いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第六章 再会

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「ジェルメーヌ。いくら男装しているからって、ひとりで出歩いては駄目よ」
 ここしばらくは公子として過ごしていただろうに、ジェルメーヌの顔を見て緊張が緩んだのか、ステファーヌはすっかり女言葉になっていた。
「コランタンと一緒に出掛けていたのだけど、ちょっとひとりで教会の外に出た途端に狙われたの。まさかこの町に誘拐犯がいるなんて思わなかったんだもの」
 本音を言えば、トロッケン男爵らが自分に接触してくる機会を待ちわびていたため、コランタンから離れてひとりになった方が、相手が声を掛けやすいのではないかとも考えてしまっていたのだ。
 まさか現地の人攫いに狙われるとは、ジェルメーヌは微塵も予想していなかった。
「ただの誘拐犯であれば良いが……」
 腕組みをしたクロイゼルが唸る。
「ロレーヌ公子と知っての犯行であれば、他国が絡んでいるはずだ」
「いまのところ、あなたたち以外にロレーヌ公国内の反乱分子はいないってこと?」
「私が知る限りは、わざわざここまで公子一行を追い掛けてくるような酔狂はいない」
「ジェルメーヌ。世の中には男爵とは比にならないくらい悪い人がいっぱいいるのよ」
 強い口調でステファーヌが叱る。
「ちゃんとした護衛を連れて行くべきだわ」
「今度からそうするわ」
 軽く肩を竦めると、ジェルメーヌは椅子から立ち上がり、手に持っていたパンをステファーヌの目の前に突き出した。
「ところでわたし、誘拐されかけたところで考えたのだけど、このまま公子の身代わりを続けるのはちょっと難しくなってきているの。いろいろと生活する上でも不便だし、女であることが誰かに知られてしまうと、ロレーヌ公国のフランソワ公子は実は女だっていう誤解が世界中に広がってしまうわ。もちろん、プラハに到着したらフランソワと入れ替わることになっているのだけれど、それまでわたしの正体がばれないとも限らないわ」
「……わたしよりも充分凛々しく見えるわよ」
 ジェルメーヌの姿を上から下まで見回し、ステファーヌはため息を吐いた。
「いくら美少年に見えても、脱いだらばれるじゃないの!」
「公女殿は自分で美少年だという自覚があるのか……凄いな」
 真顔でクロイゼルが感心する。
「ずっと女装して生活してきたステファーヌの苦労がいまになってよくわかったわ。でも、ステファーヌはこれまで城の中に籠もって暮らしていたから、男であることがばれても国の恥に発展することはなかったけれど、わたしの男装が明るみに出たら国際問題なのよ」
 可能性としては低いが、今回の誘拐も、ロレーヌ公国公子が女であるかもしれないという疑惑が浮上し、どこかの国の間諜がジェルメーヌの正体を探るために攫ったとも考えられる。オーストリア大公女の婿候補のひとりであるロレーヌ公国公子を帝国内で失脚させるためにも、公子の弱点を是が非でも探し出したいという国はあるはずだ。
「ステファーヌ。あなたはちゃんと食事をして、体調を整えなさいな。それで、プラハでわたしと入れ替わってロレーヌ公国公子になりなさい。フランソワのことは気にすることはないわ。あの子は重責を担うことを嫌う性格だから、あなたが公子として自分の代わりに跡継ぎとなってくれたらくれたで喜びそうだもの」
「さすがにフランソワもそこまでおめでたくはないんじゃないかしら」
 ステファーヌは首を傾げたが、ジェルメーヌが押し付けたパンは手に取った。
「もしフランソワよりも遅れてあなた方がプラハに到着したなら、わたしと入れ替わる機会はないわ。フランソワより先に、あなたはわたしと入れ替わらなければ、公子として世間に出ることはできないの。フランソワが公子としてわたしたちと合流すれば、ピュッチュナー男爵はこれまで以上にトロッケン男爵への警戒を強めるでしょうからね」
「でも……」
「トロッケン男爵がなにを考えているにせよ、あなたがフランソワ公子としてピュッチュナー男爵らの手に渡ってしまえば、早々簡単に手は出せなくなるわ。トロッケン男爵から逃げるためには、あなたがフランソワ公子になるのが一番早いの。あとのことは、追い追い考えていけばいいのよ。トロッケン男爵だって、あなたをロレーヌ公国の嫡嗣に仕立て上げたからって、即座になにかができるわけではないわ」
 ロレーヌ公国の当主である父レオポール・ジョゼフが健在である以上、トロッケン男爵がすぐに権力を手に入れられるものではない。彼らの目的が単純にフランス王家の血を引くフランソワを嫡嗣としたくないだけなのか、他に明らかになっていない目的があるのかはわからないが、ステファーヌがフランソワを名乗って嫡嗣となったところで、大きな不都合が生じるわけではない。
 トロッケン男爵らも、フランソワを殺害するつもりはないはずだ。
「わたしはあなたをプラハで待っているわ。その際、あなたは女装してわたしのところにいらっしゃいな。ミネットも連れてくるのよ。そこであなたとわたしはお互いの服を交換して、あなたはフランソワになり、わたしは令嬢としてミネットを連れて出て行くの。フランソワより先にあなたが到着すれば、入れ替わりは簡単にできるわ。遅れてきたフランソワには、わたしが説得してみるわ」
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