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善之介、恋の蕾開く時

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 身支度を整えて、深まる闇の中を善之介は走っている。
 並の者なら容易に足を取られそうな夜の森も、幼い頃から遊び場にしてきた善之介にとっては昼日中の如し。猿のようだと揶揄されてきた身軽さで、迫り出す木の幹を踏み越え蹴り飛ばし先へと進む。

 城の方では今頃、騒ぎが起こっているだろう。しかしその喧騒も木々のざわめきに紛れて善之介の元までは届かない。ただ真っ直ぐ、巴丸を信じて、善之介は二人との合流地点へ向かった。

「……っは」

 ずっと走り続けだったせいで息が上がる。
 ここで体力を消耗し過ぎて後に響いてもいけない。少し休もうと近くの木の幹に寄り掛かり、大きく肩を揺らして呼吸した。それから辺りを見回し、人の気配を探る。

「……まさか……付けられていないだろうな」

 常日頃から巴丸という格の高い忍と行動を共にしていた善之介には、下忍の見張り等は付いていない。日常生活の中で善之介が巴丸の目を離れる隙も当然あったが、それでも、幼い頃から伊示地家の忠実な傀儡として仕込まれてきた嫡男が反旗を翻すなど、伊示地家にとっては想像するのも愚かしいくらいで、だからこそ、暮里の元に通って遊ぶ程度の自由が許されていたといえる。

 つまり巴丸の身に何かあって自分達の背信行為が露見するまでは、善之介を追ってくるような者はいないはず――いないはずだ。
 解っているはずなのに、妙にむずむずとして腹の中が気持ち悪い。緊張感で胸が圧迫されたように息苦しかった。自分達は何か大きな見落としをしているような気がする。

(いや、考え過ぎだ)

 そう自分に言い聞かせ、首を振ると善之介はまた先へ向かった。ここから先は善之介もあまり歩いたことのない忍の隠れ路だ。先程までよりは少しだけ慎重に、足を踏み外し大きな音など立てぬように、爪先を運ぶ。

 樹齢何千年という巨木の幹を回り込み、その裏側のさらに影、入り組み奥まった茂みを向こう側に抜けると、恐らくは昔野生の熊が塒にでも使っていたのだろう洞穴がぽっかりと姿を現す。その洞穴に潜り込み、奥へ奥へ。奥へと突き抜けるとその向こうは崖の上、迫り出した岩場に繋がっていた。

「おっと」

 うっかり足を踏み外しそうになって一歩引き下がる。
 手探りで縄梯子を探し、そこからさらに登った場所にある粗末なあばら家が巴丸の秘密の隠れ家であった。

「……こんなところにどうやってこの資材を運んだのだか」

 そもそも善之介は忍というもののことがよく解らない。巴丸は忍の生活のことを語りたがらなかったし、武士は忍に深入りしないことこそが彼等に対する礼儀なのだと、これまできつく言い含められてきた。それを話したら巴丸は酷く苦々しい顔をしていたけれど。

 だから巴丸がどんな術を使うだとか、これまでに何人を闇に葬ってきただとか、そんなことはよく解らないし、知りたいとも思わない。けれど純粋に「こんなことが出来る忍はすごいものだ」とは思う。

「さて、邪魔をするぞ」

 旅装束を崩さぬまま、小屋の中に入ると善之介は辺りを見回した。
 小さな囲炉裏と乾いた薪。それ以外には何もない、つまらない場所だ。それでも善之介にとっては希望の始まる場所だ。入り口近くに腰を下ろすと、腰の刀を胸に抱くようにして善之介は辺りの気配に意識を張り巡らせるように目を閉じた。

 小屋の周りに吹き付ける谷風。木の枝葉が擦れ合う音。窓辺から射し込む薄っすらとした月明かり。まだ、二人はここに辿り着かない。

(……焦るな。別れたのはつい先刻だろうが)

 善之介と巴丸、彼等は本人達が思うよりずっと互いの能力を高く評価していたし、信頼していた。善之介は巴丸がやるといったのだから、きっと暮里はここに来る、と信じた。
 それは同時に、暮里の自分への確かな感情、なんらかの愛情、もしくは執着を信じたということでもある。
 こうして、ただ座って何も出来ずにいるというのは、能動的で自由闊達な善之介にとってはそれだけで忍耐を強いられるものだ。それでも彼等の為なら、今自分の為に手を尽くしてくれている二人の為なら、これくらい待てないなんて泣き言は言えない。
 そこまで考えて少し笑う。

「俺はなんで、こんなことをしてしまったのだろうな」

 いつの間に自分はこんなに人間臭くなってしまったのか。
 伊示地家の傀儡、お飾りの嫡男、哀れな猿山の見世物大将。生きることは諦めだ。束の間の熱ばかり追い求めて生き急いでいた自分が、今は遠い夢のように感じる。
 暮里、巴丸。
 彼等と生きる未来を、善之介は望んだ。その為ならばどんな犠牲も構わないとすら思った。

 そりゃあ誰かを傷付けるなら一人でも少ない方が良い。それが国の為とあれば、忍の命一つなんて軽いものだろう。そんなもの――善之介個人にとっては大事な何物にも代え難いそれ――の為に今、善之介はその何十倍、何百倍の命をどぶに捨てようとしているのだ。これまで何人もの小作人が圧政に苦しみ息絶えるのを見過ごしてきた自分が言うのもなんだが、正気の沙汰じゃない。

「……なのに、なんだこれは……ああ、俺は今とんでもなく不味いことをしていると……思えば思うほど……はは、ぞくぞくするじゃないか」

 これまで押し付けられてきた役割を逸脱すればするほど、常軌を逸すれば逸するほど、訳の分からない興奮を覚える。踏み外した道の先に光が見えているのだから尚のこと。この先に行きたい、この境界の先を知りたい。そんな欲望がふつふつと湧き上がった。堪え切れない笑いが口元を歪ませる。

「……ああ……俺はとうとう頭がイカレてしまったのかもしれないな」

 これまで理性で押し留め、守りに守ってきた武士としての、”伊示地”善之介の生き方。それがガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。いつ崖から落ちるとも解らない緊迫感、緊張感。それが堪らなく――キモチイイ。

「ふ、は……ははっ」

 大きく肩が揺れて、声が漏れた。

「死んでもいい、とは……きっとこういうことを言うんだな」

 いや、死んでいる場合ではないか。ここで死んでしまってはあまりに勿体ない。これから楽しいことも嬉しいことも胸が弾むことも興奮することもたくさんあるだろう。それを暮里と味わっていくのだ。その為に自分はここにいるのだから。その為に何もかもを棄て、何もかもを壊し、犠牲にしてさえも。自分の隣に立つのは彼しかない。彼しか要らない。
 ――彼と、歩いて行きたいのだから。

「ああ、そうだ」

 その時不意に、すとん、と胸に落ちたものがあった。

「……俺は、彼に……暮里に惚れているのか」

 そうか、そうだったのか。
 縁談にも他の女達の色目にも、老弱男女を篭絡する巴丸の手管を見せつけられても、胸が躍るはずもない。暮里の女よりも美しい花の顔、洗練された上流階級の気品と雄々しさの入り混じる身のこなし、時折儚さと憂鬱さが滲むその眼、七色の声音、飄々と善之介を手玉に取る言葉回し。何もかもが善之介にとっては掛け替えなく、酷く……愛しい。

 どくん、どくん、どくん、と。胸が高鳴る。いつか見た夢の欠片が蘇ってくる。

 見知らぬ土地、見知らぬ時、名もなき旅人して出会い、絆を深め、浅はかな戯れといえどついには結ばれる。夢のような夢のまた夢。正夢などになりようもない世界。なのにその夢が自分に与えた感触、繋いだ指の手応えは、今も生々しく善之介に残っている。

(ここから逃げ出して安全な場所に辿り着いたら、彼に夢の話をしよう)

 彼のことだ、きっと楽しそうに目を輝かせて善之介の話を聞いてくれる。そしてきっと「なるほど、善之介さんはそんなにやつがれが好きだということですね」なんて揶揄ってくることだろう。そうしたら善之介は言うのだ。

『そうとも、俺はおまえを好いている』

 暮里は驚くだろうか。目を丸くして、嫌悪感を見せるだろうか。下らない冗談だと一蹴されるだろうか。それともはにかみ、咲き零れる花のように笑うだろうか。――なんとなくだが、一番後者のような気がした。
 今の自分ならば、今の彼ならば。あの夢のように、初めて結ばれる想い合った夫婦のように、口付けの前に漏れる吐息にさえ胸を締め付けられながら、優しい優しい契りを結べるだろう。
 それはとても、とても綺麗な想像で、善之介は自分の顔が自然緩むのを感じる。

 その時、微かに自然物とは違う音がした。

 はっと顔を上げると小屋の外に人の気配があった。二人が無事、ここに辿り着いたに違いない。善之介は弾かれたように立ち上がり、入口の扉に手をかける。

「暮里、巴丸、待っていた――」
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