カメラの映像に切り替えて二人の様子を見る。

 このビル内、どこにも死角は存在しない。
 それを分かっていない三浦は松戸に何度も頭を下げていた。

「俺も松が色々と個人的に詳細を調べていると本人から聞いてましたが……三浦が薫さんと接触する明確な理由が見えなかったんです。ですがどうやら三浦の所の客に一人、かなりの額の多重債務者がいたようで。ソイツが薫さんの所でも相当借りていたらしく……取り立ての現場で両者がカチ合った、と」
「最悪の現場だな。だから街金からは借りるものじゃない」
「あちらも三浦の立場に旨味を見つけたんでしょうな。たとえば……」
「私に近づける、か」

 司の脳裏には一人の男の姿があった。
 同じ今川の血を引く六歳程年上の人間。

従兄にいさんは何がしたいんだろうな」
「若のお考えを拝借すれば養子である若を次期連合会長の座に上がらせない……上手くすれば本家の持ち物も横取り……でしたっけ」
「こっちはさっさと失脚する為に動いていると言うのに」

 全く、と司はモニターを横目に溜め息を吐く。
 本部若頭だの会長だのと煩わしい。
 しかし今は状況が少し変わってきている。

 千代子の存在だ。
 彼女とこれから先も何事も無く暮らせるようにするには、組織解体しか道はない。その為にはやはり本部若頭となり会長に近い座を一度、手に入れなければならなかった。
 危険な思想を持つ武闘派を排除し、時代の流れに沿うよう……。

 当代の会長、四代目の中津川が言っていたように司の本部若頭代行への就任を推薦する者達は全員が穏健派の直参、格のある直系組長。彼らももう、移りゆく時代に見切りをつけ始めているらしい。
 シノギなら、司たちのように企業経営と言う道がある。多少の無茶もしながら法のラインをギリギリに攻めるか、それとも……掻い潜るか。道は幾らでもあった。

 そう言えば今日、千代子は買い物に――大きな本屋に行きたいから色々と都内を移動をしていると聞いていた。今頃、買い物ついでにランチでもしているのだろうな、とセキュリティタグの位置情報を探るのではなく、通知が来ているメッセージを確認する。休憩に入った喫茶店のオムライスとプリンの画像と店名が直接、千代子から送られていた。

(彼女はどこにでもいる女性?いや、違う)

 司にとっての千代子は何よりも代えがたい大切な人だった。
 だから、今は千代子にも負担を掛けているがコトが終われば二人だけ……芝山と松戸は来なくていいと言っても付いてきそうではあったが、そうやってどこか彼女が行きたい場所にでも行って、自由に暮らすのも良いかもしれない。

 犯罪じみた手荒な事もしてはきたが相手もまた同じ穴の狢。
 司は、一般人には決して手を出していない。
 一般人、カタギと言うその大きな括りの中には千代子がいるのだから。もし自分が大きく法を犯し、巡り巡って千代子を悲しませる事になったら……それはつらい。

 ――司さんは司さんですから。

 深く、濃い墨の入った体を曝け出しても受け入れてくれた千代子。心のどこかでいつも彼女を求めた末に背に刺した巴御前の武者絵を綺麗だと言ってくれた。

 千代子からの何気ないメッセージに返信をし、司はまた自分の仕事に取り掛かるもここ最近、どこか無理をしている事に彼自身も……芝山も気づけないでいた。
 それは自らを的確にコントロールできていない、と言う事でもあった。

 そしてそれは一番気の許せる存在となった千代子に、無意識に向けられてしまう。

 ・・・

 その週の日曜日の夜、二人の間で事件が起きた。
 夕食後の家事もひとしきり終え、司から先にどうぞと勧められて入浴を済ませた千代子がのんびりとリビングのソファーで雑誌のページを捲っていた夜のひととき。

 先日、本屋に行ってくると言った時に買って来た料理雑誌。気分転換の散歩を兼ねていた買い物。
 食事代や千代子自身が必要な物の購入費も二人で暮らす為に作った口座から崩して構わないと伝えていたが司は入金をするばかりで出金の確認はあまりしていない。
 その口座には千代子が普段この部屋を清潔に、住み心地の良い場所にしてくれている報酬も含まれている。いわゆるちょっとした『お小遣い』の名目ではきっと千代子は受け取らない。日々の食費など足りているかどうか聞いた時に「十分すぎます、大丈夫です」と目を丸くさせていたので足りてはいるのだろうが、と風呂から上がってきた司はソファーに座って熱心に雑誌を読んでいる千代子の姿を眺める。

 ただ彼女はしっかり髪を乾かさないと「風邪を引きますよ」と怒るので水を飲みに戻っただけでもう一度、パウダールームに行って髪を乾かしてからリビングに戻ると座っている千代子の真後ろから何読んでるの?と覗き込む。

「梅雨時のさっぱりおかず特集、か」
「ネットで検索するのも良いんですが、こういうのって何度も繰り返し読むんです。それで今日の献立はどうしようかな、とか考えて……司さんも気になるレシピがあったら」

 今の千代子でも十分なレパートリーを持っているが彼女には探求心や向上心がちゃんと備わっている。食事は基本的に平日は軽めな朝食と夕飯だけしか共に出来ないが毎日、よく考えてくれている。
 自分の事を、大切に想ってくれている。

 しかしーー司の落とした視線、料理雑誌を捲っている千代子の手元には勿論、柔らかな胸のふくらみがあった。首回りの広いゆったりとしたワンピースタイプの寝間着はいつもと変わらない千代子の就寝スタイルだが髪がまとめられている為、しなやかな首筋が司の目下にさらされていた。

 急に、何故だろうか。司は自分が千代子に抱いている欲がにわかに、まるで沸騰するように沸き立ってしまうのを感じる。初めて千代子と密に夜を過ごした日からベッドを共にする頻度と言う物は彼女の体の事を考えて間を空けていたが……今、その首筋が欲しくなってしまった。

「これなんてどうでしょう。いつも甘い味つけな、の……っ」

 問いかけざまに見上げた千代子のフェイスラインに手を掛け、動きを封じる。
 何が起きたのか分からずに固まってしまった千代子の首筋にあろうことか体を屈め、司は顔をうずめてしまう。

「つ、か……さ、さん……」

 いつもだったら寝室が分けられている為に「今日は一緒に」と夜を共に過ごしたい時は司から伺ってくれていた。それに恋人同士の甘い戯れだってするようにはなったけれど、今はそんな時のスキンシップのラインを既に越えている。
 独特な気配に歯が立てられているのかもしれない、と千代子は肩をすくめる。キスではなくて、司はきっと噛んで……ぶる、と身震いをした拍子に雑誌は膝から滑り落ちてしまった。

「ん、んん……っ」

 ひく、ひく、と不安定な呼吸に千代子の胸が上下する。

「ちよちゃん可愛い」

 耳のすぐそばで聞かされる甘い言葉。
 何度も噛むように、そしてじわりと吸い上げられて……今ここで司を止めないと明日から数日、着る服が限られてしまう。

「司さん駄目、首にあと、が」
「欲しい?」

 司の様子が明らかにおかしい。
 たまに甘えているのか頬が熱くなるような触れ合いはあってもどんな時でも紳士的で、大切に扱ってくれていたのに。

「や、め……」

 このあとどうされてしまうのか、想像出来てしまう。
 やっと満足したのか首筋から離れた司と乱れた呼吸を隠すように口元に手の甲を当てて落ち着こうとしている千代子だったが司に「おいで」と言われて拒めるような意識と体の状態ではなかった。


 ベッドの上で枕の端を掴んでいた千代子の指先に力が入る。
 先ほどから執拗に司が千代子のしたたる程に潤んだ秘所の腫れた花芯を指先で撫で上げている。あまりにも鋭く強い刺激に閉じてしまいそうになる膝を司にしっかりと阻まれてあまりにも心細く、無防備な姿を晒していた。
 その間も司は千代子のふんわりと形を変える胸の先にやはり軽く歯を立ててーー過剰な快楽に戦慄く体、愛されているのではなく弄ぶように、物のように扱われているようだった。

「やめて……お願い」

 怖い、と絞り出された切実な声に司も我に返ったのか慌てて手を引く。自分の体の下にあったのは仰向けで眼尻から細く涙をこぼしている千代子。その姿を認識した司は自分が今、彼女に何をしようとしていたのか分からなくなる。
 大切な人を、こんな、自分の強い欲望と衝動に任せて抱こうとしたなんて、と。いくら千代子が普段から温かく寛容だったとしてもこんな真似、絶対に許されない。

「ごめん、本当にごめん……私、どうかしてる」

 素肌の千代子に掛けてあげられる物も言葉も無い。
 ゆっくりと、一人で起き上がる千代子が体を隠すような仕草をしたのがつらかった。いや、つらくて怖かったのは千代子の方だ。

 一度ベッドから降りた司がパウダールームまで行き、千代子用のローブを手にして戻って来ると俯いてしまっていた千代子の肩に掛ける。
 首筋には襟の高い服でなければ見えてしまうような赤い痕が色濃く残っていた。

 だって、千代子の姿が、と自分に都合が良いように正当化しようとしている。

(私は、なんて醜い……)

 千代子は一人でローブの袖に腕を通し、胸元を合わせる。
 恐怖を物語るように手元が覚束ないのに手伝えることも、謝罪の言葉も司は探し出せない。

「ちょっと……痛かった、です」

 いつもの司なら「痛くない?大丈夫?」と常に千代子に声を掛けていた。体の大きさの違いを心配して、痛みや傷にならないか気に掛けてくれていた。その気遣いに応えるように頷いたり「大丈夫」と言葉を返していた千代子から今、正直に言われてしまった。

 信頼があるから、されて嫌な事は相手へ伝えようとしている千代子。
 司と暮らしてきて、今はもうそれもしっかり言葉で伝えられるようになっていた最中のこの急な出来事。

「司さん、疲れていたんです。きっと……ね?私も、いい歳ですから、大丈夫」

 おやすみなさい、とベッドから降りて部屋から出て行ってしまった千代子に何も言えない司は自分の心の弱さに嫌悪する。
 そして自分の気質にはやはり、暴力的な部分があるのだと――まだ若かった日々、いわれのない理由で殴られた時に感じた“相手を殺してやりたい”と言う人として一線を越えてしまいそうになったあの全身の血が沸き、騒ぐ衝動は今も忘れず、良くないことなのだと言い聞かせていたのに。

 似ても似つかないと思いたいあの激しい衝動を、千代子に向けてしまった。

 若かった時に聞かされ続けていた義父からの「本物の強者はその力を上手く使える」との言葉。ゆえに衝動のままに手を出すのは二流のする事だ、と義父の進も自らが持つ鋭さを伏せ、時代の流れを汲み、新しい道を模索しながら生きて来た真の意味で強い人間だった。そんな人物からの言葉を司自身、守って来た筈だった。

 千代子の温もりももう消えてしまったベッド。
 彼女の体から剥いでしまった寝間着のワンピースや下着を拾ってパウダールームを訪れれば彼女がその奥のバスルームでシャワーを浴びている。

 明日、謝らなければならない。
 今夜はもう、話しかける資格などない。
 眉根を寄せ、どうしようもない自分に気落ちする司はリビングの床で落ちたままになっている千代子の料理雑誌をローテーブルに置いてそのまま寝室へと戻っていく。

 片やバスルームにいた千代子。
 噛まれ、吸われた首筋や極度の緊張でかいてしまった汗をシャワーで流していればなんとなく気配を感じてスモークガラスの向こうを見る。パウダールームを訪れた司が何かをして、すぐに戻って行ったようだった。
 千代子はボディーソープを含ませたスポンジを握り、最近の司の行動を思い返す。司は経営者としての面と大きな暴力団組織のやはり管理者と言う立場があるのは知っていて……後者の方で何かあったのだろうと思う。
 居場所が分かるように持たされた物も、子供などの見守り以外で普通の恋人同士が持つには本来、ありえない物だ。

 それに司はちゃんと互いの生活面でのプライベートゾーンを提供してくれている。ゲストルームであった部屋は勿論、内側から鍵が掛かる。
 何に於いても十分すぎる程に気を使ってくれる司があんな乱暴な事をするには何か理由があるに違いない。

(でも、私は……)

 千代子は司の回りの人間を知らない。
 唯一、少しばかりの繋がりがあるのは自分を派遣会社の社員として雇ってくれ、引っ越しの際の荷物の運び出しも用立ててくれた松戸。直接的なやり取りはしていなかったが彼は何かと要所で助けてくれている。

(無茶な事を承知で……でも、どうなんだろう……私はただ、司さんが心配で)

 ごしごしと気分を切り替えるように体を洗い、千代子は一つの決断をする。
 そして不安も一緒に洗い流すようにシャワーで泡を流し、バスルームから出る。すると洗面台の上には一枚のワンピース、その下には剥ぎ取られるように脱がされてしまった下着が申し訳なさそうにゆるく畳まれ、置かれていた。

 ・・・

 翌日、フォーマルスーツにヒールを合わせた千代子は商業ビルのフロア案内の前で自分が一応、登録されたままになっている派遣会社の名前を見つけた。
 大きな玄関のあるエントランスフロアは商談などでも使われるのか社外の者でも自由に入ることが出来るコーヒーショップが併設されたカフェテリアやコンビニがあった。
 そんな広いエントランスをただの派遣社員でしかない自分が門前払いされるのを覚悟して歩いていた千代子。

 朝、司とは会えなかった……と言うか、やはりどう接したら良いか分からず早く起きて軽い朝食の支度をしただけで部屋に引っ込んでしまい、会わなかった。いってらっしゃい、も言っていない。

 幸いにも首筋はスタンドカラーのシャツで隠せたので髪をアップにし、きちんとしたメイクをして印象だけでも悪くならないよう整えたが随分と酷い顔をしている事に違いはなかった。

 そんな彼女の姿を目の前で目撃したのはコーヒーショップから新作のチョコレート系フレーバーのアイスドリンク二つを入れた紙袋を手に出て来たばかりの松戸だった。
 司の舎弟と言えど会社社長が気楽にカフェで買い物をしていた理由は……機嫌がかつてない程にどん底になっている司が珍しく「甘い物が飲みたい」と覇気の無い声で言い、芝山を買いに行かせるのも、と松戸が買いに降りてきていたせいだった。

 ――彼女の存在を他の者に知られてはならない。

 今まで司と芝山の下で学んできていた松戸は千代子が何をしようとしているのか分からなくともこんな場所に訪れている時点でおかしい、とすぐに察知して「ねえ、君」と声を掛ける。

 少し眉を寄せ、怖がっている表情。
 そりゃあ知らない男からいきなり声を掛けられれば誰でもそうなるよな、と松戸は営業用の顔に切り替える。

 そして司は隠しているようだが松戸はもう彼女の顔を知っていた。芝山には一番綺麗に映っている写真だけを見せたが本当は動画で盗撮……参考資料を集めていたので千代子の左右の横顔も、声も、知っていた。
 流石にバレたら芝山と司の両名からやりすぎだと本気で殴られそうではあったがこれも松戸の仕事の内だった。

「小倉千代子さん、ですね?」

 司と同じく背の高い松戸は他の者に聞かれないように軽く屈み、ボリュームを落とした声で問う。

「ワタクシ“松戸”と申します。立ち話もなんですからどうぞ、こちらへ」
「……っ」

 大きく見開いた丸い瞳が不安そうに――しかしどこか、縋りたいような表情に変わる。松戸は司のあの状態も鑑みて執務室には連れて行かない方が良いだろう、とすぐに人気の少ない奥の商談スペースへと案内する。
 戸惑いながらも付いて来てくれる千代子を確認しながらパーティションで仕切られ、半個室になっている対面の二人掛けへと千代子を座らせれば司と自分用に買った新作のチョコレートドリンクを袋から出してその一つをずい、と差し出した。

「あの……」
「えーっと、兄貴にお会いに?」

 溶けちゃうから飲んで、と促しながら松戸が先にストローに口を付ける。

「え……え?ここ、は」
「兄貴の……今川グループの本社ビル……え?」

 そんな事も知らずに、と松戸は危うく甘いチョコレートに噎せそうになってしまい、戸惑っている千代子を見る。

「まあなんも今川に掛かったビル名じゃないから分からないか」
「え、っと、その……私は松戸さんにお会い出来たら、と思い」
「俺に?」

 申し訳なさそうに「はい」と小さく返事をする千代子。長らく勤め人をしていた彼女がアポなし承知で来てしまった、の重大性に松戸も細い眉根を少し寄せる。
 しかもここが司の庭である事すら知らず、と言う事は本当に自分が登録している派遣会社の本部、社長である自分が出勤しているであろう場所に訪れたと言う事になる。

 登録社員とは言え非常に無茶な話だったがごく僅かな可能性に賭けて行動を起こした、と言うのだろうか。
 いい度胸してんじゃん、とこんなに甘い物を司が飲んだら胃をやられるんじゃないかと思いながら本当にクリームが溶け始めてきているチョコレートドリンクを千代子に勧め、かさが減った所を見た松戸は「仕事の事、と言うよりは兄貴の事で聞きたい事がある、とか?」と探りを入れる。

「今の、つ……今川さんが、会社の経営者ではない方でどのような立場なのか、お聞きしたくて。お恥ずかしながら、私……本当に学生時代以降の今川さんを全然、知らなくて……」

 普段、兄貴は名前で呼ばれてるんだと松戸は勝手に脳内にしっかりと記憶しながら司が千代子にヤクザとしての面も、実家から出てどう暮らしてきたのかもそこまで詳しく教えていない事を知る。そりゃあ不安だろうよ、と松戸も思う。司が隠したいのも分かるが一緒に暮らしている程ならやはり知っておくべき事ではある。

(それを俺が先にバラしちゃって良いのかなあ。やっぱり兄貴に殴られる?覚悟する?)

 千代子の「経営者ではない方」との口ぶりから司や自分たちに表と裏がある事を知っているとなると、と松戸は椅子の背もたれに少し背を預けて千代子を見る。

「この時代、探ろうと思えば兄貴の名前はどっかしらに引っかかると思うんだけど……出来なかった、かな」

 意地悪をするつもりではない。
 これは公然の事実なのだ。
 会社名義は司ではなく本家今川の組長になっているが実権は事実上、司にある。表向きはもうカタギと変らない形態をとっており、黒い噂も立たないよう日々、慎重さは欠かしていない。

 程度の悪い週刊誌などですっぱ抜かれようが自分たちは何も法を犯していない。
 それどころか行き場のない十代の半グレや、ヤクザと言う生業から足を洗いたい者たちの受け入れ場所として事業を細分化しながらも再編を繰り返し、試行錯誤しながら大きくしてきた実績がある。

 全ては司がただの一人の男として生きる為に。

 今の本家組長である進が体調不良でありながらもその座から引かないのには理由があった。
 司が望んだ生き方をさせる為、何か大きな事態が裏側で起こった際に“使用者責任”が問われ、警察から御呼びが掛かった日には自分が出頭すれば良い、と。

 進からは『司に要らぬ傷を負わせるな。それがお前たち舎弟としての“最後の務め”になる』と直接、本家の屋敷に司には内密で芝山と呼び出されたときに言われていた。
 本家組長の進はとっくに暴対法の強化とその先にはもう何もない事を悟り、相当昔から組織解体を視野に入れていた。それでもそれは時間の掛かる事であり、司がやり遂げるまで経歴を守るよう、頭を下げられてしまっていた。

「うーん、最初から話すとなると……俺たちは兄貴の事を“若頭カシラや若”と呼んでる、かな。それで兄貴は今、本家今川の名を持っている。養子縁組ってやつで一番上の伯父さんにあたる人に引き取られてさ」
「養子……伯父……あの、体がとても大きな伯父様の」
「そう。ああやっぱり子供の頃の事とは言え覚えてたんだ」
「とても印象的な方だったので……その伯父様の、所に……」

 松戸は深く頷く。

「俺は兄貴が千代子さんとお別れをしてしまった後からの付き合いになるかな。俺は兄貴より一個下でさ、ちょうどその本家の丁稚になって住み込みで働くようになって」

 これも司が千代子に伝えていない事。
 そしてそれを聞く千代子の瞳はとても真剣な眼差しで、ひとつひとつに頷いて松戸の話を聞いていた。

「昨日ちょっと、喧嘩ではないんですが……」
「あーだから今日、この世の終わりみたいな顔してたんだ。最近、そうだな……トラブルって程ではまだ無いんだけどソッチの方でちょっとあって。兄貴も考えすぎちゃう面があるから千代子さんにはこうしてまだ話せていない事とか、色々そう言うのもひっくるめて自分の中で上手く折り合いが出来て無いのかも」
「そう……でしたか」

 そっか、と呟いた千代子がハッとしたよう「急に訪問してしまい申し訳ありません」と深々と頭を下げて丁寧に謝罪をする。そんな畏まった姿に「謝らないで」と松戸は声を掛ける。

 言わなかったのは司だ。
 案外兄貴も臆病な所があるのね、と松戸は思う。

「ほら早く食べないと溶けちゃうから」
「これ、本当はどなたの」
「ん?兄貴のだけど」

 驚き、目を丸くしている。
 やはり司は普段、自宅ではこんな甘い物は食べていないらしい。俄然、二人の私生活が気になるところではあるが千代子の手元のチョコレートドリンクも底をついた所で松戸は千代子の目を見て「一つだけ、確認していい?」と自らの背広の肩をとんとん、と指先で指し示す。

「兄貴のコレはもう」

 非常にプライベートな事だと分かっていながら、松戸もまた彼女の覚悟を確認したかった。離れ離れになってしまった後の生い立ちはともかく、今の司が背負っている物を千代子が知っているかどうか。司もまた、彼女にそれを正直に伝えているかどうか。
 そうでなければ、守りたくても守れない……互いがちゃんと大切な部分を共有しているかどうか、知りたかった。

 意味を察知して頷く千代子に松戸は「俺もね、あるんスよ」と笑って流してやる。

「マジ夏場は半袖が着られなくてね、半袖の癖に」

 それは彼らなりのジョークなのか、千代子の瞳が一層丸くなってしまった。

 それから暫く、全然戻ってこないどころか戻って来たと思えば手ぶらの松戸。もう甘い物の気分も過ぎ去っていた司は芝山が用意してくれたコーヒーを飲んでいた。

「ほら、やっぱり兄貴にあんなド甘い物は合わないって」
「お前まさか一人で」
「なんかースペシャルなやつが今日の在庫のラスワンだったみたいでーしかも店員さんのうっかりでグラスで提供されちゃってーそしたら俺も電話掛かってきちゃってー」

 だらだらと嘘を吐く松戸。
 二つ購入したもう一方を突然来訪してきた千代子に与えてしまった事など司は知らない。
 そして帰り際の千代子と連絡先を交換したのも知らない。

 ワルイコトしてんなあ、ヤクザかな?と一人ふ、と笑ってしまった松戸に訝しげな視線を送る司も今夜は帰ったらもう一度ちゃんと千代子に謝る為に彼女の好きそうな物でも、と考えていたがどうにも思いつかず。
 帰る間際まで唸っていた所で「彼女になんかやらかしちゃったんなら素直に謝るだけでも良いと思うンすよ」と見かねた松戸から助け舟を出され、珍しく強く睨んでしまう。

「知ったような口を」
小指エンコ詰めてケジメつける時代じゃないッスよ~」

 小指を立てている松戸に流石の司も溜め息に少しの笑みを混じらせる。
 歳の変わらない松戸にも、いつも救われている。

「お前な……」

 それもそうか、と司は考える。
 今日、千代子からは一通もメッセージは届いていなかった。
 どこで何をしていたのかも分からない。持たせたセキュリティタグだって、危険が及ばない限り千代子の行動の始終を覗こうなんて思っていない。
 まあ最初は……一緒に暮らしていなかったし、再会したばかりで気持ちが急いて尾行はさせたが。

 今、彼女は悲しんでいるのか、怒っているのか、それすら何も分からない。下手に何か用意しても、素朴な千代子はどう思うだろうか。
 結局は言葉で謝る事を決めた司は何も持たず、自宅のドアを開ける。

「お帰りなさい」

 相変わらず迎え出てくれる千代子。
 昨日、酷い事をしてしまったと言うのにその表情は穏やかだった。

「ちよちゃん」
「ただいま、が無いですよ」

 ああ、この子は。
 促されて「ただいま」と言う司の申し訳なさそうな声に千代子は「今日のお夕飯は“私の好きな物ばっかり”ですからね」と言う。
 しかも食材の買い出しは全部高級志向のスーパーで、肉も塊の一番大きいものを買ってきて、と説明を始める。

(私はいつも、誰かに救われている)

 司が「昨日は本当にごめん」と謝る。
 許しを請うのではなく、ただ純粋に謝罪の言葉を千代子に掛ければ仕方なさそうな表情をして「そんなに落ち込まないでください。お腹いっぱい食べればきっと疲れも取れますよ」と笑いかけてくれた。
 そう、自分たちはもう幼い頃とは違って年齢差もあまり感じさせないような大人同士なのだから感情が揺れて、どうしようもなくなってしまう日だってあるのを知っている。

 大切な人に、感情をぶつけてしまう事もある。

 そんな時でも受け止め、見守ってくれる人の存在のなんと有り難い事か。
 千代子の為にと彼女の痛みや寂しさを受け止めようとしていた司のその心の内側。どうしても持ってしまっている暗い物を千代子も受け止め、理解しようとしてくれている。

 司はぱたぱたと先にリビングへ行ってしまった背に「ありがとう」と呟く。今夜は千代子の好きな物しかないと言う夕食。支度を手伝うために司も気を取り直し、部屋に上がった。

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