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其の十八 毒舌王子の隠れ家(10)
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空になった酒杯に、再び酒を注ぎ入れられそうになり、咄嗟に徳利を傾ける冬月の手を押し止めると、指先が滑らかな象牙を思わす膚に触れてしまった。最上級の材料だけで作られた彫像のようなその手の皮膚は、思いがけず硬かった。てっきり、労働を知らない上流階級の人々の生活そのものを象徴して余りある、柔らかな手膚をしているのだろうと思い込んでいたから、少しばかり驚いた。
だが冬月の手をよく見てれば、しなやかだが、しっかりとした関節を持つ指や、強い弾力を感じさせる手の平などに、伸び始めの若竹のような勢力が息づいている事は明らかだった。幼い頃から近隣の悪童などに弱っちい手だと毒づかれていた僕の手などより、よほど雄々しい威勢に満ちている。
けれど、新鮮な驚嘆に浸っている暇はなかった。すぐに冬月が他人に触れるのも触れられるのもあまり好きではないと言った事を思い出し、
「……ご、御免……」
急いで手を引っ込めた。冬月は卓の上に置き去りになった僕の酒杯に酒を注ぎながら、
「だから、そう謝られてばかりでは此方のほうで居心地が悪くなるんだよ。君がしつこく箸で舐め回していたソースだって喰ったんだ。今更指がちょっと当たったぐらいで僕がガタガタと騒ぎ立てると思うのかい」
「……っ」
注ぎ終わった杯を強引に押し付けられ、冬月の力強く端正な手と自分の貧弱なそれとの比較を余儀なくされた上、いじましいところを見られてしまった事への恥ずかさが再燃し、額に汗が噴き出した。石炭のように熱くなった顔を歪め、生きたまま網の上に載せられた小海老よろしく身悶えていると、冬月は僕の手元をチラと一瞥し、
「如何にも苦労を背負って生きて来たと言わんばかりの風體だが君の手は荒れていないな。案外安穏と暮らして来られたのかな」
皮肉な物言いと嗤いが思いのほか胸に堪えた。力という力の一切ない僕の両手への痛論を聞いた思いで黙りこくり、ほの温い酒が微かに波打つ杯に目を落としていると、
「しかし、今日はまさかあんな展開になるとはね」
溜息交じりに片手の猪口を弄びながら、冬月が言った。
「僕とした事が、天花寺澪子という女性を読み違えていたようだ」
その名を聞いた途端、華やかな微笑を浮かべる絶世の美女の姿と共に、帝都ホテルの喫茶室でのあれこれがまざまざと甦って来た。青くなったり赤くなったりしている僕を尻目に、冬月は旨そうに飲み干した酒杯に酒のお代わりを並々と注ぎ、
「まあ育った環境から言っても当然並みの女性でない事はわかっていたが、ああいう反応で対抗して来るとは思ってもみなかった。あっさり縁談の破棄を了承するものと思っていたが、思い返せば彼女には昔から世話好きの性質が垣間見えていたからな。君を気に入るに決まっているよな。其処を計算に入れていなかった。十年も前の記憶じゃ埃をかぶっていても致し方ないとはいえ、僕には痛恨のミスだ」
冬月は突然顔を上げると、非難めいた視線を僕に突き刺した。
「いや、僕の記憶の問題じゃない。君が世話焼き気質の女性の庇護欲を必要以上にそそるのが悪いんだ。僕はあんな気の引き方を指示した覚えはないぞ」
「ち、ちょっと待ってくれ……。ぼ、僕は君の言う通りにちゃんと……」
「黙って座っていたって? 頭や背中を撫でてくれと言わんばかりに一途な目をして彼女を見詰めていたくせに?」
「は、はぁ……!?」
「あれじゃまるでうぶな子犬そのものだ。放っておいたら床に寝転んで腹まで見せるんじゃないかとヒヤヒヤしたよ」
「な……っ!?」
「まったく、彼女がほだされるのは当然じゃないか」
「ち、ちょっと待ってくれ……っ。ぼ、僕はそんな……っ。……い、いや、そ、そもそも、君があんな大嘘を言ったりしなければ、こ……こんなややこしい事態にはならなかった筈だろ……っ」
羞恥心で酔いが加速し、若干呂律の怪しくなって来た舌を懸命に動かしつつ、猪口を握り締めた。冬月はますます剣のある目つきになって僕を睨み、
「自分の失態を僕になすり付けるつもりかい? だいたい何だ、急に大きな聲なんか出して。雛祭りの屠蘇で目を回す赤ん坊じゃあるまいし、この程度で酔うなんて君は肝臓まで子犬並みなのか」
「こい……っ!? き、君はさっきから……っ」
猪口を握る手に思わず力がこもった。
だが冬月の手をよく見てれば、しなやかだが、しっかりとした関節を持つ指や、強い弾力を感じさせる手の平などに、伸び始めの若竹のような勢力が息づいている事は明らかだった。幼い頃から近隣の悪童などに弱っちい手だと毒づかれていた僕の手などより、よほど雄々しい威勢に満ちている。
けれど、新鮮な驚嘆に浸っている暇はなかった。すぐに冬月が他人に触れるのも触れられるのもあまり好きではないと言った事を思い出し、
「……ご、御免……」
急いで手を引っ込めた。冬月は卓の上に置き去りになった僕の酒杯に酒を注ぎながら、
「だから、そう謝られてばかりでは此方のほうで居心地が悪くなるんだよ。君がしつこく箸で舐め回していたソースだって喰ったんだ。今更指がちょっと当たったぐらいで僕がガタガタと騒ぎ立てると思うのかい」
「……っ」
注ぎ終わった杯を強引に押し付けられ、冬月の力強く端正な手と自分の貧弱なそれとの比較を余儀なくされた上、いじましいところを見られてしまった事への恥ずかさが再燃し、額に汗が噴き出した。石炭のように熱くなった顔を歪め、生きたまま網の上に載せられた小海老よろしく身悶えていると、冬月は僕の手元をチラと一瞥し、
「如何にも苦労を背負って生きて来たと言わんばかりの風體だが君の手は荒れていないな。案外安穏と暮らして来られたのかな」
皮肉な物言いと嗤いが思いのほか胸に堪えた。力という力の一切ない僕の両手への痛論を聞いた思いで黙りこくり、ほの温い酒が微かに波打つ杯に目を落としていると、
「しかし、今日はまさかあんな展開になるとはね」
溜息交じりに片手の猪口を弄びながら、冬月が言った。
「僕とした事が、天花寺澪子という女性を読み違えていたようだ」
その名を聞いた途端、華やかな微笑を浮かべる絶世の美女の姿と共に、帝都ホテルの喫茶室でのあれこれがまざまざと甦って来た。青くなったり赤くなったりしている僕を尻目に、冬月は旨そうに飲み干した酒杯に酒のお代わりを並々と注ぎ、
「まあ育った環境から言っても当然並みの女性でない事はわかっていたが、ああいう反応で対抗して来るとは思ってもみなかった。あっさり縁談の破棄を了承するものと思っていたが、思い返せば彼女には昔から世話好きの性質が垣間見えていたからな。君を気に入るに決まっているよな。其処を計算に入れていなかった。十年も前の記憶じゃ埃をかぶっていても致し方ないとはいえ、僕には痛恨のミスだ」
冬月は突然顔を上げると、非難めいた視線を僕に突き刺した。
「いや、僕の記憶の問題じゃない。君が世話焼き気質の女性の庇護欲を必要以上にそそるのが悪いんだ。僕はあんな気の引き方を指示した覚えはないぞ」
「ち、ちょっと待ってくれ……。ぼ、僕は君の言う通りにちゃんと……」
「黙って座っていたって? 頭や背中を撫でてくれと言わんばかりに一途な目をして彼女を見詰めていたくせに?」
「は、はぁ……!?」
「あれじゃまるでうぶな子犬そのものだ。放っておいたら床に寝転んで腹まで見せるんじゃないかとヒヤヒヤしたよ」
「な……っ!?」
「まったく、彼女がほだされるのは当然じゃないか」
「ち、ちょっと待ってくれ……っ。ぼ、僕はそんな……っ。……い、いや、そ、そもそも、君があんな大嘘を言ったりしなければ、こ……こんなややこしい事態にはならなかった筈だろ……っ」
羞恥心で酔いが加速し、若干呂律の怪しくなって来た舌を懸命に動かしつつ、猪口を握り締めた。冬月はますます剣のある目つきになって僕を睨み、
「自分の失態を僕になすり付けるつもりかい? だいたい何だ、急に大きな聲なんか出して。雛祭りの屠蘇で目を回す赤ん坊じゃあるまいし、この程度で酔うなんて君は肝臓まで子犬並みなのか」
「こい……っ!? き、君はさっきから……っ」
猪口を握る手に思わず力がこもった。
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