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 最後に映画を見たのはいつだっただろう。
 仕事を終え、ひとり暮らしのアパートまで暗い道を歩きながら、森崎一真《もりさきかずま》はふとそんなことを考えた。
 九月最後の週の金曜日。
 ついこの間まで日が暮れてからも蒸し暑く、道に立っているだけで汗が噴き出すほどだったのに、今は長袖のシャツを着ていても肌寒さを感じる。すぐにマフラーやコートが必要になるだろう。やらなければならないことはたくさんあるはずなのに、ただ目の前の仕事や生活の雑事に追われるうちカレンダーの枚数は少なくなっていき、気づけば一年が終わっているのだ。
 いつもこうだ。
 何もできないまま、ただ季節が移り替わっていく。
 一真が暮らしているのは、職場のある市の中心部から二駅ほど離れた地区で、オフィスビルや商業施設が立ち並ぶ中心部に比べどことなく古びた印象のある町だった。昭和の風情のアーケード街が南北に伸び、木造の民家や個人商店も数多く残っている。大通りに面した場所にはチェーンの大型店も多いが、少し奥へ進むと細い路地が入り組んで、暗い時間にはひょっとすると道に迷ってしまいそうだ。
 この町に越してきたのは、大学を卒業して今の会社で働き始めてからだから、もう三年になる。
 会社はスポーツ用品を扱っていて、一真の仕事は主にルート営業だ。学校や地域のスポーツクラブを回って注文を取りつつ、商品の納入も行う。飛び込みの営業はないし、付き合いの長い取引先が多く売り上げの予想もしやすいので、営業という仕事にイメージしていた売り上げに追われる生活にはならずに済んだ。
 とはいえ小さな会社なので人手が足りないこともたびたびで、今日は急病で休まなければならなかった同僚に代わり、商品の配達で市内をかけずり回っていたのだ。ようやく帰路につき、アパートの最寄り駅を出たころには、夜の十時を過ぎていた。
 これから家に帰って食事の支度をするのはおっくうだった。幸い、明日は休みだ。どこかで食事でもして帰ろう。
 圭は酒が飲めないので、遅い時間に食事ができる店は限られている。大通りにあるファミレスや、二十四時間営業の蕎麦屋で手早く済ませるか。そんなことを考えながらも、一真の足はどんどん路地裏の奥へ進んでいった。
 そういえば学生のころは、この時間でも映画を見に行っていたっけ。
 少しでも安く見られるように映画館の回数券を使って、鑑賞のお供はポップコーンやホットドッグ、それに紙コップに入った薄いコーヒー。ろくに味わいもしないままスクリーンを見つめては、いったいどうすればこんな映画が作れるのだろうと驚嘆し、少しでも盗める技術はないか、自分で脚本を書くならどうしようかと目を光らせた。
 なのに今、一真はそんなにも夢中で見ていた映画をほとんど思い出せない。
 仕事をはじめてからというもの、映画は滅多に見なくなっていた。見たいと思うことはあったし、面白そうな作品が公開されたと知ると「そのうち行こう」と頭の隅で思いながらも、忙しさにかまけているうちに公開を終えてしまうのだ。
 いつしか高架下を抜けて、普段めったに足を運ばない駅の裏側まで来てしまった。ちらほらと店はあるけれど、どこもお酒を飲む店らしく、にぎやかな声が外まで聞こえてきて、ひとりで入るのは勇気がいる。
 近所で食事をするところも見つけられないというのは少し情けない。これも家と職場の往復ばかりで日々を過ごしてきた報いか。やっぱりコンビニで弁当でも買って帰るべきだったかもしれない。
 引き返そうと向きを変えた時、ふいに淡いオレンジ色の光に照らされた〈風町シネマ〉の看板の文字が目に飛び込んできた。
 シネマ?
 こんなところに映画館があったのか。
 いや、そんなはずはない。
 越してきたばかりのころ、気まぐれを起こしてネットで調べたことがある。ここから一番近い映画館は郊外のショッピングモールの中に入っている、十スクリーンもあるような大型映画館、いわゆるシネコンだ。繁華街にはビルの中で営業しているミニシアターもあるらしいが、アパートの近所に映画館があるなんて聞いたこともない。
 目の前にあるコンクリート造りの建物はずいぶん小ぢんまりとしていて、暗がりの中でも古びているのがわかる。それこそかつての名画座を思わせる外観だった。
 風町、というのはそばにある商店街の名前だ。
 不審に思いながら近づいていき、ああ、と納得する。
 看板の〈風町シネマ〉の文字の前に、小さく〈cafe〉と書かれていたのだ。これまた映画の手描き看板を思わせる、ペンキの文字だった。
 店内に明かりがついているところからして営業中らしい。サンドイッチかパスタか、食事メニューはないだろうか。どちらにせよ、これ以上進んでも住宅街に入ってしまって飲食店は見つかりそうにない。
 ガラス張りの扉の前に立つと、一枚の注意書きがあった。

 「小さな犬がいます」。

 そこでまた少し躊躇した。
 犬。苦手なわけではないけれど、動物は飼ったこともないし、どう接していいのかわからないというのが本音だ。しかし飲食店に連れてくるくらいだから、おとなしい犬なのだろう。そう願いながら、ドアを押し開いた。
 「いらっしゃいませ」
 やわらかい声に導かれ、店内に足を踏み入れる。
 外から見る分には小さな建物だが、中に入ると、意外なほど天井が高かった。
 テーブルや椅子などの調度品は長く使われているからか細かい傷があったけれど、丁寧に磨き上げられている。照明はやわらかいオレンジ色。豊かなコーヒーの香りに、張り詰めていた気分がほぐれた。
 少し古めかしくはあるけれど、間違いなく喫茶店だ。どうして風町シネマなんて紛らわしい名前を付けたのだろう。
 遅い時間だからか、一真のほかには仕事帰りらしい男性客が一人いるだけだ。
 「お好きなお席へどうぞ」
 できるだけ隅の目立たない席に座り、メニューを開く。
 ブレンドコーヒー、カフェオレ、紅茶。こちらもごく普通の喫茶店のものだ。甘いものも、チーズケーキやドーナツといったシンプルなお菓子だった。食事メニューは……。
 「お決まりですか?」
 カウンターにいた女性が水の入ったグラスを置きながら尋ねた。
 二十代半ば、一真と同い年くらいだろう。整った顔立ちではあるが、人のよさそうな笑顔のせいで、華やかさよりも控えめな印象のほうが強い。ほかに店員が見当たらないので、この人が店の主か。
 「あ、えっと、コーヒーと……」
 犬はどこにいるんだろう、と店内を見回す。ふと見覚えのある、銀色の四角い機会がカウンターの隅に置かれているのに気付いた。
 「ポップコーン?」
 映画館で時おり見かけるポップコーン・マシンだ。
 「ええ。ここが映画館だったころから使っているポップコーン・マシンです」
 女性の言葉に、一真は改めて店内を見回した。
 言われてみれば、天井の高さや広々した空間はどことなく映画館を思わせる。なるほど、ここは映画館の跡地に作られた喫茶店で、奇妙な店名の由来はそのことにちなんでいるのだろう。
 そんな予想を裏付けるように、女性は続けた。
 「映画館が経営していたころ、コーヒーとポップコーンをつくって売るのは私の仕事でした。祖父がやっていた映画館で、手伝いを兼ねてアルバイトしていたというだけのことですけど」
 「このお店はいつからやってるんですか?」
 「今年で三年目ですね」
 一真がこの街に越してきたころだ。
 「映画館が閉館したのは五年ほど前です。祖父が亡くなる時、この建物を自分に残してくれまして。建てられたのはもう五十年以上むかしだし、調度品も商店街の喫茶店が閉店するときに譲ってもらったので、古く見られがちですけど」
 「そうなんですね。じゃあ……、コーヒーとホットサンドお願いします」
 ポップコーンも気になるけど、それより食事だ。
 やがて運ばれてきたホットサンドを一口食べてはっとする。ものすごくシンプルだ。具は厚く焼いた卵焼きだけで、それにケチャップを塗って薄いカリカリのパンにはさんである。シンプルだけど噛めしめるほど卵の甘さとケチャップの酸味が溶け合って、それがあっさりとしたコーヒーによく合っていた。
 チーズや肉をたっぷり挟んだホットサンドもいいけれど、疲れている時に食べるのはこれくらいそっけない方がいい。
 それに、映画を見ながら食べるのも。
 その時、カウンターにいた男性客が立ち上がって会計に向かい、店主の女性もその対応のためレジへ歩いて行った。その足元に小さな犬がちらっと見えた。ふさふさと毛の長い、茶色の犬。黒い瞳がきらきら光っている。思わずその姿を目で追ってしまい、
 「名前は何ですか?」
 会計を終え、カウンターへ戻って来た彼女に尋ねた。
 店主はちょっと首をかしげて答える。
 「尚本乃絵《なおもとのえ》です」
 「あ、いえ。犬の……」
 思わずしどろもどろになった。
 彼女は気にした様子もなく、
 「ああ、トトです」
 別に珍しい名前ではない。けれどその名前と、ちょこまか動き回る茶色い犬の姿は、ふいに一真の記憶を呼び覚ました。
 「もしかして、『オズの魔法使』の?」
 「はい。そのトトです」
 一真が『オズの魔法使』を見たのは、まだ小学生のころだ。
 それも見たくて見たというより、英語の教材として字幕版が小学校の教室で上演されたのだ。映画の中で流れる歌『虹の向こうへ』を、クラス全員が英語で歌ったことを覚えている。
 少女ドロシーが魔法の国へ飛ばされ、家へ帰る方法を教えてもらうため何でもできる〈オズの魔法使い〉を探して旅をする。そこで脳みそのないかかし、心のないブリキの木こり、勇気のないライオンに出会い、彼らもそれぞれ足りないものを手に入れるためドロシーの旅に加わるというものだ。トトは、そのドロシーの飼い犬だ。
 ストーリーはごくごくシンプルで、だからこそ授業の教材として採用されたのだろうが、小学生の目から見てもやや古くさく見えた。ようやくカラー映画が普及し始めたころで、この作品もドロシーが魔法の国へ着くまで、現実世界のパートはモノクロなのだ。
 それきり見返したことはなく、だから主人公のドロシーやお供のかかしたちほど目立たないトトの名前を憶えていたのは、自分でも意外だった。
 その時、おとなしくしていたはずのトトが、急にはっとしたように頭を上げて窓のそばへ駆け寄り、落ち着かない様子で外を睨みつけた。散歩に連れて行ってほしいわけではなさそうだ。だったらもっと楽しそうな表情をするだろう。トトの目は本当に「睨む」という感じで、唸り声を上げていたりする。
 「竜巻が来るんじゃないかと思ってるんですよ」
 「竜巻?」
 確か、ドロシーも竜巻にさらわれて魔法の国へたどりつく。
 「ええ。この子はもともと映画の中に住んでいたので」
 一真は乃絵の顔を見つめた。
 聞き間違い?それとも冗談なのだろうか。
 すると彼女は紙のカップに入ったポップコーンを差し出した。
 「こちら、サービスにどうぞ」
 「え?いや、」
 「どうせ明日になったら廃棄しないといけないので。サービスです」
 そう言われて、つい受け取ってしまった。まだ温かいポップコーンの、甘く香ばしい香りがふわりと広がる。
 会計を終えて外に出た一真は、アパートまでの道を歩きながらポップコーンをつまんだ。
 ふいに暗い道が映画館の暗がりと重なり、スクリーンで物語が始まるような不思議な懐かしさに包まれた。
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