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Ⅳ.道行き
第9話 帰還①
しおりを挟むだれかが呼んでいる。
「イルマ」
なつかしい、だいじな人の声。
やわらかな手がぼくの耳をふさぐ。
ここにいれば、何も考えなくていい。
あたたかい手が、ずっと一緒にいてくれる。
でも、ぼくはこれが欲しかったのかな。
ずっと、ここに来たかったのかな。
本当は、もっと⋯⋯。
閃光が、湖を白銀に塗り替える。
山々が輪郭を持って、真昼のように浮かび上がった。
人形を成した女神の足元からまっすぐに、岸に向かって白銀の道がかかる。
詠唱を続けていた神官たちが、次々に力尽きて倒れていく。
女神の輪郭の中に、淡い人影があった。
「イルマ!」
「殿下!!」
岸にいた人々は誰もが叫んだ。
詠唱の声が細くなると共に、道の光が弱くなる。
シェンバー王子は、迷わず走り出した。岸で必死に歌う神官たちの前に続く、白銀の道を。
──女神への道は、彼に続く道だ。
踏み出せば湖に落ちるかもしれない。そんなことは、少しも考えなかった。
サフィードも同時に地を蹴った。
暗い湖面に揺らぐ道の上を、男たちは振り返りもせずに走っていく。
ユーディトが追いかけようとした時、シヴィルが名を呼んだ。一瞬振り返った時に、人々の声が聞こえた。
「女神が!!」
白銀の光は見る間に淡くなり、女神の姿は光の残像となる。
「ユーディト様!」
道は湖面から消え、ユーディトが足を踏み出した場所はただの水だった。
シヴィルと周りの人々は、抱きついて必死でユーディトを止めた。
「離せ! 道が!!」
「だめです! もう、もう道は閉じたのです」
「イルマ!」
「シェンバー王子と守護騎士殿が行かれました。後は、もう⋯⋯」
シヴィルのすすり泣く声が聞こえる。
人々は、ただ呆然と光と人の消えた湖を見た。
「ここは⋯⋯どこだ?」
王子と騎士は立っていた。
二人だけで、どこまでも広がる白銀の空間に。
上も下もない。なのに、確かに立っていると感じる。
戸惑うような意識を感じた。
自分たちを取り囲んでいるのは敵意ではない。
「女神⋯⋯。湖に坐す女神よ」
シェンバー王子が呼びかける。
「フィスタの王子を、貴女の恩寵の子をどうか現世にお返しください」
──なぜ?
──これは、わたしの王子
──だいじな、だいじな子
澄んだ鈴の音のように軽やかな声が、流れてくる。
騎士が跪く。
「⋯⋯元より、我がフィスタは貴女様の恩恵の許に栄える国。ですが、イルマ殿下は我らにも大切な方なのです。女神⋯⋯どうか!!」
光が強くなり、眩しさに騎士は目を開けていることができなかった。
頭を下げ、額を白銀の地につける。
──恵みと、実りと、繁栄と
──人が望んだ全てを、与えたはず
「貴女の尊き温情はフィスタのみならず、あまねく大地に広がります。しかし、女神よ。子や兄弟を失くした嘆きは止むことがない。王子を失うことは、皆が生きる希望をなくすこと」
光に目が眩みながら、必死でシェンバー王子は言葉を続ける。
──生きる希望を、なくす?
「そうです。フィスタの王族は言いました。繁栄も実りも十分に頂戴した。祝福の子はもう、いらないと」
──!!!!!
まるで抜き身の剣のように一閃が走り、まっすぐに王子の瞳を焼いた。
「──つッ!」
周りの空間が歪む。
──いらない?
──いらない!?
──どうして? どうして?
──与えたのに
──叶えたのに
おぼろげに人の姿を成す光は、両手で顔を覆うようにして蹲った。
「女神様。泣かないで」
王子と騎士の耳に 聞きなれた声が届いた。
長い間追い求めた、華奢な体が。
ふわりと微笑む穏やかな姿が。
「イルマ王子!」
「殿下!!」
イルマ王子の姿は、金色の光に包まれていた。ふわふわした髪も、細い手足も、瞳の色と同じ輝きを放っていた。
「いらないなんて、そんなの⋯⋯。今さら、ひどいよ。女神はずっと、皆が望むままに加護を与え続けてきたのに。
ぼくは、ここにいる。もう誰も、貴女を悲しませたりしない」
イルマ王子の手が、女神の姿となった光をそっと撫でた。
騎士は、求め続けた主の輝く姿を捉えようと、必死で目を開ける。
「イルマ様! 貴方がいらっしゃらぬ地にどんな意味があるでしょう。風も光も何の輝きもない。⋯⋯貴方が女神の許に留まると仰るなら、いっそ、水底で果てるのが私の願いです」
「⋯⋯サフィー」
イルマ王子が、騎士の名を呼ぶ。
──自分を見る穏やかな瞳、何度も夢で聞いた懐かしい声。
サフィードの瞳からは、熱いものがあふれた。
「イルマ殿下! フィスタは自分の足で歩こうとしています。恩恵を受けるよりも、ただ、貴方に戻ってきてほしいと願っています」
シェンバー王子は必死で叫んだ。
イルマ王子の瞳が揺らめく。
「ぼくに⋯⋯戻って?」
「そうです。貴方を失ったフィスタの人々は皆、嘆き続けています」
シェンバー王子は、もう一度言った。
「殿下、戻りましょう。女神、貴女への感謝と敬慕の念は変わりません。我らは貴女のことも、イルマ王子のことも大切に思っているのです!」
その時、光の中に分け入るように歌が響いた。
神官たちのように美しい声ではない。音もろくに合ってはいなかった。
それは、祈りの籠もった歌だった。女神への詠唱を、多くの人々が続けている。
老いも若きも、男も女も、身分の高い者も低い者も。
「あれは⋯⋯ユーディト? 兄上たち⋯⋯」
決して上手くはなかったが、歌は途切れることなく続く。
イルマ王子の瞳に、わずかな迷いと人々への想いが浮かぶ。
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