泣かないで、悪魔の子

はなげ

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第一章 愛は食べられない

婚約者の訪問

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 窓の外では、兄と両親が手を繋いで庭園を散歩していた。
 厚手のカーテンを開く手にためらいがなくなったのはいつからだったろう。最初のころは怖いもの見たさに、おそるおそるカーテンをめくっていた。窓からの景色は自分を奈落に突き落とすだけだと分かっていたが、外から聞こえてくる楽しげな声に誘われるかのように。
 無感動に眺めていると、幸せ家族にひとりの少女が駆け寄った。ブロンドの髪をふわりなびかせ、母がまとうドレスの膨らみに飛びつく。幸せ家族が振り向くと、少女は青空を閉じ込めたようなスカイブルーの眸を嬉しそうに細めた。その愛らしさは、幸せ家族にさらなる幸せを贈ったようだ。
 視界に広がる笑顔の連鎖が、傷つかないように冷凍していた胸を小さく叩いた。
 そのとき、コンコンとドアをノックされた。「どうぞ」と入室を許可すると、待女がドアから顔を覗かせる。
 窓辺に佇む部屋の主を見る待女の目には怯えを含んでいた。

「そろそろ第一皇子殿下がいらっしゃるお時間です」
「うん。お出迎えの支度をしないとね」

 冷凍していた心を急速に溶かし、正装に着替えるべくクローゼットへ向かう。待女は忙しなく視線をさまよわせて、

「お、お召し物が決まりましたらお呼びください。では」

 と言い残して、さっさと去っていった。
 ファーシルは召し物を選んでも待女を呼びつけたことはなかったし、きっと待女もファーシルが呼びつけないことを分かっていることだろう。
 遠ざかっていく足音を聞きながら、クローゼットの扉裏にある姿見に自分を映した。
 鮮血のように紅い眸と、雪のように白い髪。きっとこの惑星をひっくり返しても、同じ色を持つ人間は見つからないだろう。色素の薄い肌にうっすら滲む桃色の血色感だけが、かろうじて自分を人間だと思わせてくれる。

―― ファーシル・アレンツァは悪魔の子。

 物心ついたときから浴びせられてきた心ない言葉は、いくら擦っても落ちない渇いた血のように、すっかり耳にこびりついてしまった。
 その噂は血のつながった家族のくちから生まれたものだと知っている。
 ディアロス皇国は古代、神が住まう国だった。創造の神が大海原に陸を作り、神の住処にしたのだ。しかし神々の思想がぶつかり、やがて戦争に発展した。神々は兵器となる器を作り、命を吹き込んだが、完成したそれは理性のない怪物ばかりだった。神に噛みつき、聖水を飲み尽くし、陸を焼き払った。見境なく暴れ回る凶悪さから魔物と呼ばれ、とくに赤い眸と白い毛並みを持つ魔物は力が強く、悪魔と称された。
 神々が作った兵器には魔物だけでなく「人間」もいた。人間は理性を持つものの、兵器にはなりえないほど脆弱で、魔物とは正反対の存在だった。
 戦争は魔物の闖入により大いに荒れ、やがて陸の上から神の姿は消えた。生き残ったのは、僅かな魔物と、ずっと隠れていたふたりの人間だけだった。そしてそのふたりは手を取り合い、ディアロス皇国を築き上げていったのだ。
 誰もが知る建国神話だ。その中に出てくる悪魔の特徴がファーシルと酷似していることから、家族は「悪魔の子」と揶揄してくるようになり、その噂は社交界にまで広がった。
 それでもアレンツァ公爵がファーシルを廃嫡にしないのは、その悪魔の子こそがこのディアロス皇国が誇る皇太子――アルヴァ・ル・クロフォードの婚約者だからだ。
 アレンツァ公爵家には、代々受け継がれている孤島とその周辺の海域がある。その領地を皇帝が欲していることは知っていた。婚約式で皇帝と父――ディラン・アレンツァ公爵が話しているのを、たまたま耳にしたのだ。
 目上の権力に弱いディランなら無償で領地を貸し出したはずだが、息子たちをわざわざ政略で婚約させたということは、公にできない目的があるということだ。
 アルヴァは皇帝の思惑に利用されただけ。望んでもいないのに、悪魔の子を押しつけられただけ。
 分かっているのに。
 ファーシルはこっそり夢を見ている。婚約者というのは、特別ということだと思う。もしかしたらアルヴァが、悪魔の子と呼ばれる自分のことを好きになってくれるのではないか。家族からは得られない愛を、彼が教えてくれるのではないか。
 淡い期待を抱いて、いつも婚約者との逢瀬を待ちわびている。
 ファーシルはアルヴァと会うために支度をする時間も、彼を待っている時間も好きだ。殺伐とした日常の中で、彼への恋心だけが冷えた心を温めてくれる。
 召し物に着替え、アルヴァの眸の色でもある黄金色のジャボブローチを飾ったと同時、ふわり花の香りをまとった微風が部屋に流れこんできた。
 振り返ると、開かれた窓の隙間から、プラチナブロンドの柔らかな髪が小さく揺れていた。彼は優雅な仕草で窓枠から部屋に降りる。ファーシルに気づいた黄金の眸がにこりと微笑んだ。日差しを吸い込んだような眸はどんな宝石よりも美しい。同じ色のジャボブローチを飾ったつもりだったが、全くの別物だ。彼の眸の秀麗さには到底及ばない。
 その美しい眸の中に、間抜けな顔をする自分を見つけて、ハッとした。

「ご、ごあいさつが遅れまして」
「そんなかしこまらないでくれ。むしろ悪いね。不法侵入してしまって」

 悪びれもしない笑顔で謝られる。

「どうして窓から? ここ二階ですけど、木登りでもされたんですか」
「うん。婚約者が僕に会うために着飾る姿を見たくてね」
「覗きなんて変態くさいです」
「手厳しいな」

 嘘つき。
 くちの中で毒吐いた。アルヴァから愛されたいと願っている相手に、息を吐くように嘘を吐くくちびるが憎たらしい。
 彼は悪魔さえもが魅了するほど甘いマスクを持っているが、甘い言葉は似合わない。彼は六つのファーシルより二つ歳上のだけだが、年齢にそぐわない圧がある。
 本当の理由を教えてくれないのなら、薄っぺらいを嘘を受け取ってしまおう。

「立ってもらったままで申し訳ありません。どうぞお寛ぎください」

 皇族の訪問には、一家全員でお出迎えをしなければならないしきたりだ。公爵たちに殿下が到着したことを伝えてもらおうと、待女を呼ぶべくドレッサーの上に置いていたベルに手を伸ばしかけたとき。

「公爵たちには伝えなくていいよ」

 え、とファーシルは驚いて振り返った。アルヴァは音もなくセンターテーブル前のアームチェアに腰を沈め、悪戯を企むように目を細めた。

「殿下がいらっしゃったのにごあいさつをしないなんて、公爵家にそんな無礼を働けと?」
「僕が到着したのに出迎えをしない時点で無礼だろう」

 それは不可抗力だ。まさか皇太子が不法侵入し、二階の高さまで木を登って、ファーシルの部屋に窓から入ってくるなんて、訪問経路が独特すぎる。

「僕を出迎えてくれたのは君だけだよ。さすが僕の婚約者だね」

 アルヴァと会うために支度をする時間帯を狙って部屋に侵入されたのだから、ファーシルが居合わせたのは当然だ。アルヴァの思考が全く読めない。
「もしかして殿下、アレンツァがお嫌いですか」
「……そうだね。アレンツァ公爵家は皇帝一派だからね。僕は皇帝が嫌いなんだ」

 内緒だよ、とアルヴァが弧を描いたくちびるの前で人差し指を立てた。
 二人だけの秘密。特別な響きで悪くないけれど。

「アレンツァがお嫌いということは、俺のことも?」

 耳に返ってきた自分の声は明らかに落ち込んでいて、アルヴァのことが好きだと訴えかけているかのようだった。恥ずかしくて目を伏せると、吐息で笑う気配があった。

「君のことは好きになる努力をしている最中だよ」
「本当ですか? 努力は実りそうですか?」
「それは君次第かな」

 にこり胡散臭い笑顔を向けられて、この人はどこまでも皇太子だなと思った。あくまでアルヴァは評価する側の人間なのだ。きっと、その皇太子の仮面を剥がさないと、彼から愛はもらえないのだろう。

「殿下、サロンに行かれますか?」

 アレンツァ公爵家にアルヴァを招くときは、サロンか庭園で過ごすことが多い。今日は庭園だと家族たちと鉢合わせてしまうので、サロンで過ごすのが妥当だろう。しかし、アルヴァからの返答は予想の斜め上から降ってきた。

「いや、今日は君の部屋で過ごしたい」
「え。どうしてですか?」

 ファーシルは睫毛を瞬かせる。

「君、よく僕に手紙を送ってくれるだろう。書いてほしくてね」
「で、殿下の御前でですかっ」
「うん。いつもどんな風に僕宛ての手紙を書いているのか見たいんだ」

 美しい笑顔を前に、ファーシルは苦々しく逡巡する。アルヴァのことで頭をいっぱいにして文をしたためる姿など、本人に見せるものでもないだろう。しかし皇太子の望みを断るわけにもいかない。
 ファーシルは頬を羞恥の色に染めて、堪忍した。

「……わかりました。その前にお茶を淹れてきますので、少々お待ちください」
「お茶を飲みながら手紙を書く君を見られるなんて贅沢だな。オペラグラスを持ってくるべきだった」
「劇場じゃないんですよ」

 アルヴァの冗談を軽くあしらい、ファーシルはお茶を淹れるべく厨房へ向かった。
 歩きながら、どういう風の吹き回しだろう、と考える。確かにファーシルは定期的にアルヴァに手紙を送ってはいるが、返信はないことのほうが多い。アルヴァはすでに公務にも携わっており多忙なので、あえて返信がいらないような他愛ない内容を綴っていた。
 アルヴァのことを考えて万年筆を走らせ、二つに折った便箋を封筒に入れ、蝋を垂らして封をする。ファーシルにとってはその作業が、殺伐とした日常の中で、唯一の安寧だった。
 ただ自分のために書いていただけの手紙だ。アルヴァにとっては、ただの紙切れだとしても構わなかったのに。
 もしかして少しは自分からの手紙を楽しんでくれているのかもしれない。膨れる期待を小さく萎ませていると、厨房に着いた。てきぱきお茶の用意をし、トレイにティーセットをのせる。
 アルヴァを待たせたくなくて自然と早足になるが、ティーポットを倒しそうになって、慎重に運ぶことにした。
 部屋に戻ると、ドアの前に少女が佇んでいた。スカイブルーの眸が怯えたようにファーシルを捉える。さっき庭園でひとの家族に飛びついていた子だ。
 マリッサ・メルキース。それが少女の名だ。
 アレンツァ公爵家が雇う使用人の宿舎には、先代から使用人の子を預かる託児所が併設されていた。しかし現公爵のディランは託児所を撤廃することに決めると、屋敷の空き部屋をマリッサと彼女の母である待女に与えたのだ。

「ここでなにしてるの」
「みんなを待ってるの」

 まだ四つのマリッサは舌足らずに説明する。と、部屋の中から父の声が聞こえてきた。

「皇太子殿下、ごあいさつが遅れまして申し訳ありません」

 どうやらアルヴァの到着を聞きつけ、あいさつをしに訪れたらしい。
 ディランに続いて、母のカーラと兄のエルファンもあいさつする。皇族の訪問には一家全員で出迎える決まりだが、マリッサはアレンツァ家の一員ではないので、外で待つしかないのだ。
 それにしても、とファーシルは小首を傾げる。誰にも告げていないのに、どうやってアルヴァがファーシルの部屋にいることを知ったのだろう。

「思ったより早かったですね。どうして僕がここにいることを?」

 ファーシルの疑問が、アルヴァのくちびるから落ちた。

「風が教えてくれたんです」

 突然、マリッサがドアを開けて答えた。
 皇太子から発言を許されたわけでもないのに、あいさつさえ省いて、アレンツァに投じられた質問を横取りするマリッサに、ファーシルはぎょっとする。
 しかしアルヴァは驚いた素振りも見せず、にこりと笑った。

「君はメルキース男爵家のご息女だね。風が教えてくれたというのは?」
「風にも声があるんですよ」

 ファーシルにはマリッサの言葉が理解できなかったが、アルヴァは違ったらしい。くっくと笑い「風か……」と小さく反芻した。
 とたん、ファーシルの心臓が大きく拍動した。どくどく、どくどく。心臓が勢いよく不安と恐怖を全身に送り出す音がする。ファーシルは俯いて、浅く呼吸をした。
 アルヴァが、マリッサに興味を抱いている。
 嫌だ、と強く思う。嫌だ。嫌だ。アルヴァだけは盗らないで。

「マリッサ、少し待っててと言ったのに」
「ごめんなさい、エルファンさま。アルヴァ殿下のご到着に気づいたのはわたしなので、わたしが説明するべきだと思って……」
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