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本編 (2024 11/13、改稿しました)
5.カラス彫り※
しおりを挟む「こんな感じかな」
家具のほとんど、ほぼ全てが司の提供による引っ越し作業になってしまった千代子。
新規購入されたベッドには同じく真新しい布団一式が置かれている。今日も司の部屋に来ていた千代子は今、彼の布団に使っているものと色違いの淡いペールグリーンの鮮やかな色合いのカバーをちょうど掛け終わった所だった。
元はゲストルーム用の広い部屋。
本当に自分がここに住んで良いのかな、と不安になりながらも昼間は仕事で出ている司とは空き時間を見計らって作業の進捗状況をメッセージにして交わしていた。
足りていない物は無いかどうか何かと心配してくれているがもう、千代子にとっては十分だった。
(それに今日、泊まろうと思って……メッセージ送っておいたけどすごい緊張感が……)
週末の金曜日。
松戸の知り合いらしい屈強な体をした者達の手によってあらかじめ千代子が段ボール箱に詰めておいた季節外の服や日用品は既にこの部屋まで届けられ、大体の引っ越し作業も終わりに近づいていた日。
元から小さなアパートに住んでいた為に持ち物が少なかった千代子はまだまだ空きのある部屋とクローゼットに「司さんは凄いな」と苦笑しながら既にもう相当な金額を使わせてしまっている事に、何とも思っていないような司の姿に気が退けてしまっていた。
だから、何かしてあげられる事があれば返したい。どんな形でもいいから、こうして自分の生活が良い方向へ変わって行っている事へのお礼がしたい。
料理はなるべく司の体調を考え、掃除も丁寧にするよう仕事として請け負っていた時と変わらず、清潔であるよう心掛けていた。
そして、夜。
「お帰りなさい」
お疲れ様です、とエプロンをした千代子が司を出迎える。
「ただいま。遅くなってしまってごめんね、会議が長引いて」
なんでもない「お帰りなさい」と「ただいま」も二人にはまだまだ青くみずみずしい程で、その言葉に続けて千代子が恥ずかしそうに少し視線を下げて「司さんは食事とお風呂……どっちが先か、知らなくて」と言葉にする。
荷解きを終わらせたいから泊まっても良いですか、と夕方頃にメッセージで問われてからの司の心の内はずっとざわついていた。一緒に暮らしたいとつい口走ってしまったのは自分だと言うのに、いざ本当に部屋着姿にエプロンを身に付けている千代子にこうして出迎えられると、また夢なのではないのかと勘違いしてしまう。
普段から食事を先にとっている事を伝え、いつものルーティーンで服装を緩くしてからリビングに出て来るとキッチンではもう千代子が夕食の支度をしてくれていた。
ダイニングテーブルには司だけの食事。千代子から泊まっても良いかと連絡を受けた時にはもう急な会議の予定が入っており、遅くなるかもしれないから食事や入浴も先に済ませておいて構わないと伝えてあった。
それで、だ。
今日も美味しい夕食で腹を満たした司は一人、風呂上りのパウダールームで悩んでいた。
千代子は……その、良いのだろうか。
今日、初めて泊まる彼女を自分の寝室に連れ込んで、そのまま……いやそんなこと、早過ぎる。でももし、そんな雰囲気になれたなら。千代子への思いがぐるぐると巡る。
本当は今すぐにでも彼女をどうこうしてみたい気持ちも恋人として大いにあるが、理性が止めに入っている。
今、司がしっかりと思いとどまっている理由は大きな鏡に映っている自分の素の体にあるもののせい。世間的には認められていない墨色の影にあった。
いわゆる関東彫りの“半袖”までではあったが千代子を酷く怖がらせてしまうかもしれない。
これもまた千代子と付き合い、暮らすにあたって解決しなければならない案件の一つではあった。ベッドを共にする時に、隠し通せる訳がないこの墨色の和彫り。
当時、一応彫り物をしたいと伺いを立てた義父である“親父”の進も「お前がそうしたいなら」と否定も肯定もしなかった。
(これは、私の責任)
千代子は自分がヤクザの子であるのを知っている筈で、と考えてもこればかりはどうしようもない。
それに司は背負っている意匠の意味を松戸や芝山にすら喋っていなかった。
部屋で片づけの続きをしていますから、と言っていた千代子。ドアストッパーを掛け、入り口を開けっ放しにしている。
司は「ちよちゃん」と呼びかけ、少し飲まない?と誘う。もちろん、千代子が酔ってしまわない程度。それ以上は飲ませない。
誘ったのは自分だったので司がキッチンに立って用意をしていると当たり前だが、ソファーに座って待っている千代子がいる。風呂上りの晩酌はいつも一人だったのに。
座りながらも少し屈み、ローテーブルの上にあったダイレクトメールを整理している千代子に「一杯だけ」と小さい方のグラスを渡した司も隣に腰を下ろす。
他愛のない話をしていた。
千代子がどういった暮らしをしていたか、最近ハマっていると言うホットケーキミックス探しの話だとか。寝間着も兼ねているらしいコットンのロングワンピース、少し長めな丈と履いているレギンスから覗く素の足首。アルコールが回って来たのか姿勢を崩す事を遠慮していた千代子がソファーの背もたれに深く体を預けるようになった頃、その手からグラスを落としてしまわないように司は取り上げる。
大人同士だから、とアルコールの混じった吐息。
まだどうしたら良いのか分からない千代子の手を握って、唇が擦り合うだけのキス。
「ん……」
鼻から抜ける甘い呻き。
今夜はちゃんと起きている千代子の手が司の腕に添えられるとぎゅ、と指先に力が入る。
体勢が崩れてソファーに半分、押し倒してしまった事に気づく頃にはもうくったりと力の抜けきった千代子の体があった。アルコールだけのせいではない上気した頬が照明に薄赤く、濡れた唇はちらりと光る。
「ちよちゃん、立てる?」
だめかも、と小さく言う唇。
互いに少し笑って、手を貸して。
膝が立たない、と恥ずかしそうに笑う千代子を司は自らの寝室に誘う。
「それでね……ちよちゃんには正直に、見せておかないといけない事があって」
服を着せたまま、まだベッドには寝かさずに千代子を座らせていた司は長袖の黒いスウェットと中に着ていた肌着をひと息に脱いだ。
自分の正体は会社経営者でありながら、墨色の紋を背負った正真正銘の極道者である事を曝け出す。
肩や腕、胸元に掛かる暗い墨色の影を見た千代子の瞳は丸く……ならなかった。
「なんとなく分かっていました……いえ、きっと、そうなのかな、って。荷物を運んでくれた方々もどことなく、そんな感じだったから」
「ああ……」
松戸め、と司は思うが本当に千代子は肩や背中に墨の入った自分の姿が怖くないのだろうか、とあまりにもすんなりと受け入れようとしてくれている素振りに心配になってしまう。
「大丈夫。司さんは、司さんだから」
昔から、ずっと変わらない千代子。
こんなに沢山、痛くなかったんですか?と手を伸ばす千代子が司の皮膚の、半袖のふちを指先でなぞる。
「っ、ちよちゃん……」
司の背中にぞわ、と欲が走った。
指の腹ですりすりと彫り物を撫でる千代子の手を掴んで押し倒し、覆いかぶさりたい衝動をなんとか抑える。
ただ腕を撫でられただけなのに、とてつもない欲がわいてしまった。
「ちよちゃん、ありがとう。でも本当に大丈夫?怖くない?」
「ふふ、大丈夫ですよ」
お互いに離れ離れになっていた間、司がどのように生きて来たのか千代子は知らない。
それでも今、彼がどのように生きているのかは知っている。昔から変わっていない、やさしい人なのだと。
だから、もしかしたらと考えていたことがその通りだっただけ。
ただ、それだけだった。
それ以上は司も言葉が出てこないのか、ベッドに上がって千代子の体を抱き寄せて大切そうに抱き込む。
「もし怖くなったら、必ず途中でもやめるから気にせず言ってね」
これは大切な約束ごとだった。大人同士、密に夜を過ごすにしても司は自身の欲の強さや見た目について千代子が途中で少しでも怖がったり嫌がったりしたら体を引く、と。
そんな司の言葉に腕の中にすっぽりはまっていた千代子は「わかりました」と頷く。
捲り上げられた寝間着のワンピースの隙間からぐ、と胸元を覆う手に形を確かめられているようで恥ずかしい。脱げる?と問われてそれはもう脱がされているようで……傍らに放られてしまった寝間着。
下着も外された素肌に司が今からしようとしている事を想像しない方が無理な話だった。
そして司もまた、ずっと触れたかった千代子の素肌の胸を優しく手のひらで触れば柔らかく、温かな質量に吐息を漏らす。
その柔らかさを少し握り込めば身を竦め、いつからなのか、もうしっかりと赤く充血している先端が手のひらに掠めるだけで身を縮ませて、そんな反応を見せられたらこの先、千代子の体が最後まで持つのか心配になる。
その前に自分の持っている理性も枯渇しそうではあったが。
どこに触れても温かかくて、すべすべで、柔らかい。そして優しく太ももを撫でる司の指先が、もう潤んでいる場所に触れた。
「っ、」
口元に手をやって息を飲む千代子を眺めながら痛くしないようにゆっくりと彼女の内側を暴きだす。既に滴る程に濡れている様子を探るように司の大きな手の指が、潤む中に差し入れられた。
「痛くない?」
まだ一本だけだと言うのに千代子がキツく締め上げる。
ゆっくりと指を動かせば膝が短く戦慄いた。
「ひ、あ……ッ」
なんてか細い悲鳴。
とめどなく溢れては司もまた自分の指先で感じる千代子のとろみのある透明な熱に大きく息を吐いてまだもう少し――柔らかな体を傷つけてしまわないようにとほぐすように入れていた指を増やせばぐぷ、と音が立つ。
「もう少し、ね?」
感じてくれている姿が愛おしい。
指先などより、これからもっと……千代子の様子から察するに丁寧にしてあげなければ、泣き出してしまうかもしれないような事をするのだから。
「声、我慢しないで」
一番高い等級の防音室だし、と少し気を逸らしてやろうと付け加えた軽い言葉も指先が締め付けられて逆効果だと知る。
苦しそうに、恥ずかしさに身震いしている千代子の様子から一度軽く発散させてやった方が良さそうだ、と胸の先を舐め、ほんの軽く吸い上げてみればあっと言う間に音をあげる。
「やだ、それ……ッ、や、」
千代子に掴まれた肩に爪が立つ。
「汗かいてる」
開かれた胸の谷間のしっとりした肌にも司の舌が這い、今度は反対の胸が彼の舌先で弄ばれる。熱く、ざらついた質感に何度も舐められ、少しだけ歯が立てられて。
上も下も、同時にそんな事をされたら。
千代子は気づいていないようだったが司は中に入れていた指先をもう一本、増やしていた。
「ちよちゃん可愛い」
ひ、と口が食い縛られる。
「我慢しない」
「んぅ……んン、っく、」
ね?と丁寧に、それでも少し大胆に。
軽く果てた頃合いを見て指先を引き抜いた司とその下でもう口元に手をやることも出来ずにぐったりしている千代子。本当に大丈夫かな、と思いつつもスキンの薄いパッケージを手に取った司自身も痛い程の熱を昂らせていた。
少しの間が置かれ、大きな呼吸が落ちついてきた千代子でもひたり、と自分のきっと大変な事になっている入り口に擦り付けられた物の大きさに怖くなる。
明らかに知らない、熱の塊。
優しい司もオトコなのだと分からせられる。
男性経験が無いと言う訳ではない。でも、たかが知れた回数。仕事に疲弊し始める頃には別れてしまった。だから……そこは数年ほど、こうして誰かに触れられた事はなかった。
今、司の猛りを少しでも見てしまったらこの先出来なくなってしまうかも、と言う恐怖心。司は優しいからきっとそこで止めてしまうに違いない。
(そんなの……ここまでしておいてそれは……ない)
見なければ大丈夫、見なければ……と思っていれば「ちよちゃん」といつものように名前を呼んでくれた次の瞬間、ぐり、と強く探られて息を飲む。
そのまま、肉の熱がじりりとした痛みと独特な異物感をもたらしながらゆっくりと時間を掛けて自分の中に入って来る。
「んん、ッ」
千代子の膝が脚の間に割入っていた司を挟み、耐えているようだった。
司もは、と息を吐いて千代子の様子を伺う。
「息止めないで……それとも痛む?」
中途半端らしく、切なそうな司の表情。
ちがうの、と言えないくらいお腹が、苦しいくらいの司の熱に無意識にぎゅうぎゅうと締め付けてしまい、苦笑いが出そうになる司は屈みこんですりすりと千代子の額に唇を滑らせる。くすぐったい、と少し体の強張りが解けた時だった。
「ひ、んッ――!!」
あと少しだったのを押しこんでしまった。
ぴったりと密着している事を教えるように少し動く司に千代子の行き場のない手が何かを掴みたがって指先が空間を掻いて掴める物を探している。
なんていじらしい。
「ごめんね……私も、ちょっと、つらいかな」
「え、」
ずく、と千代子は自分の下腹部が抉られたのかと思った。
中身が、引きずり出される錯覚。
それからまた押し戻される甘い痛み。
「ンっ、く……んんッ」
司を抱き締める事も出来ずに指先にやっと引っ掛かったシーツを掴んで耐えている姿。司が決して自分本位での行為をしていないと分かっているのにまるで酷い事をされているような感覚に涙が勝手に滲んでしまう。
そこは確かに甘く疼いて、どうしようもないくらい熱いのに、僅かな恐怖心が揺さぶられる度に意識を翻弄させる。
「やだ……、や、ッ……こんな、」
こんなの知らない。
「ひあっ……ン、んんッ、だめ…、も、ッ」
耐えられない。
柔らかい両胸を突き出すように背中をしならせて静かに果ててしまった千代子の体を抱く司も急な事に顔を顰め、耐える。
まだだめ、もう少し、お願いだから、と。
「や、やッ……つかさ、さん…またイ、っちゃう……ッ」
止まらない千代子の大きな痙攣に任せて呼び覚まされる司の持つ本性。痛がっていないとはいえ、嫌がって……この深い快楽に恐怖を覚えさせたくはない。
それなのに、千代子を抱いてしまったら、こんなにも歯止めが利かない。
掴んだ腰が細く、美しい体の曲線が自分の叩き付けてしまうような強い衝動と欲望に揺れ、跳ね上がる。
小さな手を取って指を絡ませ、自分の囲いの下で何度も身震いしている姿を見せられては千代子に差し出せる理性などもう、無いに等しかった。
体を落とし込み、体格差で潰してしまわないように……それでも密着した体に擦れる柔らかな千代子の胸が、堪えきれない悲鳴をあげている声が、僅かに底に残っていた理性すら毟り取るようだった。
「ちよちゃん……千代子」
「ッ、そ……れ、や、」
再会してからずっと気軽に呼んでくれていた司に名を呼ばれ、また。
「い、っや、やだ、また……ッ、ひ」
「千代子……っ」
このまま二人、溶け合ってしまえたらいいのに。
「もう、くる、し…ッ、や、んんぅ、――また、い、っ……く!!」
しまいには喉の奥で声にならない悲鳴を上げた千代子に一層強く締め上げられると流石の司も唸るように強く息を吐いて、その熱いうねりの中で深く果てる。
止むことを知らないかのようにひくひくと甘く締め付ける千代子が落ち着くよう背中に腕を差し入れるように少し抱き上げ、頭を撫でる。
どれくらい経ったのか、司が千代子の頭をクッションに下ろしてやっても殆ど伏せられているような視線が合わず、艶めかしく乱れた姿で放心してしまっている。
「ちよちゃん、大丈夫……?」
「ん……」
短く頷く事しか今は出来ない。
体の、下腹部の奥深くで確かに脈動した肉の存在に滲む涙と引かない汗に体は湿気り、意識もぐちゃぐちゃになって、何も考えられずには、と薄く開いた口で息をする千代子。
熱に浮かされ、蕩けきって、されるがままに受け入れている千代子ではあったが司はまだ自分がその中に入ったままであり流石に、とそっと身を引く。
そのまま引き抜ききった時にも小さく「ん、」と声を漏らした体。司の支えが無くなり、ぐったりと、乱れたシーツの上で力なく横たわってしまった。
こんなに疲弊させるまで――自分たちにとっては初夜と言うかキスをして、初めて素肌を晒し合って、愛情を交わした日だと言うのに。
大切な千代子を酷く疲れさせるまで抱くつもりはなかった、と司が自己嫌悪に浸る前に千代子が同じく汗に湿気た司の腕を掴んで、それは確かに幸せそうな表情で……だいじょうぶ、と言葉を紡いだ。
「ちよちゃん……」
「ちょっと、びっくりしただけですから」
ね?と言わせてしまう。
はーっと溜め息をついて落ち込みを隠せないでいる司が「タオルを持ってくるから待ってて」と千代子にとりあえず自分が脱いで放っておいたシャツを先ほどまで抱き締めていた素肌に掛け、ベッドから降りる。
ああ、千代子に言わせてしまった。
はーっと溜め息をついて落ち込みを隠せないでいる司は「羽織るものを持ってくるから待ってて」と千代子にとりあえず自分が脱いで放っておいたスウェットを先ほどまで抱き締めていた素肌に掛け、ベッドから降りる。
その背中には、もちろん。
「あっ……」
微かな声に振り向けなくなる。
「きれい、ですね」
司の筋肉質な背に彫られていたのは美しい顔立ちをした鎧姿の凛々しい――平家物語の絵巻物に登場する巴御前の武者絵。強い、信念を持った女傑の姿が墨色の濃淡だけで表現されていた。
それを綺麗、と千代子は呟いた。
振り返れないでいる司は何と返したらいいのか考えあぐねてしまう。この入れ墨の、女傑の意味を……だからこその巴御前の姿を。
どうしても“そう言った家”の為に片付け忘れたのか無造作に置いてあったカタログ。何となくページを捲っている中にあったこの意匠。彫るつもりなんて無かったのに、強く惹かれてしまった。
最後まで、信念を貫いた強い女性と彼女の姿が重なるようだったから。若かった司は初恋の女性を想い、背中に一生モノの覚悟を刺していた。
ただ一人、彼女の事を想って。
翌朝、案の定そのまま司のベッドの中で朝を迎えてもなかなか起きることが出来なかった千代子。その代わりにキッチンで軽い朝食の支度をしていた司はやっとぺたぺたと素足で歩いて出て来た姿に「おはよう……体は大丈夫?」と心配しながら声を掛ける。
少し掠れているような声で「おはようございます」と返す千代子がソファーの下で脱ぎっぱなしになって放られていた自分のルームシューズを発見し、動かない。
一応、部屋着のワンピースを着ていた千代子。昨夜の行いのせいでどこか体の調子が悪いのかと焦る司だったがよいしょ、とそれをちゃんと屈んで揃えてから履くと「シャワー浴びて来ますね」と恥ずかしそうにはにかみながらぱたぱたと自室へ着替えを取りに行ってしまった。そんな彼女の大丈夫そうな姿を見た司は一先ず、安堵する。
しかし、パウダールームで自分の素肌を見た千代子は瞳を丸くさせ、頬を真っ赤にして身もだえていた。
(私、本当に司さんと……)
このふわふわとした気持ちをなんと言葉にしたらいいか見当たらないがきっとこれは嬉しいとか、幸せとか、切ないとか。色んな気持ちが心を撫でて……撫で……。
「~~っ!!」
やっぱり恥ずかしい、と千代子は気分を切り替えるためにそそくさとバスルームへと入っていった。
・・・
「御苦労様です」
夜の都内、赤坂にあるとある料亭の廊下。
司は自分にかしずくダークスーツ姿の男達の間を芝山を従えるようにして歩き、一番奥深い和室へと入る。格調高い調度品のある落ち着いた和室の上座と下座、一枚ずつしか無い座布団の枚数に細める眼光は鋭く、千代子に見せる優しさや情熱などまるで存在していないかのように冷淡さをたたえていた。
それは千代子との仲も、以前よりももっと近く……毎朝、千代子に「行ってらっしゃい」と送り出して貰うようになったある日の昼の時刻。
連合本部からの呼び出しです、と連絡を受けた芝山の言葉にオフィスにいた司は「こんな急に」と訝しげな表情を隠さずに仕事をしていた手を止める。
松戸は今、自分の事業の方の会議でビル内にはいるものの与えてある執務室で画面越しに会議に参加している最中。普段、ろくに自分の執務室に居らず、司の執務室に入り浸っているがそこは一応、社長業。
「本部は何か案件でも抱えていたか?」
「いえ……若や我々が知らぬ、と言うのなら」
「呼び出しの用件も無し、か」
何を企んでいるのか。
そしてその夜、料亭に至る司と芝山の両名。
廊下の板張りに座して控える芝山と部屋の中で座布団には座らずに一歩下がった場所で正座をし、出て来る人物を待つ司。
暫くすれば奥の座敷の戸が開き、司は黙ったまま頭を下げる。
「司、久しぶりだなァ」
枯れ気味の渋く老いた声にぐ、と今一度深く頭を下げてから司は顔を上げる。
そこには初老を幾らか過ぎた元は芝山のように恰幅が良かったであろう男が胡坐をかいて司を見据えていた。
関東最大の暴力団組織を纏める連合の四代目に座する男、中津川。
「お久しぶりです、中津川会長」
「ああ。シノギの方はどうだ、今川の兄弟もすっかり隠居しちまってお前に任せきりだと聞いているが」
「はい……私ではまだ力不足な部分の方が大きいですが」
少し頭を下げ気味にした司の当たり障りのない、ありきたりなビジネス文句につまらないと言わんばかりに「なあ、司」と中津川は親しげに名を呼び、遮る。
「俺はまどろっこしい真似が嫌いだ。だから先に、単刀直入に言っておこうと思ってな。司、お前は誰よりも極道の世界とは遠い真っ当なカタギの思想を持っている。だからこそ、俺の跡目になってくれねえか」
まるで相反するような理由を持って言い切る中津川に頭を下げたままの司の表情は厳しさをたたえたまま。
「次の本部総会でお前を兄弟の代行として本部若頭に任命する。まだ内々ではあるが既に直参組長三名からの指名は取れていてな。まあ所謂お前さんと同じこの世界に見切りをつけた“穏健派”の連中だ。兄弟があの時代、算盤の苦手な俺の代わりに奔走したように……時代はまた、変わってきている。だからこそ、頭の固い俺たち老いぼれ連中よりも若いお前が上に立った方が良いと思ってなァ」
「お言葉ですが会長……私は会長もご存じの通り親父とは養親子の関係。いくら今川の血を引いていようとも分家は分家の身分。若頭代行はともかく会長職には」
「俺ももう隠居してえんだよ」
まあとりあえず俺の跡を継ぐ件は頭の隅にでも入れといてくれや、と初老の中津川は言う。司の義父である進とかつては上下なく、ほぼ対等な極道に於いての義兄弟の関係――五分の盃を交わした男はゆっくりと、膝を庇うようにしながら立ち上がる。
「駄目だなァ、ったく膝がいてえや。兄弟の事なんか言ってられねえ」
退室しようとする中津川に対し、司は深く頭を下げる。
「司よォ……お前さん、そろそろ気をつけな。いくらお前が兄弟の計らいでほとんどカタギさんと変わらん生活をしていても、それを弱みであると晒しているも同然だ。どんな些細な事でも妙な話には気を付けるんだな……特にアイツ、とかな」
忠告する中津川に頭を下げたままの司は千代子の存在と……一件、少し調査をするよう松戸に頼んでいた事を思い出す。
「それと芝山」
引き戸の影に潜むように廊下に座していた芝山にも声を掛ける中津川は間髪入れずに「司の事、宜しく頼むぞ」と伝える。
「承知致しました」
力強く返事をする芝山の太くよく通る声が司の背を越え、中津川に向けられる。この芯のある付き人……芝山がいてくれたから、司が持っている強い衝動は抑えられていた。いつだったか酷く気が立っていたのか、司は珍しく些細なきっかけで住み込みの丁稚に掴み掛かろうとした時があったのだが仲裁に入った芝山が力ずくで引き留めてくれた。
義父は言葉で、論理的に引き留めてくれていたが実際に司の腕を掴み上げ、怒気交じりに真剣に説教をしてくれていたのは芝山だったのだ。
そして今ここにはいないが松戸とも芝山と変わらぬ付き合いの長さ。
自分を“兄貴”と慕ってくれる彼と出会ったのは高校三年生。もう本家今川の養子として、広い日本家屋の屋敷から高校に通いはじめていた時に新しい本家部屋付きの丁稚として礼儀を身に着けるよう派遣されたのが松戸だった。
その時の芝山は部屋付きの筆頭。補佐役など正式な役付きではなかったが屋敷の警備なども任されていた重要な仕事との兼任で松戸や十代の若い衆を教育する立場で……とにかく松戸は問題児だった。高校中退で極道の世界に転がり込んできた彼は運良く本家今川の屋敷の掃除を任される事となり、歳が一つ上の司とはすぐに顔見知りになった。
「若、松戸から連絡が」
「どうした」
当時の松戸は板張りの廊下を静かに歩けない、畳の縁は踏み放題。物を壊し、作るメシは不味い。芝山に怒られている松戸を見ていた司も“もっと上手く立ち回ればいいのに”と思っていた。
しかし人間、司などのような才能を持ち合わせている者は少ない。
力加減が下手だったのか不器用な松戸、呆れている芝山。それでも芝山が松戸の面倒を見てやっている事が司の目には不思議に映っていた。本家の丁稚なんてやめさせて足で稼がせる方向に持って行けばいいのに、と。
人には適材適所がある。
上手く填まっていなければキツいだけ。
それなのに松戸も辞さず、芝山も他へ追いやらない。
何故なのかと司は答えを求めて当時、芝山に問い掛けたことがあった。
しかし、少し考えたように会話に間を空けた芝山から言われた回答は「若もその内わかりますよ」だけだった。なんだそれ、と曖昧な彼の返事に少しの苛立ち。けれどそれも本当に、時間が経つにつれて司の目に見えてくる事となる。
「いつぞやの三浦の件ですが、どうやら松にも個人的に接触をしようとしているようです」
「私ではなくわざわざ“松戸”を選ぶとは……それなりに回りくどさは持ち合わせているんだな」
「若をも凌ぐ松の……いい意味での二面性、とでも言うんでしょうか」
「見抜いたのは芝山だったな。懐かしい」
「恐縮です」
松戸は恐ろしく融通の利く男だった。
人間、考えが凝り固まってしまいがちだが松戸にはそれが無い。失敗も多くするが全ては彼なりに考え、実行した結果の“成果”だったのだ。
だからこそ、時間が経つと松戸の失敗による“成果”が実り出す。経験則を忘れる事なく、全てを吸収し、それをさらに生かすセンスの良さが松戸の強み。
それゆえにカネ勘定について少し学ばせ、小さな……それこそ的屋やフードトラックなどの小さな単位で経営を任せてみれば着実に成果を上げて行き、司も松戸に今のような大きな事業を任せるようになった。
外部の者達からすれば飄々とした態度から表向きは単なる“今川司の太鼓持ち、あるいは腰巾着”に見えているようだったが司はいつしか同じ場所で育って行った松戸の事を親友のように、それこそ本当は五分の盃を交わしたって良い程、信頼していた。
一度、そうならないかと司から打診してみたが「勿体ないこと言わないでくださいよ、俺ッスよ?」と躱されてしまった。
気が変わったらいつでも、とも伝えていたがその返事は未だ、無い。
「どうやら中津川会長も薄々、若の思惑などに勘付かれているようでしたが」
「ああ。それに“従兄さん”が三浦になぜ目を付けることになったのか……」
「連合規模の跡目争いの始まり、ですか……仕掛けられそうになっている側は本家今川組を、その上の連合すら隙あらば解体しようとしているのに」
「あちらの連中はどう出てくるつもりなんだろうな。分家から本家に移った私の存在の疎ましさ、と言うよりも本家が持っている大きなシマが欲しいだけにも感じるが」
「さて、それは俺には分かりかねます」
「会社も不動産も全て私の物ではない。私はただ、親父から一時的に預かっているだけ……」
帰るか、と料亭の廊下を行く司。
来た時と同じように本部付きの構成員が屈み、両膝に手を着いて司たちに「御苦労様です」と頭を下げる。
芝山の運転で司は自宅へ戻ることとなった。
変わらず千代子は「お帰りなさい」と出迎えてくれる。
そこにはつい先ほどまであった冷めた目はなく「ただいま」と優しく彼女に返事をするただ一人の男としての司の姿があった。
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