穢れなき禽獣は魔都に憩う

Arakane

文字の大きさ
上 下
35 / 47

其の十八 毒舌王子の隠れ家(10)

しおりを挟む
 からになった酒杯に、再び酒を注ぎ入れられそうになり、咄嗟とっさ徳利とっくりを傾ける冬月の手を押しとどめると、指先がなめらかな象牙を思わすはだに触れてしまった。最上級の材料だけで作られた彫像のようなその手の皮膚は、思いがけず硬かった。てっきり、労働を知らない上流階級の人々の生活そのものを象徴して余りある、柔らかな手膚をしているのだろうと思い込んでいたから、少しばかり驚いた。
 だが冬月の手をよく見てれば、しなやかだが、しっかりとした関節を持つ指や、強い弾力を感じさせる手の平などに、伸び始めの若竹のような勢力が息づいている事は明らかだった。幼い頃から近隣の悪童などにだと毒づかれていた僕の手などより、よほど雄々おおしい威勢に満ちている。
 けれど、新鮮な驚嘆きょうたんひたっている暇はなかった。すぐに冬月が他人に触れるのも触れられるのもあまり好きではないと言った事を思い出し、
「……ご、御免ごめん……」
 急いで手を引っ込めた。冬月は卓の上に置き去りになった僕の酒杯に酒を注ぎながら、
「だから、そう謝られてばかりでは此方こちらのほうで居心地が悪くなるんだよ。君がソースだって喰ったんだ。今更指がちょっと当たったぐらいで僕がガタガタと騒ぎ立てると思うのかい」
「……っ」
 注ぎ終わった杯を強引に押し付けられ、冬月の力強く端正な手と自分の貧弱なそれとの比較を余儀よぎなくされた上、いじましいところを見られてしまった事への恥ずかさが再燃し、額に汗が噴き出した。石炭のように熱くなった顔をゆがめ、生きたまま網の上に載せられた小海老よろしく身悶みもだえていると、冬月は僕の手元をチラと一瞥いちべつし、
如何いかにも苦労を背負って生きて来たと言わんばかりの風體ふうていだが君の手は荒れていないな。案外安穏あんのんと暮らして来られたのかな」
 皮肉な物言いと嗤いが思いのほか胸にこたえた。力という力の一切ない僕の両手への痛論つうろんを聞いた思いで黙りこくり、ほのぬるい酒がかすかに波打つ杯に目を落としていると、
「しかし、今日はまさかあんな展開になるとはね」
 溜息交じりに片手の猪口ちょこもてあそびながら、冬月が言った。
「僕とした事が、天花寺澪子てんげいじみおこという女性を読み違えていたようだ」
 その名を聞いた途端とたん、華やかな微笑を浮かべる絶世の美女の姿と共に、帝都ホテルの喫茶室サロンでのあれこれがまざまざと甦って来た。青くなったり赤くなったりしている僕を尻目に、冬月は旨そうに飲み干した酒杯に酒のお代わりを並々と注ぎ、
「まあ育った環境から言っても当然並みの女性でない事はわかっていたが、ああいう反応でして来るとは思ってもみなかった。あっさり縁談の破棄を了承するものと思っていたが、思い返せば彼女には昔から世話好きの性質が垣間見えていたからな。君を気に入るに決まっているよな。其処そこを計算に入れていなかった。十年も前の記憶じゃほこりをかぶっていても致し方ないとはいえ、僕には痛恨のミスだ」
 冬月は突然顔を上げると、非難めいた視線を僕に突き刺した。
「いや、僕の記憶の問題じゃない。君が世話焼き気質の女性の庇護ひご欲を必要以上にそそるのが悪いんだ。僕はあんな気の引き方を指示した覚えはないぞ」
「ち、ちょっと待ってくれ……。ぼ、僕は君の言う通りにちゃんと……」
「黙って座っていたって? 頭や背中をでてくれと言わんばかりに一途いちずな目をして彼女を見詰めていたくせに?」
「は、はぁ……!?」
「あれじゃまるでだ。放っておいたら床に寝転んで腹まで見せるんじゃないかとヒヤヒヤしたよ」
「な……っ!?」
「まったく、彼女がのは当然じゃないか」
「ち、ちょっと待ってくれ……っ。ぼ、僕はそんな……っ。……い、いや、そ、そもそも、君があんな大嘘を言ったりしなければ、こ……こんなややこしい事態にはならなかった筈だろ……っ」
 羞恥心しゅうちしんで酔いが加速し、若干じゃっかん呂律ろれつの怪しくなって来た舌を懸命に動かしつつ、猪口を握り締めた。冬月はますますけんのある目つきになって僕をにらみ、
を僕になすり付けるつもりかい? だいたい何だ、急に大きなこえなんか出して。ひな祭りの屠蘇とそで目を回す赤ん坊じゃあるまいし、この程度で酔うなんて君はなのか」
「こい……っ!? き、君はさっきから……っ」
 猪口を握る手に思わず力がこもった。



しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

RISING 〜夜明けの唄〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:256pt お気に入り:17

龍魂

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:15

異世界召喚された俺は余分な子でした

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:291pt お気に入り:1,752

45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:888pt お気に入り:3,917

異世界遺跡巡り ~ロマンを求めて異世界冒険~

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:469pt お気に入り:152

涙に沈んだ砂時計に奇跡の光が降りつもるから

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:1

大賢者カスパールとグリフォンのスバル

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:14pt お気に入り:703

異世界でゆるゆるスローライフ!~小さな波乱とチートを添えて~

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:711pt お気に入り:541

処理中です...