泣かないで、悪魔の子

はなげ

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第一章 愛は食べられない

危ない誘い

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 突然声をかけられて振り返ると、薄暗い笑みを湛えた待女が立っていた。マリッサと同じブロンドの髪を見て、すぐに彼女の母――ネネッタだと分かったが、ファーシルの記憶にいるネネッタは、こんなふうに笑ってはいなかった。マリッサと庭園を散歩するネネッタを見て、笑顔がマリッサとそっくりだと思ったことを覚えている。

「ねえ、あなたはマリッサをどう思う?」

 ファーシルが何も答えないまま、新たな質問を投じられた。
 妙な胸騒ぎがする。

「どうって……」
「わたしはね、公爵様には感謝しているの。マリッサを産んですぐ旦那を落馬で失って、旦那とは駆け落ちだったから、生家にも帰れなくて。 暗闇の中でもがいていたわたしに、ここの仕事を紹介してくださった。それだけじゃない。託児所を撤廃したのに、特別に私たちの部屋を用意してくださった。マリッサと庭園を散歩する許可だって頂けたわ」

 ネネッタは訥々と語りはじめる。ファーシルに転がした質問の答えなんて、実際はどうでもいいみたいに。

「でも、いつからマリッサと庭園を散歩する相手が、母親のわたしではなく、公爵様たちになったのかしら?」

 窓の外を眺めることを日課とするファーシルには、ネネッタの言っていることがよく分かる。
 最初のころはマリッサとネネッタの二人だけだった。母娘が手を繋いで、庭園に咲く花を一輪ずつ、大切に愛でていた。しばらくして、そんな母娘にエルファンが加わり、次にカーラが加わり、最後にディランが加わった。楽しげに散歩するマリッサたちの五歩後ろを歩くネネッタの姿に、ファーシルは自分を重ねていた。

「本当はわたしたちの時間を邪魔されたくなかった。だけど、わたしの子をかわいがってくださるのはありがたいことだし、ただの待女のわたしが雇い主に文句なんて言えるわけない。だけど、マリッサは?」

 ネネッタは、ファーシルを見ていなかった。暗闇に浸したような眸は、扉の向こう側で食事を楽しむマリッサたちを見つめている。

「マリッサはちがうじゃない。まだ五つにも満たないあの子は、この場所におけるわたしたちの立場もよく分かってない。手を繋ぐ人は自分で好きに選べるの。嫌なら嫌って言えるのよ。あんなに特別扱いされてたら猶更だわ」

 なのに、と地を這うような声で、ネネッタは続ける。

「マリッサはわたしの手を取らなくなった。マリッサと庭園を散歩する相手はわたしではなくなって、わたしでは買えないようなプレゼントを贈られて、寝る前に絵本の読み聞かせをする時間は、マリッサからアレンツァのみなさんの話を聞く時間に変わってた。今日なんてわたしを置いてお食事しているのよ」

 ぐるん、とネネッタはファーシルを振り向いた。その眸は暗闇に浸したまま、口角だけをにたりと持ち上げる。

「わかる? わたしはね、マリッサに捨てられたの」

 ネネッタがどうしてファーシルに声をかけたのか分かった。子に捨てられた親と、親に捨てられた子。自分たちは同じであり、逆でもある。
 目の前にある昏い眸は、反射する自分の姿が見えないほど、深い闇を閉じ込めている。恨みに変えないと押し潰されてしまいそうな寂しさなら分かる気がして、ファーシルはそっとネネッタの人差し指を摘まんだ。とても冷たい。
 ネネッタはファーシルの小さな手を見やるとほくそ笑んだ。そして、その場に屈み、ファーシルと目線を合わせる。

「同情してくれるの? じゃあ、マリッサのこと殺してくれる?」

 爛々と躍り出た残酷なお願いに、ファーシルは目を瞠った。
 自分の子どもが他の大人にばかり懐いて寂しい気持ちは分かるが、それがどうして殺すという考えになるのか。飛躍しすぎだ。
 ファーシルはとっさに逃げようとしたが、それよりも早く、衣服の上から心臓のあたりを思いきり捕まれた。ネネッタの爪が胸の皮膚を抉り、心臓を引っこ抜かれるのではないかと、恐怖に身が竦む。

「愛してあげる」

 ネネッタは、逃がさない、とばかりに胸をガリガリと引っ掻いてくる。
 痛みと恐怖で、呼吸が浅くなる。

「あの子を殺してくれたら、わたしがあなたを愛してあげる」

 ねっとりした吐息で耳打ちされる。

「あなた、愛されたいのでしょう」

 家族からも、婚約者からももらえずにいる愛を、この人がくれるというのか。
 愛してほしい。愛されてみたい。愛を教えてほしい。しかし、ファーシルが憧れる「愛」とは、口約束でどうにかできるようなものではないと思う。だからこそ渇望しているのだ。
 ファーシルはぎこちなく首を左右に振った。

「い、いらないから、離して」
「あら、どうして? 愛されたいから、皇太子殿下に醜く縋っているんでしょう」

 ネネッタは昏い眸をずいと近寄せてくる。まるで何でも吸い込んでしまうブラックホールのようで、さっきからずっと頭の中で危険信号が鳴り響いている。

「醜い?」
「醜いでしょう。皇太子殿下から愛されることはないと分かっているのに、ありもしない可能性にかけてみてるんだから」
「ちがう。殿下は、俺のこと好きになる努力をしてるって」

 ネネッタは昏い笑顔に微かな憐憫を滲ませた。馬鹿な子、と嗤われているようだった。

「好きになれそうって言ってたのかしら」
「それは、俺次第だって……」

 正直にそう告げたとたん、ネネッタは磊落に笑った。

「それはねえ、皇太子殿下は婚約者を好きになる心積もりだし、殿下自身は準備万端だけど、相手があなただから好きになれないって言ってるのよ」
「……え?」
「本当は気づいているんでしょう? 皇太子殿下はあなたと過ごしているとき、いつも退屈で眠ってしまわれるそうじゃない。あなた、土俵にすら立てていないのよ」
「……でも」
「第一ね、その白い髪と紅い眸は悪魔の象徴。神の国であるディアロス皇国の皇太子が、悪魔の子を愛するわけがないでしょう」
「……でも」

 でも、に続く言葉が見つからない。悔しくて、血が滲むほど強く下唇を噛んだ。と、いつの間にか俯いていたファーシルの視線を掬い上げるように、ネネッタが下から覗き込んでくる。そして、さらに畳みかけてきた。

「皇太子殿下から愛されるなんて叶わない望みだと気づいているくせに、わざと見ないふりをしてるのよね。だって下を向いたら闇に飲み込まれるって分かっているから。鈍感なふりをして、ほんのわずかな光を追いかけてるの。――生きたくないって、思いたくないから」

 全て図星だった。
 自分の生に失望したくなかった。愛されることで、自分の居場所を見つけだそうとした。白い髪と紅い眸を持つ「悪魔の子」である自分を嫌いたくなかった。愛らしく笑い、他人からの好意を素直に受け取れるマリッサが羨ましかった。憎みたくなかった。だから負の感情に溺れないように、必死にもがいていた。
 気づいてしまったら、足元を浸す闇の嵩を測ってしまうだろうから。
 ファーシルが懸命に目を逸らしてきたものを、上天から突きつけられた気分だ。逃げ場のない現実に向き合う方法など分からないのに。

「でも、殺すなんて、できないよ……」
「いいえ、できるわ」

 ネネッタは食いぎみに断言すると、ファーシルの手に小さな袋を握らせた。見ると、中には白い粉が入っている。

「薬?」
「そう、毒薬よ。致死量入ってるわ」
「やだっ」

 ファーシルは驚いて、薬から手を離そうとしたが、ネネッタに薬ごと手を握り込まれてしまう。自分の手の中に子どもひとり殺せるくらいの凶器があると思うと、おぞましかった。
 どうやってネネッタに返そうか、幼い頭を悩ませていると、ダイニングルームの扉がゆっくり開かれて、ファーシルはとっさに薬をポケットの中にしまった。
 食事を終えた一同がぞろぞろと出てくる。

「ネネッタと……、お前はここで何をしてるんだ」

 ディランに冷たく見下ろされ、ファーシルは眉根を寄せた。
 夕飯の時間になっても一向に声がかからないから、様子を見にきたのだ。
 食卓から息子の席を奪った張本人が、奪われた息子に問う内容ではないだろう。しかし、その理不尽を責めたところで、ファーシルの屋敷での肩身は狭くなるだけだ。
 喉元まで込み上げてきた不満を嚥下していると、マリッサに話しかけられた。

「ねえ、さっき何をポケットにいれたの?」

 まずい。ごまかそうとするが、好奇心に満ちたマリッサの手がファーシルのポケットに伸びてきて、思わず突き飛ばしてしまった。
 その場に思いきり尻もちをつき、大きな眸に涙を浮かべるマリッサの姿に、ファーシルはハッとする。

「あ、ごめ……」

 慌てて差し伸べようとした手を、マリッサを庇うようにして屈んだエルファンに払われてしまった。エルファンだけではない。ディランも、カーラも、マリッサを心配して床に膝をつけている。
 その光景を、ファーシルは呆然と見つめた。
 頭の中を過去の記憶が駆け巡る。
 まだアルヴァの婚約者ではなかったとき。初めて招待された皇太子殿下の誕生パーティで、悪魔のようなファーシルの容姿は遠巻きにされていた。
 早々に主役のアルヴァにあいさつを終えていたファーシルは手持ち無沙汰で、腹を空かせているわけではなかったが、卓上に並べられた食事を吟味していたときだった。
 脇からドンッと衝撃が走った。
 気がつくと自分は床に尻をつき、衣服はびっしゃりとぶどうの色で染まっていた。

――どうして悪魔がここにいるんだ!
――人間になりすました悪魔め!
――いますぐ魔の森に帰れ!

 呆気に取られていたファーシルに、散々な暴言が降ってくる。紅い眸で見上げると、三人の少年がびくりとたじろいだ。先頭に立つ少年が握るグラスには、ファーシルの衣服を濡らす液体と同じ色の水滴がついている。
 と、騒ぎに気づいた周囲がざわつきはじめた。視線を巡らせてみると、家族たちと目が合った。しかし彼らは悪意に晒されたファーシルを助けることなく、人混みの中に姿を眩ませた。
 たった一言、大丈夫? と聞いてほしかった。
 あのときの惨めな気持ちが心のコップから溢れてくる。
 ファーシルは転んだとき、家族から心配されたことなんてない。
 他人から攻撃されたとき、庇ってももらえなかった。
 ふと、心配そうにマリッサに向けられたエルファンの眸が視界に入ってきた。その眸の持ち主は、視線の先にいる少女を優しく立ち上がらせると、その小さな肩を抱いた。
 大切そうに触れる兄の手をぼんやり眺めていると、突然、カーラに容赦なく頬をぶたれた。

「やっと本性を現したな! やはりお前は悪魔の子だ!」

 自分の手によって盛大に倒れる幼い体を見下ろし、血眼になってカーラが叫ぶ。マリッサのために怒るカーラに、ファーシルは何かに縋るように、けれど諦めたようにも聞こえる声でそっと告げた。

「……俺は母上の子です」
「悪魔が母胎に利用したのよ! わたしの子はエルファンだけ!」

 心底不快そうに頬を歪ませるカーラからは、やはりファーシルへの愛情は一切見えてこない。

「マリッサ、うちに住みつく悪魔の子供がすまなかった。大丈夫か」
「はい。いきなり触ろうとしたから、びっくりさせちゃったんだと思います」
「とても清らかな子だ。本当にすまなかったな」

 叩かれた頬だけでなく、耳までもが痛くなってくる。
 マリッサを心配するディランの声も、それを当たり前のように受け取り、さらにファーシルの擁護までするマリッサの純粋な声音も、そんな彼女に対するディランの賞賛も、全部が耳障りだ。吐き気がしてくるほどに。
 ディランの大きな手のひらがマリッサの髪を優しく撫でたのを見やり、ああ、撫でられたこともなかったな、とファーシルは冷めた心で俯瞰した。

「お前は当面の間、謹慎だ。自分の部屋から出てくるんじゃない」

 床から起き上がれずにいるファーシルに冷たく吐き捨てると、ディランはマリッサたちを引き連れて、その場を去っていた。もちろん、ファーシルを振り返ることはない。
 一同の背中が見えなくなると、ずっと黙っていたネネッタがファーシルの前に屈み、腫れた頬にそっと触れてきた。

「大丈夫? って、聞かれたいんでしょう」
「……やめて」
「何も言わずとも、心配してくれた誰かに手当てをしてほしいんでしょう」
「……やめてったら」

 ファーシルの制止も聞かず、ネネッタは昏く微笑んだまま畳みかけてくる。

「傷つけられたら、自分のために怒ってほしいんでしょう」
「やめろ!」

 ネネッタの言葉は毒薬のように、ファーシルの心を闇で溶かしていく。
 ファーシルよりも、ネネッタのほうがずっと悪魔に近いのではないだろうか。
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