上 下
64 / 104
動き出す事態

振り返らず

しおりを挟む
「ねぇ……ミレーユ。君はとても哀れだね。僕に捨てられて、次に選んだ男もまた君を裏切るんだから」

愉快そうな声音で笑う。だが、その目は恐ろしく闇深く、覗き込めばたちまち深淵に突き落とされるような錯覚を覚える。

笑っているのに、笑っていない。

その不気味さが、ミレーユには怖かった。「お前に捨てられた覚えはない」と言ってやりたかったが、正気を失っているとしか思えないアランにそれを言うのは、さすがのミレーユでも憚られた。

ミレーユは、ちらりと護衛につけられた者達を伺う。彼らも機を伺っているはずだ。アランを捕らえるその機会を。

彼の目的は何なのかは知らないが、早くどうにかしなくては。焦るミレーユに対して、アランは歌うように言葉を重ねる。

「可哀想だね、ミレーユ。本当に可哀想だ」

自分の言葉に酔っているのか。それとも、そう思い込みたいだけなのか。

「分かってるよ。僕も悪かったんだ。一時の感情に流されて君を裏切ってしまったんだから。それは認めるよ、認めるさ」

歌うように言葉を吐いていたかと思うと、ぶつぶつと呪いのように呟き始める。異常だった。皮を取り繕うことに長けていた彼が、こんな風になるとは。

もうすぐ手に入るはずだった権力と財産を寸前で掠め取られた。アランが呟く言葉を聞いていると、彼はそのように考えていることが伺える。

しかし元々、その権力も財力もアランのものではない。勘違いも甚だしい。そう思うと同時に、ミレーユは畏怖する。

(……公爵家の権力と財力は……人を狂わせるほどのものなんだわ)

今までずっと、温室で育つ花のように、蝶のように生きてきた。身を包む暖かさは当然。周囲に醜いものは1つもない。そんな場所でしか生きてこなかったから、狭さを知らない。世間の広さも知らない。

そこにあるものが当然だと、そう思い込んではいけない。ミレーユが当たり前のように享受してきた権力、そして財力は他人からみたら血で血を洗ってでも手にしたいものなのだ。

それを改めて思い知り、ミレーユは小さく拳を握った。

ふと、視界の隅に未だ湯気のたつ茶の入ったティーカップが目に入った。

(これをアランの顔面に掛ければ、一瞬の隙はつける)

刃物と自らの腹の距離はそう遠くはない。護衛の者が隙をつけないのだから、油断出来ない距離なのだろう。

だが、このまま何もせずにいても、おそらく結末は同じだ。

アランはきっと、ミレーユを刺すだろう。戯言だけを告げるためにここに来たわけがない。アランには自らの人生をやり直す気はない。

真の目的は知らないが、それだけは目に見えて明らかだった。



しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

婚約破棄ですね。これでざまぁが出来るのね

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:213pt お気に入り:4,131

貴方でなくても良いのです。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:646pt お気に入り:1,483

氷の軍師は妻をこよなく愛する事が出来るか

恋愛 / 完結 24h.ポイント:475pt お気に入り:3,678

私の恋心が消えていたら

恋愛 / 完結 24h.ポイント:333pt お気に入り:901

女神の加護はそんなにも大事ですか?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:724pt お気に入り:5,440

転生したら召喚獣になったらしい

BL / 連載中 24h.ポイント:99pt お気に入り:2,178

処理中です...