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日常の幸

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 カーテンの隙間から水色の空が覗いている。狭い部屋の片隅でクッションにもたれたまま、ぐったりと眠っている姿が見えた。朝方までかかった仕事が終わり、ようやく気が抜けたのだろう。
 友弥はもうひとつの部屋に篭ってしまった。彼らの住んでいる家では寝室にあたる個室だ。友弥も眠りについたのだろう。ヨウはシャワーだけ借りて出て行こうとしていたのだが、ぐたりと眠る幸介を見て足を止める。幸介の頬にはガーゼが当てられており、腕やら足やらには包帯が見えた。友弥が手当てしたのだろうか。幸介がぶるりと震えたような気がした。寒そうに身を縮める姿に放っておくこともできなくなる。
 どうするか、と辺りを見回し幸介の上着が脱ぎ捨てられているのを見つけた。多少は暖かくなるだろうとそれを拾い上げ、かけてやるべく幸介に近づいていく。起こさないように足音を殺し、そっと隣に行くと、突然びくりと幸介の体が跳ね上がった。

「っ、なに……」

 起こしてしまった、という生易しいものではなかった。ガバリと身を起こした幸介は目を見開いてヨウを見やる。小刻みに震えているのは寒さからではないだろう。呆然とするヨウをようやく捉えたのか、幸介はハッとして警戒を緩める。

「……悪ぃ」

 ヨウは小さく呟き、かけようとした上着をそっと下ろすことしかできなかった。なんだ、ヨウか、と幸介は笑みで取り繕ったが警戒態勢に入った体は誤魔化せない。ヨウは逃げるように目を伏せる。何より、目を開いた瞬間の怯えた表情が焼き付いて離れなかった。
 生まれと育ちからヨウも就寝時は特に気を張っているが、根本的に違うものだと気づく。幸介には反撃しようとする様子が少しもなかった。まるで悪夢に飛び起きた時のように見える。人の気配や近づく物音に恐ろしい記憶でもあるのだろうか。
 ヨウに過去を詮索するつもりはない。仕事終わりだから気が立っていたのだろうと飲み込んだふりをして、上着を返す。いつか幸介が怯えなくともいいように、ヨウに気を許してくれる時がきたらいい。その時は自分も、幸介と友弥のことを本心から信頼し、胸を張って仲間だと言えていたら嬉しいと思う。
 邪魔したな、と低く言ってヨウは二人の元を後にした。









 そんな時期もあったな、と懐かしく思ってしまうのは自分が歳をとった証拠なのかもしれない。ヨウが帰ってくるとソファーで眠っている姿があり、そんなことを思い出してしまった。

「おかえりぃ」

 友弥が間延びした言い方でヨウを出迎えてくれる。友弥はラグに座り込み、ソファーにもたれかかってゲームをしているようだった。ヨウはただいまともう一度返して幸介を見る。
 幸介は穏やかな寝顔を見せて、無防備に眠っていた。ヨウが帰ってきたことにも気づいていないのか規則正しい寝息をたてている。

「データ整理してて疲れちゃったみたい」

 ヨウが幸介を見ていることに気配で気づいたのか、友弥がゲーム画面から目を離さずに言う。そっか、と返してヨウはソファーに近づいた。リビングに常備されているブランケットがかけられていた。まじまじと寝顔を覗き込んでも幸介に起きる様子はない。
 人の気配があるところで眠るのは苦手だと、前に言っていた。友弥も幸介も、虐げられた過去があるせいで眠っている時に近寄られるのは怖いのだと。二人が幼い頃の話を聞いたのも最近の話だ。未だに消えはしない傷ではあるのだろうが、幸介はこうして四人の家のリビングでうたた寝をすることが多い。

「すげーアホ面」

 ヨウはくすくすと笑いを漏らす。満足げな笑いを聞いて友弥も微笑んだ。少しも警戒せずに眠り続けている幸介に、すっかり気を許してくれているのだと実感する。ヨウや友弥の存在が幸介に認められているようで胸が温かくなった。
 安心したように眠り続けている幸介を見て、ヨウは目を細める。共に過ごした年月が辛かった過去よりも長くなっていく。やがて出会ってからの月日が出会う前の時間よりも長くなることだろう。あの頃は分からなかった未来だが、今もなお仲間として一緒に生きている。それがとても幸福なことだと思える程、自分は大人になった。

「風邪引いても知らねえぞ」

 小声で言っても起きる気配のない幸介にヨウはふにゃりと笑う。友弥に促され、ヨウもラグに座り込むと胡座をかいてゲーム画面を覗き込んだ。当たり前のようにコントローラーを手渡されてにんまりと笑みを交わす。
 もう一人の仲間が帰ってくるまで、まだ少し時間がある。幸介のことを起こさぬように小声でやり取りをしながら、二人は画面の中での対戦を楽しむのだった。
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