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第一章 火炙りと賭け金
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あのラベルの裏のメモは、至極いい加減だった。
住所は、おおざっぱに過ぎたし、〈パラドクサ〉という名称はネット上のどこにも記載されてなかった。それでも銅音は執念で西区梅崎町(町名も抜けていた!)の卒塔婆ビルならぬ宋鳥羽ビルを探し当てた。
文句を言おうにも次の日もその次に日にも星南は学園祭も近い学校に姿を見せなかった。いや、順序が逆だ。星南にモヤモヤした思いをぶつけたいのに、どこにも見つからなかったから銅音はメモの場所までのこのこ足を運んだのだった。
老朽化したコンクリートの雑居ビルの五階には茶室のごとく背の低い入口があり、その手前にはジャーマン・シェパードを引き連れたドレッドヘアの男が腕組みで立っていた。
おずおずと会釈すると、開口一番男はこう言い放った。
「ガキは帰ってクサでも食ってろ」
有無を言わさぬ拒絶の意思表示。
「ここって〈パラドクサ〉ですか?」
看板も目印もなかったから銅音は真っすぐに訊ねた。
「クレヨンしんちゃんの再放送でも見てろ」
黒服のドレッドは巌のように立ちふさがる。胸板も厚く、肩もこんもりと盛り上がり、拳には何度も潰れた拳ダコが見える。顔面の錯綜した無数の傷については銅音はあえて印象に留めないことにした。
「あのぉ」
おずおずとなけなしの抵抗を試みるが、
「ぐりとぐらでも読んどけ」
取り付くシマもない対応だった。
にこやかに迎えいれられても、どこか恐ろしいのだが、ここまですげなく追い払われるなら仕方がない。
もう帰ろう、と銅音が踵を返そうとした時、
「物乞いと天球儀」
ふいに声が届いた。声の主に犬が近づいて小さく吠えると、黒服はくぐり戸になっている入口を太い手で押し開けた。
「いらっしゃいませ」
「それって芙蓉坂女子の制服だろ」
横合いから現れた常連らしき男は物珍しそうに銅音をじろじろと眺め回す。
「……ここがどんなところか知ってる?」
気安く言う男に銅音はブルブルと首を振って、しどろもどろに何かを口にする。
「ええと、友達じゃないクラスメートにここを教わって、何も知らないんです。帰ったほうがいいですかね。帰ります。わたし別に――その」
「ここはさ、もぐりの酒場だぜ」
オックスフォードシャツにカーディガンといういで立ちの男は、いささか軽薄に言い放った。黒服ドレッドの眼が咎めるような光を帯びたが、男はまるで気にした様子はない。
「酒と賭博と売春。これのどれかに用があるのか? JKが身体売るならもっとマシなやり方があるだろう」
「へっ?」
日本中に違法に酒を飲ませる違法酒場があるのを知っていた。巧妙に隠されているうえに頻繁に移転するため、警察も摘発に苦労しているという。
「どれにも用はないです――」
「だったら悪いことは言わね。帰ったほうがいいよ」
帰れと頭ごなしに言われ続けるのは不本意だった。子ども扱いされるのが一番腹立たしい年ごろなのだ。
「酒姫とモスリン織」
銅音はそれを口にした。
ピクリとドレッドの男の眉が動いた。犬たち銅音の足元を嗅ぎまわる。どうやらこのID兼パスワードは常連のひとりひとりに特別に与えられており、それに紐づけされた特定の匂いがあるのだろう。犬たちが定められた匂いを感知しなければパスワードがあっても扉は開かないというわけか。
「そのパスは……」不惑の頃合いと見える常連はそこまで言って口ごもった。このパスを使用していた人物に思い当たるところがあるらしい。
「用はないですけど、人を探してて」
いや、さきほどの銅音の考察が正しければ――パスが各ひとつきりで、それが星南のものだとすれば、この店に星南はいないことになる。なぜなら、ためらいがちにだとはいえ、ドレッドが銅音を招き入れる仕草をしたからだった。あのボトルに残り香がまだ銅音のどこかに付着していたに違いない。犬たちは銅音を客と認めた。
「ようこそ――」
「陸のバミューダ海域、生まれ損ないどもの桃源郷、悪徳の堆き避難所〈パラドクサ〉へ」
と滑らかな口上で常連が門番の数少ないだろう接客業務をさらった。
「俺は奥村。君は?」
「鹿野銅音」
「ついて来いよ。探し物が見つかるかわからんが、何かには出会えるだろう」
こうして品行方正な女子高生が、またひとり都市の危険な暗部に引き寄せられる。悪所は至るところにあるにしろ、ここにはとびきりのきな臭さが漂っていた。
「ま、ちょっと高つく社会見学ってところだな」と奥村。
ドアをくぐる前に門番は銅音の瞳孔をペンライトで覗き込んだ。
入店の後も煩瑣な移動が待っていた。
まず、五階に〈パラドクサ〉はない。他フロアへは止まらない地下への直行エレベーターが、レストラン風の店内の厨房を突っ切った中に隠されており、肉や野菜が運ばれるようなカーゴに載せられて銅音は地下へ送り届けられる。守秘措置のためか演出なのかは見分けがたいが、銅音の日常にはない隠微な高揚がそこにはあった。ラブホテルの駐車場にあるようなビニールの暖簾をくぐり抜けると、そこはヨーロッパの映画にあるようなバーだった。
カウンターの向こうに二人のバーテン。そして三台のビリヤード台にダーツ。床はやや歪んだ市松模様に塗り分けられており降り注ぐ青白い照明の光と相まって眩暈を呼び覚ます。が、なにより驚きなのは、酒棚に所狭しと並ぶボトルの数だ。
ウィスキー。
テキーラ。
ワイン。
ブランデー。
ジン。
ウォッカ。
ラム。
そして、悪名高きアブサン。
その眺めは壮観でいて、ゾッとするほど退廃的でもあった。ユニークなラベルやボトルのデザインに眼を奪われがちだったが、当然、どれもが違法だった。これならいかなる違法薬物の類がここに出回っていても不思議じゃない、と銅音は思う。日本の女子高生にとってアルコールとヘロインは同列に害悪であり、唾棄すべきものだ。
「一杯おごってやるよ」奥村がさも当然のように未成年の銅音へそれ自体が違法な飲み物を勧めてくる。
――ここが違法酒場
「いいです。わたしお酒は飲みません」
客は大勢いた。誰もが悪びれることなくアルコールを口にしている。
「さすがに女子高生ははじめてだろうな」
「あなたは常連なんでしょ」
「ああ、入り浸ってる」
「捕まるんじゃないんですか?」
「そのうちな」ニタリと奥村は口元を歪ませた。「酒は飲まないとしても、何か飲めよ、ジュースだってあるぞ」
「お金はありますから。‥‥ええとグレープフルーツジュースを」
バーテンは無表情に頷いて、ウォッカの水割りとジュースを提供した。
「気をつけろ、ここで話しかけてくる女は大抵売春婦だ。もしかしたら男も」
「そんな‥‥」
銅音はじろじろと周囲をうかがうが、怪しげな人物はいない。というか、すべてが怪しげで、この上さらなる不審者を見つけ出す眼力はない。
「君の場合は、女衒に気をつけるんだな。油断してると売っぱらわれちまうぞ」
「女衒……聞いたことある。古い小説に出てた」
「簡単に説明してやる。ここはB1だが、さっき通ってきたように地上からは来られない。B2は賭博場になってる。洋式のカジノだけでなく花札や麻雀もできるぞ
ひどく喉が渇いている気がして銅音はジュースを一気に飲み干した。
「その下、地下三階は気の合ったもの同士が死なない程度のプレイを楽しむ場所になってる」
「どの程度?」銅音はげんなりしながら訊いた。
「タフで旺盛なやつならどこまででも、だ」
思ったよか、ヤバイ場所。さっさと出なきゃ――
「で、何を探してるんだって?」
銅音に負けないペースでウォッカを飲み干すと、奥村の眼の底が光った。
「友達です。‥‥わたしと同じ女子高生」
「さぁな。大人っぽい見てくれなら気に留めないかもな。一つだけ言えるのは、君のパスはその娘のものじゃないってことだ」
「知ってるんですか?」
「ああ、酒姫とモスリン織は、この店じゃ有名な高額賭博者だ。それも鯨と呼ばれるイカれた金持ちのひとりさ」
「へ、平気ですかね、わたしそんな人の代わりに来てて」
「もし、本物が来てバッティングしたらタダじゃ済まないだろうな」
「――え、じゃ」そそくさと立ち上がった銅音は、おかわりしたジュースをさらに素早く喉に流し込んで、エレベーターに向かおうとした。
そんなヤバい客のIDを無断使用してると知った途端に、むずむずとお尻が落ち着かなくなった。さっさと退散しなくては。が、腕を掴まれて上体が引き戻されて、行き過ぎた足だけがジタバタする。
「落ち着け。近頃じゃめっきり姿を現さないから大丈夫だ。それに理論上、君がいる限り、そいつはこの場に入れないことになる」
奥村は、もう一度スツールに銅音を乗っけると、パンと勢いよく背中を叩いた。
この男が胸襟を開いていると見せかけて銅音を利用しているかもしれない、とは思えなかった。女子高生の食い物にするロリコンとも見えない。しかし、善意のお節介とはなおさら信じられない。
もしかすっと中学生が好きで。わたしなんて年増すぎるのかも、と込み入った邪推を巡らせていると「この店のすべて――おれを含めて――を警戒するのは正解だよ」と奥村は歪んだ笑みで言ってのける。
「ねえ、どうしてパスは本人じゃなくても使えるの?」
「〈相乗り(オムニバス)〉がいるからな」
「他人の身体で来る客がいる。そっか――」
二〇三〇年代になって発展著しい遠隔神経接続の技術がもたらしたのは、迷信の闇深き時代における憑依に似た現象だった。身体のコントロール権を自分でない他者に明け渡し、その知覚情報を共有すること――それが〈相乗り〉だ。
これを使えば、学外の人間が学生の身体に乗っかって大学の講義を受講することもできるし、なんなら絶対に露見しない替え玉受験も可能だ。この店では法に触れないままアルコールの酩酊感覚を味わうため、また身体的ダメージを回避するために、相乗りによって他者に乗っかって入店する客がいるからこそ、あえて生体認証を使用せず、原始的な合言葉と匂いによって会員を特定している。
「つまり客はどんな身体でやってくるかわからないわけだね」
「そ、生体認証も同定できないからな。声紋も指紋も静脈認証も。入口で瞳孔を調べられたのは単独か相乗りかをチェックされたのさ。ただし単独だろうと相乗りだろうと弾かれるわけじゃない。相乗りは料金が上乗せされ、ギャンブル時の不正チェックも厳重になる。まぁVIP級の客だけだと思ってくれればいい。社会的地位の高い人間はな、他人の身体という安全圏から快楽にふけるのさ」
「あなたも?」
「俺は違うよ、こいつらはそうかもしれないが」とバーテンダーを顎で示す。「うまいカクテルを作る技術は日本じゃ珍重されてる。ひとつの店に出ずっぱりじゃ稼げない。こいつらの中身はどこかにいていつくもの違法酒場を同時に切り盛りしてんのさ」
雨知です、徳永です、とカウンターの二人のバーテンは銅音に挨拶した。偽名なのは当然として、変哲のない容貌にはロボットめいた冷たさがあった。慇懃な所作はこの身体に身に付いたものなのか、それとも中身の人間が持つ気品なのか。銅音は何もかも信じられなくなる思いだった。
「すごい」本物の〈相乗り〉を見たのははじめてだった。これもテクノロジーの発達に法の整備が追い付いていない一例だった。違法ではないが、行為の責任所在が問いにくいということで問題視されている。この技術を使えば、他人を身代わりにして犯罪に手を染めることもできるだろう。
――従業員の相乗りには厳しくないのか。
「客はほとんど単独だよ、〈ウェット〉だけどな。相乗りは結局のところ素性がわからないってんで警戒されるのさ。ろくでなしばかりの店だが本当にヤバイやつとの選り分けには気を使ってる」
「このID兼パスワードの所有者はVIP級の人ってことね」
「ああ。〈親密恐怖〉を」
奥村はカクテルを注文した。相乗りしたバーテンの腕を見せてくれるつもりなのだろうか。差し出されたのは、グラスの縁に塩が塗られているスノースタイルのカクテルで、ホワイトラムとグレナデンシロップにチェリーを添えるのだが、チェリーだけを銅音にくれた。
〈まぬけ〉
〈切腹〉
〈スレッジ・ハンマー〉
〈馬の首〉
〈膣外射精〉
奥村は次々にカクテルを出させた。
カラフルな宝石のような液体が、これまた美しいグラスに注がれて、カウンターに次々と登場する。こんなに美しいものが悪いモノだなんて世の中は皮肉だ、と銅音は思う。
「な、綺麗だろ?」銅音の心を見透かしたように奥村が言った。
「‥‥確かに、でもやっぱりお酒はダメです。あなたを軽蔑する。この店も」
奥村は非難を無視して、
「カクテルってのはアルコール飲料をカモフラージュするための意図のもと考案された。ウィスキーやバーボンではなく、ジュースを飲んでいるように見せかけたわけだ。禁酒法がバカみたいにいつまでも終わらないおかげで、カクテルはいまでもどんどん増え続ける」
「〈秘色のエンドロール〉って知ってますか?」
それを耳にした途端、奥村は、口に含んだ〈膣外射精〉を吹き出しそうになる。白濁した液体が口の端に雫をつくる。
「――そいつは存在しないものの象徴だよ、青い薔薇とかユニコーンとかと同じさ。日本で飲める酒は〈秘色のエンドロール〉だけ」
「それって?」
「反語的表現さ。つまりこの国では酒は飲めないってことのもってまわった言い回しだ。〈エンドロール〉は存在するが――よし、作ってくれよ」
バーテンは手際よくシェーカーを振り、赤みを帯びた液体をグラスに注ぐ。非個性を絵に描いたようなバーテンだったが、煙るような灰色の眼の奥にチラチラと光が見えた。
「ザクロシロップにラムあとはそうだなレモンジュースで味を調える、ま、どうってことないカクテルだ」
言うが早いか、奥村はグイとそれを喉に放り込んだ。情緒のない飲み方だった。映画ではもっと優雅に口に含んでいた気がする。
「ネパールの共産ゲリラが決死の特攻の前夜に野生のザクロをもいで、ラムといっしょに飲んだのが発祥とされているが、どうかね」
眉唾だ、と言わんばかりに意地悪く唇を歪めた。すごいペースで酒を飲んでいるのに一向に酔う気配がない。顔に出ないタイプなのだろうか。大麻だって傍目からは効き目がほとんどわからない体質の人間はいる。
「その友達は君をからかったんじゃなければ‥‥たぶん、こう言いたかったのかも、不可能なことに自分は挑もうとしている。あるいは、絶対に手にすることのできない希望がある」
「不可能、希望?」
「さぁな、次に会ったら聞いてみろよ」
次? もう一度会えるのかな。
銅音は何か重大なことを見落としているような気になってきた。星南はあの日のやりとりで銅音に伝えたいメッセージがあったのではないか。
スツールを蹴り出すように勢いよく立ち上がると、「さて、燃料を補給したし行くか」と奥村は言った。
「どこへ?」銅音は隠しようもないほど不安な面持ちだった。
「決まってんだろ。下へ、地獄めぐりは続くぜ。次は賭博だ」
あのラベルの裏のメモは、至極いい加減だった。
住所は、おおざっぱに過ぎたし、〈パラドクサ〉という名称はネット上のどこにも記載されてなかった。それでも銅音は執念で西区梅崎町(町名も抜けていた!)の卒塔婆ビルならぬ宋鳥羽ビルを探し当てた。
文句を言おうにも次の日もその次に日にも星南は学園祭も近い学校に姿を見せなかった。いや、順序が逆だ。星南にモヤモヤした思いをぶつけたいのに、どこにも見つからなかったから銅音はメモの場所までのこのこ足を運んだのだった。
老朽化したコンクリートの雑居ビルの五階には茶室のごとく背の低い入口があり、その手前にはジャーマン・シェパードを引き連れたドレッドヘアの男が腕組みで立っていた。
おずおずと会釈すると、開口一番男はこう言い放った。
「ガキは帰ってクサでも食ってろ」
有無を言わさぬ拒絶の意思表示。
「ここって〈パラドクサ〉ですか?」
看板も目印もなかったから銅音は真っすぐに訊ねた。
「クレヨンしんちゃんの再放送でも見てろ」
黒服のドレッドは巌のように立ちふさがる。胸板も厚く、肩もこんもりと盛り上がり、拳には何度も潰れた拳ダコが見える。顔面の錯綜した無数の傷については銅音はあえて印象に留めないことにした。
「あのぉ」
おずおずとなけなしの抵抗を試みるが、
「ぐりとぐらでも読んどけ」
取り付くシマもない対応だった。
にこやかに迎えいれられても、どこか恐ろしいのだが、ここまですげなく追い払われるなら仕方がない。
もう帰ろう、と銅音が踵を返そうとした時、
「物乞いと天球儀」
ふいに声が届いた。声の主に犬が近づいて小さく吠えると、黒服はくぐり戸になっている入口を太い手で押し開けた。
「いらっしゃいませ」
「それって芙蓉坂女子の制服だろ」
横合いから現れた常連らしき男は物珍しそうに銅音をじろじろと眺め回す。
「……ここがどんなところか知ってる?」
気安く言う男に銅音はブルブルと首を振って、しどろもどろに何かを口にする。
「ええと、友達じゃないクラスメートにここを教わって、何も知らないんです。帰ったほうがいいですかね。帰ります。わたし別に――その」
「ここはさ、もぐりの酒場だぜ」
オックスフォードシャツにカーディガンといういで立ちの男は、いささか軽薄に言い放った。黒服ドレッドの眼が咎めるような光を帯びたが、男はまるで気にした様子はない。
「酒と賭博と売春。これのどれかに用があるのか? JKが身体売るならもっとマシなやり方があるだろう」
「へっ?」
日本中に違法に酒を飲ませる違法酒場があるのを知っていた。巧妙に隠されているうえに頻繁に移転するため、警察も摘発に苦労しているという。
「どれにも用はないです――」
「だったら悪いことは言わね。帰ったほうがいいよ」
帰れと頭ごなしに言われ続けるのは不本意だった。子ども扱いされるのが一番腹立たしい年ごろなのだ。
「酒姫とモスリン織」
銅音はそれを口にした。
ピクリとドレッドの男の眉が動いた。犬たち銅音の足元を嗅ぎまわる。どうやらこのID兼パスワードは常連のひとりひとりに特別に与えられており、それに紐づけされた特定の匂いがあるのだろう。犬たちが定められた匂いを感知しなければパスワードがあっても扉は開かないというわけか。
「そのパスは……」不惑の頃合いと見える常連はそこまで言って口ごもった。このパスを使用していた人物に思い当たるところがあるらしい。
「用はないですけど、人を探してて」
いや、さきほどの銅音の考察が正しければ――パスが各ひとつきりで、それが星南のものだとすれば、この店に星南はいないことになる。なぜなら、ためらいがちにだとはいえ、ドレッドが銅音を招き入れる仕草をしたからだった。あのボトルに残り香がまだ銅音のどこかに付着していたに違いない。犬たちは銅音を客と認めた。
「ようこそ――」
「陸のバミューダ海域、生まれ損ないどもの桃源郷、悪徳の堆き避難所〈パラドクサ〉へ」
と滑らかな口上で常連が門番の数少ないだろう接客業務をさらった。
「俺は奥村。君は?」
「鹿野銅音」
「ついて来いよ。探し物が見つかるかわからんが、何かには出会えるだろう」
こうして品行方正な女子高生が、またひとり都市の危険な暗部に引き寄せられる。悪所は至るところにあるにしろ、ここにはとびきりのきな臭さが漂っていた。
「ま、ちょっと高つく社会見学ってところだな」と奥村。
ドアをくぐる前に門番は銅音の瞳孔をペンライトで覗き込んだ。
入店の後も煩瑣な移動が待っていた。
まず、五階に〈パラドクサ〉はない。他フロアへは止まらない地下への直行エレベーターが、レストラン風の店内の厨房を突っ切った中に隠されており、肉や野菜が運ばれるようなカーゴに載せられて銅音は地下へ送り届けられる。守秘措置のためか演出なのかは見分けがたいが、銅音の日常にはない隠微な高揚がそこにはあった。ラブホテルの駐車場にあるようなビニールの暖簾をくぐり抜けると、そこはヨーロッパの映画にあるようなバーだった。
カウンターの向こうに二人のバーテン。そして三台のビリヤード台にダーツ。床はやや歪んだ市松模様に塗り分けられており降り注ぐ青白い照明の光と相まって眩暈を呼び覚ます。が、なにより驚きなのは、酒棚に所狭しと並ぶボトルの数だ。
ウィスキー。
テキーラ。
ワイン。
ブランデー。
ジン。
ウォッカ。
ラム。
そして、悪名高きアブサン。
その眺めは壮観でいて、ゾッとするほど退廃的でもあった。ユニークなラベルやボトルのデザインに眼を奪われがちだったが、当然、どれもが違法だった。これならいかなる違法薬物の類がここに出回っていても不思議じゃない、と銅音は思う。日本の女子高生にとってアルコールとヘロインは同列に害悪であり、唾棄すべきものだ。
「一杯おごってやるよ」奥村がさも当然のように未成年の銅音へそれ自体が違法な飲み物を勧めてくる。
――ここが違法酒場
「いいです。わたしお酒は飲みません」
客は大勢いた。誰もが悪びれることなくアルコールを口にしている。
「さすがに女子高生ははじめてだろうな」
「あなたは常連なんでしょ」
「ああ、入り浸ってる」
「捕まるんじゃないんですか?」
「そのうちな」ニタリと奥村は口元を歪ませた。「酒は飲まないとしても、何か飲めよ、ジュースだってあるぞ」
「お金はありますから。‥‥ええとグレープフルーツジュースを」
バーテンは無表情に頷いて、ウォッカの水割りとジュースを提供した。
「気をつけろ、ここで話しかけてくる女は大抵売春婦だ。もしかしたら男も」
「そんな‥‥」
銅音はじろじろと周囲をうかがうが、怪しげな人物はいない。というか、すべてが怪しげで、この上さらなる不審者を見つけ出す眼力はない。
「君の場合は、女衒に気をつけるんだな。油断してると売っぱらわれちまうぞ」
「女衒……聞いたことある。古い小説に出てた」
「簡単に説明してやる。ここはB1だが、さっき通ってきたように地上からは来られない。B2は賭博場になってる。洋式のカジノだけでなく花札や麻雀もできるぞ
ひどく喉が渇いている気がして銅音はジュースを一気に飲み干した。
「その下、地下三階は気の合ったもの同士が死なない程度のプレイを楽しむ場所になってる」
「どの程度?」銅音はげんなりしながら訊いた。
「タフで旺盛なやつならどこまででも、だ」
思ったよか、ヤバイ場所。さっさと出なきゃ――
「で、何を探してるんだって?」
銅音に負けないペースでウォッカを飲み干すと、奥村の眼の底が光った。
「友達です。‥‥わたしと同じ女子高生」
「さぁな。大人っぽい見てくれなら気に留めないかもな。一つだけ言えるのは、君のパスはその娘のものじゃないってことだ」
「知ってるんですか?」
「ああ、酒姫とモスリン織は、この店じゃ有名な高額賭博者だ。それも鯨と呼ばれるイカれた金持ちのひとりさ」
「へ、平気ですかね、わたしそんな人の代わりに来てて」
「もし、本物が来てバッティングしたらタダじゃ済まないだろうな」
「――え、じゃ」そそくさと立ち上がった銅音は、おかわりしたジュースをさらに素早く喉に流し込んで、エレベーターに向かおうとした。
そんなヤバい客のIDを無断使用してると知った途端に、むずむずとお尻が落ち着かなくなった。さっさと退散しなくては。が、腕を掴まれて上体が引き戻されて、行き過ぎた足だけがジタバタする。
「落ち着け。近頃じゃめっきり姿を現さないから大丈夫だ。それに理論上、君がいる限り、そいつはこの場に入れないことになる」
奥村は、もう一度スツールに銅音を乗っけると、パンと勢いよく背中を叩いた。
この男が胸襟を開いていると見せかけて銅音を利用しているかもしれない、とは思えなかった。女子高生の食い物にするロリコンとも見えない。しかし、善意のお節介とはなおさら信じられない。
もしかすっと中学生が好きで。わたしなんて年増すぎるのかも、と込み入った邪推を巡らせていると「この店のすべて――おれを含めて――を警戒するのは正解だよ」と奥村は歪んだ笑みで言ってのける。
「ねえ、どうしてパスは本人じゃなくても使えるの?」
「〈相乗り(オムニバス)〉がいるからな」
「他人の身体で来る客がいる。そっか――」
二〇三〇年代になって発展著しい遠隔神経接続の技術がもたらしたのは、迷信の闇深き時代における憑依に似た現象だった。身体のコントロール権を自分でない他者に明け渡し、その知覚情報を共有すること――それが〈相乗り〉だ。
これを使えば、学外の人間が学生の身体に乗っかって大学の講義を受講することもできるし、なんなら絶対に露見しない替え玉受験も可能だ。この店では法に触れないままアルコールの酩酊感覚を味わうため、また身体的ダメージを回避するために、相乗りによって他者に乗っかって入店する客がいるからこそ、あえて生体認証を使用せず、原始的な合言葉と匂いによって会員を特定している。
「つまり客はどんな身体でやってくるかわからないわけだね」
「そ、生体認証も同定できないからな。声紋も指紋も静脈認証も。入口で瞳孔を調べられたのは単独か相乗りかをチェックされたのさ。ただし単独だろうと相乗りだろうと弾かれるわけじゃない。相乗りは料金が上乗せされ、ギャンブル時の不正チェックも厳重になる。まぁVIP級の客だけだと思ってくれればいい。社会的地位の高い人間はな、他人の身体という安全圏から快楽にふけるのさ」
「あなたも?」
「俺は違うよ、こいつらはそうかもしれないが」とバーテンダーを顎で示す。「うまいカクテルを作る技術は日本じゃ珍重されてる。ひとつの店に出ずっぱりじゃ稼げない。こいつらの中身はどこかにいていつくもの違法酒場を同時に切り盛りしてんのさ」
雨知です、徳永です、とカウンターの二人のバーテンは銅音に挨拶した。偽名なのは当然として、変哲のない容貌にはロボットめいた冷たさがあった。慇懃な所作はこの身体に身に付いたものなのか、それとも中身の人間が持つ気品なのか。銅音は何もかも信じられなくなる思いだった。
「すごい」本物の〈相乗り〉を見たのははじめてだった。これもテクノロジーの発達に法の整備が追い付いていない一例だった。違法ではないが、行為の責任所在が問いにくいということで問題視されている。この技術を使えば、他人を身代わりにして犯罪に手を染めることもできるだろう。
――従業員の相乗りには厳しくないのか。
「客はほとんど単独だよ、〈ウェット〉だけどな。相乗りは結局のところ素性がわからないってんで警戒されるのさ。ろくでなしばかりの店だが本当にヤバイやつとの選り分けには気を使ってる」
「このID兼パスワードの所有者はVIP級の人ってことね」
「ああ。〈親密恐怖〉を」
奥村はカクテルを注文した。相乗りしたバーテンの腕を見せてくれるつもりなのだろうか。差し出されたのは、グラスの縁に塩が塗られているスノースタイルのカクテルで、ホワイトラムとグレナデンシロップにチェリーを添えるのだが、チェリーだけを銅音にくれた。
〈まぬけ〉
〈切腹〉
〈スレッジ・ハンマー〉
〈馬の首〉
〈膣外射精〉
奥村は次々にカクテルを出させた。
カラフルな宝石のような液体が、これまた美しいグラスに注がれて、カウンターに次々と登場する。こんなに美しいものが悪いモノだなんて世の中は皮肉だ、と銅音は思う。
「な、綺麗だろ?」銅音の心を見透かしたように奥村が言った。
「‥‥確かに、でもやっぱりお酒はダメです。あなたを軽蔑する。この店も」
奥村は非難を無視して、
「カクテルってのはアルコール飲料をカモフラージュするための意図のもと考案された。ウィスキーやバーボンではなく、ジュースを飲んでいるように見せかけたわけだ。禁酒法がバカみたいにいつまでも終わらないおかげで、カクテルはいまでもどんどん増え続ける」
「〈秘色のエンドロール〉って知ってますか?」
それを耳にした途端、奥村は、口に含んだ〈膣外射精〉を吹き出しそうになる。白濁した液体が口の端に雫をつくる。
「――そいつは存在しないものの象徴だよ、青い薔薇とかユニコーンとかと同じさ。日本で飲める酒は〈秘色のエンドロール〉だけ」
「それって?」
「反語的表現さ。つまりこの国では酒は飲めないってことのもってまわった言い回しだ。〈エンドロール〉は存在するが――よし、作ってくれよ」
バーテンは手際よくシェーカーを振り、赤みを帯びた液体をグラスに注ぐ。非個性を絵に描いたようなバーテンだったが、煙るような灰色の眼の奥にチラチラと光が見えた。
「ザクロシロップにラムあとはそうだなレモンジュースで味を調える、ま、どうってことないカクテルだ」
言うが早いか、奥村はグイとそれを喉に放り込んだ。情緒のない飲み方だった。映画ではもっと優雅に口に含んでいた気がする。
「ネパールの共産ゲリラが決死の特攻の前夜に野生のザクロをもいで、ラムといっしょに飲んだのが発祥とされているが、どうかね」
眉唾だ、と言わんばかりに意地悪く唇を歪めた。すごいペースで酒を飲んでいるのに一向に酔う気配がない。顔に出ないタイプなのだろうか。大麻だって傍目からは効き目がほとんどわからない体質の人間はいる。
「その友達は君をからかったんじゃなければ‥‥たぶん、こう言いたかったのかも、不可能なことに自分は挑もうとしている。あるいは、絶対に手にすることのできない希望がある」
「不可能、希望?」
「さぁな、次に会ったら聞いてみろよ」
次? もう一度会えるのかな。
銅音は何か重大なことを見落としているような気になってきた。星南はあの日のやりとりで銅音に伝えたいメッセージがあったのではないか。
スツールを蹴り出すように勢いよく立ち上がると、「さて、燃料を補給したし行くか」と奥村は言った。
「どこへ?」銅音は隠しようもないほど不安な面持ちだった。
「決まってんだろ。下へ、地獄めぐりは続くぜ。次は賭博だ」
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