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其の十八 毒舌王子の隠れ家(9)

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 いいようにあしらわれた歯がゆさでくっと唇を引き結んでいたが、食事を終えた冬月がからになっていた手元の猪口に目を移したのを見て、かたわらの徳利に手を伸ばそうとすると、
「僕は酒は飲めるほうだが上海シャンハイでの疲れが残っていてね。控えるようにうちの医者に言われているんだよ」
「えっ、そ……そうなのか……」
 慌てて手を引っ込めた僕にニヤリと嗤い、
から受ける酒ともなればついつい過ごしてしまいそうだからね。手酌でやるよ」
「う……うん、わかった……」
 冬月は自分の猪口を満たすと、おとなしく引き下がった僕の杯にも酒を注ぎ、
「さっきの君の質問だが、志乃さんと筒鳥は夫婦じゃないよ」
「え……っ、あ、そうなのか……。は……早とちりだった……」
「いや、君がそう思うのはもっともだ。志乃さんは僕に続いて妹の乳母も務めてくれたんだが、もともと子煩悩なたち女性ひとでね。うまくが出来るようにという先代──僕の祖父の計らいでこの店を持つ事になったんだが、その護衛兼手伝いを命じられたのが筒鳥という訳でね」
「へ、へぇ……。……君、妹さんが……居るのか……」
 心臓がいきなりドキドキと鳴り出した。家族の話題──それもきょうだいに関する話題というのは、個人の話の中でも最も私的な部分にあたるだろう。何だか冬月の秘密をのぞき見てしまったような気がして、神経がたかぶった。ドクドクと脈打つ血流に乗って酒精アルコールが全身に回り、頭がくらくらした。
「あぁ、居る。これがなかなかのでね。さすがの筒鳥でもお手上げさ」
 皮肉な笑みが刻まれた冬月の頬に可憐かれんな少女の面影おもかげを想像してみようとした途端、黒くて硬い重石おもしのようなかたまりが胸によみがえった。胸苦しさに押しつぶされそうな心臓の奥に、甘酸っぱく立ち昇ろうとする香りの気配を感じ取り、思わずあっと聲を上げそうになった。その瞬間、目の前にグイと徳利が突き付けられた。
「──……あ……っ」
 耀かがやきの強まった琥珀の瞳に真っ直ぐに見詰められ、胸の痛みと香りの気配が薄れて消え始めた。
 急いで猪口を飲み干して酒を受けながら、冬月が続きを話す聲に意識を集中させたが、心臓はまだ大きく脈打っていた。
「志乃さんも筒鳥も先代が屋敷に入れると決めたから、その去就きょしゅうを決定するのも先代なのは仕方がないが、歴代の別当頭の中でも特に優秀な筒鳥が屋敷を去るのをしむ聲は多かったんだよ」
 注がれた酒を一舐めすると、ざわついていた気持ちがすっと落ち着いた。
「そ、そうなのか……。筒鳥さんて、凄い人なんだな」
「生き物というのは人間をよく見ているからね。特に気性の荒い獣は少しでもすきを見せれば此方こちらの手にみついて来るから気が抜けないよ」
「うん、でも、無口な人は動物に好かれると言うからな。筒鳥さんは自然と生き物と通じ合うのかもしれないな」
 筒鳥さんの実直で献身的な雰囲気を思い出しながら言った僕に、冬月はフ……と軽く息を吐いて唇の端をほんの少し持ち上げた。
「筒鳥はだから猶更なおさら意思疎通にすぐれるのかもね」
「え?」
「口がきけないんだよ」
「え……!? ……そ、それは失礼な事を言ってしまった……」
 罪悪感に恐縮して首をすくめた僕に、冬月は杯から唇を離し、
「うちでは人間というのは稀少きしょうだから、むしろ特別な才能として評価しているんだよ。筒鳥というのも先代がつけた愛称のようなものなんだ。桜の木についた毛虫──それも毛の長い奴をうまく取るんで筒鳥みたいだと言っていたのがそのまま呼び名になったらしい」
 勧められるままに飲んでいたせいでしたたか酔いの回った頭でぼんやりと冬月の話を聞きながら、
「……信頼しているんだな、二人の事を……」
 吐息ほどの聲でささやくと、冬月はふと琥珀色の目を上げた。酔いでますます度の合わなくなった眼鏡の向こうににじむ、二つの月のような瞳を見返して、
「……でなければ、君が帽子とステッキを、あんな風に預けたりはしないだろ……」
 冬月は面白いでも眺めるようにくびかたむけ、
「自分の持ち物を大事にするというのはうちの家訓かくんみたいなものでね。だからその持ち物を預けられる程の人間ともなれば確かに相当の信頼が必要になるが、反対の言い方をすれば、僕たち冬月家にいては自分の持ち物を預けられるくらいに間違いがない人間しか側に置かない。これは世間のどんな信用も及ばない価値がある人物だと証明するものでもあるんだよ」
 言って、唇を吊り上げた。
「……そうだろうな……」
 喉の奥から出た聲はかすれていた。 
 琥珀こはく色の瞳を伏せて杯に口をつけながら、赤褐色の髪が肩から垂れ下がるのをわずらわしそうに払いのける手の形の具合の良さを見詰め、僕は冬月が身を置く世界について思いをせた。私的な話から垣間見るその暮らしぶりには、およそが想像もつかないきらびやかさにいろどられているのだろうと思わせて余りあった。
 こうして差し向いに酒を飲んでいながら、冬月の事を知れば知る分、その距離が大きく開いていくような気になった。先ほどまでの浮かれた気持ちが、少しずつせていく。酔いと一緒にこのめる怖さに酒をあおった。

 ……けれど、夢はいつか終わるものだ……。

 猪口の底に残った酒が明かり取りの障子の向こうから差し込む陽射ひざしになまぬるい光を反射した。その光の中に、ふとまた何かの影が揺らめいた。思わず杯の中を覗き込み、影の正體しょうたい見定みさだめようとしていた僕は、遠くから近づいて来るように聞こえて来た冬月の聲で我に返った。
「──かなし、小鳥遊」
「──え……っ」
 はっと顔を上げると、やけに耀かがやく冬月の瞳が、じっと僕をとらえていた。
「……あっ、すまない……。ついぼんやりしてしまった……」
 妙にドキドキと鼓動を刻む心臓を押さえ、言い訳めいた口調で言うと、
「君はいつでも夢現ゆめうつつだな」
 呆れているのとも、小莫迦こばかにしているのとも違う、見透みすかすような冬月の視線に困惑がつのった。
 僕はまたずれ落ちていた眼鏡をかすかな緊張に強張る指先で押し上げ、猪口の底に残った酒を一息に飲み干した。


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