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第9話 たった一夜の子
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居間のソファでは、母が王都で最近有名な焼き菓子を口に運んでいた。ルイスは何を話す訳ではないが窓辺で分厚い本を読んでいる。こうしてカトリーヌがモンフォール家に帰って来た時は、いつの間にか部屋から出て来て同じ部屋に居てくれた。そして隣りには当たり前のようにジェニーが座っている。カールの妹だと知った時は驚いたが、あっという間に馴染んでいる所を見るとさすがカールの妹なのだと思えた。
「お熱いのでお気をつけくださいませ」
「ありがとう。ルドルフさんも一緒にどうぞ」
にこりと眼鏡の奥が笑ったが、ルドルフが休んでいる所は一度も見た事がない。いつも朝起きると完璧な姿ですでに働いているし、夜も遅くまで屋敷にいる気がする。それでいて住み込みではなく通いだというのだから、ルドルフの生態が一番謎のようにも思えた。母やジェニーが新しい茶葉についてあれこれ意見を言っているのを聞きながら香りのよい紅茶を香りを嗅いだ。
アルベルトが第二王子のフィリップと共に遠征に出て一ヶ月と少し過ぎようとしていた。しかしまだ手紙は出せていない。なんでもアルベルトが向かっている場所は国境で、ここからだと一週間は近くかかる場所だと聞いたのは、国王がごく身内にならば話してもいいと仰ってくれた数日前の事だった。だからすでにアルベルト達は国境に到着している頃だろう。そしてもし最悪の事態なら戦争の真っ只中という事になる。それなのに王都は相変わらず平和で、限られた者達しか自国がグロースアーマイゼ国の侵攻を受けているなど知りもしない。でも真実を知っているカトリーヌもまた、夫が戦場にいるというのにこうしてお茶をし、温かい部屋で過ごしているのがどうしても落ち着かなかった。
熱いと言われていたのに不意に唇に当たったお茶に驚いてカップをとっさに離してしまう。
「アツッ」
「大丈夫ですか? すぐに冷やす物をお持ち致します!」
「平気よ! 大丈夫だから心配ないわ」
部屋を飛び出そうとしたルドルフが膝を突いて顔を覗き込んでくる。
「申し訳ございません」
「本当になんともないわ。ほらちゃんと食べられるもの」
申し訳なさそうにするルドルフを安心させる為に、カトリーヌは先程からジェニーがパクパクと口に運んでいる焼き菓子を口に入れた。そして焼き菓子に入っているドライフルーツの香りが鼻に抜けた瞬間、一気に吐き気が襲ってきた。辛うじてハンカチに口に入れたばかりの焼き菓子を吐き出しただけで済んだが、ルドルフがとっさに手に持っていた焼き菓子を奪うと叫んだ。
「エルザ! エルザすぐに来て下さい!」
慌てて部屋に入ってきたエルザは何事かと室内に視線を巡らせた。
「この焼き菓子を買う時に怪しい者はいませんでしたか? 客でも店の者でも構いません!」
「何かあったんですか?」
「いいから答えて下さい! 店主はあなたがモンフォール家の使いだと知っていましたか?」
「分かっていないと思います。そもそも初めて行ったお店でしたし、混み合っていたので素早く購入を済ませてすぐに店を出てきました。あの、まさか何か入っていいたんでしょうか!?」
しかしパクパクと食べていたジェニーは全く異常がなく元気なままきょとんとしている。カトリーヌは口元を拭いながら一つ深呼吸をした。
「あなたまさか、妊娠しているんじゃない?」
ことの成り行きをしばらく見ていた母親はぽつりとそう呟いた。そして自分の発言に真実味を乗せるように身を乗り出してきた。
「あなた、月のものはあったの?」
「……そういえば、まだ」
「それじゃあ絶対にそうよ! そうに違いないわ! おめでとう!」
勢いよくギュッと抱き締められる。おめでとうの意味が遅れてやってくる。しかし当のカトリーヌは複雑な気持ちで、突然湧き上がった体の異変に怯えていた。
母親の勘は正しかった。妊娠したと自覚したあの日を堺に激しいつわりに苦しめられるようになってしまった。母親はなんとかモンフォール家の屋敷に留まらせようとしてきたが、静かに過ごしたくてベルトラン家の屋敷に戻る事にした。ここにはエルザ以外はベルトラン家の使用人しかいない。必要以上に話しかけてはこないので、幸か不幸か静かに過ごす事が出来た。
「失礼します奥様。ご気分はいかがですか?」
「林檎の果実水を持って参りました。お飲みになられますか?」
「貰うわ」
酸っぱさが喉を通ると胃のムカつきも治まっていく。背中にクッションを置き、上半身を起こすとエルザは折りたたみ式のテーブルを準備した。驚いたようにエルザを見上げると廊下の方に視線を動かした。
「奥様、入室のご許可を頂けますか?」
ルドルフは手になにやら小さな箱を持っている。入室の許可を出すと、ルドルフは小さな箱から便箋を取り出した。
「アルベルト様にご報告してはいかがでしょうか? 奥様もずっとお手紙を書きたいと仰っておりましたし、時期はまだ安定期ではありませんがアルベルト様もさぞお喜びになられる事でしょう。今回の事は良い機会です。とは申しましてもその手紙がいつアルベルト様のお手元に届くかは私でも分かりかねますのが心苦しいのですが」
「ここにいては何が起きているのか分からないんだから仕方ないわよ。でもちゃんとご報告しなくちゃね」
カトリーヌは手紙を書いては何度も破り捨て、とうとう便箋は七枚目になっていた。
なんと伝えたらいいのか分からない。アルベルトは子が出来た事を喜んでくれるとは思う。ベルトラン侯爵家の跡取りとなるのだからそうに決まっている。しかしアルベルト自身はどうだろうか。なにせあんな風に出来た子なのだ。ぼんやりとペンを持て余していると、見かねたルドルフが小さく咳払いをした。とっさに現実に引き戻されて便箋を見ると黒いインクの染みが出来ていた。
「私が代筆致しましょうか?」
「これだけは自分の字と言葉でちゃんとお伝えしたいの」
「私もそれが宜しいかと思います」
八枚目の便箋に、なんとかまとめた内容を書きルドルフに渡す。見ても?の反応に頷いた。
「宜しいかと存じます。きっとアルベルト様にも伝わる事でしょう」
「このご報告がアルベルト様の生きる糧になればいいわね」
「我が子が生まれるのですからきっと生きる糧になりますよ」
微笑んでルドルフの声に頷き、横になろうとした時だった。
「一つだけお伺いしても宜しいですか? もしご体調が優れなければお答えにならずそのままお休みください」
「まだ大丈夫よ。なにかしら?」
「奥様はアルベルト様との結婚を後悔されていらしゃいますか?」
カトリーヌは驚きと質問の意図を考えて黙り込んでしまった。するとルドルフは困ったように眉を下げた。
「ご体調が優れないのに悩ませてしまい失礼致しました。どうぞごゆっくりお休みください」
カトリーヌは毛布の端を握り締めながらぽつりと呟いた。
「……分からないの。何が正しかったのかなんて」
「後悔していらっしゃるのですか?」
「家同士の選択だったんだもの。正直この結婚に救われたのは私達の方よ。でもアルベルト様はどうかしら。アルベルト様ならこんな没落寸前の家の娘より、ずっと良い人を妻に出来たはずだもの」
「……そういう意味でしたか。奥様はアルベルト様に申し訳ないと思っておられるのですね」
ルドルフの言葉がストンと胸に落ちてくる。言われてみれば心に溜まっていた重苦しい感情は、罪悪感なのかもしれなかった。
「そうね、きっとそうなんだわ。アルベルト様に貧乏くじを引かせてしまった気分よ」
「それならご心配にはお呼びません。元々アルベルト様はご結婚にご興味がなかったので、今まで誰とも婚約すら結ぼうとなさいませんでした。その上騎士団のお仕事の方にばかりお力を入れられて全く侯爵家のお仕事をなさらないので、ベルトラン侯爵家に仕える者としてはそれはもうやきもきしておりました」
「そうなの? でもそれは少し悲しいわね」
「悲しい?」
「誰の事も愛せない、愛する気がない、そういう事でしょう? なんて私も人の事は言えないけれど。手紙を宜しくお願いね」
毛布を引き上げると、それを合図にルドルフ達が部屋を出ていく。カトリーヌは頭まですっぽりと毛布を被りながら目を瞑った。恐らく子が出来たのだからもう夫婦の営みはもうないかもしれない。しかしこんな環境で子供はちゃんと育っていくだろうか。心の奥がジクジクと痛み出し、考え出すと次から次に不安が押し寄せてくる。カトリーヌは内側から毛布をきつく握り締めて目を瞑った。
第一王子のジークフリートは城の端にある部屋まで来ると、おずおずと扉を叩いた。
「すまない。陛下のお話が長引いてしまった」
「構いませんよ。周囲に人はおりませんか?」
「大丈夫だ、今は誰もいない」
すると扉が開き、中に引き寄せられる。部屋には王弟で叔父のフェンゼン大公が一人立っていた。
「ご体調はいかがですか? 座られますか?」
「そんな事よりも話というのはなんなんだ? あまりこんな風に会うものじゃない」
「……以前頂いた地図なのですが大変に役に立ちました」
「そうか! それなら良かった」
「さすが博識の殿下でいらっしゃいます。あの地図に描いてあった場所とそう変わらない場所に歴史的大発見がございました。いずれ陛下のお耳にも入るでしょうが単刀直入に申し上げます。あなたはグロースアーマイゼ国の王位に相応しいお方かもしれません」
「な、何を言っているんだ?」
「あなたのお母上はモンフォール家の血を引いておられるのはご存知ですよね?」
その瞬間、ジークフリートは少し後退した。浅くなっていく呼吸でフェンゼン大公を見上げた。
「何故モンフォール家の血を引いているとグロースアーマイゼ国の王になれるんだ。私は他国の王座など望んでいない!」
「あなたはこの国の王にもグロースアーマイゼ国の王にもなれるお方なのです」
大きな手がジークフリートの肩を掴んだ。
「私はこの国の王になれればそれでいい。グロースアーマイゼ国など私には不要だ!」
泣き出しそうな声でそう言うと、倒れそうになる体を辛うじて扉で支えた。
「いずれ我々の協力者とここで合流する事になっております。もし仮に殿下がグロースアーマイゼ国は不要だと仰るのならば私に下さいませ」
「やるもやらないも私の物じゃない!」
「いいえ、全てはあなたの物なのです。もしお許し下さるのならば私がその国の国王となり、あなたをどこまでもお支え致します」
フェンゼン大公はそう言うと骨ばった細い手を持ち、甲に忠誠の口づけをした。
「……なぜそこまでするんだ。あなたは昔からフィリップではなく私に目を掛けてくれていた。私が母上との事を知らないとでも?」
するとフェンゼン大公はじろりとジークフリートを見た。
「殿下! 今後もしそのような噂をする者がおりましたら、その者の名をお教え下さいませ。誤解を解きとうございます」
「……わ、分かった」
その時、扉が控えめに叩かれた。
「旦那様、ドウラ子爵が先程屋敷に来られお手紙をお預かりしております」
許可を与えられた使用人はさっと部屋に入ると手紙を差し出した。フェンゼン大公は素早く封を切って紙の上に視線を走らせると、シワの深い目元が更に細められた。
「殿下の動かせる騎士を数人お借りしても宜しいでしょうか?」
「構わないが何をするのかは教えてくれ」
「なに、王都から近い我が領の巡回ですよ。私兵を駐屯させている領地から呼ぶと時間が掛かってしまいますので」
「そういえばあなたは離れた場所に領地を二箇所持っているんだったな。そういう事なら構わないぞ」
「あまり知られてはおりませんがね。ありがとうございます」
フェンゼン大公は使用人と共に部屋を出ると足早に廊下を曲がった。封筒の中から手紙とは別にもう一つ入っていた石の欠片のような物を取り出すと、きつく握り締めた。
「報酬をすぐに受け取りたいと仰っておりました。近くの宿に泊まり、明日受け取りに来られるそうでございます」
「明日まで待たせずともよい、今すぐ届けよ。それとこれを隠してこい。漁師以外は近づかない祠がよいな。あの一帯を騎士に巡回させておけ」
「仰せのままに、旦那様」
「お熱いのでお気をつけくださいませ」
「ありがとう。ルドルフさんも一緒にどうぞ」
にこりと眼鏡の奥が笑ったが、ルドルフが休んでいる所は一度も見た事がない。いつも朝起きると完璧な姿ですでに働いているし、夜も遅くまで屋敷にいる気がする。それでいて住み込みではなく通いだというのだから、ルドルフの生態が一番謎のようにも思えた。母やジェニーが新しい茶葉についてあれこれ意見を言っているのを聞きながら香りのよい紅茶を香りを嗅いだ。
アルベルトが第二王子のフィリップと共に遠征に出て一ヶ月と少し過ぎようとしていた。しかしまだ手紙は出せていない。なんでもアルベルトが向かっている場所は国境で、ここからだと一週間は近くかかる場所だと聞いたのは、国王がごく身内にならば話してもいいと仰ってくれた数日前の事だった。だからすでにアルベルト達は国境に到着している頃だろう。そしてもし最悪の事態なら戦争の真っ只中という事になる。それなのに王都は相変わらず平和で、限られた者達しか自国がグロースアーマイゼ国の侵攻を受けているなど知りもしない。でも真実を知っているカトリーヌもまた、夫が戦場にいるというのにこうしてお茶をし、温かい部屋で過ごしているのがどうしても落ち着かなかった。
熱いと言われていたのに不意に唇に当たったお茶に驚いてカップをとっさに離してしまう。
「アツッ」
「大丈夫ですか? すぐに冷やす物をお持ち致します!」
「平気よ! 大丈夫だから心配ないわ」
部屋を飛び出そうとしたルドルフが膝を突いて顔を覗き込んでくる。
「申し訳ございません」
「本当になんともないわ。ほらちゃんと食べられるもの」
申し訳なさそうにするルドルフを安心させる為に、カトリーヌは先程からジェニーがパクパクと口に運んでいる焼き菓子を口に入れた。そして焼き菓子に入っているドライフルーツの香りが鼻に抜けた瞬間、一気に吐き気が襲ってきた。辛うじてハンカチに口に入れたばかりの焼き菓子を吐き出しただけで済んだが、ルドルフがとっさに手に持っていた焼き菓子を奪うと叫んだ。
「エルザ! エルザすぐに来て下さい!」
慌てて部屋に入ってきたエルザは何事かと室内に視線を巡らせた。
「この焼き菓子を買う時に怪しい者はいませんでしたか? 客でも店の者でも構いません!」
「何かあったんですか?」
「いいから答えて下さい! 店主はあなたがモンフォール家の使いだと知っていましたか?」
「分かっていないと思います。そもそも初めて行ったお店でしたし、混み合っていたので素早く購入を済ませてすぐに店を出てきました。あの、まさか何か入っていいたんでしょうか!?」
しかしパクパクと食べていたジェニーは全く異常がなく元気なままきょとんとしている。カトリーヌは口元を拭いながら一つ深呼吸をした。
「あなたまさか、妊娠しているんじゃない?」
ことの成り行きをしばらく見ていた母親はぽつりとそう呟いた。そして自分の発言に真実味を乗せるように身を乗り出してきた。
「あなた、月のものはあったの?」
「……そういえば、まだ」
「それじゃあ絶対にそうよ! そうに違いないわ! おめでとう!」
勢いよくギュッと抱き締められる。おめでとうの意味が遅れてやってくる。しかし当のカトリーヌは複雑な気持ちで、突然湧き上がった体の異変に怯えていた。
母親の勘は正しかった。妊娠したと自覚したあの日を堺に激しいつわりに苦しめられるようになってしまった。母親はなんとかモンフォール家の屋敷に留まらせようとしてきたが、静かに過ごしたくてベルトラン家の屋敷に戻る事にした。ここにはエルザ以外はベルトラン家の使用人しかいない。必要以上に話しかけてはこないので、幸か不幸か静かに過ごす事が出来た。
「失礼します奥様。ご気分はいかがですか?」
「林檎の果実水を持って参りました。お飲みになられますか?」
「貰うわ」
酸っぱさが喉を通ると胃のムカつきも治まっていく。背中にクッションを置き、上半身を起こすとエルザは折りたたみ式のテーブルを準備した。驚いたようにエルザを見上げると廊下の方に視線を動かした。
「奥様、入室のご許可を頂けますか?」
ルドルフは手になにやら小さな箱を持っている。入室の許可を出すと、ルドルフは小さな箱から便箋を取り出した。
「アルベルト様にご報告してはいかがでしょうか? 奥様もずっとお手紙を書きたいと仰っておりましたし、時期はまだ安定期ではありませんがアルベルト様もさぞお喜びになられる事でしょう。今回の事は良い機会です。とは申しましてもその手紙がいつアルベルト様のお手元に届くかは私でも分かりかねますのが心苦しいのですが」
「ここにいては何が起きているのか分からないんだから仕方ないわよ。でもちゃんとご報告しなくちゃね」
カトリーヌは手紙を書いては何度も破り捨て、とうとう便箋は七枚目になっていた。
なんと伝えたらいいのか分からない。アルベルトは子が出来た事を喜んでくれるとは思う。ベルトラン侯爵家の跡取りとなるのだからそうに決まっている。しかしアルベルト自身はどうだろうか。なにせあんな風に出来た子なのだ。ぼんやりとペンを持て余していると、見かねたルドルフが小さく咳払いをした。とっさに現実に引き戻されて便箋を見ると黒いインクの染みが出来ていた。
「私が代筆致しましょうか?」
「これだけは自分の字と言葉でちゃんとお伝えしたいの」
「私もそれが宜しいかと思います」
八枚目の便箋に、なんとかまとめた内容を書きルドルフに渡す。見ても?の反応に頷いた。
「宜しいかと存じます。きっとアルベルト様にも伝わる事でしょう」
「このご報告がアルベルト様の生きる糧になればいいわね」
「我が子が生まれるのですからきっと生きる糧になりますよ」
微笑んでルドルフの声に頷き、横になろうとした時だった。
「一つだけお伺いしても宜しいですか? もしご体調が優れなければお答えにならずそのままお休みください」
「まだ大丈夫よ。なにかしら?」
「奥様はアルベルト様との結婚を後悔されていらしゃいますか?」
カトリーヌは驚きと質問の意図を考えて黙り込んでしまった。するとルドルフは困ったように眉を下げた。
「ご体調が優れないのに悩ませてしまい失礼致しました。どうぞごゆっくりお休みください」
カトリーヌは毛布の端を握り締めながらぽつりと呟いた。
「……分からないの。何が正しかったのかなんて」
「後悔していらっしゃるのですか?」
「家同士の選択だったんだもの。正直この結婚に救われたのは私達の方よ。でもアルベルト様はどうかしら。アルベルト様ならこんな没落寸前の家の娘より、ずっと良い人を妻に出来たはずだもの」
「……そういう意味でしたか。奥様はアルベルト様に申し訳ないと思っておられるのですね」
ルドルフの言葉がストンと胸に落ちてくる。言われてみれば心に溜まっていた重苦しい感情は、罪悪感なのかもしれなかった。
「そうね、きっとそうなんだわ。アルベルト様に貧乏くじを引かせてしまった気分よ」
「それならご心配にはお呼びません。元々アルベルト様はご結婚にご興味がなかったので、今まで誰とも婚約すら結ぼうとなさいませんでした。その上騎士団のお仕事の方にばかりお力を入れられて全く侯爵家のお仕事をなさらないので、ベルトラン侯爵家に仕える者としてはそれはもうやきもきしておりました」
「そうなの? でもそれは少し悲しいわね」
「悲しい?」
「誰の事も愛せない、愛する気がない、そういう事でしょう? なんて私も人の事は言えないけれど。手紙を宜しくお願いね」
毛布を引き上げると、それを合図にルドルフ達が部屋を出ていく。カトリーヌは頭まですっぽりと毛布を被りながら目を瞑った。恐らく子が出来たのだからもう夫婦の営みはもうないかもしれない。しかしこんな環境で子供はちゃんと育っていくだろうか。心の奥がジクジクと痛み出し、考え出すと次から次に不安が押し寄せてくる。カトリーヌは内側から毛布をきつく握り締めて目を瞑った。
第一王子のジークフリートは城の端にある部屋まで来ると、おずおずと扉を叩いた。
「すまない。陛下のお話が長引いてしまった」
「構いませんよ。周囲に人はおりませんか?」
「大丈夫だ、今は誰もいない」
すると扉が開き、中に引き寄せられる。部屋には王弟で叔父のフェンゼン大公が一人立っていた。
「ご体調はいかがですか? 座られますか?」
「そんな事よりも話というのはなんなんだ? あまりこんな風に会うものじゃない」
「……以前頂いた地図なのですが大変に役に立ちました」
「そうか! それなら良かった」
「さすが博識の殿下でいらっしゃいます。あの地図に描いてあった場所とそう変わらない場所に歴史的大発見がございました。いずれ陛下のお耳にも入るでしょうが単刀直入に申し上げます。あなたはグロースアーマイゼ国の王位に相応しいお方かもしれません」
「な、何を言っているんだ?」
「あなたのお母上はモンフォール家の血を引いておられるのはご存知ですよね?」
その瞬間、ジークフリートは少し後退した。浅くなっていく呼吸でフェンゼン大公を見上げた。
「何故モンフォール家の血を引いているとグロースアーマイゼ国の王になれるんだ。私は他国の王座など望んでいない!」
「あなたはこの国の王にもグロースアーマイゼ国の王にもなれるお方なのです」
大きな手がジークフリートの肩を掴んだ。
「私はこの国の王になれればそれでいい。グロースアーマイゼ国など私には不要だ!」
泣き出しそうな声でそう言うと、倒れそうになる体を辛うじて扉で支えた。
「いずれ我々の協力者とここで合流する事になっております。もし仮に殿下がグロースアーマイゼ国は不要だと仰るのならば私に下さいませ」
「やるもやらないも私の物じゃない!」
「いいえ、全てはあなたの物なのです。もしお許し下さるのならば私がその国の国王となり、あなたをどこまでもお支え致します」
フェンゼン大公はそう言うと骨ばった細い手を持ち、甲に忠誠の口づけをした。
「……なぜそこまでするんだ。あなたは昔からフィリップではなく私に目を掛けてくれていた。私が母上との事を知らないとでも?」
するとフェンゼン大公はじろりとジークフリートを見た。
「殿下! 今後もしそのような噂をする者がおりましたら、その者の名をお教え下さいませ。誤解を解きとうございます」
「……わ、分かった」
その時、扉が控えめに叩かれた。
「旦那様、ドウラ子爵が先程屋敷に来られお手紙をお預かりしております」
許可を与えられた使用人はさっと部屋に入ると手紙を差し出した。フェンゼン大公は素早く封を切って紙の上に視線を走らせると、シワの深い目元が更に細められた。
「殿下の動かせる騎士を数人お借りしても宜しいでしょうか?」
「構わないが何をするのかは教えてくれ」
「なに、王都から近い我が領の巡回ですよ。私兵を駐屯させている領地から呼ぶと時間が掛かってしまいますので」
「そういえばあなたは離れた場所に領地を二箇所持っているんだったな。そういう事なら構わないぞ」
「あまり知られてはおりませんがね。ありがとうございます」
フェンゼン大公は使用人と共に部屋を出ると足早に廊下を曲がった。封筒の中から手紙とは別にもう一つ入っていた石の欠片のような物を取り出すと、きつく握り締めた。
「報酬をすぐに受け取りたいと仰っておりました。近くの宿に泊まり、明日受け取りに来られるそうでございます」
「明日まで待たせずともよい、今すぐ届けよ。それとこれを隠してこい。漁師以外は近づかない祠がよいな。あの一帯を騎士に巡回させておけ」
「仰せのままに、旦那様」
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