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其の十六 華麗なる噓八百(2)
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けれど汽車がゆっくりと発進する時の如く、靄のかかった頭に徐々に思考が戻って来ると、僕はその頼りない感覚を確かなものとするべくパチパチと瞬きをしながら、ずれた眼鏡の位置を直した。
……僕と冬月が「肝胆相照らす間柄」……? 屋敷で一晩中話し合う……? 冬月の住所さえ知らないのに……? ……いや、そもそも研究室の外で会ったのだって今日が初めてなんだ。それなのにいったいどうして「常に行動を共にしている」なんて発言になるんだ。僕は悪い夢でも見ているのか……?
冬月は如何にも何心ない様子で長い脚を組み替えると、やっと横目にチラリと僕を見遣りながら、
「死んだ鳥みたいな目をしてどうした、小鳥遊。先刻あの思い出の喫茶店で話し合い、僕たちの事情についてやはり此方に打ち明けるべきだとの結論に至った事を今更後悔しているんじゃないだろうね。だいたいその中途半端な姿勢は何だ。僕は口不調法な君を慮り、黙って座って居ればいいと言ったんだよ。それを君は調理中の有頭海老でもあるまいに、見苦しく腰を折り曲げて座っているのか立っているのかもはっきりしない状態で目をしょぼしょぼさせているなんて、僕の善意がまるで伝わっていないと言っているようなものじゃないか。はっきりしないのはあの研究室での君の扱いだけで充分だろ。第一、海老と言うにしても君の場合誰がどう見たって鎧兜で武装した武者には見えないし魔除けになるとも思えない。せいぜい腕の悪い職人の打った蕎麦だよ。まるで腰がない。わかったらさっさとその弱腰を座面に落ち着け給え。その腰掛けにはどっちつかずの君とは違って立派な仕事があるんだ。お飾りで此処にある訳じゃないんだからきちんと椅子としての役目を果たさせてやる事だね。だいたい、いつまでもそうやって不恰好を見せつけているなんて女性に対してあまりに礼を失しているとは思わないのか」
言うだけ言うと、冬月はフイと冷たい琥珀色の視線を正面に戻し、退屈そうに胸元のタイを触った。
僕は遠く離れて行く意識を繋ぎ止める手立てとて無く、半ば體を放り出すようにどさりと椅子の上に座り込んだ。
けれど視界の端に、長い睫毛に縁どられた美しい瞳をこれ以上ないと言うくらい見開き、呆気に取られた様子で冬月を凝視している澪子さんが映った途端、ハッと姿勢を正した。
澪子さんは臙脂色のレエスの手袋をゆっくりと口元に持って行き、芳しく香る葡萄色の唇を覆うと、なだらかな肩を小刻みに上下させ始めた。今にも泣き出しそうな形に歪められた柳眉の下の瞳が見る間に潤んでいくのを見るまでもなく、澪子さんが余程の衝撃を受けた事は明らかだった。
じっと冬月を見詰めていた澪子さんの瞳が、徐に僕の方を向いた。茫然と揺れるその視線に、僕は円卓の下で思わず拳を握り締め、身を乗り出して口を開こうとした。ところが、その僕を制するように、傍らから鋭い咳払いが飛んで来た。
反射的に振り向くと、物言いたげに脚を組み替える冬月に、斜め上からジロリと見下ろされた。無言の裡に「余計な事を言うな」と高圧的に示され、気圧されない訳にはいかなかったが、しかしこの状況はあまりに酷い。
冬月の行為は、澪子さんと僕、双方を騙し討ちに遭わせたも同然の所業だった。
幾ら意に染まぬ縁談を断る為とはいえ、女性にとってこんな屈辱的な仕打ちをする事が罷り通って良い筈がない。
僕からしても──厳然たる立場の差があったとしても──デモクラシーが聲高に叫ばれるこの時勢に於いて、まるで自分の目的の為に人の人格を無視して利用するかのような冬月の遣り口を黙って容認すべきとは思えなかった。
例え属する社会が違っていたとしても、僕と冬月は生物学上は同じ男だ。一人の男として、こんなあくどい狂言芝居で女性の心を踏みにじるような振る舞いをする冬月を見過ごす訳にはいかなかった。
まるで義憤に燃え立つ浪士になったかの如き気分に駆られた僕は、勢いよく冬月に向き直り、決然と抗議と糾弾の聲を上げようとした。
しかしその瞬間、澪子さんがすうっと静かに息を吸い込む音が聞こえ、僕は冬月に向かって身を乗り出したそのままの姿勢で、思わず澪子さんを振り向いた。その目に、澪子さんがゆっくりと口元から手を外すのが映った。
澪子さんはたわわに実る秋色の唇を微かに顫わせると、
「──蘇芳様……、それはつまり……つまり……」
其処で一旦言葉を切り、気を落ち着けようとするかのように胸を押さえて俯いた。
僅かに乱れた呼吸を整え、大きく息を吸い込むや否やパッと顔を上げた澪子さんが、円卓の上にぐっと身を乗り出した。
「お二人は固い絆で結ばれた御親友同士と言う事ですのね……!?」
一息に叫ぶようにして言われたその言葉を聞いた僕の目の前に、一瞬空白が広がった。
────え……? 何か今、妙な展開の予兆を見たような気がしたが……?
僕はあんぐりと口を開け、優美なレエスの手袋の両手を胸の前で組み合わせ、満天の星空の如く耀く瞳で僕と冬月を交互に見ている澪子さんを見詰め返した。
……僕と冬月が「肝胆相照らす間柄」……? 屋敷で一晩中話し合う……? 冬月の住所さえ知らないのに……? ……いや、そもそも研究室の外で会ったのだって今日が初めてなんだ。それなのにいったいどうして「常に行動を共にしている」なんて発言になるんだ。僕は悪い夢でも見ているのか……?
冬月は如何にも何心ない様子で長い脚を組み替えると、やっと横目にチラリと僕を見遣りながら、
「死んだ鳥みたいな目をしてどうした、小鳥遊。先刻あの思い出の喫茶店で話し合い、僕たちの事情についてやはり此方に打ち明けるべきだとの結論に至った事を今更後悔しているんじゃないだろうね。だいたいその中途半端な姿勢は何だ。僕は口不調法な君を慮り、黙って座って居ればいいと言ったんだよ。それを君は調理中の有頭海老でもあるまいに、見苦しく腰を折り曲げて座っているのか立っているのかもはっきりしない状態で目をしょぼしょぼさせているなんて、僕の善意がまるで伝わっていないと言っているようなものじゃないか。はっきりしないのはあの研究室での君の扱いだけで充分だろ。第一、海老と言うにしても君の場合誰がどう見たって鎧兜で武装した武者には見えないし魔除けになるとも思えない。せいぜい腕の悪い職人の打った蕎麦だよ。まるで腰がない。わかったらさっさとその弱腰を座面に落ち着け給え。その腰掛けにはどっちつかずの君とは違って立派な仕事があるんだ。お飾りで此処にある訳じゃないんだからきちんと椅子としての役目を果たさせてやる事だね。だいたい、いつまでもそうやって不恰好を見せつけているなんて女性に対してあまりに礼を失しているとは思わないのか」
言うだけ言うと、冬月はフイと冷たい琥珀色の視線を正面に戻し、退屈そうに胸元のタイを触った。
僕は遠く離れて行く意識を繋ぎ止める手立てとて無く、半ば體を放り出すようにどさりと椅子の上に座り込んだ。
けれど視界の端に、長い睫毛に縁どられた美しい瞳をこれ以上ないと言うくらい見開き、呆気に取られた様子で冬月を凝視している澪子さんが映った途端、ハッと姿勢を正した。
澪子さんは臙脂色のレエスの手袋をゆっくりと口元に持って行き、芳しく香る葡萄色の唇を覆うと、なだらかな肩を小刻みに上下させ始めた。今にも泣き出しそうな形に歪められた柳眉の下の瞳が見る間に潤んでいくのを見るまでもなく、澪子さんが余程の衝撃を受けた事は明らかだった。
じっと冬月を見詰めていた澪子さんの瞳が、徐に僕の方を向いた。茫然と揺れるその視線に、僕は円卓の下で思わず拳を握り締め、身を乗り出して口を開こうとした。ところが、その僕を制するように、傍らから鋭い咳払いが飛んで来た。
反射的に振り向くと、物言いたげに脚を組み替える冬月に、斜め上からジロリと見下ろされた。無言の裡に「余計な事を言うな」と高圧的に示され、気圧されない訳にはいかなかったが、しかしこの状況はあまりに酷い。
冬月の行為は、澪子さんと僕、双方を騙し討ちに遭わせたも同然の所業だった。
幾ら意に染まぬ縁談を断る為とはいえ、女性にとってこんな屈辱的な仕打ちをする事が罷り通って良い筈がない。
僕からしても──厳然たる立場の差があったとしても──デモクラシーが聲高に叫ばれるこの時勢に於いて、まるで自分の目的の為に人の人格を無視して利用するかのような冬月の遣り口を黙って容認すべきとは思えなかった。
例え属する社会が違っていたとしても、僕と冬月は生物学上は同じ男だ。一人の男として、こんなあくどい狂言芝居で女性の心を踏みにじるような振る舞いをする冬月を見過ごす訳にはいかなかった。
まるで義憤に燃え立つ浪士になったかの如き気分に駆られた僕は、勢いよく冬月に向き直り、決然と抗議と糾弾の聲を上げようとした。
しかしその瞬間、澪子さんがすうっと静かに息を吸い込む音が聞こえ、僕は冬月に向かって身を乗り出したそのままの姿勢で、思わず澪子さんを振り向いた。その目に、澪子さんがゆっくりと口元から手を外すのが映った。
澪子さんはたわわに実る秋色の唇を微かに顫わせると、
「──蘇芳様……、それはつまり……つまり……」
其処で一旦言葉を切り、気を落ち着けようとするかのように胸を押さえて俯いた。
僅かに乱れた呼吸を整え、大きく息を吸い込むや否やパッと顔を上げた澪子さんが、円卓の上にぐっと身を乗り出した。
「お二人は固い絆で結ばれた御親友同士と言う事ですのね……!?」
一息に叫ぶようにして言われたその言葉を聞いた僕の目の前に、一瞬空白が広がった。
────え……? 何か今、妙な展開の予兆を見たような気がしたが……?
僕はあんぐりと口を開け、優美なレエスの手袋の両手を胸の前で組み合わせ、満天の星空の如く耀く瞳で僕と冬月を交互に見ている澪子さんを見詰め返した。
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