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⑥昏い夜

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「誰なんだ、それは」

「…………」

「教えてくれ、エディ」

「──ヘンリーだよ」

「えっ──」

「あの晩シルバーのヘンリーと一緒にいて、その事で澄生と言い合いになったんだ」

その口から洩れたのは、想像もしていなかった名前だった。

ヘンリー喜多嶋は、細長い手脚を一杯に使って弾く、アクションが印象的なハーフのギタリストだった。

栗色の髪と、フランス系アメリカ人の父から受け継いだ、彫りの深い顔立ちの美青年。
ミュージシャンとしては、天才肌で、どこか近寄り難いムードがあった。そこがまた、多くのファンを惹きつけた。

彼は横浜出身のシルバー・スターズのメンバーだった。1967年にデビューしたバンドで、玄人受けするサウンドが売りだった。リーダーのマイクのソウルフルなヴォーカルと、ヘンリーのギターテクニックは、今でも語り草だ。

彼の、ちょっと焦点の合わない、薄茶色のきれいな瞳が、田代の目の前に浮かんだ。

あのまなざしに、エディは誘惑されたというのか……

「──君が、ヘンリーとそんな仲だったとはな」

「一度だけだよ。僕は……そんなつもりじゃなかったんだ……でも、それを、僕のたった一度の裏切りを、澄生は許さなかったんだ」

膝の上に置かれた指が、小刻みに震えている。顔色は蒼白だった。

「飲めよ、少し落ち着くぞ」

「ん──」

田代が注文した、さっきより濃い目の水割りを、エディは一口飲んで、そうしてあの日の事を語り出した。

「あの晩、僕はみんなにちょっと遅れて『アストロ』に行ったんだ。そしたら、ケンとスティーブの隣にヘンリーがいて、僕もなんとなく一緒に座ったんだ」

ケンはペガサスのリードギター、スティーブは、ヴォーカルだ。
その頃、ペガサスやシルバー・スターズの面々は、ステージが終わると、決まって『アストロ』に集まって、飲んでいた。

「シルバーの奴らも、いつも来てたな」

「──それで、デビュー記念日の前日だから、おごるよってヘンリーが言って……コークハイを飲んだんだ」

「そいつは珍しいな」

無口なヘンリーが、そんな事をと田代は訝しんだ。

「で、多分、その時……何か睡眠薬みたいなのを入れられた、と思うんだ」

噛みしめるような口調で、エディが言った事は田代を驚愕させた。

「何だって」

「気が付いたら、自分の部屋で……あいつと二人きりだったんだ……服着てなくて、すべて終わってた……」

「それは、エディ 犯罪だぞ──あいつ、そう言えば捕まったじゃないか」

エディは軽く頷いた。
「マリファナで、だろう、知ってるよ」

ヘンリー喜多嶋は、数年後マリファナ所持で逮捕され、芸能界から姿を消していた。

「何で二人きりになった。ケンとスティーブは帰ったのか」

「そうなんだよ。あいつらが先に店を出たから、僕も帰ろうとしたんだ。だけど、そこから後の記憶が飛んでるんだ……ヘンリーにタクシーで、僕の部屋に連れて帰られたみたいなんだ」

当時ペガサスのメンバーと、マネージャーは、事務所借上の同じマンションに部屋があった。その場所は、事務所が同じシルバー・スターズのメンバーにも知られていた。
ただ実際は、エディはすぐ近くの塚本のマンションの方で、毎晩寝起きしていたのだった。

「──前からヘンリーがドラッグに手を出してるのは、噂聞いてたよ。でも結局は……僕にスキがあったんだ」

エディはうつむいて、手で顔を覆った。

「あの晩、無理矢理マリファナを吸わされて……僕は殆ど正気じゃなかった……あいつと寝るつもりなんか、全くなかった……」

「エディ」

田代は思わずその肩に手を伸ばした。
エディの話は、まだ核心まで行っていない。

「僕が澄生の部屋に、いつまでたっても帰って来ないから、澄生が探しに来て──僕のマンションの入口でヘンリーとすれ違ったんだ。それでもしや、と思って入って来て、僕がヘンリーと一緒だったことに気付いて……澄生が……カッとなって台所からナイフを持ち出してきて……もみ合いになったんだ……」

そして事件は起きたのだった…………

辛い話をエディが続けようとしているのは、明らかだった。

「僕の血を見て、とたんに澄生は取り乱して……慌てて僕のマネージャーに電話したんだ。エディが大変だ、とにかく来てくれって……そしたら高橋さん、飛んできてさ……」

青ざめた顔のまま、何かを吐き出してしまいたい、というエディに、田代は圧倒されていた。

「君が自分でやった、って高橋マネージャーに言ったのか」

「そうは言ってない」

エディが少し声を荒らげた。

「高橋さんの顔を見たら、とっさに"死ぬつもりじゃなかった"って、ついそんな言葉が出たんだよ」

「──かばったんだな、塚本君を」

「あの状況じゃあ、黙ってたって高橋さんは僕が自殺しかけて、って思ってくれたよ」

動揺が激しく、殆ど口をきけなかった塚本と、泣きじゃくるエディとを見て、高橋は何も問い正す前に、そう判断したのだった。

「君がやった、と思い込んでくれた訳だ」

「あの頃──」
エディが顔を上げて、遠くを見るような目をした。

「僕ら周りからずいぶん別れろ、って言われてたしね。……田代さんも知ってる通り、僕は何度も仕事すっぽかして、マネージャーから叱られたりした。
やめられるならやめたいって思ってたし……ほとんどノイローゼになりそうだったんだよ。それで……何もかも嫌になった僕が、手首を切って、って……誰だってそう思っただろうね」

「じゃあ、この事は、」

「誰も知らない。澄生が人にしゃべる筈ないもの。話すの田代さんが初めてだよ」

エディ萩原失踪の陰に、思いもよらぬ秘密が隠されていた………


「傷はどうした──病院へは行ったのか」

「大した傷じゃあなかったんだよ。実際血もすぐ止まったし。高橋さんの部屋に連れて行かれて、そこで手当をしてもらった。
だけど包帯した手首見てたら……何だかもう二度とオルガン弾けない気がして……このまま澄生といても、ふたりともめちゃくちゃになると思って……急に大阪に帰りたくなって……こっそり抜け出して……新幹線に乗ってた……………」
 









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