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私はチェルシー

彼は誰?

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 ガチャリと図書室の扉が開く音がして、誰かが部屋に入って来た。私はお兄様がほとんどここには来ない事を知っていたので、息を呑んで一体誰がこの部屋に入って来たのかと訝しんだ。

 そっと書棚の奥から入り口を覗き込むと、黒髪を撫で付けた背の高い青年が近くの書棚に向かって近づいた。大人びているので5歳上のケルビン兄様のお友達かもしれない。

 冷たげだけれど、意志の強そうな灰色の目元は印象的で、彼を見た時にドクリと全身が震えた気がした。


 彼を知ってる?チェルシーのものだった心臓がその事を教えてくれている様で、私は息を殺して彼の動きをこっそり追いかけた。書棚にあった分厚い本を引き抜くと、パラパラとページを捲っている。

 私は眉を顰めながらも目を逸せなくて、その青年を見つめ続けた。ふと青年の手が止まっているのに気づいて視線を上げると、彼がこちらを向いている。


 慌てて書棚の奥に身を翻したものの、目が合っているのだから誤魔化すことは出来そうもなかった。けれども彼はこちらに近づいてくる事も無く、声を掛けてきた。

「…チェルシー、もう怪我の具合は良いのかい?私もあの転落事故のあった日、この屋敷に居たんだ。君の兄上達と話をしていた。…もしかして、君を傷つけたのかとずっと気になっていたんだ。チェルシー、顔を見せてくれるかい?」

 
 私は本棚の間からじっと黒髪の青年の言葉を聞いていた。チェルシーが階段から落ちた時に家にいた?記憶を引っ掻くあの情景に感じるのは悔しさと悲しみと、何か別の感情だった。

 彼によってチェルシーが傷ついたとするなら、チェルシーとこの青年とは何かあるのかしら。私はたった12歳の少女であるチェルシーの素行が悪かったにせよ、あの混乱に似た感情を生み出したのはこの青年のせいなのかと、妙に腹立たしい気持ちになっていた。


 私は今やチェルシーの代理人の様な立場なのだから、チェルシーを傷つけたかもしれない状況の聞き取りをした方が良いかもしれない。そう考えたら、コソコソ隠れている場合ではない。

 私は書棚の奥から出て行くと、目の前の青年と対峙した。背が高くて大人びた相手を前にした途端、人見知りを発動してしまった。それに彼が何者かも分からない。日々この世界に馴染むのに忙しくて、流石に兄様達の御学友まで教えてもらう余裕はなかった。


 「…私の事をご存知ですのね?」

 強張った表情を自覚しながら私が開口一番そう言うと、目の前の青年は目を見開いて少し動揺した様子だった。

「…ケルビンから聞いていたが、記憶を無くしたと言うのは本当だったのだね。私はケルビンの学友、ゴードン ロウレックだ。君が小さな頃からよく知っているけれど、…君は私の事をすっかり忘れてしまったみたいだね。」


 私は眉を顰めて口の中で呟いた。ゴードン…。懐かしい様なその名前に戸惑いながら、さっき青年が話していた事を確認しようと口を開いた。

 「…先ほどゴードン様は私を傷つけたとお話しになられたでしょう?一体どう言う状況だったのですか?…私が階段から落ちた事と何か関係があるのですか?おっしゃる通り、私にはまるで記憶がないんです。」

 ゴードン様は私をじっと見つめて言った。


 「…ケルビンの言う通り、君は話し方までまるで別人の様だね。…チェルシー、君は癇癪持ちの我儘な女の子だったんだ。そうなったのは君だけのせいじゃない。ケルビンやマイケルが君を愛するあまり甘やかしたせいもあるだろう。

 君は昔から自分の望みが通らないと見ると、酷く泣き叫んで酷いものだった。侍女達にも八つ当たりして酷い言葉を投げつけて居たしね。12歳と言えばもう道理が分かっても良い頃だと思った私は、あの時彼らにその事を忠告したんだ。

 …君はそこに居なかったけれど、それから直ぐに君が階段から落ちて大騒ぎになっていた。私達が駆けつけると、君は階段下で頭から血を流して倒れていた。しかも息まで止まっていた。

 私とケルビンは丁度騎士課程で蘇生術を習ったばかりだったからね、二人で君の息を取り戻す事に成功させたんだ。息が止まったのは胸を強く打ってしまったのが原因だと医者が言ってたらしいよ。

 けれども、そもそも階段を踏み外してしまったのは、私の話を聞いてしまって動揺したせいかもしれないと責任を感じていたんだ。

 …もしそうだったなら、申し訳なかった。君と直接ちゃんと話をすべきだった。」


 私は記憶を引っ掻くあの不安定な感情の原因が目の前にあるのを知って、整理がつかないまま眉を顰めた。

「…お話は分かりました。私は元々随分と酷い態度だったのですね。その事は周囲の反応からも薄々気づいていたんです。階段から落ちたのはゴードン様のせいかどうかは私には判断つきません。だって記憶が無いんですもの。

 …自分の家族の顔も初めて見る様で、名前も浮かばないんです。」

 ゴードン様は何を考えているのか分からない表情で私をじっと見つめていたけれど、手に持った本を書棚に戻して言った。


 「実はね、チェルシーに謝りたいとケルビンに相談したんだ。最近のチェルシーのお気に入りが図書室だと聞いた時は嘘だと思ったが、実際ここにチェルシーが居たので正直信じられなかったよ。

 チェルシーは勉強なんて好きじゃなかった筈だからね。

 一体君はどうしてしまったのかな?こうして向き合うとまるで別人だ。君はいつも私に纏わりついていた。時としてウンザリさせられるくらいにはね。」


 私はゴードン様に別人の様だと探る様な眼差しを向けられて、ヒヤリとして慌てて言った。

「ショックで幼い私を失ったのかもしれません。九死に一生を得たせいで、大人になったのかも?…私にも分からないです。」

 ゴードン様は不意に近づいてきて、私の両肩をそっと撫でて優しい声で言った。

「チェルシーを不安がらせるつもりは無かったんだ。大丈夫。どんな君だとしても、誰も君を愛さなくなるわけではない。今の君だったら、むしろより愛情は増すのではないかな?」

 ゴードン様の灰色の瞳には本当に同情が浮かんでいる気がして、私はコクリと頷くと小さく微笑んだ。

「…ええ。そうなら良いですね。」


 とは言え、チェルシーを悲しませただろうこの男からは距離を取ろう。今でさえ心臓が嫌な動きをするのだから、近くにいるのは良くない気がする。ゴードン様に拒絶だけでない何かを感じていた私は、手に持っていた本を抱えると頭を下げて先に図書室を出た。

 あの灰色の瞳がずっと追いかけて来ている気がして、扉が閉まるのと同時に私は早足で廊下を走った。逃げ出したと思われようが、複雑な感情を掻き立てられるあの青年の側に居たくはなかった。





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