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第8話 攻め込まれた国境
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騎士団の事務室では、深い溜息が何度も聞こえてきていた。
騎士達は手早く書類仕事を片付けると足早に部屋を出ていく。一人の騎士が腕に抱えていた書類をバサバサと落とした途端、奥のソファに座っていたアルベルトの視線を感じて完全に固まってしまった。
ルドルフは騎士が床に落とした書類を拾うと、固まっているその手の上に置いた。
「し、失礼しますッ!」
走るようにいなくなる騎士の背中を眺めながら、部屋の奥で不機嫌を垂れ流している主を見た。
「正直騎士様達が気の毒です」
「今はお前の嫌味を聞く気分じゃない。どこか行け」
しかしルドルフはツカツカと近づいてくると、アルベルトの前に立った。
「それでどうでした?」
「何がだ」
「初夜に決まっています」
すると部屋の中には一層冷たい空気が漂った。
「そのご様子だとさては失敗に終わりましたね? ですから私が準備しました……」
「向こうがすでに準備していた」
「はい?」
「だから! 向こうがもう仕込んでいたと言っているんだ!」
「それはその、お身体に?」
「そうだ」
するとルドルフは意外そうに唸った。
「それは少々意外です。その辺りは疎いと侍女長から報告を受けておりましたので」
「媚薬と潤滑油を塗って準備されていては正直引いたさ」
気まずそうにアルベルトは頷いた。
「夫婦の営みは一回だけではないのですから、これから何度も身体を重ねていけば潤滑油など不要だと奥様も気づかれますよ」
「不必要に抱く気はない。まずは昨晩の行為が身を結んでいないか様子を見る事にする」
「まさかそれまでは何もしないと?」
アルベルトを不憫そうに見つめてから、バンと机に両手を置いた。
「宜しいですか? いくら貴方様がそのような立派なお身体でもさすがにたった一回で子が成せる程都合よくは出来ていないのです!」
「しかし連日じゃ身体が辛いだろ?」
「辛いのはむしろ初夜の一度だけです。しばらくご政務は程々にして屋敷へお帰りくださいませ」
背もたれに更に深く倒れながらアルベルトは目を瞑った。
「あの美しい女性に愛されたいとは思われませんでしたか?」
「デビュタントの時に自ら言い寄ったんだぞ。そういう女に興味はない」
さすがに今のは言い過ぎだと思ったのかアルベルトは視線を下げた。
「本当にそのような女性に見えましたか?」
「……よく見ていない」
「はいッ!?」
ルドルフは残念な生き物でも見るようにアルベルトを見つめた。
「デビュタントの時は本当にお相手が誰だったかご存知なかったようですよ」
「……モンフォール伯爵家に生まれたというだけで、もう俺とは縁がなかったんだ」
「分かりました。このわからず屋」
「なんだと!?」
「少し遅くなってしまいましたが食堂が空いていて丁度いいかもしれません。こちらに何か運んで参りましょうか?」
「ずっと座りっぱなしだったから俺も行こう」
食堂へ向かう途中、ルドルフは見慣れた姿に足を止めた。つられてアルベルトも足を止めると、廊下の先には美しい夫人がゆっくりと歩いてきた所だった。アルベルト達を見つけると微笑んで真っ直ぐに向かって来る。その姿はとても子供二人を産んでいるとは思えない程の美貌だった。
「モンフォール夫人、珍しいですね。伯爵にお会いに来られたのですか?」
ルドルフが声を掛けると、モンフォール夫人はちらりとアルベルトを見上げた。
「いいえ、アルベルト様に会いに参りましたの」
「私に?」
「そんなに警戒なさらないで下さいませ。私達は家族じゃありませんか。ですがまさか、今日ご出勤されているとは思いもしませんでした」
「仕事がありますから」
「いいえ、今一番のお仕事はお世継ぎを作る事でしょう!」
捲し立てられるように言われアルベルトが拍子抜けしていると、ルドルフはモンフォール夫人を諌めるように前に出た。
「夫人」
「あら、私ったらつい娘の為にと焦ってしまってごめんなさいね」
「ご心配をお掛けして申し訳ない。だが夫婦間の事に口を挟まないで頂きたい。それでは急ぎますので失礼」
「……昨晩どうだったのかしら」
ぽつりと溢れた声には気づかないようにして足早にその場を離れた。
「やはり昨晩の事を聞こうとされていたのですね」
「娘に聞けばいいじゃないか」
「カトリーヌ様はベルトラン家にいらっしゃるのでおいそれとは会いに行けませんよ」
「俺が暇を持て余しているみたいじゃないか」
「おや、そう聞こたのなら申し訳ございません。ですが午前中の仕事が捗ったとは思えませんでしたので」
アルベルトは苦い顔をしながら食堂へと入って行った。
その知らせがもたらされたのは、アルベルトが帰宅しようと上着を掴んだ時だった。駆け込んできた部下は肩で息をしながら途切れ途切れに言った。
「グロースアーマイゼ国との……国境にある、ベルガーの町が陥落しましたッ! 陛下の招集がかかっておりますのでお早く」
言葉を聞き終える前にアルベルトは走っていた。
謁見の間にはすでに国王、宰相、軍部の各指揮官、それに普段は軍事と関わりのない第一王子ジークフリートの姿もあった。文官の姿が一人も見えない所を見ると、招集されたのは軍部に仕分けられた者達だけのようだった。
「あと一人か」
国王が苛立ったように扉に視線を向けた時、大あくびをしながら入ってきたのは第二王子のフィリップ・ヴンサン・ジュブワだった。肩までの金髪を後ろで結び、開けたシャツに上着を肩に掛けて歩く姿はこの場には異質に見える。垂れ目を片方だけ開き、眠そうに欠伸をしながら扉の近くにあった椅子を引いて座った。
「フィリップ、お前が最後だぞ」
地を這うような声にアルベルトは内心ぞっとした。フィリップが後少し早ければ、その最後は自分だったのだ。
「私にも色々とヤる事がある訳ですよ。長期の視察から帰ったばかりですしねぇ」
場の空気にそぐわない間延びした声に苛立ちを込めた視線をフィリップに送った国王は、仕切り直すように咳払いをすると集まった者達をぐるりと見た。
「ベルガー辺境伯からの使いによると陥落したのは国境付近の小さな町だそうだ」
「ベルガー家の私兵だけで制圧出来ませんか? その為の多額の軍事予算ではありませんか」
発言したのは兵団のオレリアン団長だった。こういう時にまず一番に駆り出されるのは兵団と決まっている。だからだろうか、一瞬騎士団の方に向けて冷たい視線が向けられた気がした。
「被害を最小にする為にも、王都からの援軍は必要だろう」
「ですがそれではベルガー辺境伯の立場がなくなるのでは?」
陛下に対し物怖じしない無礼な言い方にアルベルトは兵団長をじっと見つめた。年の頃は四十手前。しかしがっちりとした体躯に蓄えた髭がそれ以上の年齢に見せている。
「オレリアン兵団長の言う通りだが、災いの芽は早めに摘み取らねばなるまい。異論ないな?」
国王に名前を呼ばれて諌められた兵団長は、腕組をしたまま集まった者達を見渡した。
「それでしたらやはり我々兵団が向かうのですね?」
「お前達ではない。今回はフィリップ、お前が指揮を取れ」
一瞬にして部屋の空気がしんと静まる。名前を呼ばれたフィリップは、小さく笑うと背中を付けていた座面から起き上がった。
「構いませんよ。グロースアーマイゼから我が領土を取り返してくれば宜しいのでしょう?」
「そんな簡単におっしゃいますが……」
「ジークフリート兄上もそれで宜しいですか?」
「我が領土を奪還してきてくれ」
「承知致しました。しっかりと手柄を立てて来ますよ」
ジークフリートの眉がぴくりと動く。しかしそれ以上は何も口にしなかった。
「しかし現在のベルガー領の状況が分からない以上、私の騎士達だけでは足りないかもしれませんがどうします?」
「そうだな。アルベルトよ、行けるか?」
「もちろんです。私の隊を招集します」
ちらりと騎士団長のラインハルトを見たが表情は読めなかった。
「それでは第二王子フィリップの旗を掲げ、国境の町を奪還しに向かえ!」
「団長! ラインハルト団長!」
ラインハルトは幼い頃から騎士団で同じ釜の飯を食った仲間だった。五つ年上なだけだが、その優秀さを取り立てられて騎士団団長にまで上り詰めた男。見た目は温和で文官が向いているようにも見えるが、その剣の腕前と馬術、戦略、そのどれをとってもラインハルトの右に出る者はいないだろう。だからこそ、今回の遠征に選ばれなかった事が気がかりだった。
「早く準備を進めないと出立に間に合わないぞ? 君の隊にもすぐに招集をかけないと」
穏和な話し方に一瞬気が抜けてしまうが、気を取り直すとにこりと微笑んでいる眼鏡の奥を覗き込んだ。
「本当に俺でいいのでしょうか?」
「陛下がお決めになった事だよ。しっかりやっておいで」
「しかし行くなら我が隊だけで行った方がよいのではないでしょうか」
「アルベルトはフィリップ殿下が苦手なのかい?」
「苦手というよりはあの軽薄さが信用に掛けると言いますか……」
「ははっ、軽薄さね。確かに」
笑われた事に納得がいかずにいると、誤りながらアルベルトのしっかりした腕を叩いてきた。
「大丈夫だ。お側で勉強させてもらうといいよ」
「お言葉ですがフィリップ殿下からでしょうか?」
真面目な第一王子のジークフリートと違ってフィリップは真逆をいく派手な人柄だった。三十にもなるというのに結婚はおろか婚約者も持たず、常に国中を歩き回っている。視察や遠征と言えば聞こえは良いが、要は国費で騎士達と外遊しているとしか思えなかった。それは見た目のせいもあるかもしれない。王族の派手な容姿にあの服装や話し方が加わればどうしたって遊んでいるように見えてしまう。しかし今のラインハルトの口振りからすぐにそれ以外の何かがあるようだった。
「酷い言われようだなぁ。もしかして私は城の皆にそこまで嫌われているの? それともアル君にだけ?」
とっさに振り返ると、壁に背中を預けてこちらを見ているフィリップの姿が目に入った。
「いらしたのですか」
妙な呼ばれ方を気にしつつも聞き返す気にはなれないでいると、フィリップは小さく笑いながら肩を竦めた。
「どうやら嫌われているようだね。君の部下には」
「ご自身の責任もあると思いますよ」
どこか仲の良さを伺わせる二人の応酬を見ていると、フィリップはアルベルトの背中を叩きながら通り過ぎて行った。
「アル君、今から力を入れているとへばっちゃうよ」
通り過ぎていくその背を苛立ちのまま見つめていると、ラインハルトは小さく溜息を吐いた。
「最善を尽くし、無事に帰還してくれ」
「行って参ります」
準備は最速に行われ、出立の時刻は迫っていた。フィリップ殿下の紋章が描かれた旗が風にはためいている。王都の人々に感づかれぬよう出立は真夜中、準備が出来た第二王子の部隊から王都を出て北へと向かって行った。
「奥様? まだ起きていらっしゃったのですか?」
応接間でエルザの入れてくれたハーブティーを飲んでいたカトリーヌは、肩に掛けていたショールを引き寄せると、明け方に帰ってきたルドルフの後ろを見た。しかしルドルフ一人だと分かるとあからさまにホッとしてしまう自分がいた。
「本日旦那様はお戻りにはなりません」
「それじゃあ私も今日はもう休むわ」
「奥様、実は……」立ち上がろうとしたカトリーヌは呼び止められて再び椅子に座った。
「旦那様なのですが、先程フィリップ殿下と共に遠征に出られました。ですのでしばらくはお戻りになりません」
「何かあったの? まさか大きな災害とかではないわよね?」
「現時点で詳細はお答えしかねます」
その時、お茶の片付けをしていたエルザがツカツカとルドルフの前にやってきた。
「ルドルフ様、奥様はずっと眠らずに旦那様をお帰りを待っておらました。それなのに遠征の理由も、いつお戻りになるかも教えて貰えないなんてあんまりです!」
「エルザ止めて。ごめんなさいルドルフさん。エルザも遅くまでありがとう。もう休みましょう」
「申し訳ありません。ですが陛下のご命令なのです」
「陛下からのご信頼が厚い御方なのね」
「そう言って頂けるとベルトラン家に忠誠を誓った者としては大変嬉しく思います。ご理解を示してくださりありがとうございます」
「出来ればアルベルト様にお手紙を書きたいのだけれどいいかしら」
「もちろんです。ですがもう少しお待ち頂けますか?」
「それでは可能になったら教えて頂戴ね」
ルドルフは、微笑むカトリーヌを好ましく思いながら出ていく姿に頭を下げた。
騎士達は手早く書類仕事を片付けると足早に部屋を出ていく。一人の騎士が腕に抱えていた書類をバサバサと落とした途端、奥のソファに座っていたアルベルトの視線を感じて完全に固まってしまった。
ルドルフは騎士が床に落とした書類を拾うと、固まっているその手の上に置いた。
「し、失礼しますッ!」
走るようにいなくなる騎士の背中を眺めながら、部屋の奥で不機嫌を垂れ流している主を見た。
「正直騎士様達が気の毒です」
「今はお前の嫌味を聞く気分じゃない。どこか行け」
しかしルドルフはツカツカと近づいてくると、アルベルトの前に立った。
「それでどうでした?」
「何がだ」
「初夜に決まっています」
すると部屋の中には一層冷たい空気が漂った。
「そのご様子だとさては失敗に終わりましたね? ですから私が準備しました……」
「向こうがすでに準備していた」
「はい?」
「だから! 向こうがもう仕込んでいたと言っているんだ!」
「それはその、お身体に?」
「そうだ」
するとルドルフは意外そうに唸った。
「それは少々意外です。その辺りは疎いと侍女長から報告を受けておりましたので」
「媚薬と潤滑油を塗って準備されていては正直引いたさ」
気まずそうにアルベルトは頷いた。
「夫婦の営みは一回だけではないのですから、これから何度も身体を重ねていけば潤滑油など不要だと奥様も気づかれますよ」
「不必要に抱く気はない。まずは昨晩の行為が身を結んでいないか様子を見る事にする」
「まさかそれまでは何もしないと?」
アルベルトを不憫そうに見つめてから、バンと机に両手を置いた。
「宜しいですか? いくら貴方様がそのような立派なお身体でもさすがにたった一回で子が成せる程都合よくは出来ていないのです!」
「しかし連日じゃ身体が辛いだろ?」
「辛いのはむしろ初夜の一度だけです。しばらくご政務は程々にして屋敷へお帰りくださいませ」
背もたれに更に深く倒れながらアルベルトは目を瞑った。
「あの美しい女性に愛されたいとは思われませんでしたか?」
「デビュタントの時に自ら言い寄ったんだぞ。そういう女に興味はない」
さすがに今のは言い過ぎだと思ったのかアルベルトは視線を下げた。
「本当にそのような女性に見えましたか?」
「……よく見ていない」
「はいッ!?」
ルドルフは残念な生き物でも見るようにアルベルトを見つめた。
「デビュタントの時は本当にお相手が誰だったかご存知なかったようですよ」
「……モンフォール伯爵家に生まれたというだけで、もう俺とは縁がなかったんだ」
「分かりました。このわからず屋」
「なんだと!?」
「少し遅くなってしまいましたが食堂が空いていて丁度いいかもしれません。こちらに何か運んで参りましょうか?」
「ずっと座りっぱなしだったから俺も行こう」
食堂へ向かう途中、ルドルフは見慣れた姿に足を止めた。つられてアルベルトも足を止めると、廊下の先には美しい夫人がゆっくりと歩いてきた所だった。アルベルト達を見つけると微笑んで真っ直ぐに向かって来る。その姿はとても子供二人を産んでいるとは思えない程の美貌だった。
「モンフォール夫人、珍しいですね。伯爵にお会いに来られたのですか?」
ルドルフが声を掛けると、モンフォール夫人はちらりとアルベルトを見上げた。
「いいえ、アルベルト様に会いに参りましたの」
「私に?」
「そんなに警戒なさらないで下さいませ。私達は家族じゃありませんか。ですがまさか、今日ご出勤されているとは思いもしませんでした」
「仕事がありますから」
「いいえ、今一番のお仕事はお世継ぎを作る事でしょう!」
捲し立てられるように言われアルベルトが拍子抜けしていると、ルドルフはモンフォール夫人を諌めるように前に出た。
「夫人」
「あら、私ったらつい娘の為にと焦ってしまってごめんなさいね」
「ご心配をお掛けして申し訳ない。だが夫婦間の事に口を挟まないで頂きたい。それでは急ぎますので失礼」
「……昨晩どうだったのかしら」
ぽつりと溢れた声には気づかないようにして足早にその場を離れた。
「やはり昨晩の事を聞こうとされていたのですね」
「娘に聞けばいいじゃないか」
「カトリーヌ様はベルトラン家にいらっしゃるのでおいそれとは会いに行けませんよ」
「俺が暇を持て余しているみたいじゃないか」
「おや、そう聞こたのなら申し訳ございません。ですが午前中の仕事が捗ったとは思えませんでしたので」
アルベルトは苦い顔をしながら食堂へと入って行った。
その知らせがもたらされたのは、アルベルトが帰宅しようと上着を掴んだ時だった。駆け込んできた部下は肩で息をしながら途切れ途切れに言った。
「グロースアーマイゼ国との……国境にある、ベルガーの町が陥落しましたッ! 陛下の招集がかかっておりますのでお早く」
言葉を聞き終える前にアルベルトは走っていた。
謁見の間にはすでに国王、宰相、軍部の各指揮官、それに普段は軍事と関わりのない第一王子ジークフリートの姿もあった。文官の姿が一人も見えない所を見ると、招集されたのは軍部に仕分けられた者達だけのようだった。
「あと一人か」
国王が苛立ったように扉に視線を向けた時、大あくびをしながら入ってきたのは第二王子のフィリップ・ヴンサン・ジュブワだった。肩までの金髪を後ろで結び、開けたシャツに上着を肩に掛けて歩く姿はこの場には異質に見える。垂れ目を片方だけ開き、眠そうに欠伸をしながら扉の近くにあった椅子を引いて座った。
「フィリップ、お前が最後だぞ」
地を這うような声にアルベルトは内心ぞっとした。フィリップが後少し早ければ、その最後は自分だったのだ。
「私にも色々とヤる事がある訳ですよ。長期の視察から帰ったばかりですしねぇ」
場の空気にそぐわない間延びした声に苛立ちを込めた視線をフィリップに送った国王は、仕切り直すように咳払いをすると集まった者達をぐるりと見た。
「ベルガー辺境伯からの使いによると陥落したのは国境付近の小さな町だそうだ」
「ベルガー家の私兵だけで制圧出来ませんか? その為の多額の軍事予算ではありませんか」
発言したのは兵団のオレリアン団長だった。こういう時にまず一番に駆り出されるのは兵団と決まっている。だからだろうか、一瞬騎士団の方に向けて冷たい視線が向けられた気がした。
「被害を最小にする為にも、王都からの援軍は必要だろう」
「ですがそれではベルガー辺境伯の立場がなくなるのでは?」
陛下に対し物怖じしない無礼な言い方にアルベルトは兵団長をじっと見つめた。年の頃は四十手前。しかしがっちりとした体躯に蓄えた髭がそれ以上の年齢に見せている。
「オレリアン兵団長の言う通りだが、災いの芽は早めに摘み取らねばなるまい。異論ないな?」
国王に名前を呼ばれて諌められた兵団長は、腕組をしたまま集まった者達を見渡した。
「それでしたらやはり我々兵団が向かうのですね?」
「お前達ではない。今回はフィリップ、お前が指揮を取れ」
一瞬にして部屋の空気がしんと静まる。名前を呼ばれたフィリップは、小さく笑うと背中を付けていた座面から起き上がった。
「構いませんよ。グロースアーマイゼから我が領土を取り返してくれば宜しいのでしょう?」
「そんな簡単におっしゃいますが……」
「ジークフリート兄上もそれで宜しいですか?」
「我が領土を奪還してきてくれ」
「承知致しました。しっかりと手柄を立てて来ますよ」
ジークフリートの眉がぴくりと動く。しかしそれ以上は何も口にしなかった。
「しかし現在のベルガー領の状況が分からない以上、私の騎士達だけでは足りないかもしれませんがどうします?」
「そうだな。アルベルトよ、行けるか?」
「もちろんです。私の隊を招集します」
ちらりと騎士団長のラインハルトを見たが表情は読めなかった。
「それでは第二王子フィリップの旗を掲げ、国境の町を奪還しに向かえ!」
「団長! ラインハルト団長!」
ラインハルトは幼い頃から騎士団で同じ釜の飯を食った仲間だった。五つ年上なだけだが、その優秀さを取り立てられて騎士団団長にまで上り詰めた男。見た目は温和で文官が向いているようにも見えるが、その剣の腕前と馬術、戦略、そのどれをとってもラインハルトの右に出る者はいないだろう。だからこそ、今回の遠征に選ばれなかった事が気がかりだった。
「早く準備を進めないと出立に間に合わないぞ? 君の隊にもすぐに招集をかけないと」
穏和な話し方に一瞬気が抜けてしまうが、気を取り直すとにこりと微笑んでいる眼鏡の奥を覗き込んだ。
「本当に俺でいいのでしょうか?」
「陛下がお決めになった事だよ。しっかりやっておいで」
「しかし行くなら我が隊だけで行った方がよいのではないでしょうか」
「アルベルトはフィリップ殿下が苦手なのかい?」
「苦手というよりはあの軽薄さが信用に掛けると言いますか……」
「ははっ、軽薄さね。確かに」
笑われた事に納得がいかずにいると、誤りながらアルベルトのしっかりした腕を叩いてきた。
「大丈夫だ。お側で勉強させてもらうといいよ」
「お言葉ですがフィリップ殿下からでしょうか?」
真面目な第一王子のジークフリートと違ってフィリップは真逆をいく派手な人柄だった。三十にもなるというのに結婚はおろか婚約者も持たず、常に国中を歩き回っている。視察や遠征と言えば聞こえは良いが、要は国費で騎士達と外遊しているとしか思えなかった。それは見た目のせいもあるかもしれない。王族の派手な容姿にあの服装や話し方が加わればどうしたって遊んでいるように見えてしまう。しかし今のラインハルトの口振りからすぐにそれ以外の何かがあるようだった。
「酷い言われようだなぁ。もしかして私は城の皆にそこまで嫌われているの? それともアル君にだけ?」
とっさに振り返ると、壁に背中を預けてこちらを見ているフィリップの姿が目に入った。
「いらしたのですか」
妙な呼ばれ方を気にしつつも聞き返す気にはなれないでいると、フィリップは小さく笑いながら肩を竦めた。
「どうやら嫌われているようだね。君の部下には」
「ご自身の責任もあると思いますよ」
どこか仲の良さを伺わせる二人の応酬を見ていると、フィリップはアルベルトの背中を叩きながら通り過ぎて行った。
「アル君、今から力を入れているとへばっちゃうよ」
通り過ぎていくその背を苛立ちのまま見つめていると、ラインハルトは小さく溜息を吐いた。
「最善を尽くし、無事に帰還してくれ」
「行って参ります」
準備は最速に行われ、出立の時刻は迫っていた。フィリップ殿下の紋章が描かれた旗が風にはためいている。王都の人々に感づかれぬよう出立は真夜中、準備が出来た第二王子の部隊から王都を出て北へと向かって行った。
「奥様? まだ起きていらっしゃったのですか?」
応接間でエルザの入れてくれたハーブティーを飲んでいたカトリーヌは、肩に掛けていたショールを引き寄せると、明け方に帰ってきたルドルフの後ろを見た。しかしルドルフ一人だと分かるとあからさまにホッとしてしまう自分がいた。
「本日旦那様はお戻りにはなりません」
「それじゃあ私も今日はもう休むわ」
「奥様、実は……」立ち上がろうとしたカトリーヌは呼び止められて再び椅子に座った。
「旦那様なのですが、先程フィリップ殿下と共に遠征に出られました。ですのでしばらくはお戻りになりません」
「何かあったの? まさか大きな災害とかではないわよね?」
「現時点で詳細はお答えしかねます」
その時、お茶の片付けをしていたエルザがツカツカとルドルフの前にやってきた。
「ルドルフ様、奥様はずっと眠らずに旦那様をお帰りを待っておらました。それなのに遠征の理由も、いつお戻りになるかも教えて貰えないなんてあんまりです!」
「エルザ止めて。ごめんなさいルドルフさん。エルザも遅くまでありがとう。もう休みましょう」
「申し訳ありません。ですが陛下のご命令なのです」
「陛下からのご信頼が厚い御方なのね」
「そう言って頂けるとベルトラン家に忠誠を誓った者としては大変嬉しく思います。ご理解を示してくださりありがとうございます」
「出来ればアルベルト様にお手紙を書きたいのだけれどいいかしら」
「もちろんです。ですがもう少しお待ち頂けますか?」
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ルドルフは、微笑むカトリーヌを好ましく思いながら出ていく姿に頭を下げた。
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