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本編
戦わずして負けるおつもりですか?
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「よりにもよって、見合いの相手があの嵯峨野勘助だなんて――っ」
帰宅すると、すぐさまお佳代が出迎えてくれた。
辰之助も仕事を早めに切り上げ、帰りを待っていてくれたようだ。
「かあさん、知ってるの?」
「そりゃあもう、有名人ですから。大衆新聞でもしょっちゅう取り上げられてますし」
「一介の労働者から叩き上げで工場の社長、銀行の取締役を経て議員にまで上り詰めた傑物だからな」
辰之助の声には、素直に憧れの色が滲んでいた。
「男としては尊敬できるが、妹の結婚相手としては……ちょっとなぁ」
「そうだねぇ、若い頃の放蕩が過ぎて、子どもが作れないって噂だしねぇ」
それは初耳だと、胡蝶は目を見張る。
「そもそも麗子夫人が喜々として勧めてくる縁談ですよ、裏があるに決まってるじゃありませんか」
「大した財産家らしいから、前金でも受け取ってんじゃねぇのか?」
「いやだねぇ、それだとまるでお嬢様が金で買われたみたいじゃないか」
お佳代は途中ではっとしたように口を押さえると、
「申し訳ありません、お嬢様。つい……」
「いいのよ、かあさん。実を言えば、私も気が進まないの」
たまらず本音をこぼす。
二人にだけは、素直な気持ちを打ち明けられた。
「あの方、欲しいのは料理人ではなく妻だと言っていたわ。私から料理を取ってしまったら、何も残らないのに」
「平民出のわりに、プライドが高いんですねぇ」
「貴族に舐められたくないんだろう」
「嵯峨野家は、お妾さんやお姑さんがいる大所帯で、使用人もたくさんいますし、そこらへんのお貴族様より、よっぽど裕福な暮らしをしていますよ。ですが、子どもが作れないとなると……」
「胡蝶は肩身の狭い思いをするだろうな」
「それにお妾さんや前妻との間に、5人も子どもがいますしねぇ」
「悪いことは言わねぇ、胡蝶。そんな縁談断っちまえ」
「そうですよ、お嬢様。苦労するのが目に見えているじゃありませんか」
――二人の言い分はもっともだけど。
断る云々以前に、端から胡蝶に決定権はないのだ。
子どもが親に逆らうことなど断じて許されない――高位貴族として生まれた者の宿命である。
仮に胡蝶が嫌がったとしても、麗子が強行するに決まっている。
「今日は疲れたから、早めに休むわね」
そう言って、心配そうな二人の視線から逃げるように、自室に駆け込む。けれど布団の中に潜り込んでも一向に眠気は訪れず、胡蝶は縁側に座ると、夜風に当たってぼんやりしていた。
――そういえば今日は一度もコンを……一眞様を見ていないわね。
どういうわけか、急に彼の顔を見たくなって、小声で彼を呼ぶと、
「一眞様、いらっしゃる?」
「……こちらに」
声が聞こえたほうに顔を向けると、少年の姿をした彼がいた。正体がバレたことで開き直ったのか、今回は仮面を付けておらず、あどけない素顔を晒している。
――眼帯は付けたままなのね。
おそらく子どもの姿をしていたほうがいざという時、身を隠しやすいのだろうと思い、深く追及しなかった。
「紫苑のところへはまだ戻っていないのですね」
「それほど私がお邪魔ですか?」
がっかりしたように訊ねられ、「いいえ」とかぶりを振る。
「できることなら、ずっと一緒にいて欲しいくらいです」
「……からかわないでください」
「からかってなどいません。いつも仕事熱心で、一眞様の奥様が羨ましいわ」
「妻はいません。独り身ですから」
「でしたらまだ婚約の段階かしら?」
「はい。一度も会ったことはありませんが」
やはり、親が決めた婚約者がいるようだ。
痛む胸を押さえて、胡蝶は言った。
「その方のこと、どうか大切にしてくださいね」
子どもの頃から結婚に対する憧れは強く、清春と婚約してからも、努力すれば幸せな家庭が築けると信じていた。けれどその結婚が失敗に終わり、自信を失ったところへ、新たな縁談話が持ち上がり、胡蝶は混乱していた。
「たとえ、自分の意向に沿わない相手だとしても……」
「胡蝶様はそうやって自分に言い聞かせているのですか?」
切り込むように問われ、ぐっと唇を噛み締める。
「戦わずして負けるおつもりですか?」
胡蝶は顔を上げると、睨みつけるようにして彼を見た。
おそらく、先ほどのやりとりを聞いていたに違いない。
「幽閉されている私に、何ができるというのです?」
「何も貴女一人の力でどうにかできるとは思っていませんよ」
口調は淡々としていたものの、一眞の目は優しく、一心に胡蝶を見つめていた。
「自分では何もできないとお思いなら、恥もプライドも投げ捨てて、助けを求めればいい」
子どもの頃の自分だったら、簡単にできたことだ。
泣いて助けを求めればいつだって、家族の誰かが助けてくれた。
――紫苑に助けを求めろと言うの?
それとも皇后陛下に?
「微力ながら、私も力になります」
力強い言葉だった。
その言葉に勇気づけられた気がして、胡蝶はぎゅっと拳を握り締める。
「ありがとうございます、一眞様。おかげで目が覚めました」
――麗子夫人の思い通りになんて、なるものですか。
帰宅すると、すぐさまお佳代が出迎えてくれた。
辰之助も仕事を早めに切り上げ、帰りを待っていてくれたようだ。
「かあさん、知ってるの?」
「そりゃあもう、有名人ですから。大衆新聞でもしょっちゅう取り上げられてますし」
「一介の労働者から叩き上げで工場の社長、銀行の取締役を経て議員にまで上り詰めた傑物だからな」
辰之助の声には、素直に憧れの色が滲んでいた。
「男としては尊敬できるが、妹の結婚相手としては……ちょっとなぁ」
「そうだねぇ、若い頃の放蕩が過ぎて、子どもが作れないって噂だしねぇ」
それは初耳だと、胡蝶は目を見張る。
「そもそも麗子夫人が喜々として勧めてくる縁談ですよ、裏があるに決まってるじゃありませんか」
「大した財産家らしいから、前金でも受け取ってんじゃねぇのか?」
「いやだねぇ、それだとまるでお嬢様が金で買われたみたいじゃないか」
お佳代は途中ではっとしたように口を押さえると、
「申し訳ありません、お嬢様。つい……」
「いいのよ、かあさん。実を言えば、私も気が進まないの」
たまらず本音をこぼす。
二人にだけは、素直な気持ちを打ち明けられた。
「あの方、欲しいのは料理人ではなく妻だと言っていたわ。私から料理を取ってしまったら、何も残らないのに」
「平民出のわりに、プライドが高いんですねぇ」
「貴族に舐められたくないんだろう」
「嵯峨野家は、お妾さんやお姑さんがいる大所帯で、使用人もたくさんいますし、そこらへんのお貴族様より、よっぽど裕福な暮らしをしていますよ。ですが、子どもが作れないとなると……」
「胡蝶は肩身の狭い思いをするだろうな」
「それにお妾さんや前妻との間に、5人も子どもがいますしねぇ」
「悪いことは言わねぇ、胡蝶。そんな縁談断っちまえ」
「そうですよ、お嬢様。苦労するのが目に見えているじゃありませんか」
――二人の言い分はもっともだけど。
断る云々以前に、端から胡蝶に決定権はないのだ。
子どもが親に逆らうことなど断じて許されない――高位貴族として生まれた者の宿命である。
仮に胡蝶が嫌がったとしても、麗子が強行するに決まっている。
「今日は疲れたから、早めに休むわね」
そう言って、心配そうな二人の視線から逃げるように、自室に駆け込む。けれど布団の中に潜り込んでも一向に眠気は訪れず、胡蝶は縁側に座ると、夜風に当たってぼんやりしていた。
――そういえば今日は一度もコンを……一眞様を見ていないわね。
どういうわけか、急に彼の顔を見たくなって、小声で彼を呼ぶと、
「一眞様、いらっしゃる?」
「……こちらに」
声が聞こえたほうに顔を向けると、少年の姿をした彼がいた。正体がバレたことで開き直ったのか、今回は仮面を付けておらず、あどけない素顔を晒している。
――眼帯は付けたままなのね。
おそらく子どもの姿をしていたほうがいざという時、身を隠しやすいのだろうと思い、深く追及しなかった。
「紫苑のところへはまだ戻っていないのですね」
「それほど私がお邪魔ですか?」
がっかりしたように訊ねられ、「いいえ」とかぶりを振る。
「できることなら、ずっと一緒にいて欲しいくらいです」
「……からかわないでください」
「からかってなどいません。いつも仕事熱心で、一眞様の奥様が羨ましいわ」
「妻はいません。独り身ですから」
「でしたらまだ婚約の段階かしら?」
「はい。一度も会ったことはありませんが」
やはり、親が決めた婚約者がいるようだ。
痛む胸を押さえて、胡蝶は言った。
「その方のこと、どうか大切にしてくださいね」
子どもの頃から結婚に対する憧れは強く、清春と婚約してからも、努力すれば幸せな家庭が築けると信じていた。けれどその結婚が失敗に終わり、自信を失ったところへ、新たな縁談話が持ち上がり、胡蝶は混乱していた。
「たとえ、自分の意向に沿わない相手だとしても……」
「胡蝶様はそうやって自分に言い聞かせているのですか?」
切り込むように問われ、ぐっと唇を噛み締める。
「戦わずして負けるおつもりですか?」
胡蝶は顔を上げると、睨みつけるようにして彼を見た。
おそらく、先ほどのやりとりを聞いていたに違いない。
「幽閉されている私に、何ができるというのです?」
「何も貴女一人の力でどうにかできるとは思っていませんよ」
口調は淡々としていたものの、一眞の目は優しく、一心に胡蝶を見つめていた。
「自分では何もできないとお思いなら、恥もプライドも投げ捨てて、助けを求めればいい」
子どもの頃の自分だったら、簡単にできたことだ。
泣いて助けを求めればいつだって、家族の誰かが助けてくれた。
――紫苑に助けを求めろと言うの?
それとも皇后陛下に?
「微力ながら、私も力になります」
力強い言葉だった。
その言葉に勇気づけられた気がして、胡蝶はぎゅっと拳を握り締める。
「ありがとうございます、一眞様。おかげで目が覚めました」
――麗子夫人の思い通りになんて、なるものですか。
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