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第二部

20 チェンバロ奏者の弟子

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「きみはとても楽しそうに演奏するんだね」

 あまりの寒さに指が動かしづらくなり、さらにくしゃみをしたところで演奏を止めた。その瞬間に声がかかった。
ディーノが洟をすすりながら顔を上げると、チェンバロ奏者の弟子が壁に寄りかかっていた。いつからそこにいたのやら、彼も寒そうに両腕を抱いている。

「楽しい曲なんだから。当然だろ」

「うん。たしかに楽しかったな。初恋の子を思い出したよ」

 部屋に戻ろうと立ちあがると、足がふらついた。身体がすっかり冷え切ってしまっている。

「大丈夫かい? なんだってこんなところで弾いてたんだい。風邪をひいてしまうよ」

 彼は気持ち悪いぐらいに優しい。ついさっきまで嫌な視線の人たちの側にいたくせに。ディーノは無視して、中に戻った。すたすた歩いていると、彼が追いかけてくる。

「ちょっとだけ、話をしないか」

「……」

「僕たち明日ここを発つんだ。きみには悪いことをしたから謝りたくて」

「別に謝る必要なんてないさ。あんたたちにどう思われようと、オレはオレの演奏をするだけだ」

「強いんだね」

 そう返されて、ディーノは足を止めた。上半身だけゆっくりと振り返る。

「強くなんかないさ。正直ショックだったよ。音楽を愛する者同士なのに、仲間じゃないんだ。敵なんだって」

「敵だとは思ってないよ。ただきみが羨ましかっただけさ」

「羨ましい? あれはそんなレベルじゃなかった。みずぼらしい姿のオレが良い評価を得たのが気に食わないって、顔に書いてあった」

「それは……そういう人もいたかもしれないけど、僕は違うよ」

「今度は保身かよ。サイテーだよ、あんた」

 顔を進行方向に戻し、階段に足をかけた。

「ごめん。そんなつもりじゃなかったのに。待って、わかった、正直に言うよ」

「言わなくていいよ」

「そんな……歩きながらでいいから聞いてくれよ。たしかに僕はきみの演奏があそこまでのものとは思ってなかった。師匠についてまだ二年だって聞いていたし。だから演奏の評価よりきみが舞台に立ったことに嫉妬していた。楽屋にはリュートの音なんてほとんど届かなかったし。人伝えできみが弾いてるって知って。他の人はどうか知らないけど、少なくても僕は、舞台で演奏をする機会を得られたきみに嫉妬していた」

「……」

「本当に羨ましかったんだ。きみの演奏は素晴らしかったよ。みんなきみの才能を認めてる。目の前で聴いて、嫉妬するレベルを超えてることに気づいた。とても追いつけるものでも、追い越せるものでもないってわかった」

「才能なんてない!」

 突然大声を出したディーノに、彼はびくりと身をすくませた。

 ディーノは全身で振り返り、彼に向き合う。

「オレの演奏を才能の一言で片付けんな! オレだって努力してるんだ。才能だけで評価を得てるなんて思われたくない!」

「そ、そんなつもりじゃ……」

「地を這うような生活から、自分で切り開いてここまできたんだ。先生に出遭えたのは良運だったと思ってるし、ここの舞台に立てたのも先生のお蔭だ。先生とピエールにはとても感謝してる。だけど、運とあんたのいう才能だけで生きてこられたわけじゃない。死ぬほどの思いをして、大切な人も残してきて、ここにいるんだ。オレには運と才能だけしかないような言い方はしないでくれ。才能の一言でオレの演奏を語らないでくれ」

 最後は懇願になっていた。

 才能という言葉は便利だ。才能さえあれば望むものが容易く手に入ると思われている。けれど才能という言葉は褒め言葉だと、ディーノは思っていない。

 血の滲むような努力や嫌な経験や良い経験、自己嫌悪、自己憐憫、そういう感情や経験が数多あり、人より少しは上なのかもしないセンスをそれらが才能という形に仕上げ、底上げし、ようやく評価へと繋がるのだ。才能という言葉だけで片付けるには、あまりに軽い。軽過ぎる。

 階段の上から見下すディーノの双眸が鋭過ぎたのか、彼はさらに身を縮め、「ごめん」と呟いて続けた。

「才能だけだなんて思っていないよ。きみの過去に何があったかなんて想像もできないし、詮索するつもりもないけれど、きみの音楽に対する姿勢や努力はちゃんと伝わってきたよ。才能だけであれだけの演奏ができるとはみんなも思っていない。だけどね、やっぱり才能なんだよ。ただ弾くことはできても、そこに自分の思いを表わすことなんて、誰にでもできることじゃない。一流の音楽家とそうでないものの違いはそこなんだ。きみの演奏を聴いて、そう思った。思わされた。技術だけじゃ駄目なんだって」

 話しているうちに小さくなっていた彼の身体が元に戻っていた。

 彼の真剣な眸を睨みつけていたディーノは、やがて視線を外した。

 ディーノが階段を上り始めると、彼が追いかけてくる。そして隣に並み会話を続ける。

「僕さ、ずっと悩んでた。先生はあまり教えてくれないし、見て聴いて覚えるにも限界がある。ずっとこのままだったらどうしよう。それならいっそ父親に泣きついて、地元の教会か教師の職でも探してもらおうかって、頼みかけたときもあった。つい最近まで悩んでいた。きみに出遭うまで、だね。きみの演奏を聴かせてもらって、鈍器で頭を殴られたみたいなショックを受けたけど、ようやく音楽っていうものがわかったんだ。きみのリュートを聴ける機会を得られたことに感謝しているよ。先生に付いていなかったら、きみの演奏を耳にできることなんてなかっただろうからね」

「よく云うよ」

「本当のことだよ」

 ディーノが笑うと彼も笑った。

「僕さ、先生に積極的に頼んでみようかと思ってるんだ」

「練習?」

「うん。待っているだけじゃ駄目だなって思って。貪欲に行ってみるよ。きみはこれから一人で演奏する機会が増えるだろうから、きみに負けないようにね」

「音楽に負ける、負けないはない。自分の音楽をやるだけだ」

「そうだね。君の言うとおりだ。きみには教えられてばっかりだね」

「そんなことないさ。オレも教えられた」

「ご謙遜を」

「そんなんじゃないよ」

「じゃあ、例えば?」

「あんたほんとに子供みたいだな」

 本気で呆れて、ディーノが足を止めて彼を見た。

「うっわ。その一言、ショックだな」

 大袈裟に頭を抱える仕草をして、彼は笑った。

 ディーノは結局答えなかったが、彼はそれ以上追求してこなかった。

 部屋の前につき、ディーノがそれじゃ、と片手を上げる。

「僕はリーゼ。リーゼ・アンテンバック。オーストン出身だ。覚えておいてくれよ。いつかきみに僕のチェンバロを聴いてもらいたい」

「オレはディーノだ」

「一人前になったら会いたいね」

「ああ」

「いつかまた」

 誤解が解け、微笑んだ二人は、それぞれの部屋に戻る。今後、再会することはあるだろうか。
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