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胡蝶、家出した次兄を心配する

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「母さん、虎太郎兄さんがどこへ行ったのか知らない? さっきから捜しているのだけど、どこにもいないのよ」

 暗がりで縫物をしていたお佳代は、ふうっと疲れたようにため息を吐くと、

「あの子なら……出ていきましたよ」
「だったらいつ戻ってくるかしら?」
「いいえ、もう戻ってきません」

 そう言って、お佳代は眼鏡をかけて作業に戻る。
 胡蝶は何やら胸騒ぎを覚えて、お佳代の前に座った。

「話して、母さん。何があったの?」

 お佳代は再び手を止めると、憂鬱な顔で一枚の紙切れを胡蝶に差し出す。
 そこには荒々しい筆跡で『この家を出てく。捜さないでくれ』とだけ書かれていた。

 間違いなく虎太郎の字だ。
 ショックを受けて固まる胡蝶に、お佳代は苦笑いを浮かべる。

「いつものことですよ。何か気に入らないことがあると、ぷいっと家を出ていくんですから」
「母さん、虎太郎兄さんに何を言ったの?」

 昨日、辰之助と喧嘩した虎太郎を、母が厳しく𠮟りつけたのは知っていたが、台所にいたので会話の内容までは聞こえなかったのだ。しばらくのあいだ、お佳代はきまり悪そうに黙っていたが、
 
「あの子が悪いんですよ。親に対して、あのものの言い方はあんまりです」

 その時のことを思い出したのか、カッカしながら口を開いた。

「必死に産んで、育ててあげたのに。親を馬鹿にして」

 話の内容を聞いて、ようやく腑に落ちた。
 胡蝶はまっすぐお佳代の顔を見つめながら言った。

「母さん、兄さんはそんなつもりで言ったんじゃないと思うわ」
「お嬢様まで、あの子の味方をするんですか?」

「そうじゃないの。ただ、私もよくお父様や清春様に似たようなことを言われたから、気持ちが分かるのよ。女が男に意見を言うなんて生意気だ、お前は俺を見下しているんだろうって……でも私、二人を見下してなんていなかった……そんなこと、考えたこともなかったわ。母さんは、どう思う? 私はあの二人を馬鹿にしているかしら?」

「お嬢様が? ありえませんわ。むしろ人を見下していい気になっているのは彼らのほうです」

 怒りのためか、お佳代は頬を赤くする。

「昔から、男が女を黙らせたい時によく使う手ですわ」

 そこでハッとしたようにお佳代は手で口を押えた。
 そんなお佳代に気づかず、胡蝶は思い出したように言う。

「そういえば、父さんも母さんによく言っていたわね。お前は俺を馬鹿にしているのかって……」
「……ええ、ええ、知らず知らずのうちに、夫の口癖がうつってしまったんですねぇ」
「兄さんたちも同じよ。昨日はそのせいで喧嘩したのだもの」
「それにしたって、親に心配かけるのも親孝行のうちだなんて……あまりにもひどすぎますわ」

 確かにそれは言い過ぎだと胡蝶もうなずく。
 柳原家の三兄弟は、そろいもそろって口が悪いのである。

「本当ね。一体誰に似たのかしら」

 憤慨する胡蝶に、お佳代はギクッとしたように顔を背ける。

「あの子の怒った顔……久しぶりに見ました」

 どこか悔やむような顔でお佳代は手紙を見返していた。
 そんな母の姿を見て、


 ――母さんは……寂しいのね。


 ふと胡蝶は考えた。

 子育てしているご近所さんの話を持ち出したのも、本音はあの人たちのことが羨ましくて仕方なかったのかもしれない。貧乏で苦労しながらも、家族で支え合いながら明るく楽しく生きている。近くを通れば、我が子を叱る母親の声、子どもたちの泣き声や笑い声が絶えず聞こえてくるから。

 ――昔を思い出して、懐かしい気持ちになるのも無理はないわ。

 今思えば、あの頃の母はなんと頼もしく、輝いていたことか。

 胡蝶にとって、この家で過ごした子ども時代は幸福で、満ち足りたものだった。
 そして、それは母にとっても同じなのだ。

「少しでも悪いと思っているのなら、虎太郎兄さんに会って、謝ればいいじゃない」
「それは……できません」
「どうして?」
「できないんですよ。親は子どもに弱みを見せないものです」

 断固としてお佳代は言う。
 親が自分の非を認め、謝罪することが、果たして弱みになるのかと、胡蝶はもやもやしてしまう。

「それに、謝るのは虎太郎のほうですよ。親に対して、あんな口の利き方をして」
「まずは母さんがお手本を見せないと。兄さんだって、どうしていいのか分からないと思うわ」
「いいえ、嫌です。あの子を余計、付け上がらせるだけじゃありませんか」

 必死に説得を試みるものの、暖簾に腕押しという言葉が脳裏を過る。

「……母さん、以前、言ってたじゃない。子どもたちは子どもたちで好きにやればいいって……あれは嘘だったの?」
「言いましたね、そんなことも」
「なら、このまま、喧嘩別れしてしまってもいいの?」

 と胡蝶は心配するが、お佳代の態度は変わらず、

「少し歩いてきます」

 しまいには逃げるようにして部屋を出て行ってしまう。
 その後、一眞をお茶に招いて、胡蝶はこのことを彼に相談した。

「一言、謝れば済むことだと思うのだけど……」

 話を聞いて、一眞は眩しそうに胡蝶を見返す。

「自分の非を認めて謝罪する……簡単なように思えますが、実はとても難しいこことなんですよ」
「あら、そうなんですの?」
「例えば紫苑殿下は、ご自分の非を認めることはあっても、謝罪の言葉を口にすることはまずありません」
「あの子はプライドが高いから……」

「それもあると思いますが、殿下のお立場上、してはならないことだからです。必ずそれ相応の責任が伴いますから。ですが胡蝶に対しては、殿下は躊躇なく許しを請うことでしょう。胡蝶のことを心から愛し、信頼しておいでだから」

 なるほど、とうなずく胡蝶に、一眞は教育係らしい口ぶりで続ける。

「器の大きい人間ほど、この手のことに長けていると言います。謝るにはまず、自分の非を認めなければいけませんから。そのためにはある程度の強さと勇気が必要となります。殿下はプライドが高いから、と胡蝶は言いましたが、むしろ自分に自信がないために、謝罪の言葉を口にできない人間もたくさんいるんですよ」

 それを聞いて、胡蝶は恥じ入るように頬を染めた。

 ――一言謝れば済むだなんて……私のほうが傲慢だったのかもしれないわ。

「一眞さん、私、自分がお節介だってことは重々承知しているの」
「分かっています。虎太郎さんには警護を一人つけていますから、いつでも連絡はとれますよ」

 いよいよ一眞には頭が上がらないと感じながら、胡蝶は感謝の言葉を口にした。

 

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