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第一章 火炙りと賭け金
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帰宅した銅音は、服と髪にこびりついた煙の臭いを落とすために熱いシャワーを浴び、制服を洗濯機に叩き込むと、お気に入りの音楽配信チャンネルをヘッドフォンで聴いた。
眼を閉じ、外界を遮断してベッドに丸まっても、あの点滅する赤いジョイントの先端がまぶたの裏に浮かんでくる。動悸が激しさを増すのが感じられる。
――ピザをカットするみたいに分け合おう、そっちとこっちと。
あの時、星南は、どこか嘲るようにそう言ったのではなかったか。あれは挑発だった。銅音はモヤモヤする。臆病者は退屈な持ち場を離れるな、と言われているような気がしたからだ。
「ああ、なんでわたしが!」
跳ね起きた銅音は、ネットでアルコールに関するトピックについて検索する。国内のサイトはアルコールへの忌避感からある種のバイアスがかかっていると思われた。そこで海外のサイトへ飛ぶ。AI翻訳の精度は高いが、そもそも外国語の読解力に乏しい銅音だったから、難しい記事や文章をすっ飛ばしてスクロールし続ける。有益な情報は得られなかった。そもそも何を求めているのかもわからない。それでも何かを知らなければいけないという切迫感に突き動かされた。
ドライ
ウェット
ヴェイン
眼についたのは、三つのワードだった。
アルコール解禁論者を〈ウェット〉
反対者を〈ドライ〉とそれぞれ呼称するらしい。
〈ヴェイン〉とは、メキシコの麻薬カルテルがアメリカ国境の地下に不法に埋設した無数の配水管のことだ。彼らはそれを通じて、アメリカに大量の酒類を密輸している。
〈神聖なる輸血〉
これを揶揄してこう呼ぶ者も要る。キリストの血が赤ワインと見做されるようにアルコールは神聖なる液体なのだと強弁する者たちへの当てつけだった。
いまでこそ解禁の動きが起きているアルコールだが、やはり保守的な反対層も多いという。敬虔なクリスチャンの所見。パンクロックのサブカテゴリ―であるS×Eらの動向。先鋭的なベジタリアンの信念。オンラインでは無数の声がかまびすしく反響しているが、銅音はそのどれもがピンとこなかった。ヴィーガンが精肉店を襲う時代だ。クリーンであろうとすることが暴力性を帯びていく。正解はなく、無数の惑わせるヒントだけが飛び交う。
何時間もスクリーンを凝視し続けた銅音は、疲れ果ててデスクに突っ伏した。百年以上、決着のつかない問題に日本の女子高生が何をしようと言うのだろうか。
――意識の高いいけすかない女になるつもり?
アメリカがいくつかのタイミングで禁酒法を撤廃でなく徹底したことに賛否は分かれていた。大恐慌を過ぎ、ルーズヴェルト大統領の時代にもその転機はあったが、良識ある国民たちはことごとくチャンスを手放した。
が、強烈な弾圧と根強い嫌悪によってもアルコールは社会から抹消されることはなかった。隠されはしても。
バカバカしくなって銅音はキャスター式の椅子に背を伸ばすようにもたれかかり、天井を見上げた。お酒がそもそも日本にとって欠かせない伝統文化であっても、それがどうしたというのだろう。祭りや神事から、それが奪われたとしても、酒造や杜氏という職業が消えたとしても日本は沈没したりしない。
ソーマ、アムリタ、ネクタル。
神々の飲み物だった酒は、アメリカを経由し日本においては人をハードドラッグへ拉致するゲートウェイと見做された。
海に囲まれたこの国ではすべてが変質する。
美酒を謳い上げる詩人たち、つまり李白は精神病質者に、ウマル・ハイヤームは音割れのひどい拡声器となり果てた。
(まだアルコールのデメリットが証明されていない時代の人たちだもの、悪気はないわ)
生真面目な銅音は〈秘色のエンドロール〉についても調べることを怠らなかった。しかし判明したことは多くはない。
【エンドロール】
1 映画の終わりに表示される製作者・監督・小道具係などの名前を列挙した一覧。
2 カクテルの一種。ラムベースの爽やかな飲み味のカクテル。ライムジュースに ザクロのグレナデンシロップをシェイクして作る。
【秘色(ひそく)】
青磁の色のような淡い緑色のこと。中国の越州窯で晩唐から五代にかけてつくられた良質の青磁は民間の使用を禁じられたため、その色を秘色と呼ぶこととなった。
どちらの言葉にも難解な意味はない。ただし二つを合わせた〈秘色のエンドロール〉というワードはいかなる検索結果からも出てこない。エンドロールがカクテルのことだとしても、それはザクロシロップの赤みを帯びた色であって青磁のようなブルーではない。
ハイになった脳から漏れ出たナンセンスなでまかせと見て間違いないだろうと銅音は決め込んだ。星南はハッタリとデマカセで銅音をからかって楽しんでいたに違いない。彼女の言葉に価値ある真意など見当たらない。
「さすがに疲れちゃったな、明日も学校だってのに何やってんだろ」
眼の周辺をマッサージしてから、時計を見るとすでに午前三時を回っていた。手早く歯を磨いて、ベッドに入ろうとすると、また星南とのやり取りがよみがえってきた。
――飲酒そのものは禁じられてない。だから、誰かの手から滑り落ちたウィスキーのボトルが偶然にバッグに入ってしまったとして、それを飲んでいけないわけがある?
ハッとした銅音はトートバッグの中を探ってみる。触り慣れない冷たい感触を発見すると思い切ってそれを取り出す。
「――あった。あいつ」
銅音の手には、ウィスキーの小瓶が握られていた。
ガラスに密閉された琥珀色の液体が、蛍光灯の下でゆらゆら揺れていた。
(教室でバッグを落としたあの時だ)
男子生徒とぶつかって、銅音のバッグの中身は散らばった。拾い集めるのを手伝ってくれたのが星南だった。あの時なら、このウィスキーを銅音のバッグに紛れ込ませるのは難しくない。
――飲酒は違法ではない。こうして本人の意思と無関係に手に入れてしまった場合においては。
何かざわざわした悪寒とも興奮とも知れないものが、銅音の全身を吹き抜けるようだった。ボトルの蓋を開けて、ガラスの口に鼻を近づけてみる。ムッとする匂いに思わず顔をそむける銅音。
ウィスキーやバーボンは、明治や大正の小説には日常的に描写されていて、文学少女の銅音は無頼な主人公がそれを呷るシーンをいくつか覚えていた。
――芥川の『歯車』にも出てくる、あのウイスキイがこれなんだ
中身をトイレに流してしまえば、誰にも咎められることはない。ボトル自体はインテリアのアイテムとして雑貨屋にも並んでいるから、所持していても問題はないだろう。
午前三時台、時計の長針と短針が重なった時だった。
ためらいを振り切って銅音は勢いよくボトルに口をつけ、中身を一気に喉に注ぎ込んだ。
「ぶはぁっ!!」
虎のフェイクファーの敷物が吐き出された口中の液体でしとどに濡れた。
喉を焼くという刺激も、鼻から抜けるスモーキーな香りも、銅音があらかじめ予想していた薄っぺらい予備知識のいかなる一片もなかった。その味は銅音が知っている飲料の何が一番近いかと言えば――。
「っていうかこれウーロン茶じゃん!」
ボトルから嗅いだ香りは確かに蒸留酒と思われる何かだった。中身を入れ替えたのだろう。まだアルコールの香りが飛んでいないということは、ボトルの内容物をウーロン茶に移し替えたのはそれほど昔ではあるまい。
くだらないイタズラを。意を決した自分がバカみたい。ううん、バカなんだ。しかし、どこかに安心感もあった。
いくら法的に問題ないとはいえ、指定薬物とされているものを摂取せずに済んだからだ。
ここで琥珀色の液体に触れていたら、人生がへにゃりと折れ曲がっていたかもしれない。
――にしても、あの女。明日学校で会ったら、絶対にぶっ飛ばす。
タオルで敷物を拭きながら、ごうごうと闘志を燃やしていると、ふと空っぽになったボトルが眼に入った。中身の液体が入っている時はわからなかったが、ラベルの裏側に何か文字が書いてある。銅音は拾い上げたそれをよく顔に近づけて調べてみた。
『西区卒塔婆ビル五階。〈パラドクサ〉』
爪の先で慎重にボトルからラベルを剥がしてみると、さらにはっきりと書かれた内容を読み取ることができた。
『――〈パラドクサ〉 ID・酒姫とモスリン織』
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