幾千本の花束を

冠つらら

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⑦エゴ

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 ランニングは、基地の中をぐるぐると巡り続ける。
 見慣れた景色を太陽が照らしつけ、眩しすぎるほどの光が瞳を襲う。

「それでラランが食べたデザートにチョコレートが入っててさ……」

 隣を走るヤンジーは、ラランと何度かデートを重ね、その報告をしっかりとしてくる。
 僕がラモーナへの感情を露わにしてから一週間が経った。そろそろイズマルへラジタリア軍も合流しなければいけない。

 ラモーナとの関係も大きく変わりはない。目を逸らし続けてきたラモーナへの気持ちにようやく向き合えたが、同時にラモーナが僕のような人間を好きだと言ってくれたこと自体、正直まだ信じ難いことだ。

「なぁ聞いてるのかよ、ロシュ」

 不満そうに口を尖らせるヤンジーを流し目で見て、小さく頷く。

「聞いてるよ。それで、ラランはチョコレート嫌いだったんだろ?」
「そうなんだよ。まったく、まさかチョコレートが入ってるとは思わなくてさ……結局俺のと交換したんだ」

 僕が話を聞いていたことを確認できたヤンジーは、すぐに照れくさそうに笑ってくる。
 ラランと良い関係を築けているのならよかったじゃないか。
 そう思った僕の視界に、ふと白い人影が飛び込んでくる。

「ん?」

 その人影に気を取られている僕に気づいたヤンジーは小さく首を傾げた。

「なんでもない。あと一周だな」
「ああ。そしたら休憩しような」

 気を取り直して、走るスピードを上げる。
 走るのは心地いい。風を切って体力が徐々に消耗されていく様がまじまじと実感できる。
 自分はどこまで走れるのか。そんな限界を知るのにもちょうどいい。

 先ほど見たラモーナの姿が頭の中から離れない。
 一緒にいたのはイズマルへ同行する先輩の軍医だ。ラモーナは真剣な表情で彼の話を聞いていた。
 スピードを上げたせいなのか、息が上がって僅かに呼吸が荒くなる。

 僕はまだ限界を知らない。
 ラモーナのことが心配だ。戦場は思い通りになんて事は進まない。
 そんな戦場に今度はラモーナもいると思うと、正直気が気でない。
 僕の意志は変わらない。厳しくなる戦況の中で、自分の誓いを裏切ることなど出来るはずがない。

 ああ、それなのに……。
 会えなくなることを恐れた存在をこの腕で抱きしめた時、僕の中で知らない感情が蠢いた。
 それが自分に一体何をもたらすものなのか。
 愛することを知ってしまった僕には、知る由もなかった。




 訓練を終え、シャワーを浴びた後は温い身体のまま最上階にあるカフェテリアから暗くなっていく基地の中を眺める。
 今の時間、この場所はがらんとしていて誰もいないから、空の移ろいを見るには特等席だ。
 バルコニーに出て、柵に寄りかかって眠りにつく空を見上げる。
 何を考えるでもなく、この無の時間を僕は求めた。

「ロシュ」

 少ししてから声が聞こえて振り返る。
 休憩時間だろうか。ラモーナが白衣のままニコッと笑って僕の隣までやってきた。

「ラモーナ、カフェテリアはもう閉まってるぞ」
「知ってる。ロシュを探していたからいいの」

 そんなことを言ってはにかむラモーナの髪を、ささやかな風が揺らす。

「ふふ、ロシュはやっぱりあったかいね」

 控えめに僕の腕に寄りかかり、こちらを見ることもなくそう呟いた。
 右腕に感じるラモーナの僅かな重みに、僕はその手を肩に回して抱き寄せる。
 この方が温かいだろう。

「ふふふふ」

 そうするとラモーナはこそばゆい声で笑う。その声は調子が狂うんだ。

「今日、マヌチャス先生にゴーサインを貰えたの」

 マヌチャスとはランニングの時にラモーナと一緒にいた医師のことだ。彼は慎重派だから、上官が推薦したラモーナが戦地へ同行することになかなか同意しようとはしなかったと聞く。

「これでようやく準備が整った」
「……そうか」

 あまり嬉しくない報告だ。
 それでもラモーナの想いは尊重したい。だから僕はラモーナに微笑みを繕う。

「ねぇロシュ。私、ロシュたちのそばで力になれることは嬉しい。だけど、ちょっと怖いんだ」
「……戦場は誰でも怖いものだ」
「ううん。そうじゃなくて……」

 ラモーナはちらりと僕を上目遣いで見る。グレーの瞳が僕を捉えると、血の巡りが熱を帯びた。

「これまでもロシュの手当てをするのはすごくつらかった。痛そうで、それなのに、ロシュは全然痛そうにしないし、いくら怪我しても平気な顔をする。だから皆が帰ってきた時に、負傷者の中にロシュがいる度に苦しかった」

 ラモーナの声は張りつめた糸のように震える。
 そんな思いをさせていたとは知らなかった。
 僕はラモーナの秘めたる悲痛に罪悪感を覚えて目を伏せた。彼女を苦しませていたのは紛れもなく僕だ。
 自然と抱き寄せた肩にぐっと力が入り、ラモーナは僕のその手に赦しを与えるかのように優しく撫でる。

「戦地では、そんなロシュたちはすぐそばにいる。きっと傷つくところを目の前で見ることになる……そんなの、耐えられるのか分からない。医者のくせに、根性なしだよね……」

 恥じるように笑うラモーナの自嘲的な表情が見えた。
 そんなことはないと、僕はラモーナの頭にキスをする。

「ラモーナは立派だ。僕のような途方もない人間をいつもしっかり診てくれた。君は愚かな僕のこと、何度も助けてくれた。根性がない奴は、きっと僕のことなんて投げ出すよ」

 ラモーナが顔を上げる。頬が少し赤くなっていて、体温が上がってきたことが分かる。
 僕を見る瞳が切なくて、今にも崩れてしまいそうなほど儚く見えた。

「君はお祖父さんの誇りだ。胸を張っていい」
「……うん。ありがとう」

 互いに吸い込まれるように唇を重ねると、僕の中にまた幸福感と地を這うような蠢く感情が姿を現す。
 その感情が僕の胸を引っ掻き回すようで、ラモーナから顔を離した僕は一度彼女の頬にキスをした後で、表情が見られないように抱きしめた。

「ロシュ。前に待っている人はいないって言っていたよね?」
「ああ。そうだ」
「……私は、いつもあなたのことを待っているよ……?」
「……ああ」

 腕の中に包み込んだ彼女からまた柔い声が聞こえてくるから、僕は彼女の肩に顔をうずめた。
 どうか赦して欲しい。僕の脆い覚悟を。

「どうしても、ロシュは皆のことを守るのね……?」
「……何もない僕のことを快く受け入れてくれた人たちだ。僕は彼らに救われた。彼らを守る意義があるからこそ、僕は今ここにいられる。その恩義は、決して忘れない」
「もう、本当に、頑固なんだから……」

 僕の頭を優しく撫で、ラモーナはくすっと笑う。

「でもラモーナ」

 ラモーナから身体を離し、僕のことを包み込んでくれるその瞳に語り掛ける。
 胸をギリギリと言わせるような蠢く感情が少しだけ和らいだ。

「戦場では君の望みにきっと背いてしまう。それを許して欲しい。この意地は僕そのものなんだ。だけどこの意地以外は、君の想いを僕の願いにさせて欲しい。こんな我儘をすべて受け入れろとは言わない。だが、君には知っておいて欲しい」
「……うん」
「君の願いは僕にも大切なものだ。失くしてしまわないように、君の願いは必ず守り抜く」
「ロシュ……。うん、分かってる……。ありがとう。いいの、ロシュのそんな頑固なところも大好きだから。だから、あなたのことを好きになったの。ふふ、私の気持ちを見くびらないでよね」

 ラモーナの明るい声がグラグラと揺れる心にそっと寄り添い、支えてくれるようだった。
 目覚めかけている命への執着。
 築き上げた意志の揺らぎを、引き金となった彼女がまた傷を治癒するように治めてくれる。

 不思議なものだ。
 知らず知らずの間に蠢いて心を乱していく一番恐れていた感情。それを鎮めてくれるのも彼女なのだな。
 それが怖くて彼女から目を逸らしていたというのに。
 ラモーナの柔らかい髪に指を通して、愛らしく照れる彼女の表情の変化を観察する。

 “愛している”

 その言葉が言えなかったのは、きっと僕が臆病者だからだ。
 いつまでも続かないこの時を願うように、僕は彼女の指に想いを印した。

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