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「祖父は『オズの魔法使』が好きでした。子供のころに映画館で見て、なんて美しい世界があるのかと憧れたそうです。機嫌がいい時は、いつもあの映画の歌を歌っていました」
次に風町シネマを訪れたのは翌週の日曜日だった。
休みの日はたいてい昼前に起き出し、食事をしたり溜まった洗濯物を片付けているうちに疲れてしまって、夕方までぼんやりしていることが多かった。家に一人でいるとそんな過ごし方を変えるのも難しいので、停滞を破るには外へ出るかしかない。といってどこへ行けばいいのか思いつかず、スマホで近くの店について検索しているうち夜になってしまうのがお決まりのパターンだった。
だがこの日は行きたい場所があった。
午後三時を過ぎたころ、思い切って風町商店街へ向かう。アパートからは歩いても十五分、自転車を飛ばせばその半分ほどの時間で着いた。
明るい時間の街はまるで違う世界のようで、なかなか〈風町シネマ〉の看板は見つからない。代わりに現れるのは、和菓子屋にクリーニング店、古本屋、果物屋。
もしかしてあの夜の出来事は仕事に疲れた自分が見た幻覚だったのではないか。かすかな不安を感じ始めたころ、ようやく風町シネマに辿り着いた。
夜に夢のように浮かび上がって見えた看板は、昼間に見ると何の変哲もない木のプレートだった。
乃絵は一真のことを覚えてくれていたらしく、「あ、」とはっとしたような顔をして、すぐ笑顔で「いらっしゃいませ」と続けた。
カウンターに座り、コーヒーとポップコーンを注文する。彼女の仕事が途切れたタイミングで「このあいだの話ですけど……」と切り出した。
「このあいだの?」
「いや、トトが映画の中から出てきた犬だって」
そう。この数日間、一真が気になっていたのは別れ際に彼女が口にしたその言葉だった。
乃絵は一瞬ぽかんとしてから、ふふっと小さく笑った。そして話してくれたのは、ここが映画館だったころ、トトが現れた日のことだった。
「映画館が閉館する時も、祖父は最後の上映に『オズの魔法使』を選びました。そのころにはもう体を悪くしていて、映画館を閉じることは前々から考えていたそうです」
乃絵の祖父なら、一真の祖父ともそう年は変わらないだろう。
『オズの魔法使』の公開は一九三九年、映画がモノクロからカラーに移り変わる時期の作品だ。もっとも日本で見られるようになったのは戦後のことらしいが。
実はこのあいだの話を聞いて、一真も久しぶりに『オズの魔法使』を見てみた。といっても、映画館はもうこの辺りには残っておらず、市内のシネコンにこんな古典がかかるわけもないので、ネット配信を利用する。そのことにかすかな罪悪感を抱いた。
子供のころに通っていた映画館も、一真が社会人になって足が遠のいているうちになくなってしまった。
こうしてすべては通り過ぎてしまう。
結局映画を見た後はひとしきりスマートフォンをいじりながら、映画の撮影の裏話や原作がシリーズで三十作以上書かれていること、主演のジュディ・ガードナーのあまり幸福とは言えないその後の生涯についても知り、少しばかり複雑な気分になった。
かといって「夢が壊れた」という気分ではなく、むしろ厳しい人生を知った後で見ると、稚拙なセットや衣装にもかかわらず、これこそが本当の世界だと思う。たぶん、ファンタジーは現実と対立するものではなく、互いに支え合って、重なり合うように存在しているのだろう。
乃絵は話を続けた。
「最終上映では、もう引退していた看板画家の方が特別に看板を描いてくれて、遠くからわざわざ見に来られるお客さんもいて、わたしも連日数えきれないほどポップコーンを売りました。一時は見るのも嫌になったくらいです」
「でも、いまもこうして作ってるんですね」
「ポップコーン・マシンを処分するのが忍びなくて、残していただけだったんですけど。ほかの映写機やフィルムは場所を取りすぎておいておけなかったので。そしたらせっかくマシンがあるんだから出してほしいというお客さんがいて、たまに動かすようになったんです。すいません、話がずれました」
一真がやって来た時には二組ほど客がいたけれど、どちらも途中で帰って、店内には乃絵と一真、それにトトだけだった。
「その最終日のことです。レイトショーの時間も過ぎて、最後のお客さんも帰られて、いよいよ終わりだというときに、スクリーンの下にこの子がいたんです。『オズの魔法使』に登場するトトにそっくりで、犬種も同じケアーンテリア。それを見た祖父が、きっとこいつは映画の中から抜け出してきたに違いないって言って。それ以来、ずっとここで暮らしています」
そう言っていたずらぽく笑った。
トトは自分のことを話しているのがわかっているのかいないのか、床に伏せてうたたねしている。今日は嵐の予感はないらしい。
もちろん、考えられる可能性はいくらでもある。開いたままになっていた扉から入り込んだとか、観客の誰かがこっそり置いていったとか。
けれど主人公が連れていたのとそっくりな犬が最終上映の後で見つかるなんて、それこそ映画の始まりのようだ。
始まりと言えば、乃絵の淹れるコーヒーも、一抱えあるカップに入れて手渡してくれるポップコーンも、その香りに包まれていると何か物語が始まりそうな予感がする。長く映画館で働いていたからだろうか。それとも彼女に備わった特別な能力のようなものか。
そう言うと、乃絵は一瞬ぽかんとして笑い出した。
「ありがたいけど、わたしの力じゃないですよ。しいて言えば、この場所に残った魔力のようなものなのかもしれないですね」
「魔力、ですか」
映画の力が、まだこの場所に残っているのかもしれない。
ふいにトトが窓際から降り、ととと、と足音の出そうな動きでカウンターの奥へ消えていった。
映画の中から出てきた。
こんな古びたカフェで見ると、本当にどこかここではない遠い場所から来たような気がするから不思議だ。
次に風町シネマを訪れたのは翌週の日曜日だった。
休みの日はたいてい昼前に起き出し、食事をしたり溜まった洗濯物を片付けているうちに疲れてしまって、夕方までぼんやりしていることが多かった。家に一人でいるとそんな過ごし方を変えるのも難しいので、停滞を破るには外へ出るかしかない。といってどこへ行けばいいのか思いつかず、スマホで近くの店について検索しているうち夜になってしまうのがお決まりのパターンだった。
だがこの日は行きたい場所があった。
午後三時を過ぎたころ、思い切って風町商店街へ向かう。アパートからは歩いても十五分、自転車を飛ばせばその半分ほどの時間で着いた。
明るい時間の街はまるで違う世界のようで、なかなか〈風町シネマ〉の看板は見つからない。代わりに現れるのは、和菓子屋にクリーニング店、古本屋、果物屋。
もしかしてあの夜の出来事は仕事に疲れた自分が見た幻覚だったのではないか。かすかな不安を感じ始めたころ、ようやく風町シネマに辿り着いた。
夜に夢のように浮かび上がって見えた看板は、昼間に見ると何の変哲もない木のプレートだった。
乃絵は一真のことを覚えてくれていたらしく、「あ、」とはっとしたような顔をして、すぐ笑顔で「いらっしゃいませ」と続けた。
カウンターに座り、コーヒーとポップコーンを注文する。彼女の仕事が途切れたタイミングで「このあいだの話ですけど……」と切り出した。
「このあいだの?」
「いや、トトが映画の中から出てきた犬だって」
そう。この数日間、一真が気になっていたのは別れ際に彼女が口にしたその言葉だった。
乃絵は一瞬ぽかんとしてから、ふふっと小さく笑った。そして話してくれたのは、ここが映画館だったころ、トトが現れた日のことだった。
「映画館が閉館する時も、祖父は最後の上映に『オズの魔法使』を選びました。そのころにはもう体を悪くしていて、映画館を閉じることは前々から考えていたそうです」
乃絵の祖父なら、一真の祖父ともそう年は変わらないだろう。
『オズの魔法使』の公開は一九三九年、映画がモノクロからカラーに移り変わる時期の作品だ。もっとも日本で見られるようになったのは戦後のことらしいが。
実はこのあいだの話を聞いて、一真も久しぶりに『オズの魔法使』を見てみた。といっても、映画館はもうこの辺りには残っておらず、市内のシネコンにこんな古典がかかるわけもないので、ネット配信を利用する。そのことにかすかな罪悪感を抱いた。
子供のころに通っていた映画館も、一真が社会人になって足が遠のいているうちになくなってしまった。
こうしてすべては通り過ぎてしまう。
結局映画を見た後はひとしきりスマートフォンをいじりながら、映画の撮影の裏話や原作がシリーズで三十作以上書かれていること、主演のジュディ・ガードナーのあまり幸福とは言えないその後の生涯についても知り、少しばかり複雑な気分になった。
かといって「夢が壊れた」という気分ではなく、むしろ厳しい人生を知った後で見ると、稚拙なセットや衣装にもかかわらず、これこそが本当の世界だと思う。たぶん、ファンタジーは現実と対立するものではなく、互いに支え合って、重なり合うように存在しているのだろう。
乃絵は話を続けた。
「最終上映では、もう引退していた看板画家の方が特別に看板を描いてくれて、遠くからわざわざ見に来られるお客さんもいて、わたしも連日数えきれないほどポップコーンを売りました。一時は見るのも嫌になったくらいです」
「でも、いまもこうして作ってるんですね」
「ポップコーン・マシンを処分するのが忍びなくて、残していただけだったんですけど。ほかの映写機やフィルムは場所を取りすぎておいておけなかったので。そしたらせっかくマシンがあるんだから出してほしいというお客さんがいて、たまに動かすようになったんです。すいません、話がずれました」
一真がやって来た時には二組ほど客がいたけれど、どちらも途中で帰って、店内には乃絵と一真、それにトトだけだった。
「その最終日のことです。レイトショーの時間も過ぎて、最後のお客さんも帰られて、いよいよ終わりだというときに、スクリーンの下にこの子がいたんです。『オズの魔法使』に登場するトトにそっくりで、犬種も同じケアーンテリア。それを見た祖父が、きっとこいつは映画の中から抜け出してきたに違いないって言って。それ以来、ずっとここで暮らしています」
そう言っていたずらぽく笑った。
トトは自分のことを話しているのがわかっているのかいないのか、床に伏せてうたたねしている。今日は嵐の予感はないらしい。
もちろん、考えられる可能性はいくらでもある。開いたままになっていた扉から入り込んだとか、観客の誰かがこっそり置いていったとか。
けれど主人公が連れていたのとそっくりな犬が最終上映の後で見つかるなんて、それこそ映画の始まりのようだ。
始まりと言えば、乃絵の淹れるコーヒーも、一抱えあるカップに入れて手渡してくれるポップコーンも、その香りに包まれていると何か物語が始まりそうな予感がする。長く映画館で働いていたからだろうか。それとも彼女に備わった特別な能力のようなものか。
そう言うと、乃絵は一瞬ぽかんとして笑い出した。
「ありがたいけど、わたしの力じゃないですよ。しいて言えば、この場所に残った魔力のようなものなのかもしれないですね」
「魔力、ですか」
映画の力が、まだこの場所に残っているのかもしれない。
ふいにトトが窓際から降り、ととと、と足音の出そうな動きでカウンターの奥へ消えていった。
映画の中から出てきた。
こんな古びたカフェで見ると、本当にどこかここではない遠い場所から来たような気がするから不思議だ。
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