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 それからというもの、一真は物語の始まりのことばかり考えていた。
 通勤中も、仕事の間も、どこかに物語の始まりが潜んでいないかとぼんやりしてしまう。
 その日はとあるスポーツ用品店に商品を納入しに行っていたのだが、倉庫の前に野良猫がたむろしていて、その猫たちもどこか映画の中から抜け出してきたのではないかと考えてしまった。猫が出てくる映画はたくさんあるけれど、一真にとって印象深いのは『ティファニーで朝食を』の中で主人公が飼っている茶トラ猫だ。
 ごみごみした街の中でも優雅でどこか物憂げで、ヘップバーンを連想させる猫だった。
 帽子を目深にかぶり、コートを着た老人を見れば、あれは映画の登場人物ではないかと思ったり。なんだか子供のころの空想癖がよみがえってしまったようだ。
 「森崎さん、まだ帰らないんですか?」
 午後七時を回った事務所で、後輩の立川がそう声をかけてきた。
 「うん。ちょっと新商品の資料に目を通しておこうと思って」
 今度新商品を扱うことになり、明日それを顧客に提案するのだが、最後に確認しておこうと思ったのだ。
 飛び込みをしなくていいといっても、ノルマがまったくないわけではない。顧客に新商品の提案をすることもあるし、そこで商品に関する説明が満足にできなければ、せっかく長い間ひいきにしてくれている相手の信頼を失ってしまう。
 とはいっても、こちらも一日数十件と取引先を回り、相手も分刻みのスケジュールで、正直どちらもゆっくり話をするどころでない。
 「ふくらはぎが鍛えられるね」
 とは同僚の弁。ただでさえスケジュールの都合で休憩を削ることも多い中、新商品のPRをするため駆け足で得意先と営業車の間を走り回ることになるからだ。
 朝は朝礼が終わると同時に営業車に乗り込まなくてはならないので、資料に目を通すとなれば終業後しかない。
 残りわずかな集中力をかき集めどうにか資料を頭に入れると、外へ出た。
 このところ、帰りが遅くなる時、週に一度か二度は風町シネマで食事をしていくようになっていた。夜十一時までやっているので、ちょっと立ち寄るのにちょうどいい。
 店に入ると、トトがこちらにとことこ歩いてきた。
 そんなに犬好きなつもりでもないのに、思わずほおが緩んでしまう。自分のことを覚えてくれたのがうれしいのか。もしかすると、自分が物語の主人公になった気分に浸れるかもしれない。
 「トト、おいで」
 カウンターの中からそう呼びかけるのは、乃絵だ。
 いけない。トトとセットなのは彼女だった。じゃあ、自分はブリキの木こりか、かかしかライオンか。
 そんなことをつらつら考えながら、カウンターの橋の席に着く。トトはそのままカウンターの奥へ引っ込んだ。
 「ホットミルクと……ミックスピザください」
 明日も仕事で眠れなくなってはいけないので、カフェインのない飲み物を選ぶ。乃絵はにっこり笑って「はい」と答えた。
 ふいにドアが開いて、年配の男性が入ってきた。髪はすっかり白くなっているけど、動作はきびきびとしていて、がっちりした体つきだ。
 「梶本《かじもと》さん、こんにちは」
 乃絵がカウンターの向こうから声をかけた。彼とは何度かこの店で顔を合わせたことがある。ここが映画館だったころからの常連で、自分のことを「カジモドじゃないぜ」とわざわざ断ったりする。
 「ノートルダム・ド・パリですね」
 一真が答えると、
 「あの映画知ってるのか?若いのに珍しいな。あんたぐらいの年だと、アニメしか知らない人間が大半だが」
 苦笑してしまう。
 ユゴーのノートルダム・ド・パリは何度も映画化されているが、ディズニーの『ノートルダムの鐘』ではなく、『ノートルダムの背むし男』のタイトルで公開されたモノクロ無声映画を見たことのある人間は一真の年代では限られているだろう。
 そう言う梶本にしても、一真よりはるかに年上とはいえ、かの映画の公開当時は生まれていないはずだ。何せ日本で公開されたのは昭和を通り越して大正だ。
 「ここでリマスター上映されて、その時に見たんだよ。名前が似てるからってわけじゃないけど、なんだかあの主人公が他人に思えなくてなあ」
 そんなことを言う梶本の前に、大ぶりなカップ入りのコーヒーとチーズケーキが置かれる。甘党なのだ。
 ここのチーズケーキは一真も食べたことがある。手づくりらしく、ずっしり濃厚で焦げ目も香ばしい。一真の好みの味だった。
 「映画館がなくなった時、この街でゆっくりできる場所がなくなっちまったかとしょげてたものよ。乃絵さんが後を継いでくれて、感謝してもし足りないな」
 荒っぽいようで、年下の乃絵にも「さん」付けしているのがなんだかおかしかった。
 「ここが好きで、ずっとここにいたかったから」
 と語る乃絵。
 「じゃあ、やっぱり映画館をやりたかったんですか?」
 実は気にはなっていたのだ。
 映画が好きなのはわかっているけれど、映画館を継ごうとは思わなかったのだろうか。
 ところが乃絵はあっさりと、
 「いえ。映画の主人公になりたかったんです」
 照れる様子もなくそう言った。
 「ドロシーとかアリスとか。主人公の少女になって冒険するのが夢でした。でも今はまだ無理そうなので、とりあえず場所だけおさえておくことにしました」
 今はまだ。
 冗談のように口にした一言が、一真の心に刺さった。
 「そんなものですよ」
 ふいに奥のテーブルにいた客が口をはさんだ。
 こちらも何度か顔を見かけたことはあったが、話をするのは初めてだ。妙齢の女性で、いつも静かに文庫本を読んでいる。
 「失礼。わたし、蒔野《まきの》と申します。ちょっと前まで、この近くで喫茶店をやってました」
 「森崎です」
 となると、この人が調度品を〈風町シネマ〉に寄贈したという喫茶店の主か。背筋がすっと伸び、凛とした横顔。鼻筋が通って、どことなく女優のグレース・ケリーを思わせる。
 「夢なんて、どこを守って、どこをあきらめるか、少しずつ確かめて、変わりながら続いていくものでしょう」
 「ていうと?」
 「女優になりたいといっても、それが人前に出て注目を浴びたいということなのか、映画にかかわりたいのか、演技するということ自体が好きなのか。演技するのが好きなんだったら映画じゃなく劇場で演じるのでもいいし、映画が好きなら裏方に回るのでもいい。人から注目されたいなら、演技じゃなくても音楽でもいいし何かを創るのでもいい」
 蒔野さんも夢があったのだろうか。
 聞けないでいるうちに、「そうそう」とカジモド――梶本さんが相槌を打った。
 「おれも絵描きとして世界を回ることに憧れたもんだ。別に絵を描くならどこでだってできるんだけどな」
 笑い話のように言ってのける。
 「いや、実は僕も」
 そこで一真の言葉は止まってしまった。
 実は僕も。映画が作りたいと思っていた。物語を立ち上げていくシナリオライターになりたかった。もう終わった話で、今は何も書いていない自分だ。
 でも一真はそれを過去のこととして、笑い話として語ることができなかった。
 どうして?
 もしかして、自分はまだあきらめていないのか。
 書くことなんて何もないくせに。
 話題を変えたくて、「そういえば、尚本さんはどんな映画が好きなんですか?」と尋ねた。映画館の主だったという祖父が『オズの魔法使』を好きで、彼女もその話を楽しそうにするからそうなのだと思っていたけど、ちゃんと聞いたことはなかった。
 「うーん。一つ選ぶとなると難しいですけど……」
 苦笑してしまう。
 確かに好きな映画は数あれど、その時の気分によって見たいものは違うし、退屈だと思っていたものが後になって好きになったりもする。
 一真も同じことを聞かれたら答えに詰まりそうだ。苦し紛れに変な質問をしてしまったか。
 「何も起こらない映画、でしょうか」
 マシンから暖かいポップコーンを取り出してカップに入れながら、乃絵は言った。
 「何も起こらない?」
 「ええ。大きな事件とか、特別な主人公はいなくて。でも見ていてわくわくできるような……」
 意外だ。アリスやドロシーに憧れたくらいだから、ファンタジーや冒険映画が好きなのかと思っていた。
 彼女の足元では、トトがしっぽを振ってハアハア息をしている。ポップコーンが大好きなのだ。ときどきおやつがわりに食べさせてあげるそうだけど、一真たちが食べているバターたっぷりのものでは犬にはカロリーも塩分も高すぎるので、塩とオイルのないプレーンなものらしい。
 トトの気持ちもわかる。マシンから出したばかりのポップコン―ンは、ほかほかと温かく、甘い香りを振りまいていかにもおいしそうだ。なんだか一真も食べたくなってきた。
 「私、『オズの魔法使』はドロシーがオズの国に行く前、カンザスの道ばたで占い師と話をするシーンが好きなんです」
 ああ、とうなずく。
 家出をしたドロシーは旅の占い師に出会い、一緒に連れて行ってくれと頼む。だが『おばさんが心配して病気になった』と聞かされ、家に帰ろうとして竜巻に飲み込まれるのだ。
 「『果てしない物語』なら、バスチアンが屋根裏部屋に隠れて本を読むところ。これから何かが起こる、というざわざわした感じがして、あれをずっと感じていたいと思っていました。だから、ドロシーがオズの国に行く前、アリスが不思議の国と鏡の国の冒険の間に過ごしていたような、そんな時間を描いた映画を見てみたいです」

 アパートに帰ってから、パソコンの電源を入れてみた。何も書かれていない、真っ白な画面を開く。学生時代に書こうとした作品は、以前使っていたパソコンが壊れた時にデータごと消えてしまった。別に惜しくもなかったのは、そのころにはとうに自分にはろくな脚本が書けないとわかっていたからだ。
 何かを書こうとしたことはある。高校生のころ。大学に入り、一人暮らしを始めたころ。
 真っ白な画面に閉じ込められた世界がどこへ向かっていくのか知りたかったのだ。そして自分自身も、何も見つからない日々からどこかへいけるものか知りたかった。でも、書けなかった。どうしても。
 本当は自分自身、先へ進むことを望んでいなかったのかもしれない。
 結局物語らしい物語はひとつとして書けないまま大人になり、生まれた町を離れ、こうして会社員としてどうにか生きている。
 少し迷ってから、指を遊ばせるようにキーボードを叩く。

 映画から抜け出した犬。
 トト。ドロシーの相棒。
 旅の占い師。竜巻。
 ブリキの木こり。ハートがない。
 かかし。頭がない。
 ライオン。勇気がない。
 大魔法使いのふりをした、普通の人間。
 気球に乗ってカンザスの家へ。
 映画館だった場所。トトとドロシーのいる喫茶室。
 何かが起こる前の時間。

 ふいに不思議な感覚がした。
 乃絵の言った、「何かが始まりそうな」気配。一真はいや、と頭を振り、パソコンを閉じた。
 立ち上がって、カーテンの隙間から外を見る。こんな時間になっても、窓にほのかな明かりの灯る家がぽつぽつと見えた。
 あの明かりのどこかに、女優になりたい少女や、絵描きになろうと筆を走らせる少年がいるのだろうか。
 みんな何かになろうとして、何にもなれない。だからこそ、人は物語を必要とするのかもしれない。
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