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第一章 愛は食べられない
奪われた食卓
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エルファンがマリッサの無作法を咎めるが、その声さえも甘さを含んでいる。いつもファーシルのことは無視するか、難癖つけて冷たく攻撃してくるくせに。
「いや、今回は不問にするよ。興味深い話だったからね。もしかしたらメルキース嬢には神聖力があるのかもしれないね」
神聖力。アルヴァのくちから飛び出した言葉に、家族たちが歓喜に湧いた。
建国神話には続きがある。神が滅びた世界で人間は繁殖しディアロス皇国を築いたが、同じく生き残った魔物も増殖した。凶暴な魔物は畑を食い荒らし、人間の肉を貪り、甘い汁を啜るように血を舐めた。荒れ果てた人里を復興することもできず、窮地に追い込まれたとき、ひとりの民に神聖力が宿ったという。
その人間こそが、初代のアレンツァだった。
神聖力でディアロス皇国に結界をはり、魔物を人里離れた暗い森に追いやったのだ。そうしてアレンツァは皇国の英雄として公爵の爵位を授かることとなる。初代アレンツァ公爵が亡くなり結界が脆くなってくると、また神聖力を持つ者が現れた。以降ディアロス皇国では五つの誕生日を迎えると、必ず神殿で神聖力の査定を行うことが義務づけられたのだ。
そして聖女または聖人と認められた者は、皇国では皇太子と同じ序列となる。誉れ高い授かりものなのだ。
もしもマリッサが聖女となれば、今以上にファーシルの居場所が剥奪されるような気がした。
この紅い眸に映る光景は全て舞台上の芝居なのではないだろうか。そう思ったら、みんなのくちは動いているのに、音が遠ざかって何も聞こえなくなってくる。まるで世界から自分だけが切り取られたかのようだ。
誰かこっちを見てくれないだろうか。
誰か自分の存在に気づいてくれないだろうか。
諦め半分にそんなことを思っていると、ドアの隙間からアルヴァと目が合った。
「愛しの婚約者殿、遅かったじゃないか。道草を食ってたのかな」
アルヴァに声をかけられ、同じ世界に引き戻される。
ファーシルへの愛情なんてないくせに、平然と戯言をくちにするアルヴァが恐ろしい。しかし本音でなくとも、アルヴァが「愛しの婚約者」と呼ぶのはファーシルだけだ。それが本当になればいいのに、と思う。
例え叶わない夢だとしても、それを希望にしている間は、がんばって生きようと思えるから。
「お待たせしました。本日はアッサムティーとミルクをご用意しました。ミルクティーといって、西部では紅茶にミルクを入れるのが主流なんだそうです」
「それは楽しみだね」
特に夏に摘まれるアッサムは芳醇な香りが際立ち、味に深みが増す。ミルクを加えることで、アッサムの特徴がより引き立つのだ。
ファーシルは家族の冷たい視線に串刺しにされながら、センターテーブルにティーセットを置いた。カップにアッサムティーを注ぎ、少量のミルクを回しかける。
「……二人分のお茶しか準備していません。お父さまたちはいかがなさいますか。」
遠回しに、早く出ていけと訴える。アルヴァとの時間を邪魔されたくなかった。
父はファーシルを冷たく睨むと「結構だ」とお茶を断り、その場を後にする。マリッサは不思議そうにファーシルを一瞥したが、すでに部屋を出ていたエルファンに呼ばれると彼らの後をついていった。
嵐が去り、ほっと胸を撫で下ろしたファーシルを、アルヴァがじっと見つめてくる。
「どうしたんですか、殿下」
「……なんでもないよ。ミルクティーだったかな。いい匂いだね」
声をかけると、アルヴァはすぐに胡散臭い笑顔の仮面を被った。一切の本心を隠すそれは、仮面というより甲冑のようだ。
ファーシルはミルクティーを注いだカップをアルヴァの前に滑らせると、アルヴァ宛ての手紙を書くべく、執務机に向かった。
「君はお茶にしないのかい」
「手紙を書くときは集中するので何も飲まないんですよ」
「そんな真剣に書いてくれてるんだ。嬉しいな」
ろくに返事もくれないくせに。
拗ねた気分でアルヴァを一瞥するが、彼は笑顔の仮面を被ったままだ。カップにくちをつける優雅な仕草からは、やはり一切の本心が見えてこない。なのに、「おいしいな」と小さくこぼされた感想が、ファーシルの心を温めるのだ。
同じ空間にアルヴァがいるのに、いつも通りに手紙なんて書けるわけがない。そう思いながら、ファーシルは便箋に万年筆を走らせる。
ちくたく。ちくたく。掛け時計の秒針の音が静かに響く。どれほどの時間が経っただろう。手紙を書き終え、執務机から顔を上げると、アルヴァはアームチェアに姿勢よく座ったまま、微かに寝息を立てていた。
いつもそうだ。アルヴァはファーシルと会うと、どこかのタイミングで必ず眠ってしまう。
退屈なんだろうな、と思う。当たり前だ。部屋に引きこもってばかりのファーシルは貴族の流行に疎く、面白い話でもてなすことはできないし、何より、悪魔の子と揶揄される存在だ。一緒にいて楽しいはずがない。
それでも、アルヴァは笑顔の仮面で本心を隠してくれる。ファーシルを無視したり、冷たく睨んだり、心ない言葉を浴びせることもない。
普通に接してもらうことが普通でないファーシルにとって、アルヴァの存在はとても大きい。
ファーシルは音を立てないように席を立つと、そっとアルヴァに近寄り、その寝顔を覗いた。
窓から差し込む陽ざしを浴びて、プラチナブロンドの髪に光の粒が瞬いている。肌に影を落とす長い睫毛も、しっとりとしたくちびるも、作りもののように整った鼻梁も、全てがこの世のものとは思えないほど、きれいな造形をしている。
と、アルヴァの耳にかけていた髪がはらりと落ちた。頬を刺す髪がくすぐったいのか、アルヴァの眉根が寄る。邪魔そうな髪を避けようと、ファーシルが手を伸ばした瞬間、突然、腕を引き寄せられた。
「――何をしている」
瞼の裏に隠していた眸は敵意を煮立たせ、ファーシルを凄んでいる。
まるで猛獣と対峙しているような緊張感があった。
「今、僕に何をしようとしたのかと聞いている」
初めて見るアルヴァの一面に臆するファーシルに、アルヴァが問い詰めてくる。
寝ているアルヴァに悪戯を企んでいたと思われたのだろうか。まるで喉の奥に重石を詰めたかのように呼吸がしづらい。なんとか声を絞り出して、弁明した。
「髪を払おうとしたんです。くすぐったそうだと思って……」
「髪を?」
アルヴァは訝しげに眉根を寄せ、真偽を探るようにファーシルの眸をまっすぐ見つめてくる。悪魔とお揃いの色をした眸を正面から見てくるのなんて、アルヴァぐらいだろうな、と頭の冷静な部分で感心した。しばらく無言のまま目を合わせていると、やがてファーシルの腕の拘束がほどけた。それでも、まだアルヴァの手のひらの感触が残っている。
「すまない。気が動転してたみたいだ」
謝るアルヴァは、いつもの胡散臭い笑顔を被り直していた。
「いえ。こちらこそ驚かせてしまって申し訳ありません」
「君が謝ることはないよ。怖がらせたかな」
アルヴァの視線は、ファーシルの皺が寄った袖に注がれている。恐らく、袖に隠れた腕には指の痕がくっきり色づいているだろう。しかしファーシルは咎めるつもりなどなかった。
「あの、これ……」
気まずい雰囲気を引きずりたくなくて、ファーシルはアルヴァ宛ての手紙を渡した。
「ありがとう。今読んでも?」
「だ、だめです! 絶対、おひとりのときに読んでください」
ファーシルはぎょっとして、すでに封を切ろうとしていたアルヴァを制した。
アルヴァは、焦りと恥ずかしさで茹でだこのように赤くなるファーシルの頬に視線を滑らせて、ふふ、と上品に笑う。
「そんな赤くなるくらい熱烈なラブレターを書いてくれたのかな。楽しみだね」
すっかりいつもの調子で冗談をくちにするアルヴァに、今すぐ袖をまくって腕に残った痕を見せつけてみようか、といじわるな考えが浮かび上がる。しかしそれを実践する間もなく、アルヴァは立ち上がった。
「さて、そろそろお暇しようかな」
窓の外を見やると、すでに青い空には茜色が混ざり始めていた。そろそろアルヴァを迎えに、皇室の馬車がやってくる時間だ。
「……あの、殿下、ひとつお聞きしてもいいですか」
「なんだい」
「マリッサに神聖力があるかもしれないと仰っていましたよね。どうしてそう思われたんですか? 風にも声があるって言ってましたけど、神聖力と関係あるんですか?」
神聖力とは魔物から皇国を守るための力を示す。風の声とやらは謎だが、それと神聖力に何の関係があるのだろう。
純粋な疑問と、マリッサのそれが神聖力でなければいいのに、という汚い願いを抱えて質問すると、アルヴァは後光を空目するほどの眩しい笑顔で、
「それに気づくなんて、君はとても賢いね。僕の発言を鵜呑みにして、ただ喜んでいただけの君の家族とは雲泥の差だ」
と、一応アレンツァ公爵家の子息であるファーシルの前で、堂々とファーシルの家族宛ての嫌味を吐いてきた。
眩しい笑顔と辛辣な言葉はあまりにも一致しなくて、ファーシルは思わずぽかんとする。アレンツァ公爵家――ひいては皇帝への嫌悪は、思ったよりも根深いらしい。
「神聖力というのは自然との調和なんだよ。空気中に漂う粒子を、植物の呼吸を、生物の残骸を、あらゆる生命の流れを感じて、扱うことができる。それが神聖力なんだ」
わかるような、わからないような。
必死にアルヴァの説明を咀嚼していると、不意に腫れ物に触れるように右手を取られた。寝起きのアルヴァに捕まれていたほうの手だ。そして、手の甲にそっと額を寄せられる。前髪の感触がくすぐったい。
「乱暴して、本当にごめんね」
傷ましいくらい、優しい声だった。
それはまるで治療薬のように、ファーシルの腕から痛みが引いていく。
いつもそうだ。どれだけ家族から無下に扱われて傷ついても、悲しみの波に攫われそうになっても、心の柔らかな部分にいるアルヴァの存在が、暗闇の中で道しるべになってくれる。
アルヴァから与えられたものは太陽の光だ。ファーシルの中で一等輝き、ひなたぼっこをしたように心がぽかぽかと温かくなる。例えアルヴァのファーシルに対する態度が作りものだとしても、アルヴァに救われていることには変わりない。
だから、大丈夫。
まだ、耐えられる。
幻想にも似た光に盲目になり、足元に広がる翳りには気づかないふりをしていた。
その翳りがどろどろと足に絡みついていると気づいたのは、殿下の訪問から僅か三日後のことだった。
夕食の時間になっても、使用人が呼びにこないのだ。
怪訝に思ったファーシルがダイニングルームを覗くと、すでに食事は始まっていた。使用人がファーシルに伝え忘れたのかと思ったが、ファーシルの席が埋まっていることに気づいた。
――マリッサだ。
使用人が伝え忘れていたのではなく、ファーシルの席をマリッサに明け渡したのだ。
「マリッサ、そろそろ五つのお誕生日ね。神聖力の査定には、私たちもついていくわ」
「やったあ。ちょっと緊張してたので、安心しました」
「マリッサが聖女だと認められたら、いろんな家門から婚約の申し込みをされるでしょうね」
カーラとマリッサの会話は、まるで本物の家族みたいだ。
ファーシルの神聖力査定のときは、ついてきてくれなかったくせに。
全て使用人に丸投げして、結果さえ聞いてこなかったくせに。
「候補者が行列を作る前に、婚約者をつくっておくのもいいかもしれないな。うちのエルファンなんてどうだ。なかなか賢い子だぞ」
「ち、父上、おやめくださいっ」
ディランの冗談めかした本気の打診に、エルファンの顔が真っ赤に燃え盛る。初々しい反応に、エルファンがマリッサに想いを寄せていることを察した。
微笑ましい家族の会話に、マリッサは愛らしく笑っている。
こんなにも笑顔で満ちた食事の席を、ファーシルは知らない。
悲しいやら、悔しいやら、羨ましいやら、たくさんの感情が複雑に絡み合い、どろりと心の器から溢れていく。
今すぐ逃げ出したいのに、足が縫い止められているかのように動かない。
瞬きすら忘れて、幸せな食卓に目が釘づけになっていると、ファーシルの背中に暗い気配が覆い被さった。
「――悪魔の子もお腹が空くの?」
「いや、今回は不問にするよ。興味深い話だったからね。もしかしたらメルキース嬢には神聖力があるのかもしれないね」
神聖力。アルヴァのくちから飛び出した言葉に、家族たちが歓喜に湧いた。
建国神話には続きがある。神が滅びた世界で人間は繁殖しディアロス皇国を築いたが、同じく生き残った魔物も増殖した。凶暴な魔物は畑を食い荒らし、人間の肉を貪り、甘い汁を啜るように血を舐めた。荒れ果てた人里を復興することもできず、窮地に追い込まれたとき、ひとりの民に神聖力が宿ったという。
その人間こそが、初代のアレンツァだった。
神聖力でディアロス皇国に結界をはり、魔物を人里離れた暗い森に追いやったのだ。そうしてアレンツァは皇国の英雄として公爵の爵位を授かることとなる。初代アレンツァ公爵が亡くなり結界が脆くなってくると、また神聖力を持つ者が現れた。以降ディアロス皇国では五つの誕生日を迎えると、必ず神殿で神聖力の査定を行うことが義務づけられたのだ。
そして聖女または聖人と認められた者は、皇国では皇太子と同じ序列となる。誉れ高い授かりものなのだ。
もしもマリッサが聖女となれば、今以上にファーシルの居場所が剥奪されるような気がした。
この紅い眸に映る光景は全て舞台上の芝居なのではないだろうか。そう思ったら、みんなのくちは動いているのに、音が遠ざかって何も聞こえなくなってくる。まるで世界から自分だけが切り取られたかのようだ。
誰かこっちを見てくれないだろうか。
誰か自分の存在に気づいてくれないだろうか。
諦め半分にそんなことを思っていると、ドアの隙間からアルヴァと目が合った。
「愛しの婚約者殿、遅かったじゃないか。道草を食ってたのかな」
アルヴァに声をかけられ、同じ世界に引き戻される。
ファーシルへの愛情なんてないくせに、平然と戯言をくちにするアルヴァが恐ろしい。しかし本音でなくとも、アルヴァが「愛しの婚約者」と呼ぶのはファーシルだけだ。それが本当になればいいのに、と思う。
例え叶わない夢だとしても、それを希望にしている間は、がんばって生きようと思えるから。
「お待たせしました。本日はアッサムティーとミルクをご用意しました。ミルクティーといって、西部では紅茶にミルクを入れるのが主流なんだそうです」
「それは楽しみだね」
特に夏に摘まれるアッサムは芳醇な香りが際立ち、味に深みが増す。ミルクを加えることで、アッサムの特徴がより引き立つのだ。
ファーシルは家族の冷たい視線に串刺しにされながら、センターテーブルにティーセットを置いた。カップにアッサムティーを注ぎ、少量のミルクを回しかける。
「……二人分のお茶しか準備していません。お父さまたちはいかがなさいますか。」
遠回しに、早く出ていけと訴える。アルヴァとの時間を邪魔されたくなかった。
父はファーシルを冷たく睨むと「結構だ」とお茶を断り、その場を後にする。マリッサは不思議そうにファーシルを一瞥したが、すでに部屋を出ていたエルファンに呼ばれると彼らの後をついていった。
嵐が去り、ほっと胸を撫で下ろしたファーシルを、アルヴァがじっと見つめてくる。
「どうしたんですか、殿下」
「……なんでもないよ。ミルクティーだったかな。いい匂いだね」
声をかけると、アルヴァはすぐに胡散臭い笑顔の仮面を被った。一切の本心を隠すそれは、仮面というより甲冑のようだ。
ファーシルはミルクティーを注いだカップをアルヴァの前に滑らせると、アルヴァ宛ての手紙を書くべく、執務机に向かった。
「君はお茶にしないのかい」
「手紙を書くときは集中するので何も飲まないんですよ」
「そんな真剣に書いてくれてるんだ。嬉しいな」
ろくに返事もくれないくせに。
拗ねた気分でアルヴァを一瞥するが、彼は笑顔の仮面を被ったままだ。カップにくちをつける優雅な仕草からは、やはり一切の本心が見えてこない。なのに、「おいしいな」と小さくこぼされた感想が、ファーシルの心を温めるのだ。
同じ空間にアルヴァがいるのに、いつも通りに手紙なんて書けるわけがない。そう思いながら、ファーシルは便箋に万年筆を走らせる。
ちくたく。ちくたく。掛け時計の秒針の音が静かに響く。どれほどの時間が経っただろう。手紙を書き終え、執務机から顔を上げると、アルヴァはアームチェアに姿勢よく座ったまま、微かに寝息を立てていた。
いつもそうだ。アルヴァはファーシルと会うと、どこかのタイミングで必ず眠ってしまう。
退屈なんだろうな、と思う。当たり前だ。部屋に引きこもってばかりのファーシルは貴族の流行に疎く、面白い話でもてなすことはできないし、何より、悪魔の子と揶揄される存在だ。一緒にいて楽しいはずがない。
それでも、アルヴァは笑顔の仮面で本心を隠してくれる。ファーシルを無視したり、冷たく睨んだり、心ない言葉を浴びせることもない。
普通に接してもらうことが普通でないファーシルにとって、アルヴァの存在はとても大きい。
ファーシルは音を立てないように席を立つと、そっとアルヴァに近寄り、その寝顔を覗いた。
窓から差し込む陽ざしを浴びて、プラチナブロンドの髪に光の粒が瞬いている。肌に影を落とす長い睫毛も、しっとりとしたくちびるも、作りもののように整った鼻梁も、全てがこの世のものとは思えないほど、きれいな造形をしている。
と、アルヴァの耳にかけていた髪がはらりと落ちた。頬を刺す髪がくすぐったいのか、アルヴァの眉根が寄る。邪魔そうな髪を避けようと、ファーシルが手を伸ばした瞬間、突然、腕を引き寄せられた。
「――何をしている」
瞼の裏に隠していた眸は敵意を煮立たせ、ファーシルを凄んでいる。
まるで猛獣と対峙しているような緊張感があった。
「今、僕に何をしようとしたのかと聞いている」
初めて見るアルヴァの一面に臆するファーシルに、アルヴァが問い詰めてくる。
寝ているアルヴァに悪戯を企んでいたと思われたのだろうか。まるで喉の奥に重石を詰めたかのように呼吸がしづらい。なんとか声を絞り出して、弁明した。
「髪を払おうとしたんです。くすぐったそうだと思って……」
「髪を?」
アルヴァは訝しげに眉根を寄せ、真偽を探るようにファーシルの眸をまっすぐ見つめてくる。悪魔とお揃いの色をした眸を正面から見てくるのなんて、アルヴァぐらいだろうな、と頭の冷静な部分で感心した。しばらく無言のまま目を合わせていると、やがてファーシルの腕の拘束がほどけた。それでも、まだアルヴァの手のひらの感触が残っている。
「すまない。気が動転してたみたいだ」
謝るアルヴァは、いつもの胡散臭い笑顔を被り直していた。
「いえ。こちらこそ驚かせてしまって申し訳ありません」
「君が謝ることはないよ。怖がらせたかな」
アルヴァの視線は、ファーシルの皺が寄った袖に注がれている。恐らく、袖に隠れた腕には指の痕がくっきり色づいているだろう。しかしファーシルは咎めるつもりなどなかった。
「あの、これ……」
気まずい雰囲気を引きずりたくなくて、ファーシルはアルヴァ宛ての手紙を渡した。
「ありがとう。今読んでも?」
「だ、だめです! 絶対、おひとりのときに読んでください」
ファーシルはぎょっとして、すでに封を切ろうとしていたアルヴァを制した。
アルヴァは、焦りと恥ずかしさで茹でだこのように赤くなるファーシルの頬に視線を滑らせて、ふふ、と上品に笑う。
「そんな赤くなるくらい熱烈なラブレターを書いてくれたのかな。楽しみだね」
すっかりいつもの調子で冗談をくちにするアルヴァに、今すぐ袖をまくって腕に残った痕を見せつけてみようか、といじわるな考えが浮かび上がる。しかしそれを実践する間もなく、アルヴァは立ち上がった。
「さて、そろそろお暇しようかな」
窓の外を見やると、すでに青い空には茜色が混ざり始めていた。そろそろアルヴァを迎えに、皇室の馬車がやってくる時間だ。
「……あの、殿下、ひとつお聞きしてもいいですか」
「なんだい」
「マリッサに神聖力があるかもしれないと仰っていましたよね。どうしてそう思われたんですか? 風にも声があるって言ってましたけど、神聖力と関係あるんですか?」
神聖力とは魔物から皇国を守るための力を示す。風の声とやらは謎だが、それと神聖力に何の関係があるのだろう。
純粋な疑問と、マリッサのそれが神聖力でなければいいのに、という汚い願いを抱えて質問すると、アルヴァは後光を空目するほどの眩しい笑顔で、
「それに気づくなんて、君はとても賢いね。僕の発言を鵜呑みにして、ただ喜んでいただけの君の家族とは雲泥の差だ」
と、一応アレンツァ公爵家の子息であるファーシルの前で、堂々とファーシルの家族宛ての嫌味を吐いてきた。
眩しい笑顔と辛辣な言葉はあまりにも一致しなくて、ファーシルは思わずぽかんとする。アレンツァ公爵家――ひいては皇帝への嫌悪は、思ったよりも根深いらしい。
「神聖力というのは自然との調和なんだよ。空気中に漂う粒子を、植物の呼吸を、生物の残骸を、あらゆる生命の流れを感じて、扱うことができる。それが神聖力なんだ」
わかるような、わからないような。
必死にアルヴァの説明を咀嚼していると、不意に腫れ物に触れるように右手を取られた。寝起きのアルヴァに捕まれていたほうの手だ。そして、手の甲にそっと額を寄せられる。前髪の感触がくすぐったい。
「乱暴して、本当にごめんね」
傷ましいくらい、優しい声だった。
それはまるで治療薬のように、ファーシルの腕から痛みが引いていく。
いつもそうだ。どれだけ家族から無下に扱われて傷ついても、悲しみの波に攫われそうになっても、心の柔らかな部分にいるアルヴァの存在が、暗闇の中で道しるべになってくれる。
アルヴァから与えられたものは太陽の光だ。ファーシルの中で一等輝き、ひなたぼっこをしたように心がぽかぽかと温かくなる。例えアルヴァのファーシルに対する態度が作りものだとしても、アルヴァに救われていることには変わりない。
だから、大丈夫。
まだ、耐えられる。
幻想にも似た光に盲目になり、足元に広がる翳りには気づかないふりをしていた。
その翳りがどろどろと足に絡みついていると気づいたのは、殿下の訪問から僅か三日後のことだった。
夕食の時間になっても、使用人が呼びにこないのだ。
怪訝に思ったファーシルがダイニングルームを覗くと、すでに食事は始まっていた。使用人がファーシルに伝え忘れたのかと思ったが、ファーシルの席が埋まっていることに気づいた。
――マリッサだ。
使用人が伝え忘れていたのではなく、ファーシルの席をマリッサに明け渡したのだ。
「マリッサ、そろそろ五つのお誕生日ね。神聖力の査定には、私たちもついていくわ」
「やったあ。ちょっと緊張してたので、安心しました」
「マリッサが聖女だと認められたら、いろんな家門から婚約の申し込みをされるでしょうね」
カーラとマリッサの会話は、まるで本物の家族みたいだ。
ファーシルの神聖力査定のときは、ついてきてくれなかったくせに。
全て使用人に丸投げして、結果さえ聞いてこなかったくせに。
「候補者が行列を作る前に、婚約者をつくっておくのもいいかもしれないな。うちのエルファンなんてどうだ。なかなか賢い子だぞ」
「ち、父上、おやめくださいっ」
ディランの冗談めかした本気の打診に、エルファンの顔が真っ赤に燃え盛る。初々しい反応に、エルファンがマリッサに想いを寄せていることを察した。
微笑ましい家族の会話に、マリッサは愛らしく笑っている。
こんなにも笑顔で満ちた食事の席を、ファーシルは知らない。
悲しいやら、悔しいやら、羨ましいやら、たくさんの感情が複雑に絡み合い、どろりと心の器から溢れていく。
今すぐ逃げ出したいのに、足が縫い止められているかのように動かない。
瞬きすら忘れて、幸せな食卓に目が釘づけになっていると、ファーシルの背中に暗い気配が覆い被さった。
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