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続き
母と息子の親子喧嘩
しおりを挟むご近所さんからおすそ分けで頂いた野菜で何を作ろうかしらと、胡蝶が台所で悩んでいると、
「これだから教養のない人間と話すのは嫌なんだ」
「教養のないのはどっちだ。俺は兄貴に勉強で負けたことねぇぞ」
「それはガキの頃の話だろ」
「たかが警察学校を出たくらいで偉そうに」
「兄貴に向かってなんだ、そのものの言い方は」
「うるせぇ、肝心な時に家にいないくせに。こういう時だけ兄貴面するなってんだ」
「表へ出ろっ」
「おおうよ、上等だっ」
長男の辰之助と次男の虎太郎の声が聞こえた。
どうやら口論しているようなので、つい心配になって様子を見に中庭に出てきてしまう。
年が近いせいか、子どもの頃はよく取っ組み合いの喧嘩をしていた二人だ。
そのたびに胡蝶は母を呼んで二人の喧嘩を止めてもらったものだが、
――兄さんたちもいい大人だし、そんな子どもじみた真似はしないわよね。
と思った矢先、目の前で取っ組み合いの喧嘩が始まった。
しばらく呆気にとられてその光景を見ていた胡蝶だったが、
――母さんを呼びにいかないと。
しかし母は今、膝の具合が悪いからと言って病院へ行っている。
そのことを思い出して、胡蝶はきゅっと唇を閉じた。
――私が止めるしかないわね。
父や卯京がこの場にいれば、「ほっとけ」「徹底的にやらせろ」などと無責任なことを言うだろうが、そのせいで二人が大けがをしたらどうするのかと、お佳代なら怒って反論するだろう。胡蝶も同じ意見だ。結局のところ、怪我をしたらしたで、手当やら看病やらは女にやらせて、男どもは何もしないのだから。
――余計な仕事を増やすんじゃないよっ、って母さんなら怒鳴るんでしょうけど。
頬っぺたを叩いて、胡蝶は自身を奮い立たせる。
それから大きく息を吸い込んで、
「二人ともっ、喧嘩はおやめなさいっ」
腹に力を入れて怒鳴ったつもりが、兄たちに全くこたえた様子はなく、
「お前には関係ないだろっ、胡蝶」
「そうだっそうだっ」
「危ないから離れてろっ」
「今日こそ辰にぃをぶちのめしてやるっ」
「馬鹿かっ、警官の俺に勝てるわけねぇだろっ」
「ああん? 農夫の腕力なめんなよっ」
むしろ火に油を注ぐ結果に。
妹に強いところを見せようと、いっそういきり立つ二人だった。
――ああ、どうしましょ。困ったわ。
自分は年長者だから、勉強ができるから、腕っぷしが強いからと、いつだって上下関係をはっきりさせたがる兄たちだが、妹である胡蝶にとってはどっちもどっち……どんぐりの背比べ程度にしか思えない。
――こうなったら……。
「一眞さん、いらっしゃる?」
それほど大きな声を出してもいないのに、兄たちは恐怖にひきつったような顔で胡蝶を見る。
「兄さんたちの喧嘩を止めて欲しいのだけど……」
次の瞬間、生垣の向こう側からわらわらと黒い子狐たちが飛び出してくる。
軽く十匹はいるだろうか。
子狐の姿だと胡蝶が喜ぶので、あえてその姿をとっているようだ。
数が多いのは、周辺を巡回するために分身の術を使っているからだろう。
「ばっ……胡蝶っ」
「狐の兄さんに頼るなんて卑怯だぞっ」
結局、一眞の介入で喧嘩は両成敗に終わり、辰之助は逃げるように仕事に戻っていった。残された虎太郎といえば、実家暮らしゆえに逃げも隠れもできず、「いい加減、大人になれ」と帰宅した母に説教されていた。
しまいには「いつになったら一人前になって、孫の顔を見せてくれるの?」などとお佳代の説教は徐々に愚痴めいたものになっていき、「辰之助はまだいいほうだよ。独身だけど安定した職があるんだから。あの卯京でさえ、嫁さんをもらって、もうすぐ父親になるっていうのに、お前ときたら……」
気づけば責めるよう言葉を口にしていた。
それまで黙って母親の説教に耳を傾けていた虎太郎だったが、さすがにこれにはカチンときて――早々に逃げた辰之助は御咎めなしなのに、なぜに自分だけが叱られなければならないのかと、口を尖らせるて母を見る。
「なんでぇ、貧乏でも苦労してりゃあ偉いっていうのかよ」
「ご近所さんを見てみなよ。北さんのところなんて、お前の歳で三人の子どもと奥さんを養っているじゃないか」
「あいつの何が偉いもんか。飽きっぽい性格で仕事が続かないから、仕方なく農家を継いだんだろ。しかも借金まみれで、土地も家も抵当に入っているそうじゃないか。その上、慣れない力仕事で身体崩して、今じゃほとんど寝込んでやがる。俺は奥さんのほうが気の毒でならねぇよ。実家に頭下げて、仕送りで食いつないでるんだから」
「……そうかい、そんな事情があったなんて知らなかったよ」
「隣の芝生は青く見えるもんだからな」
「それにしても、北さんの奥さんは立派だねぇ。いっつもニコニコして、年寄りにも親切だし。あんな人がお前の奥さんになってくれたら、あたしも安心なんだけど」
お袋……と虎太郎はウンザリしたように顔をしかめる。
「年寄りが安心するとろくなことねぇぞ。ぽっくり逝くか、ボケるかのどっちかだ」
「ひどいこと言うねぇこの子は」
「お袋の親父もボケる前によく言っていたじゃないか。悩みがないのが悩みだって」
「そういえば生垣さんの奥さんも、末の娘さんが嫁いだ途端ぽっくり逝っちまったねぇ」
「親に心配かけるのも親孝行のうちだと思ってくれ」
口達者な息子に言い負かされまいと、お佳代も語調を強くする。
「お前、親を馬鹿にするのもたいがいにしな」
「馬鹿になんかしてねぇよ」
「なら、そんな口の利き方はできないはずだよ」
「だったら親に盾突くなって言いたいのか? 何でも親の言うことには従えって? それはそれで自主性がないって、心配するくせに」
「お前が何を考えているのか、時々分からなくなるんだよ」
「俺だって分からないさ。自分のことなんて。考えだって、その時々でころころ変わっちまう。けど、お袋はどうなんだよ? 初めから親父と結婚するって分かってたのか? それを目指して努力していたのか? 自分にできねぇことを子どもに押し付けるのは傲慢だ」
「傲慢なのはお前のほうさ。あたしはねぇ、虎太郎、結婚しなきゃいけなかった。子どもを産まなきゃいけなかったんだ。そういう時代だったんだよ。でなきゃ、人間扱いしてもらえなかった。お前はそんな目に遭ったことがないから、分からないんだねぇ」
その時、虎太郎の脳裏に嵯峨野家で起きていた出来事が脳裏を過ったものの、
「お袋の苦労自慢はもう聞き飽きたぜ」
つい憎まれ口をたたいてしまう。
「いいから聞きな。そりゃ母さんだって、貧乏は嫌だよ。できればお金持ちの家に嫁ぎたかったさ。けれど生まれが生まれだったから、結婚できただけでも運が良かったんだよ。卯京は父さんのことを嫌っていたけどねぇ、悪い人じゃなかった。ちゃんと働いてくれたし、嫌なことがあっても、怒鳴り散らしてあたしや子どもに手をあげることもなかった。もっとひどい男も世の中にはいるからねぇ。父さんはマシなほうさ」
「俺にも、お袋と同じ道を歩めっていうのか? 自分の考えを俺に押し付けるのか?」
「そんなこと言っちゃいないよ。どうしてお前はいつもそう喧嘩腰になるのさ。母さんはただお前を心配して……」
「だったら言うけどなぁ、俺だってお袋のことが心配だよ」
たまりかねたように言い、虎太郎は立ち上がる。
「親父が死んでから、抜け殻みたいになっちまったお袋が、今みたいに元気で説教できるのは、胡蝶がそばにいるからだ。その胡蝶がいなくなったら、お袋はどうするんだ? 子どもの心配するのもいいけどなぁ、たまには自分の心配もしろよ」
そう吐き捨てると、虎太郎はぷいっと顔を背けて、ふらりと外へ出て行ってしまった。
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