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 その日はとりわけ風が強かった。
 急に冬が来たようだ。背広の裾がバタバタと揺れ、上にもう一枚着てくればよかったと後悔する。
 珍しく早く帰れた日、一真はいつものように風町シネマの扉を開いた。時間はまだ七時前。人と話をしながら、温かいものが飲みたかった。
 運が良ければトトが膝の上に載ってくれるかもしれない。
 乃絵はトトが客席に近づかないようにしつけているし、飲食店である以上当然の気遣いではあるけれど、一真は小さくて暖かいトトの身体に触れるのが好きだった。特にこんな寒い日は。
 「あ、森崎さん。いらっしゃい」
 いつものように迎えてくれた乃絵の声も、風のうなりにくぐもって聞こえた。店内に客の姿はない。
 店のドアが風で押し開けられ、勢いよく開いてしまった。冷たい風が店内に吹き込む。あわてて両腕に力を籠めるが、下限を間違えて壊してしまったらと思うと腰が引けてしまい、なかなか閉められない。
 手伝おうとしたのか、乃絵がこちらへ歩き出した瞬間、それまでおとなしく座っていたトトがぴくんと何かに反応した。
 「トト!?」
 二人が叫んだのは同時だったと思う。
 次の瞬間にはトトは小さな体で、めいっぱい手足を動かしながら店を駆け抜け、開いたままのドアから外へと走り去ってしまった。普段のおとなしさからは考えられない敏捷さで、ドアを抑えていた一真も止める暇がなかった。
 思わず呆然とそれを見送ってから、はっとして乃絵を見る。
 「追いかけましょう!」
 やはり驚いたのか動きを止めていた乃絵は、一真の言葉に「あ、はい!」と我に返り、ドアにかけていた札を「OPEN」から「CLOSE」に返し、鍵をかけた。慌てているせいか、なかなか鍵がかからず、一真は彼女より先にトトの消えた高架線の向こうへ走り出していた。
 そろそろ暗くなり始めた時刻、買い物客や仕事帰りの会社員が何事かとこちらを見ている。道を全力で走る大人を見ればそうなるだろうが、かまっていられない。あんな小さな犬、車どころか自転車に轢かれるだけでも一大事だ。
 はじめはどうにか揺れる尻尾を視界にとらえていたが、いったいあの短い手足でこれほど早く走れるかと思うような速度で引き離される。しかも通行人や路上駐車の自動車などの障害物もお構いなしだ。
 曲がり角を曲がったところで早々に見失ってしまった。
 ああ、と天を仰いでいると、乃絵が息を切らせながら追いついてきた。
 「どうしましょう」
 普段の落ち着いた姿が嘘のようにうろたえている。
 「これまで、トトがひとりで外に出たことは?」
 正確には一人ではなく一匹だと後で気づいたが、この時はそんなことを気にしている場合ではなかった。
 「ありません。散歩の間も、おとなしくリードに繋がれて、後をついてくるような子でしたから」
 「すいません、僕が……」
 「森崎さんのせいじゃありません」
 きっぱりとそう言う。
 「私もこんなことになるなんて、思ってもみなかった。私の不注意です」
 乱れた息を整えながら、どうにか言葉を続ける。
 「まさか本当に竜巻を追いかけて行ってしまうなんて……」
 風はどんどん強くなり、あたりは暗くなっていった。
 一匹で外へ出たことがないなら、自分で店へ帰ってくる可能性は低いだろう。首輪に住所と店の名前が刻まれてはいるが、誰かに見つけてもらえなければそれも無意味だ。
 「もう少し探してみましょう。尚本さんが近くにいるってわかったら、出てきてくれるかも」
 いつも乃絵のそばを離れなかったトトのことだ。
 おかしな天候に興奮して、衝動的に走り出してしまったとしても、いまごろトト自身あわてて帰り道を探しているかもしれない。
 裏道に入り込んでしまったからか、周囲に通行人の姿はなく、誰かに尋ねることもできない。ふたりは狭く曲がりくねった道を進んでいった。
 やがて辿り着いたのは、三方を灰色の雑居ビルに囲まれた、路地の行き止まりだった。
 「トト?」
 乃絵が不安げに呼びかける。答える声はなかった。
 その時、急に一際強い風が吹いた。一真は思わず乃絵の手を握った。
 「もしかして……」
 「竜巻!?」
 一真がそういうと同時に、風がうなりをあげて吹き上がり、ふたりはぎゅっと目を閉じた。ごうごうと激しい音に、ほかのすべての声がかき消される。
 竜巻にさらわれる。とうとう遠いおとぎの国に飛ばされていくのかと思えば、
 「森崎さん、これ……」
 風は現れた時と同じようにすぐ収まり、こわごわと目を開けた圭の視界に飛び込んできたのは、街灯に照らされて降り注ぐ無数の羽だった。
 羽だけではない。魔女が使いそうな箒に、宝石の輝く王冠、万国旗に山高帽。頭上から落ちてきた、おとぎ話に出てきそうな品々が、アスファルトの地面に散らばって街灯に照らされている。およそ現実とは思えない光景に、ふたりとも声を失ったままその場に立ち尽くしていた。
 すると――。
 じゃり、じゃり。後ろから足音が近づいてくる。
 振り返ると、そこにはライオンが二本足で立っていた。

 「すいません、びっくりさせちゃって。怪我はないですか?」
 そう言って、男性たちは恐縮したように頭を下げた。
 ライオンの仮装をしていた青年は、被り物を脱いで脇に抱えている。その先輩らしい人物は、彼のすぐ後にビルの階段を下りて一真たちの元に駆け付けた。
 「いや。ここのビルなんですけど、うちの会社の倉庫があるんです。使わないものを処分するために段ボールに入れて運んでたんですけど、さっきの風で吹き飛ばされてしまって」
 そう言われてあたりを見回してみると、すぐそばに一抱えもある大きな段ボールが、蓋の開いた状態で金網に引っかかっていた。そこで一真もようやく理解が追いついた。
 何のことはない、荷物を入れていた段ボールが、運ぶ途中に風に吹き飛ばされたのかビルの通路から落ちてしまい、中身が散らばってしまったのだ。
 しかし、ライオンの仮装はどういうことなのだろう。
 「それが……ほしいものがあったら持って行っていいって上の人に言われて、いろいろ探してたんです。どれをもらおうか二人で話しているうちに、ちょっと悪ふざけしちゃいました」
 「ライオンの着ぐるみのある会社って、何をやってるんですか?」
 「小道具のレンタル会社ですよ」
 一真と乃絵は顔を見合わせた。
 「テレビ局がドラマとかコマーシャルの撮影に使う小道具を貸し出してるんです」
 「映画は?」
 「もちろん映画にも使われますよ。昭和三〇年代に使われていた生活雑貨とか、電化製品だとか。これも、」
 そう言いながら、地面に落ちた羽を拾った。
 「ほら、ちょっとドラマチックなシーンで降らせる羽ですね。中身は羽毛布団から抜いた羽やらで安物ですけど。あ、まずい」
 そんなことを話している間にもまた風が吹いて、地面に落ちた羽を飛ばしていく。男性たちは急いで放棄や帽子などの小道具を拾い集めた。
 「あ、もしほしいものがあったら持って行ってください。倉庫代がかかるだけで、どうせ処分しなきゃいけないので。っていっても、時計はガワだけで中身はないし、衣装だってペラペラの作りものですけど」
 「ありがたいですけど、いまちょっと……」
 そう言いかけた圭の耳に、「あっ」という声が飛び込んできた。乃絵の視線の先には、こちらへ向かってとことこ歩いてくるトトの姿があった。

 「お店は大丈夫でしょうか」
 高架下を抜け、風町シネマへの道を歩きながら、一真は乃絵にそう尋ねた。
 あれだけ焦られてくれたトトはと言えば、彼女の腕の中でうとうとしながら、時折しっぽをぴくんぴくんと動かしている。夢でも見ているのだろうか。ポップコーンの夢か、それとも、もともと住んでいた物語の中の夢か。
 乃絵は微笑んで、
 「今日はお客さんもあまり見えなくて、早じまいしようかと思ってたところなんです。こんな天気ですから」
 「そうですか」
 「それに十五分も経ってないですよ」
 そう言われてスマートフォンを見てみると、確かに七時十分を少し過ぎたところだ。外へ出かけて、帰ってくるまで。
 別に何もおかしなことなんてなかった。たまたまトトが抜け出した先に、小道具の倉庫があったというだけ。竜巻も空から降る羽も偶然だ。
 いや。
 逆なのかもしれない。そんなありふれた出来事でも、少し見方を変えるだけで唯一無二の物語になる。たまたま映画館のスクリーンの下で発見された一匹の犬が、この世に一匹しかいない特別な犬であるように。
 おとぎの国はすぐ隣にあるのだ。
 一真はライオンのことを考える。勇気が欲しいと言いながら、もうそれを持っていた彼。
 「尚本さん、映画の主人公になってみたかったって言ってましたよね」
 一真の言葉に、彼女は足を止めた。
 道の向こうに〈風町シネマ〉の看板が、やわらかな照明に浮かんでいる。
 「もしよかったら……尚本さんとトトの話を書いてもいいでしょうか。映画の、シナリオとして」
 乃絵の瞳が驚いたように大きくなる。
 「森崎さん、脚本を書かれるんですか?」
 「はい。まだ、これからですけど……」
 そうだ。これからだ。
 乃絵さんはトトを抱え直しながら、
 「読みたい。読みたいし、見てみたいです。森崎さんの書いたシナリオが、映画になるところ」
 そう言って笑った。
 ほっとして力が抜けてしまう。だがすぐに、どんなシーンから始めよう、どんな台詞を書こう、と考え始めていた。まずはタイトルを決めないと。
 そう思って、タイトルはもうあったのだと思い出した。かつて映画館だった喫茶室と、そこに集う客人たちの話。
 『トトとドロシーの喫茶室』。
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