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二章 帝都に蠢く黒い影
異端の末裔たち
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クラウスが念じると、毛皮に包まれていた前足が人の手指に戻っていく。
四つ足の狼の姿から、二本足で立つ人の姿に戻って──人の言葉を話せるようになったところで、彼は不機嫌に呟いた。
「……誰が誰の主人だって?」
言いながら、屏風というらしい衝立にかけられた浴衣を手に取る。彼にはまだ慣れない日本の伝統的な衣装だが、さっと羽織るだけでとりあえず形になるというのは便利かもしれない。
屏風の向こうでは、彼に浴衣の着方を教えた悪友のヘルベルトが軽く笑っている。
「日本語をよく聞き取れたじゃないか。やはり現地に滞在すると上達が早い」
「お前の言葉はドイツ語の響きがあるからかな。日本人相手だと、そうはいかない」
少し苦労して帯を結んだクラウスは、屏風の影から出た。
そこは、純日本風の畳の部屋になっている。
もともとは商人の家だったのを、ヘルベルトが借りて住まい兼診療所にしているのだ。ただでさえ怪しい外国人の医者が洋館に住んでいたのでは、日本の一般の民衆は訪ねてはくれないだろう。
(だが、一室くらい洋風にしても良いのではないか?)
頭の隅で思ったことは、客の身で言うには立ち入ったことだろう。だからクラウスは大人しく畳に腰を下ろした。
草の香りは彼には新鮮だが、嫌いではない。ヘルベルトが用意した緑色の茶も、甘く煮て潰した豆を固めたゼリーも、そうだ。
ただ、座布団があるとはいえ、床に直接座るのだけはどうだろう、と思う。無作法だと感じる以上に、日本人がするような組み方をするには彼の脚は長すぎるのだ。
来日してもう長いヘルベルトは、とても自然に胡坐というらしい姿勢で寛いでいる。
「東京は長閑だろう。ヨーロッパほど明るくない。人々も素朴だ。──我々が潜む余地もある」
ヘルベルトが言う「我々」というのは、普通の人間とは少し違う存在、という意味だ。
クラウスのシャッテンヴァルト伯爵家は、狼の血を引いている、と伝えられている。
月の満ち欠けに応じて猛るその血は、かつては戦いで役に立った。彼のように狼の姿に変じることができる者が一族の中にはたまに現れたが、狼の爪と牙は常に敵のためにふるわれた。だからだろう、守られた民たちは教会に訴えないでいてくれた。
ヘルベルトも、吸血鬼の末裔だ。
とはいえ伝説ほどの恐ろしい怪物ではなく、クラウスの家のようにコウモリになれる者がいるとか、夜目が効くとか、そのていどの能力だ。吸血については、食糧がなければ人や獣の血でも生き長らえられる、とのことだから、非常食の選択肢がすこし多いということでしかないらしい。
むしろ、日光に弱い分、並みの人間よりもひ弱なくらいでは、ということで──ヘルベルトが医学を修めたのも、一族の体質を解き明かそうとしてのことだとか。
「そうだな……鹿鳴館の煌めきは例外なんだな。街を見れば、まだまだ古くからの暮らしも信仰も残っている……」
クラウスの一族もヘルベルトの一族も、教会の弾圧に怯えるいっぽうで、近しい民を守り、尊敬を受けることでどうにか生き延びてきた。
だが、最近の科学の発展によって事情が変わった。人狼だの吸血鬼だのという存在は、愚かな迷信と断じられるようになったのだ。ガスや電気の灯りによって、ヨーロッパ諸国の夜は次第に明るくなっていっている。
それはつまり、クラウスたちのような人ならざる存在が生きられる影が小さくなっていくということだ。
ヨーロッパで息を潜めて生きるか、それとも新天地に活路を見出すか──ヘルベルトが賭けたのが、日本だった。
開国したばかりで、技術の進歩の度合ではヨーロッパに及ばない。人々は勤勉で善良だと聞いたし、何より、信仰する神が大勢いるというのが良い。唯一にして絶対の教えがあるという訳ではないなら、クラウスたちも迫害を恐れる必要がないかもしれない。
「そして、我々の同類も生き残っているのかもしれない」
変わった味の茶を飲みながら、クラウスは指摘した。
狼の姿になった彼は、ヘルベルトの案内で東京の街並みを見学したところだったのだ。外国人のふたり連れよりは、犬の散歩を装ったほうがまだしも目立たないかもしれない、と考えてのことだ。
「鹿鳴館の夜会の後でも言っていたな。さっき飛び出したのも、それで、か?」
「あの夜とは……また別なような、繋がっているような」
ヘルベルトに問われて、クラウスはそっと溜息を吐いた。
夜の貴婦人──声を聞かせてくれなかった貴婦人のことを、彼女の、神秘的な眼差しを思い出しながら。
(さて、何と説明すべきか……)
ヘルベルトの翠の目が、促すようにクラウスを見つめている。
「……例の、『夜の貴婦人』。彼女の匂いを感じたからだ。あの女性は、どこか狼のような匂いをまとっていたから、すぐ分かった」
多くの着飾った人々が行きかう舞踏室で、だから彼女はとても目立ったのだ。
遠い異国で、古くからの友人に出会ったような気分で、クラウスは黒い髪と目の愛らしい令嬢をワルツに誘った。舞踏の経験が浅かったのか、最初はぎこちなかった彼女の足の運びが、次第に滑らかになっていくのは彼にとっても楽しく幸せなひと時だった。
「運命的な再会、という訳か。お前がそんなことを言い出すとはな。あの後も、ずいぶん気にかけていたようだし」
「そういう訳では──ただ、あの夜は奇妙なことが起きたから」
ヘルベルトにからかわれたのを誤魔化すべく、クラウスは豆のゼリーに手を伸ばした。竹でできた小さなフォークも、彼の手指の大きさには合わなくて扱いづらい。
とはいえ、クラウスが顔を顰めるのは、異国のカトラリーの厄介さだけが理由ではなかった。
(俺が会った『夜の貴婦人』は何者で、本当は何て名前なんだ?)
「夜」という名前だと身振りで伝えてくれた神秘的な日本の令嬢とは、晩餐会で再会できた。名前も、婚約者だという青年が教えてくれた。
(真上子爵令嬢暁子──あの少女は、別人だ。高慢な目つきも、出しゃばった振る舞いも。匂いも違う。顔だけはそっくりだったが)
彼が運命を感じた女性は、ほんのわずかな間に、まったくの別人に入れ替わったとしか思えなかった。立ち居振る舞いがまったく違うのは、一度会っただけのクラウスにもよく分かったから。
名前についても、「アキ」という音に夜に関する字が当てはまるとは考えづらいと、ヘルベルトが教えてくれた。
夜の間しか見えない小さな星のように、捉えがたく消えてしまった不思議な女性。
彼女のことは確かにずっと気になっていた。東京の街中で匂いを感じた時に思わず飛び出したのも、いつものクラウスならしないことではあった。
だが、それどころではない事態が起きたのだ。
「……飛び出した後、すぐに強い血の臭いも感じたんだ。しかも、彼女のほうに近づいているようだったから、急いだ」
忌まわしい血と死の臭いを纏った黒い犬──のようなものを撃退したことを話すと、ヘルベルトの表情も真剣なものになった。
「近ごろ、野犬が人を襲っているという事件は、確かにあった。だが、ただの獣じゃない──ということか?」
「ああ。……厳密には、俺のような存在でもないとは思う。つまり、人が変身したのではないし、理性や感情がある訳でもない。何というか……闇を捏ねて作り上げた人形のような」
あの黒い犬に牙を突き立てた感触を思い出すと、クラウスの口中に苦い唾が湧く。
普通の生き物の鼓動や血の流れは感じず、代わりにおぞましい何かが、毛皮の奥で蠢いている気がした。
「私が言うのも何だが、冒涜的だな」
「ああ。東京の人々が人外のものへの警戒を強めると困る。こちらでも調べたほうが良いかもしれない」
「そうだな。私がコウモリになれれば良かったんだが。患者さんからそれとなく話を聞いてみるか……」
クラウスとヘルベルトは、それぞれ狼と吸血鬼の末裔だ。信心深い人々からは恐れられかねないからこそ、同類の凶行は放っておけない。
「──そういえば」
頷き合ったところで──ヘルベルトがにやりと笑った。
「つまり、さっきの少女が君の夜の貴婦人で良いんだな?」
「……っ、そ、そうだ……」
そこは、濁せるものなら濁しておきたかったのだが。真っ直ぐに聞かれては嘘を吐くこともできず、クラウスは仕方なく頷いた。
(くそ、あんなところを見せるつもりじゃなかったのに)
当然のことではあるが、彼女にとってはクラウスはただの大きな犬だった。
あちこち触れられるのは気まずくて気恥ずかしくても、吼えたり牙を剥いたりして怖がらせることはできなかった。──だが、彼の正体を知るヘルベルトが見れば、さぞ面白い場面だっただろう。
事実、ヘルベルトは実に楽しそうに笑っている。
「運命の女性に撫でてもらって良かったじゃないか。口が利けないというのは気の毒だが、嫌われていた訳ではなかったようだし。名刺も渡したから、ここに来てもらえると良いな? 日本語の勉強も頑張らないとな?」
「……そう、かな……」
彼女とまた会う。どうにかして意思疎通をする。その想像は楽しく嬉しいものだった。耳や頬が熱い。ヘルベルトに見せるのは癪だが、きっと真っ赤になっているだろう。
だが、無邪気に期待するだけで良いものだろうか。
彼女に纏わりつく同族の──狼のような匂いの正体は。特に、首周りに絡みつくように感じ取れたのだが。
さらには、彼女と真上子爵家の関係は何なのか。令嬢とよく似た姿は、近しい血縁だからだろうか。それにしては、どうして今日はあんな質素な着物を着ていたのだろう。
あの少女に関する疑問は幾つも湧き上がって、しかも答えはまったく分からない。
(手も、荒れていたし……)
彼を撫でた手、丸めた米を差し出した手を思い出すと、クラウスの頬はますます熱くなる。
厚意でくれたものを断るのは無礼だろうから、ありがたく握り飯をもらうことにしたのだ。でも、犬の姿では上手く受け取ることができなかった。
少女の指先に舌を触れさせてしまったのは、決して彼の本意ではない。人の姿だったら──と考えるのは、とても失礼なことだ。
それでも、想像せずにはいられない。盛装した姿で、彼女の手を取って口づけるところを。ほんのわずかな触れ合いでも、とても優しいと分かったあの少女が、心からの笑顔を見せてくれるところを。
「……彼女の正体や境遇も気になる。真上子爵家のことも、調べなければいけないな」
頬の熱さを冷ますべく、クラウスは首を振った。
日本が、彼にとって平和な安住の地になれば良いのに──そうなるまでには、考えることが多すぎるようだった。
四つ足の狼の姿から、二本足で立つ人の姿に戻って──人の言葉を話せるようになったところで、彼は不機嫌に呟いた。
「……誰が誰の主人だって?」
言いながら、屏風というらしい衝立にかけられた浴衣を手に取る。彼にはまだ慣れない日本の伝統的な衣装だが、さっと羽織るだけでとりあえず形になるというのは便利かもしれない。
屏風の向こうでは、彼に浴衣の着方を教えた悪友のヘルベルトが軽く笑っている。
「日本語をよく聞き取れたじゃないか。やはり現地に滞在すると上達が早い」
「お前の言葉はドイツ語の響きがあるからかな。日本人相手だと、そうはいかない」
少し苦労して帯を結んだクラウスは、屏風の影から出た。
そこは、純日本風の畳の部屋になっている。
もともとは商人の家だったのを、ヘルベルトが借りて住まい兼診療所にしているのだ。ただでさえ怪しい外国人の医者が洋館に住んでいたのでは、日本の一般の民衆は訪ねてはくれないだろう。
(だが、一室くらい洋風にしても良いのではないか?)
頭の隅で思ったことは、客の身で言うには立ち入ったことだろう。だからクラウスは大人しく畳に腰を下ろした。
草の香りは彼には新鮮だが、嫌いではない。ヘルベルトが用意した緑色の茶も、甘く煮て潰した豆を固めたゼリーも、そうだ。
ただ、座布団があるとはいえ、床に直接座るのだけはどうだろう、と思う。無作法だと感じる以上に、日本人がするような組み方をするには彼の脚は長すぎるのだ。
来日してもう長いヘルベルトは、とても自然に胡坐というらしい姿勢で寛いでいる。
「東京は長閑だろう。ヨーロッパほど明るくない。人々も素朴だ。──我々が潜む余地もある」
ヘルベルトが言う「我々」というのは、普通の人間とは少し違う存在、という意味だ。
クラウスのシャッテンヴァルト伯爵家は、狼の血を引いている、と伝えられている。
月の満ち欠けに応じて猛るその血は、かつては戦いで役に立った。彼のように狼の姿に変じることができる者が一族の中にはたまに現れたが、狼の爪と牙は常に敵のためにふるわれた。だからだろう、守られた民たちは教会に訴えないでいてくれた。
ヘルベルトも、吸血鬼の末裔だ。
とはいえ伝説ほどの恐ろしい怪物ではなく、クラウスの家のようにコウモリになれる者がいるとか、夜目が効くとか、そのていどの能力だ。吸血については、食糧がなければ人や獣の血でも生き長らえられる、とのことだから、非常食の選択肢がすこし多いということでしかないらしい。
むしろ、日光に弱い分、並みの人間よりもひ弱なくらいでは、ということで──ヘルベルトが医学を修めたのも、一族の体質を解き明かそうとしてのことだとか。
「そうだな……鹿鳴館の煌めきは例外なんだな。街を見れば、まだまだ古くからの暮らしも信仰も残っている……」
クラウスの一族もヘルベルトの一族も、教会の弾圧に怯えるいっぽうで、近しい民を守り、尊敬を受けることでどうにか生き延びてきた。
だが、最近の科学の発展によって事情が変わった。人狼だの吸血鬼だのという存在は、愚かな迷信と断じられるようになったのだ。ガスや電気の灯りによって、ヨーロッパ諸国の夜は次第に明るくなっていっている。
それはつまり、クラウスたちのような人ならざる存在が生きられる影が小さくなっていくということだ。
ヨーロッパで息を潜めて生きるか、それとも新天地に活路を見出すか──ヘルベルトが賭けたのが、日本だった。
開国したばかりで、技術の進歩の度合ではヨーロッパに及ばない。人々は勤勉で善良だと聞いたし、何より、信仰する神が大勢いるというのが良い。唯一にして絶対の教えがあるという訳ではないなら、クラウスたちも迫害を恐れる必要がないかもしれない。
「そして、我々の同類も生き残っているのかもしれない」
変わった味の茶を飲みながら、クラウスは指摘した。
狼の姿になった彼は、ヘルベルトの案内で東京の街並みを見学したところだったのだ。外国人のふたり連れよりは、犬の散歩を装ったほうがまだしも目立たないかもしれない、と考えてのことだ。
「鹿鳴館の夜会の後でも言っていたな。さっき飛び出したのも、それで、か?」
「あの夜とは……また別なような、繋がっているような」
ヘルベルトに問われて、クラウスはそっと溜息を吐いた。
夜の貴婦人──声を聞かせてくれなかった貴婦人のことを、彼女の、神秘的な眼差しを思い出しながら。
(さて、何と説明すべきか……)
ヘルベルトの翠の目が、促すようにクラウスを見つめている。
「……例の、『夜の貴婦人』。彼女の匂いを感じたからだ。あの女性は、どこか狼のような匂いをまとっていたから、すぐ分かった」
多くの着飾った人々が行きかう舞踏室で、だから彼女はとても目立ったのだ。
遠い異国で、古くからの友人に出会ったような気分で、クラウスは黒い髪と目の愛らしい令嬢をワルツに誘った。舞踏の経験が浅かったのか、最初はぎこちなかった彼女の足の運びが、次第に滑らかになっていくのは彼にとっても楽しく幸せなひと時だった。
「運命的な再会、という訳か。お前がそんなことを言い出すとはな。あの後も、ずいぶん気にかけていたようだし」
「そういう訳では──ただ、あの夜は奇妙なことが起きたから」
ヘルベルトにからかわれたのを誤魔化すべく、クラウスは豆のゼリーに手を伸ばした。竹でできた小さなフォークも、彼の手指の大きさには合わなくて扱いづらい。
とはいえ、クラウスが顔を顰めるのは、異国のカトラリーの厄介さだけが理由ではなかった。
(俺が会った『夜の貴婦人』は何者で、本当は何て名前なんだ?)
「夜」という名前だと身振りで伝えてくれた神秘的な日本の令嬢とは、晩餐会で再会できた。名前も、婚約者だという青年が教えてくれた。
(真上子爵令嬢暁子──あの少女は、別人だ。高慢な目つきも、出しゃばった振る舞いも。匂いも違う。顔だけはそっくりだったが)
彼が運命を感じた女性は、ほんのわずかな間に、まったくの別人に入れ替わったとしか思えなかった。立ち居振る舞いがまったく違うのは、一度会っただけのクラウスにもよく分かったから。
名前についても、「アキ」という音に夜に関する字が当てはまるとは考えづらいと、ヘルベルトが教えてくれた。
夜の間しか見えない小さな星のように、捉えがたく消えてしまった不思議な女性。
彼女のことは確かにずっと気になっていた。東京の街中で匂いを感じた時に思わず飛び出したのも、いつものクラウスならしないことではあった。
だが、それどころではない事態が起きたのだ。
「……飛び出した後、すぐに強い血の臭いも感じたんだ。しかも、彼女のほうに近づいているようだったから、急いだ」
忌まわしい血と死の臭いを纏った黒い犬──のようなものを撃退したことを話すと、ヘルベルトの表情も真剣なものになった。
「近ごろ、野犬が人を襲っているという事件は、確かにあった。だが、ただの獣じゃない──ということか?」
「ああ。……厳密には、俺のような存在でもないとは思う。つまり、人が変身したのではないし、理性や感情がある訳でもない。何というか……闇を捏ねて作り上げた人形のような」
あの黒い犬に牙を突き立てた感触を思い出すと、クラウスの口中に苦い唾が湧く。
普通の生き物の鼓動や血の流れは感じず、代わりにおぞましい何かが、毛皮の奥で蠢いている気がした。
「私が言うのも何だが、冒涜的だな」
「ああ。東京の人々が人外のものへの警戒を強めると困る。こちらでも調べたほうが良いかもしれない」
「そうだな。私がコウモリになれれば良かったんだが。患者さんからそれとなく話を聞いてみるか……」
クラウスとヘルベルトは、それぞれ狼と吸血鬼の末裔だ。信心深い人々からは恐れられかねないからこそ、同類の凶行は放っておけない。
「──そういえば」
頷き合ったところで──ヘルベルトがにやりと笑った。
「つまり、さっきの少女が君の夜の貴婦人で良いんだな?」
「……っ、そ、そうだ……」
そこは、濁せるものなら濁しておきたかったのだが。真っ直ぐに聞かれては嘘を吐くこともできず、クラウスは仕方なく頷いた。
(くそ、あんなところを見せるつもりじゃなかったのに)
当然のことではあるが、彼女にとってはクラウスはただの大きな犬だった。
あちこち触れられるのは気まずくて気恥ずかしくても、吼えたり牙を剥いたりして怖がらせることはできなかった。──だが、彼の正体を知るヘルベルトが見れば、さぞ面白い場面だっただろう。
事実、ヘルベルトは実に楽しそうに笑っている。
「運命の女性に撫でてもらって良かったじゃないか。口が利けないというのは気の毒だが、嫌われていた訳ではなかったようだし。名刺も渡したから、ここに来てもらえると良いな? 日本語の勉強も頑張らないとな?」
「……そう、かな……」
彼女とまた会う。どうにかして意思疎通をする。その想像は楽しく嬉しいものだった。耳や頬が熱い。ヘルベルトに見せるのは癪だが、きっと真っ赤になっているだろう。
だが、無邪気に期待するだけで良いものだろうか。
彼女に纏わりつく同族の──狼のような匂いの正体は。特に、首周りに絡みつくように感じ取れたのだが。
さらには、彼女と真上子爵家の関係は何なのか。令嬢とよく似た姿は、近しい血縁だからだろうか。それにしては、どうして今日はあんな質素な着物を着ていたのだろう。
あの少女に関する疑問は幾つも湧き上がって、しかも答えはまったく分からない。
(手も、荒れていたし……)
彼を撫でた手、丸めた米を差し出した手を思い出すと、クラウスの頬はますます熱くなる。
厚意でくれたものを断るのは無礼だろうから、ありがたく握り飯をもらうことにしたのだ。でも、犬の姿では上手く受け取ることができなかった。
少女の指先に舌を触れさせてしまったのは、決して彼の本意ではない。人の姿だったら──と考えるのは、とても失礼なことだ。
それでも、想像せずにはいられない。盛装した姿で、彼女の手を取って口づけるところを。ほんのわずかな触れ合いでも、とても優しいと分かったあの少女が、心からの笑顔を見せてくれるところを。
「……彼女の正体や境遇も気になる。真上子爵家のことも、調べなければいけないな」
頬の熱さを冷ますべく、クラウスは首を振った。
日本が、彼にとって平和な安住の地になれば良いのに──そうなるまでには、考えることが多すぎるようだった。
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