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二章 帝都に蠢く黒い影

異国の紳士との出会い

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 慌てて振り向くと、そこには金の髪の殿方が佇んでいた。外国の方の例に漏れず、背が高い。転んだ格好のままの宵子しょうこからすると、首が痛くなるほど見上げなければならない。

 纏っているのは、完全な和風の着物だった。
 すみ色のつむぎが、白い肌にも金の髪にもとてもよく映える。気取らず、けれど品の良い着こなしは、和装に慣れている風情があった。外国の方にしては、とても珍しいことだと思う。

 けれど、彼が口にしたのは宵子には理解できない音の連なりだった。

(どこの国の言葉かしら。この子の、ご主人なの……?)

 その方の翡翠ひすい色の目は、宵子の隣にちょこんと座った銀の犬を見ている、ような気がする。
 犬の大きさに驚いたり怖がったりしていないようだから、飼い主だと思って良いのかどうか──宵子が困って眉を寄せていると、金髪の殿方は一歩、二歩、彼女のほうに近づいてきた。足もとも、当然のように下駄を履いているのが目につく。

 その方が目の前に立つと、長身からくる威圧感はますます強まった。宵子は身体を強張らせたけれど──

「あー……ありがとう、お嬢さんフロイライン。私はそのの、主人でね。飛び出してしまったから探していたんだ」

 流暢りゅうちょうな日本語で話しかけられて、目と口をぽかんと開けてしまう。

 ぱちぱちと、瞬きすることしか宵子に、不思議な外国の方は大きな手を差し伸べた。

「立てるかな? 女の子に噛みつく奴じゃないはずなんだが。怪我はない?」

 恐る恐る、その方の手を借りて立ち上がりながら、宵子はふるふると首を振った。
 転んだ時のすり傷で、あちこちにぴりぴりとした痛みを感じるけれど、どれも大したことはないと思う。

(大丈夫、です……)

 軽く頭を下げたことで、気持ちは伝わっただろうか。金髪の殿方は、晴れやかに笑った。
 夜会で会ったクラウスとはまったく違う砕けた雰囲気の方だけれど、間近に顔を合わせると端整な容貌であることに気付いてしまう。しかもその方が、宵子の手を握ったまま、にこやかに語り掛けてくるのだ。

「私は、ヘルベルトという。ドイツ人だ。日本に来て長いから、言葉は分かるよね? 君の家はどこ? 送って行ったほうが良い?」

 宵子は、問われたことに対して激しく頷き、次いで、また首を振った。

(言葉は、分かります。でも、送っていただく訳には……)

 呪いで声を取り上げられても、何とかなると思っていた。頷くか首を振るかで、だいたいの場面はどうにかなる、と。
 でも、クラウスといい、このヘルベルトという人といい、どうして外国の方は宵子から答えを引き出したがるのだろう。

(ううん。私からも伝えなければいけないことがあるのに……!)

 銀の犬に助けてもらったこと、飼い主である方にお礼を言いたいということ、ついさっき、近くで死体が発見されたこと。──だから、誤解を招く前に、こんな大きな犬は早く家に帰してあげなければ。

 宵子は、犬の頭を撫でて、それから、ヘルベルトの顔をじっと見上げた。目で、思いが伝われば良いと思って。でも、翡翠の目は怪訝そうに彼女を見下ろすだけだ。

(あとは──どうしよう……!)

 手ぶりで、三角の屋根をなぞって「家」を示して、犬を連れて入る仕草をしてみても、無駄なようだった。ヘルベルトだけでなく、犬までもが首を捻った気がして、宵子は頭を抱えたくなってしまった。

「……そいつが気に入ったの? 連れて帰りたい、とか?」

 ヘルベルトは、宵子の主張を精いっぱい汲み取ろうとしてくれたようだけれど──まだ、違う。
 申し訳なさを感じながら小さく首を振る宵子の頭に、苛立ち混じりの溜息が降って来る。

「黙っていられると困るな。攘夷ジョーイとかいって刀を振り回すのは、もう何十年も前のことなんだろう? 怪しい外国人とは話したくないって訳かな?」

 ヘルベルトの綺麗な色の目に、けんが宿った。
 皮肉っぽく問われたのは、宵子が思ってもいないこと。でも、そう思われてもしかたのないことでもある。

(ごめんなさい。違うんです)

 激しく首を振っても、声が出なくては説得力がないだろう。ヘルベルトの唇がうっすらと弧を描く──けれど、目は笑っていないし、声も冷え切っている。

「では、何とか言ってくれるかな。手当は不要なのか、礼をすべきなのか。口が利けないってことはないだろう?」

 刺々しい問いかけも、宵子にとっては天からの救いに思えた。

(そうなんです。しゃべれないの……!)

 満面の笑みで大きく頷いてから、宵子は念を押すように口を指さし、首を振る。口を、針で縫い留める動作をしてみる。

 そうやってひとり芝居を演じるうちに、ヘルベルトも理解してくれたらしい。髪と同じく金色の眉が、ぎゅっと寄せられた。

「……すまなかった。そんなつもりじゃ、なかったんだ」

 真摯に謝ってもらうことこそ申し訳なくて、宵子は首も手もぶんぶんと振った。

(そんな。私が悪いのに……!)

 外国の方が日本にいると、言われることがあるのだろう。……暁子あきこを傍で見ているから、分かってしまう。
 こんなに自然に着物を着こなしている人でも、きっとそれは例外ではないのだろう。

「そんな顔をしないで。──ほら、そいつも怒ってる」

 気遣う目で見上げる宵子に、ヘルベルトは困ったように微笑んで肩を竦めた。

(そいつ……?)

 宵子が不思議に思うのとほぼ同時に、彼女の横を銀色の煌めきが駆け抜けた。
 美しい毛並みの犬が、飼い主であるはずのヘルベルトに頭突きをしたのだ。さらには、大きな口を開けて、彼の腕をくわえる。

(え!?)

 人間に対してはえもうなりもしない、とてもお行儀の良い犬だと思っていたのに。
 突然の行動にうろたえる宵子に、でも、ヘルベルトはあっさりと笑ってみせた。

「大丈夫、大丈夫。お嬢さんフロイラインに失礼なことをするなって言ってるだけだから」

 銀の犬は、本当に軽く、そっと、開いた口で彼の腕を咥えているだけだった。鋭い牙も、つむぎの生地に穴を空けたりしていないようだ。
 着物の高価さや繊細さを分かっているような──とても賢い犬、なのだろうか。

「分かってくれただろう? 私とこいつはだ。綺麗な犬を盗もうとか、そんな悪党じゃない」

 外国の殿方と銀色の犬、ふたりの関係は、人間の友達同士のようでとても不思議だった。
 でも、ヘルベルトの言葉は真実なのだろうと分かったから、宵子はこくりと頷いた。

「怪我は、大したことはないんだね? 私は医者だ。家に来てくれれば手当もできるが」

 今度は、首を振ってから頭を下げる。ありがたいけれど大丈夫です、の意味だ。

「時間がないのかな。それとも、人目が気になる? 若い娘が男について行く訳にはいかないか……」

 日本の暮らしが長いからか、ドイツでもそうなのか。ヘルベルトの気遣いは的を射ている。宵子は、頷いてから、また頭を下げた。厚意を断るのを、申し訳ないとは思っているのだ。

「……こいつが飛び出すなんて、滅多にないことだ。何があったか聞きたいところだが──まあ、こいつに聞くとしよう」

 ヘルベルトが銀の犬の首筋を軽く撫でたので、宵子は首を傾げた。……まるで、犬が言葉を話せるように聞こえたから。
 宵子の視線を浴びても、銀の犬は素知らぬ顔でちょこんと座っているだけだ。とてもお利口で、賢そうな様子では、あるのだけれど。

「これは、私の連絡先。日本の若いお嬢さんには難しいかもしれないが、良ければ訪ねてくれ。君の声帯シュティムバント──ええと、何て言ったかな。喉とかを、診てあげたい」

 と、ヘルベルトが差し出した紙片を、宵子は慌てて受け取った。
 しっかりとした厚紙に、描かれているのはつたのような繊細な模様。それに、宵子には読めないアルファベットの綴り。ヘルベルトの名前が印字されているのだろう。

(名刺というものね。これが、ドイツ語なのかしら……)

 アルファベットの下には、幸いに日本語で住所が書かれていたけれど、宵子はどこにあるのか考えようとは思わなかった。
 家の者に知られずに屋敷を出るなんてできそうにない。外国のお医者にかかるのも、父や母は良い顔をしないだろう。

 何より、宵子がしゃべれないのは病気ではなく呪いのせいだ。いくらドイツの医学が進んでいても、どうにもならないと思う。でも──初めて会ったばかりの娘のことを、案じてくれるのは嬉しかった。

 もらった名刺をしっかりと帯に挟んでから宵子が頭を下げると、ヘルベルトは満足そうに頷いた。

「気を付けてお帰り。もうすぐ暗くなってしまう」

 言われて初めて、宵子は空が濃い赤に染まっていることに気付いた。黒い犬から逃げて、ヘルベルトと話している間に、思いのほかに長い時間が経っていたのだ。

(早く帰らないと……!)

 また叱られてしまう、と。宵子は身体を翻して慌てて走り始めた。もちろん、去り際にヘルベルトにお辞儀するのを忘れない。

 夕闇に紛れるように、ヘルベルトと銀の犬が視界の端を過ぎていく。彼は、犬の頭を撫でて宵子とは逆の方向に歩き出したようだった。

行くぞコム・ヘア

 犬に話しかける音の連なりの中に、忘れられない名前が聞こえた気がしたけれど──立ち止まることも、まして戻ることもできなかった。
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