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鮮やかな幻覚の中で

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(……さ……暮……と……暮里……)

 柔らかな声に呼ばれる。

 ふわふわとした浮遊感。

 否、落ちているのか。

 ふわふわ、ふわふわ、ふわふわと……まるで蒲公英の綿毛にでもなったように、暮里はゆっくりゆっくり、暗闇の中、落ちていく。

(暮里……暮里……暮里……)

 この声を知っている。
 忘れられない声。忘れたくない声。もう二度と呼ばれることは無いと思っていた。
 大切な大切な、暮里の命よりも大切な、儚く美しい魂を持った人。

(……明星……さま……)

 唇が動くと同時、暮里の体はぽふんと柔らかなものの上に辿り着いた。

 目を開くとそこは穏やかな日差しの降り注ぐ城の中庭で、馨しい花の香りが甘く体を包み込んでいる。春の気配だ。吹く風が優しく肌を撫で、手を伸ばすと柔らかい緑の若芽に指が触れた。生き生きとした緑の息吹さえ感じる。そして明るく萌え広がる花々の向こうに――明星がいる。

「暮里、おいで」

 にこにこと朗らかに、まだ健康的であった頃の彼女そのままに、明星が呼んだ。暮里を呼んだ。
 引き寄せられるように立ち上がり、暮里は彼女の前に跪く。明星は微笑んで、かつてそうしたように暮里の頭を撫で褒めた。

「良い子ね、暮里。よく来てくれました、妾が褒めてつかわします」

 偉そうにそう言って胸を張る。それから冗談よと表情を崩して、ころころと鈴を鳴らすように笑うのが彼女の常の戯れであった。暮里しか知らない、暮里と明星だけの道化た遊び。

(驚いたな。噂には聞いていたが、これほどのものとは思わなかった。こんなの……まるで現実じゃないか)

 巴丸が知っているわけがない。こんな”夢”を彼が見せられるわけがないのだ。ということは、きっとこれは暮里の記憶から引き摺り出された幻覚なのだろう。――ただの幻、そう解ってはいても、目の前の明星はあまりにも”明星”だった。暮里の胸は苦しいほどに高鳴り、言葉を発しようとして喉が詰まる。目頭が酷く熱い。

「明星様」
「なにかしら、暮里」
「明星様……暮里は……暮里は貴女に、お会いしとうございました」

 漸く言葉を絞り出す。と同時に、決壊したように涙が零れ落ち、ほとほとと暮里の頬を濡らした。手を伸ばし掛けて、止める。現実ではないと頭では解っているのに、それでも主君である明星に自ら触れることは理性が許さなかった。
 それを知ってか知らずか、明星は暮里の頬をその指で拭い、天女のように穏やかに笑った。

「おや、驚いた。貴方の泣き顔を見るのは初めてね、暮里」
「……ぁ……」
「貴方はどんなに酷い怪我を負わされても、どんな酷い嫌がらせに遭っても、嬉しい時も楽しい時も……妾の前では一度も泣きませんでした。代わりに妾は泣いてばかりでしたね」 

 思い出を懐かしむように明星は言う。暮里は何故か恥ずかしいような気持になって少し俯いた。それでも零れる涙は止められず、白魚のような明星の指をしとしとと濡らす。

「恥ずかしい姿をお見せして申し訳ございません」
「可笑しな子ね、一体何を謝ることがあるというの?妾は祝福しているのよ。貴方がそうして感情を取り戻したことは、喜ばしいことだわ」
「いいえ……いいえ。これは恥ずべきことです。僕は忍だ。世冶宮せいぐうの忍に感情など不要……それなのに、幻の貴女にまでこのようなことを言わせて、自分の迷いに言い訳を与えようだなんて。今更……この国の為に、貴女の為に、死にたくない、だなんて……なんて卑しい……なんて浅ましい……」

 はは、と苦く笑いを零す。片手で顔を覆い、深く幾度か呼吸した。
 これは幻覚、これは幻覚、これは幻覚。何度もそう自分に言い聞かせる。幻覚の明星が自分に投げかける言葉は、自身が心の奥底に抱えている甘え。そうあって欲しいという願望に他なるまい。決して明星自身の言葉ではないし、暮里は二度と明星に許されることなどないのだと、解っている。ちゃんと理解している。――理解、しているはずだ。

 なのに、暮里の感情を反映しているはずの明星は相変わらず鮮やかで朗らかで、揺らぐことも崩れることもない。当の暮里がこんなに悩み惑っているのがいっそ滑稽なほど。

「暮里」
「……はい、明星様」
「暮里。妾の最期の言葉を覚えていますか?」
「最期の言葉?」
「……思い出して、暮里。妾の願い、妾の祈り」

 顔を上げると、柔らかくも芯の通った明星の目に視線が克ち合った。その言葉の意味が解らず、暮里は戸惑いを浮かべる。
 目の前の明星は自分の記憶から生まれたものだ。それなのに、自分の知らないことを問いかけてくるなど、有り得るのだろうか?それともこれは、自分が記憶の底に封印してしまった”事実”なのだろうか。

「貴方は今、幸せ?」
「……それは」
「貴方の幸せは何?」
「僕の幸せは……明星様の元に……」
「妾は貴方の”夢”……妾に何を告げようと、ここには貴方を罰する者などおりません。さあ、貴方の本当の望みを、貴方の幸せを、妾に教えて頂戴」

 暮里の頬を両の手で包み込んで、明星は飴玉のような瞳を瞬かせた。その仕草に既視感を覚えながらも、暮里は抗えない。明星の顔をしたその幻影は甘い砂糖菓子に似た花の香りを纏い、暮里にもう一度囁く。

「暮里、貴方の幸せは、なぁに?」

 チカ、と目の中に光が射し込むような感覚。次の瞬間、胸の奥の奥の奥底に鍵をかけてしまい込んだはずの許されない感情が、再び鮮やかに羽を広げた。

(あ)

 あふれる。

 その感覚に戸惑って、その想いの本流を押さえ込もうと暮里は己の胸を押さえる。

 自分にとっての幸せ――色を失いかけていた世界が輝きを取り戻すような錯覚――重ねた掌のぬくもり――弾けるような笑顔――愛してる――彼と二人ならどこまでも行けるような気がした――愛してる――きらきらと目映く宝石をちりばめたような日々――愛してる――泣き出したくなるような愛しさを知った――愛してる――自分の中にこんな欲望があることを初めて知った――愛してる――自分がただの人間かもしれないとふと感じた――愛してる――愛してる――愛してる――善之介、貴方を愛してる――

(……駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ)

 こんなのは駄目だ。解ってる。だから殺したはずだ。この想いは、願いは、祈りは、押し潰し、忘れたことにしたはずだ。

 それなのに、募る恋情は流れ行く先の”その人”の人柄そのままに五月蠅く騒がしく、心の臓の内側から暮里の体を叩いてその存在を主張した。隠そうとしてもこの幻の世界は理不尽で、いつしか暮里の胸に現れた扉からはぽろぽろと小さな向日葵が零れ落ち、暮里の足元に積み上がる。花弁の一つ一つに映るのは二人の思い出。忘れ難い、彼と過ごした短い季節の欠片達。

「あ、あ、あ、……」

 そんなものを明星に見られることが恥ずかしくて、暮里は顔を真っ赤に染めるとその場に蹲った。体を使ってそれを覆い隠そうとしても、一度溢れ出した想いは止め処なく、金色の滝のように後から後から湧き続ける。

「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 抑え切れない。隠せない。明星が見ている。暮里を見ている。暮里の中から溢れるものを見ている。知られてしまう。もう駄目だ。知られてしまった。もう駄目だ。恥ずかしい、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい、なのに――どうしよう、そのことが少しだけ嬉しいんだ。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 いつしか子供のように泣きじゃくり、暮里は明星へと許しを乞うていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……明星様、僕を許して……」
「妾が何を許さないというのです?」

 大きく目を見開いて、暮里は明星を見た。彼女は相変わらず微笑んでいて、少しも怒ってなどいないように見えた。それを信じ切れずに、暮里は咆哮する。

「……明星様、ぼくは、ぼくはっ……」

 両手いっぱいの向日葵を抱き締めて、まるで神の遣いへとその罪を告白するように、その喉から血を吐くほどに、初めて――そう、初めてその想いを音に乗せる。

「貴方のいない世界で、生きる意味を見付けてしまった……貴方以外の人間を愛してしまった!ぼくはっ……僕は死にたくない!彼と……彼の生きる世界で、僕は……まだ、生きたい!生きていたい!!」

 ――明星は艶やかに微笑んで、一度、頷いた。
 花弁が舞い上がる。その向こうに明星の姿を覆い隠す。きらきらと世界が輝いて、眩しくて、眩しくて、目を開いていることさえ難しい。

「やっと……貴方は辿り着いてくれた」
「……明星様?」

 すぐそこに触れていたはずの手が遠くなり、彼女の存在が自分から離れていくのを感じた。

「明星様……明星様、明星様!」

 手を伸ばしてももう届かない。暮里は慌てて立ち上がり駆け寄ろうとしたが、それは吹き荒れる花弁に阻まれた。けれど彼女の声だけははっきりと暮里の耳に届く。

「忘れないで。貴方は妾の忍。もうとっくの昔から”世冶宮せいぐう”の名は貴方を縛らない。だからどうか――妾の代わりに、幸せに。それが、妾から貴方に命じる、最後の願い」
「明星様、貴女は……僕にそれを伝えに……」

 目映い光の中で、明星の唇が動いた気がした。
 ――さあ、貴方は誰?





「僕は――”明星”の忍だ」





 世界が反転し、そして、目が覚めた。
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