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12_過去の呪縛
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朱美に向井の送別会の段取りを頼んでいたことを思い出し、飲み会の時間、場所の予約状況を確認した。朱美はすでに駅前の居酒屋を予約しており、出席者についても今から連絡するところだと私に伝えた。
「じゃあ、それで皆には連絡しておいてください。当日は私も一旦家に帰ってから、直接そちらに向かうから」
それだけ朱美に伝えると、私は自席に戻り再び仕事に集中しようとした。
しかし、パソコンのキーボードを打つ手を止め、視線を上げると、朱美がこちらを見ていることに気づく。いつから私を見ていたのかはわからないが、目が合った途端に彼女は慌てて視線を逸らした。
顔を背けた際に長い黒髪がさらりと揺れる。その仕草を見た瞬間、三十年以上前の記憶が蘇った。生田里美。私が人生で初めて告白した女性。彼女とは会社の同僚で、入社当初から気になっていた。だが、あの事件が原因で里美は人生が狂ってしまった。私も必死に説得したが、彼女を止めることはなかった。精神的にも不安定になったことで、彼女は会社を辞め、実家からも出て行き、一人で人生の再出発を試みた。その後、彼女との再会は一度きりだった。あの時、私たちは互いに多くを語らなかった。ただ、もう別々の人生を歩んでいることを確認しただけだった。
里美が去ってから三年後、ちょうど私が同僚の紹介で優子と出会い、結婚を決めた頃だった。それまで里美とは連絡を取ることもなかったし、彼女からも何の音沙汰もなかった。互いに、あの事件を無かったことにしたかったのだと思う。彼女との再会は、予期せぬものだった。
里美との再会は一度っきりだった。その数か月後、私は、優子と籍を入れた。妻は、妊娠して勤めていた学校を退職、長男の悠磨を出産した。3年後には教師として復職した妻に代わって、保育園の送迎など私がすることになった。当時は役職も無く会社の低迷期でもあって時間の余裕はあった。優子との間に生まれた悠磨は高校卒業後、就職してすでに五年が経つ。目の前にいる朱美は、悠磨と同じ年。私にとっては娘のような存在のはずだった。
定時のチャイムが鳴り、朱美と向井が仕事の手を止めて帰り支度を始める。最近の若者は仕事とプライベートを明確に分け、定時になれば迷いなく帰る。悠磨からも『昔の話や武勇伝を会社で喋るな』と釘を刺されている。先輩や上司のアドバイスは、今の若者には無用なのだろうか。内心『やりにくさ』を感じながら、それでも一緒に仕事を遂行して行かなくてはならない、中間管理職の板挟みをひしひしと感じる。
向井と朱美が『お疲れさまでした』と一声かけ、事務所を後にする。二週間後には、向井が部署移動で私の課を去っていく。暫くは朱美と二人でこの課を運営していくことになる。特に不安はない。新入社員ながらも、彼女はしっかり仕事をこなしているし、コミュニケーションも取れている方だと思う。ただ、一つだけ気がかりなことと言えば、自分の心の揺らぎだった。私が不安なのは、朱美に対する自分の気持ちだった。
初めて朱美を見たとき、心の奥底に封じ込めたはずの記憶が、ふいに呼び覚まされた。三十年前、里美に抱いたあの感情が、娘ほど年の離れた朱美に重なる。私は、何かおかしくなってしまったのだろうか。顔も、声も、話し方もまったく違うのに、それでも、毎日職場で出会う朱美に、仕事を教えている何気ない時に、過去の記憶を重ねてしまう。心の奥深くで蠢く何かが痛みのように胸を締め付けてくる。そんな自分が怖かった。
若い頃のように、顔には出さないが、この感情を彼女に悟られてはいけない。もし立場が逆なら、九十歳近いおばあさんに『好きです』と言われるようなものだ。困惑するに決まっているし、こちらもお断りするしかない。父親と同じ歳の上司から好意を持たれても、自分がそんな立場なら困惑するだろう。私のこの気持ちは、墓場まで持っていくつもりだった。
私は、自分の仕事に専念するために、パソコンに向き合った。
向井の送別会は、駅前の居酒屋で元部下を交えて無事お開きとなった。二次会は、若者たちに任せ、私は自宅まで歩いて帰ることにした。向井に一言激励の言葉をかけ、朱美には、幹事の礼を言い、元部下たちに手を振り、駅とは反対方向に歩き出した。
街灯が照らす歩道に、酔い潰れた会社員らしき男がしゃがみ込んでいる。その横を通り過ぎると、背後でタクシーが止まる音がした。週末の夜、駅前はまだまだ賑やかだ。二次会へ流れる者、終電を気にする者、それぞれが夜の終わりを迎えようとしていた。
私は酒に強い方では無かったが、若い頃は宴会の雰囲気が好きで、同僚たちとよく飲みに行った。里美と初めて話したのも居酒屋の席だった。独身時代はスナックに入り浸り、金を湯水のように使ったこともある。しかし、優子と結婚してからは、飲み歩くこともなくなった。今では、せいぜい社内で行われる合同の忘年会位のものだった。若い頃に酒での失敗も色々してきているので、宴会の席でも自重は心得ている。今も足取りはしっかりしている。夜風が頬を撫で、少し熱のこもった体を冷ましてくれる。人通りの少ない道を選び、ゆっくりと歩を進めた。
駅前の喧騒から少し離れたところで、ポケットの中の携帯から着信音が聞こえ、バイブレーションが体に伝わる。 私は、優子からのラインだと思い、『今から歩いて帰ると』連絡しておけば良かったと思った。そう思いながら携帯を取り出し、ラインの通知を見る。そこに表示されていたのは、朱美の名前だった。
朱美は、車で帰るつもりでノンアルコールを飲んでいたはずだ。駅前の駐車場から車を出したのか、向井達と二次会へ行ったのかはわからなかったが、ラインには、『今から逢えますか?』と書かれている。
一瞬、彼女の意図を測りかねた。二次会に来てほしいという意味だろうか?それとも何か相談があるのか?
『二次会に行っているのか?』と返信すると、すぐに既読がつき、朱美からの返事が届いた。
『まだ、駅前の駐車場です。戻ってこれますか?』駐車場? まだそこにいる? 何故?
私は足を止め、無意識に周囲を見渡した。遠くに駅のネオンがぼんやりと瞬いている。向井たちはもういないだろう。若者たちに任せた二次会が盛り上がっているのなら、朱美もそこにいるはずだ。なのに彼女は、一人で車に残っているという。
『みんなと一緒か?戻ってもいいが、若い子だけの方が盛り上がるだろ?』
『みんなは帰りました。私一人です』
その言葉に、私は立ち止まった。私は朱美の真意を疑った。何故、私を誘う必要があるのだろうか。私は、何か試されているのだろうか。もし、この誘いに乗って行ったら、実は皆が待ち構えていて、冗談半分に冷やかされるのではないか。そんな不安がよぎる。
だが、今日のメンバーは、そんなことをするだろうか。私は部下の顔を思い浮かべながら考える。朱美はそういうタイプの人間ではない。彼女は真面目で、どちらかといえば控えめな性格だ。何か本当に話したいことがあるのかもしれない。私はしばらくその場に立ち尽くした。 行くべきか、帰るべきか。
私はしばらく考えた末、迷いを断ち切るように静かに息を吐いた。そして優子に『帰りが遅くなるから、寝ていて構わない』とメッセージを送り、踵を返して駅へと歩き出した。
「じゃあ、それで皆には連絡しておいてください。当日は私も一旦家に帰ってから、直接そちらに向かうから」
それだけ朱美に伝えると、私は自席に戻り再び仕事に集中しようとした。
しかし、パソコンのキーボードを打つ手を止め、視線を上げると、朱美がこちらを見ていることに気づく。いつから私を見ていたのかはわからないが、目が合った途端に彼女は慌てて視線を逸らした。
顔を背けた際に長い黒髪がさらりと揺れる。その仕草を見た瞬間、三十年以上前の記憶が蘇った。生田里美。私が人生で初めて告白した女性。彼女とは会社の同僚で、入社当初から気になっていた。だが、あの事件が原因で里美は人生が狂ってしまった。私も必死に説得したが、彼女を止めることはなかった。精神的にも不安定になったことで、彼女は会社を辞め、実家からも出て行き、一人で人生の再出発を試みた。その後、彼女との再会は一度きりだった。あの時、私たちは互いに多くを語らなかった。ただ、もう別々の人生を歩んでいることを確認しただけだった。
里美が去ってから三年後、ちょうど私が同僚の紹介で優子と出会い、結婚を決めた頃だった。それまで里美とは連絡を取ることもなかったし、彼女からも何の音沙汰もなかった。互いに、あの事件を無かったことにしたかったのだと思う。彼女との再会は、予期せぬものだった。
里美との再会は一度っきりだった。その数か月後、私は、優子と籍を入れた。妻は、妊娠して勤めていた学校を退職、長男の悠磨を出産した。3年後には教師として復職した妻に代わって、保育園の送迎など私がすることになった。当時は役職も無く会社の低迷期でもあって時間の余裕はあった。優子との間に生まれた悠磨は高校卒業後、就職してすでに五年が経つ。目の前にいる朱美は、悠磨と同じ年。私にとっては娘のような存在のはずだった。
定時のチャイムが鳴り、朱美と向井が仕事の手を止めて帰り支度を始める。最近の若者は仕事とプライベートを明確に分け、定時になれば迷いなく帰る。悠磨からも『昔の話や武勇伝を会社で喋るな』と釘を刺されている。先輩や上司のアドバイスは、今の若者には無用なのだろうか。内心『やりにくさ』を感じながら、それでも一緒に仕事を遂行して行かなくてはならない、中間管理職の板挟みをひしひしと感じる。
向井と朱美が『お疲れさまでした』と一声かけ、事務所を後にする。二週間後には、向井が部署移動で私の課を去っていく。暫くは朱美と二人でこの課を運営していくことになる。特に不安はない。新入社員ながらも、彼女はしっかり仕事をこなしているし、コミュニケーションも取れている方だと思う。ただ、一つだけ気がかりなことと言えば、自分の心の揺らぎだった。私が不安なのは、朱美に対する自分の気持ちだった。
初めて朱美を見たとき、心の奥底に封じ込めたはずの記憶が、ふいに呼び覚まされた。三十年前、里美に抱いたあの感情が、娘ほど年の離れた朱美に重なる。私は、何かおかしくなってしまったのだろうか。顔も、声も、話し方もまったく違うのに、それでも、毎日職場で出会う朱美に、仕事を教えている何気ない時に、過去の記憶を重ねてしまう。心の奥深くで蠢く何かが痛みのように胸を締め付けてくる。そんな自分が怖かった。
若い頃のように、顔には出さないが、この感情を彼女に悟られてはいけない。もし立場が逆なら、九十歳近いおばあさんに『好きです』と言われるようなものだ。困惑するに決まっているし、こちらもお断りするしかない。父親と同じ歳の上司から好意を持たれても、自分がそんな立場なら困惑するだろう。私のこの気持ちは、墓場まで持っていくつもりだった。
私は、自分の仕事に専念するために、パソコンに向き合った。
向井の送別会は、駅前の居酒屋で元部下を交えて無事お開きとなった。二次会は、若者たちに任せ、私は自宅まで歩いて帰ることにした。向井に一言激励の言葉をかけ、朱美には、幹事の礼を言い、元部下たちに手を振り、駅とは反対方向に歩き出した。
街灯が照らす歩道に、酔い潰れた会社員らしき男がしゃがみ込んでいる。その横を通り過ぎると、背後でタクシーが止まる音がした。週末の夜、駅前はまだまだ賑やかだ。二次会へ流れる者、終電を気にする者、それぞれが夜の終わりを迎えようとしていた。
私は酒に強い方では無かったが、若い頃は宴会の雰囲気が好きで、同僚たちとよく飲みに行った。里美と初めて話したのも居酒屋の席だった。独身時代はスナックに入り浸り、金を湯水のように使ったこともある。しかし、優子と結婚してからは、飲み歩くこともなくなった。今では、せいぜい社内で行われる合同の忘年会位のものだった。若い頃に酒での失敗も色々してきているので、宴会の席でも自重は心得ている。今も足取りはしっかりしている。夜風が頬を撫で、少し熱のこもった体を冷ましてくれる。人通りの少ない道を選び、ゆっくりと歩を進めた。
駅前の喧騒から少し離れたところで、ポケットの中の携帯から着信音が聞こえ、バイブレーションが体に伝わる。 私は、優子からのラインだと思い、『今から歩いて帰ると』連絡しておけば良かったと思った。そう思いながら携帯を取り出し、ラインの通知を見る。そこに表示されていたのは、朱美の名前だった。
朱美は、車で帰るつもりでノンアルコールを飲んでいたはずだ。駅前の駐車場から車を出したのか、向井達と二次会へ行ったのかはわからなかったが、ラインには、『今から逢えますか?』と書かれている。
一瞬、彼女の意図を測りかねた。二次会に来てほしいという意味だろうか?それとも何か相談があるのか?
『二次会に行っているのか?』と返信すると、すぐに既読がつき、朱美からの返事が届いた。
『まだ、駅前の駐車場です。戻ってこれますか?』駐車場? まだそこにいる? 何故?
私は足を止め、無意識に周囲を見渡した。遠くに駅のネオンがぼんやりと瞬いている。向井たちはもういないだろう。若者たちに任せた二次会が盛り上がっているのなら、朱美もそこにいるはずだ。なのに彼女は、一人で車に残っているという。
『みんなと一緒か?戻ってもいいが、若い子だけの方が盛り上がるだろ?』
『みんなは帰りました。私一人です』
その言葉に、私は立ち止まった。私は朱美の真意を疑った。何故、私を誘う必要があるのだろうか。私は、何か試されているのだろうか。もし、この誘いに乗って行ったら、実は皆が待ち構えていて、冗談半分に冷やかされるのではないか。そんな不安がよぎる。
だが、今日のメンバーは、そんなことをするだろうか。私は部下の顔を思い浮かべながら考える。朱美はそういうタイプの人間ではない。彼女は真面目で、どちらかといえば控えめな性格だ。何か本当に話したいことがあるのかもしれない。私はしばらくその場に立ち尽くした。 行くべきか、帰るべきか。
私はしばらく考えた末、迷いを断ち切るように静かに息を吐いた。そして優子に『帰りが遅くなるから、寝ていて構わない』とメッセージを送り、踵を返して駅へと歩き出した。
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