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三章 過去の行い
5.逆上
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「お待たせしました。行きましょう」
亜矢に扉を開けてもらい、3階まで階段を上がる。
チャイムを鳴らすと、すぐに扉が開き、写真館で見た女性が顔を出した。
一重瞼に小ぶりな鼻、薄い唇で、写真よりも地味な顔立ちだった。
くっきりした顔立ちだった杏子の面影はない。
「お忙しい時に突然押しかけて、申し訳ありません。こちら良ければどうぞ」
念のため、昼間カフェで買っておいた焼き菓子のセットを渡す。
「ありがとうございます。散らかってますけど、どうぞ」
「失礼いたします」
許可を得たので、靴を脱ぐ。
三方向に扉があり、亜矢は目の前の扉を開いていた。
案内されるままダイニングに入る。
「お客なんて来ないので、狭いテーブルですみません」
ガラスコップに注がれた麦茶か烏龍茶が、目の前に置かれた。音声のみ録音したいことを伝えると、わかりましたと許可が下りる。
「あの、逮捕された山岸由依と、亜澄が中学生の頃から友達というのは本当なんですか」
亜矢は気になっていたのだろう。こちらの所属の確認もせず、そわそわした様子で話しかけてくる。
「本当です」
「亜澄は、子供の頃からなぜか友達ができなくて。幼稚園でも小学校でもずっと一人でいました。人と話すのが苦手な子で、あたしが公園で遊んでいる子にお願いして仲間に入れてもらっても、気がついたらぽつんとしていました。だから中3の時、初めて友達ができたと聞いて、とても嬉しく思っていました」
「名前は聞かなかったのですか」
「恥ずかしがって、そのうちねとはぐらかされていました。住んでいる所はわかりますか」
「わかりますが、それは教えられません」
「山岸造園と関係のある子ではないですよね」
「え?」
芙季子は動揺を露にしてしまった。亜矢の口から山岸造園の名が出るとは思ってもいなかったから。
「山岸と聞いて、嫌な予感がしたんです。まさかと思っていましたが、やっぱりそうなんですね」
「知っている人だったんですか」
「山岸沙都子という人の関係者ではないですか。親戚とか。山岸沙都子とは中学が同じなんです。3年間いじめられました」
亜矢の顔が苦痛に歪む。
二十年ほども昔のことになるはずだが、たった今不愉快な目に遭ってきたような表情だ。
「そうでしたか」
「地獄の3年間でしたよ。不細工だと罵られ、お母さんは美人なのに気の毒ねと、さんざん言われました。クラスが替わってもしつこかった。高校は山岸沙都子と絶対違う所に行くと決めて、復讐心だけでなんとか通学しました。山岸と聞いただけで鳥肌が立つんです」
亜矢は交差させた二の腕をさすった。
「中学校を卒業してから、山岸沙都子さんとお会いになったことは」
「ありません。二度と顔も見たくありません。あいつへの復讐はもう終わったし」
「復讐? 何かなさったのですか」
「あいつの知らないところでね。言えませんけど」
亜矢は一転笑顔になった。眉を高く上げて、満足そうな誇らしそうな顔に見える。
「……そうですか。亜澄さんのことですが、グラビアのお仕事を始めたきっかけは何だったのですか」
「カメラに興味を示していたからです。祖父が、あたしの父はカメラマンなんです。亜澄は幼い頃から写真を撮られていて、カメラに慣れているんです。一度撮影の現場に連れて行ったら楽しそうにしていて」
「亜澄さんがやりたいと」
「いいえ、勧めたのはあたしです。興味があるならチャレンジしてみたらと」
「お二人とも抵抗はなかったのですか。肌を晒すことに」
「恵まれた体格も、一種の才能だと思うんです。その才能を活かせられて、収入に繋がるなんてありがたいことですよ。あたしはその才能には恵まれなかったですから」
「亜澄さんのグラビアを拝見しましたが、服を着たグラビアはすてきな笑顔を見せていましたが、肌を見せるグラビアでは恥ずかしい表情をされていますよね。実は嫌がっていたということはありませんか」
「嫌がっていた? それなら言うでしょう。あの子の口から辞めたいと聞いたことがありません」
再び亜矢は不機嫌さを表す。小鼻を膨らませ、目を細める。
「言えないだけ、と考えたことはありませんか」
「勝手なことを言わないでください。あたしたちのことを何も知らないくせに。あたしが母親失格だと言いたいんですか」
「いえ、そこまでは。ですが、亜澄さんは思ったことを言葉にするのが得意ではないと仰ったのはお母様ですよ」
「……失礼な人ですね。会社名聞きましたっけ」
ついにきた。芙季子は無意識に背筋を伸ばした。
「申し遅れました、週刊成倫の大村と申します」
「外村と申します」
「成倫! あの記事を書いたのは、まさかあなたたち……」
「はい。わたしと外村で取材をして、書いたのはわたしです」
がたっと大きな音がした。亜矢を見つめていた芙季子の目線が上がる。
立ち上がった亜矢は、全身を震わせていた。
「あんた……あんたよくもあたしを侮辱してくれたわね!」
「侮辱する記事を書いたつもりはありません。あの時点までの取材でわかったことを書いたまでです」
「結果的に、あたしの言った通りだったじゃない。取材するのはあたしじゃなくて、山岸由依とその家族の方でしょ。どんな育てられ方をしたら同級生を刺すのか、世間が知りたいのはそっちじゃない。苦しんでいる被害者にムチを打つなんて。あんたたち最低よ!」
「お怒りはごもっともだと思います」
亜矢の怒りに満ちた目線を受け止めていると、視界に何かが写った。咄嗟に目を瞑ったものの、避ける間はなかった。
ばしゃっという音が聞こえた同時に、冷たい感触があった。
「大村さん!」
慌てたのは隣に座っていた外村の方で、芙季子の頭は冷静だった。ゆっくりと瞼を開く。
コップを握った亜矢が、荒い息を吐いている。
「あんた、子供は?」
「おりません」
「子育てをしたことのない人に、この苦労はわからないでしょうね。大切に育ててきた可愛い我が子が死んでしまうかもしれない恐怖があんたにわかる? 母親なのに何もしてやれない悔しい気持ちがあんたにわかる? 二度と姿を見せないで。次に見かけたら警察呼ぶわよ」
「失礼いたします」
芙季子は濡れた顔のまま、静かに立ち上がり、亜矢に向けて一礼してから玄関に向かった。
扉を開けて外に出た時、一度だけ振り返った。
亜矢はまだコップを持ったまま突っ立っていた。こちらを睨みつけてくる。
そっとドアを閉めた途端に、ガンと目の前から物音がした。
階段を降りながら、鞄からタオルを取り出した。濡れた顔を拭く。
「大村さん、大丈夫ですか」
「たかがお茶よ。平気。ホットじゃなくて良かったわ」
「タオル、準備いいんですね」
「配属された時から、いつかこういうことがあるかもしれないって覚悟してたもの。さすがに初めてだけど」
「大村さん、その……どうして言わなかったんですか」
外村が遠慮気味に尋ねてくる。
「子供のこと? 不幸自慢のネタにしたくないもの。言い負かしたところで、気持ち良いわけないしね」
我ながら、よく冷静に対処したなと思う。
子育ての経験はないが、我が子を失う気持ちはよく知っている。
だがあの状況で亜矢に反論すれば、火に油を注ぐだけだった。
言い返さず、辞去するのが最善策だった。
亜矢に扉を開けてもらい、3階まで階段を上がる。
チャイムを鳴らすと、すぐに扉が開き、写真館で見た女性が顔を出した。
一重瞼に小ぶりな鼻、薄い唇で、写真よりも地味な顔立ちだった。
くっきりした顔立ちだった杏子の面影はない。
「お忙しい時に突然押しかけて、申し訳ありません。こちら良ければどうぞ」
念のため、昼間カフェで買っておいた焼き菓子のセットを渡す。
「ありがとうございます。散らかってますけど、どうぞ」
「失礼いたします」
許可を得たので、靴を脱ぐ。
三方向に扉があり、亜矢は目の前の扉を開いていた。
案内されるままダイニングに入る。
「お客なんて来ないので、狭いテーブルですみません」
ガラスコップに注がれた麦茶か烏龍茶が、目の前に置かれた。音声のみ録音したいことを伝えると、わかりましたと許可が下りる。
「あの、逮捕された山岸由依と、亜澄が中学生の頃から友達というのは本当なんですか」
亜矢は気になっていたのだろう。こちらの所属の確認もせず、そわそわした様子で話しかけてくる。
「本当です」
「亜澄は、子供の頃からなぜか友達ができなくて。幼稚園でも小学校でもずっと一人でいました。人と話すのが苦手な子で、あたしが公園で遊んでいる子にお願いして仲間に入れてもらっても、気がついたらぽつんとしていました。だから中3の時、初めて友達ができたと聞いて、とても嬉しく思っていました」
「名前は聞かなかったのですか」
「恥ずかしがって、そのうちねとはぐらかされていました。住んでいる所はわかりますか」
「わかりますが、それは教えられません」
「山岸造園と関係のある子ではないですよね」
「え?」
芙季子は動揺を露にしてしまった。亜矢の口から山岸造園の名が出るとは思ってもいなかったから。
「山岸と聞いて、嫌な予感がしたんです。まさかと思っていましたが、やっぱりそうなんですね」
「知っている人だったんですか」
「山岸沙都子という人の関係者ではないですか。親戚とか。山岸沙都子とは中学が同じなんです。3年間いじめられました」
亜矢の顔が苦痛に歪む。
二十年ほども昔のことになるはずだが、たった今不愉快な目に遭ってきたような表情だ。
「そうでしたか」
「地獄の3年間でしたよ。不細工だと罵られ、お母さんは美人なのに気の毒ねと、さんざん言われました。クラスが替わってもしつこかった。高校は山岸沙都子と絶対違う所に行くと決めて、復讐心だけでなんとか通学しました。山岸と聞いただけで鳥肌が立つんです」
亜矢は交差させた二の腕をさすった。
「中学校を卒業してから、山岸沙都子さんとお会いになったことは」
「ありません。二度と顔も見たくありません。あいつへの復讐はもう終わったし」
「復讐? 何かなさったのですか」
「あいつの知らないところでね。言えませんけど」
亜矢は一転笑顔になった。眉を高く上げて、満足そうな誇らしそうな顔に見える。
「……そうですか。亜澄さんのことですが、グラビアのお仕事を始めたきっかけは何だったのですか」
「カメラに興味を示していたからです。祖父が、あたしの父はカメラマンなんです。亜澄は幼い頃から写真を撮られていて、カメラに慣れているんです。一度撮影の現場に連れて行ったら楽しそうにしていて」
「亜澄さんがやりたいと」
「いいえ、勧めたのはあたしです。興味があるならチャレンジしてみたらと」
「お二人とも抵抗はなかったのですか。肌を晒すことに」
「恵まれた体格も、一種の才能だと思うんです。その才能を活かせられて、収入に繋がるなんてありがたいことですよ。あたしはその才能には恵まれなかったですから」
「亜澄さんのグラビアを拝見しましたが、服を着たグラビアはすてきな笑顔を見せていましたが、肌を見せるグラビアでは恥ずかしい表情をされていますよね。実は嫌がっていたということはありませんか」
「嫌がっていた? それなら言うでしょう。あの子の口から辞めたいと聞いたことがありません」
再び亜矢は不機嫌さを表す。小鼻を膨らませ、目を細める。
「言えないだけ、と考えたことはありませんか」
「勝手なことを言わないでください。あたしたちのことを何も知らないくせに。あたしが母親失格だと言いたいんですか」
「いえ、そこまでは。ですが、亜澄さんは思ったことを言葉にするのが得意ではないと仰ったのはお母様ですよ」
「……失礼な人ですね。会社名聞きましたっけ」
ついにきた。芙季子は無意識に背筋を伸ばした。
「申し遅れました、週刊成倫の大村と申します」
「外村と申します」
「成倫! あの記事を書いたのは、まさかあなたたち……」
「はい。わたしと外村で取材をして、書いたのはわたしです」
がたっと大きな音がした。亜矢を見つめていた芙季子の目線が上がる。
立ち上がった亜矢は、全身を震わせていた。
「あんた……あんたよくもあたしを侮辱してくれたわね!」
「侮辱する記事を書いたつもりはありません。あの時点までの取材でわかったことを書いたまでです」
「結果的に、あたしの言った通りだったじゃない。取材するのはあたしじゃなくて、山岸由依とその家族の方でしょ。どんな育てられ方をしたら同級生を刺すのか、世間が知りたいのはそっちじゃない。苦しんでいる被害者にムチを打つなんて。あんたたち最低よ!」
「お怒りはごもっともだと思います」
亜矢の怒りに満ちた目線を受け止めていると、視界に何かが写った。咄嗟に目を瞑ったものの、避ける間はなかった。
ばしゃっという音が聞こえた同時に、冷たい感触があった。
「大村さん!」
慌てたのは隣に座っていた外村の方で、芙季子の頭は冷静だった。ゆっくりと瞼を開く。
コップを握った亜矢が、荒い息を吐いている。
「あんた、子供は?」
「おりません」
「子育てをしたことのない人に、この苦労はわからないでしょうね。大切に育ててきた可愛い我が子が死んでしまうかもしれない恐怖があんたにわかる? 母親なのに何もしてやれない悔しい気持ちがあんたにわかる? 二度と姿を見せないで。次に見かけたら警察呼ぶわよ」
「失礼いたします」
芙季子は濡れた顔のまま、静かに立ち上がり、亜矢に向けて一礼してから玄関に向かった。
扉を開けて外に出た時、一度だけ振り返った。
亜矢はまだコップを持ったまま突っ立っていた。こちらを睨みつけてくる。
そっとドアを閉めた途端に、ガンと目の前から物音がした。
階段を降りながら、鞄からタオルを取り出した。濡れた顔を拭く。
「大村さん、大丈夫ですか」
「たかがお茶よ。平気。ホットじゃなくて良かったわ」
「タオル、準備いいんですね」
「配属された時から、いつかこういうことがあるかもしれないって覚悟してたもの。さすがに初めてだけど」
「大村さん、その……どうして言わなかったんですか」
外村が遠慮気味に尋ねてくる。
「子供のこと? 不幸自慢のネタにしたくないもの。言い負かしたところで、気持ち良いわけないしね」
我ながら、よく冷静に対処したなと思う。
子育ての経験はないが、我が子を失う気持ちはよく知っている。
だがあの状況で亜矢に反論すれば、火に油を注ぐだけだった。
言い返さず、辞去するのが最善策だった。
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